あめおとこ

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あめおとこ

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 喉の渇きで目が覚めた。干からびて喉の形が変わったような気がするほどに、喉が渇いていた。私は無理やり体を起こして冷蔵庫の前まで行き、半分だけ残っていたペットボトルの水を飲み干した。こういう時だけはワンルームで良かったと心から思う。空っぽになったペットボトルを捨てて、三歩だけ歩いて机に向かい、煙草を吸った。
六時十七分。二度寝しようにも、不快な目覚めのせいですぐには寝付けそうになかった。二週間分の生ごみを捨てに行くついでに、自動販売機で水を二本買った。スマホを見ると、彼から着信があった。もう、名前を見ても不快ですらなかった。心底どうでも良かった。今更連絡をしてきて何を言うつもりなのか想像がつかなかった。
家に戻り、もう一度煙草を吸って、平たい布団で眠りについた。

 目が覚めると、スマホが震えていた。彼からだった。出ようか迷う間も無く切れてしまった。履歴を見ると、午前中の間に四回もかかってきていた。さすがにかけすぎじゃないかと思った。
その日の間、ずっと電話のことが頭から離れなかった。次かかってきたら出てみようかという気になっていたのに、五回目の電話はいつまでたってもかかってこなかった。マナーモードを解除して、通知音を最大にしたまま、本を読んだりぼんやりと煙草の煙を眺めたりしていた。何かの通知音がなるたびスマホに駆け寄って、彼からではないことを確認した。そんなことを何度も繰り返しているうちに、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。いったい私は彼から何を聞きたいのだろう。スマホをマナーモードに戻した。

 夜になって、自分から彼に電話をかけてみようと思った。ご飯を食べたらかけよう。やっぱりお風呂に入ってからにしよう。もう一本煙草を吸ってからにしよう。そうやっていつまでも迷っていて、気がついたら二十一時を回っていた。スマホで彼の名前を眺めたまま、いつまでも発信のボタンを押せずにいた。
もうやっぱり明日にしようかと思い始めた頃、五回目の着信が鳴った。少し躊躇してから、私は通話ボタンを押した。
「もしもし」先に私が言った。相手の返答までに少し間があった。実際には一回瞬きをする程度だったのかもしれないが、私には少しだけ長く感じた。
「あ、もしもし、みかちゃん?」彼のお母さんの声だった。私はもう一度着信の名前を確認した。間違えなく彼の名前だった。電話帳に登録されている、彼の名前だった。


 彼の葬儀の日、雨が降っていた。とても静かな、素敵な雨だった。濡れてキラキラと光るアスファルトを見て、彼が雨男だったことを思い出した。行く途中で、雀が水溜りで水分補給をしているのを見た。雨なのに犬の散歩をしている人もいて、犬は不機嫌そうだった。
会場近くの駅に着いて、花屋に寄った。店の大きさの割に品揃えが多かった。寂れた埃っぽい店内で、鮮やかな花たちが少しだけ気まずそうに見えた。私はその中で一番居心地が悪そうにしているダリアを一輪手にとった。それを店員さんが丁寧に包んでくれた。あんなに気まずそうにしていたのに、店の外へ出ると何だかとてもイキイキとして見えて、自分が救世主であるような気持ちになった。花が濡れてしまわないように、胸の前に抱えて歩いた。

 お坊さんがお経を読んでいる間、お坊さんの前で笑う彼の顔を眺めていた。私の知らない写真だった。知らないお坊さんが目の前で自分のためにお経を唱えているというのは、どんな気持ちがするものなのか考えた。あんまりピンとこなかった。今お坊さんが唱えているのは、間違いなく彼のためのものだった。自分の事として聞こうとしても全然ダメだった。きっと死者にだけ伝えるための技術が何かあるのだろうと思った。あるいは向こうの世界でしか感じ取れないリズムやメロディが存在しているのかも知れない。
長い死者のための詩が終わり、お線香をあげる。棺に花を添える時、彼の顔を見ると笑っていた。何かを思い出しているような、何か小さな悪戯を企んでいるような、そんな無邪気な、優しい微笑み。大ぶりのダリアを顔の横に添えても全然見劣りしない、穏やかで奇麗な寝顔だ。きっと素敵な夢を見ているのだろう。もう二度と目覚めない彼の最後の夢が、素敵な夢でよかった。

 全てが終わって外へ出ても、まだ雨が降っていた。なんだかまだ、彼がもうこの世にいないという実感が持てなかった。火葬を終えて骨だけになったのを見ても、それが彼のものだと言う確信が持てなかった。扉の奥に入った後、こっそり棺から抜け出して偽物の骨だけを置いてどこかに隠れる彼の姿を、ずっと想像していた。
私は当てもなく歩いた。駅の方向がわからなくなって、ただ水溜りを数えながらダラダラと気まぐれに歩いた。途中、雪だるまみたいな形の大きな水溜まりを、一つと数えるか二つとするかで少し迷った。結局、一つとすることにした。
 水溜りがちょうど二十五個目になった時、ふと顔を上げると雨が止んでいた。私の体は水浸しになっていた。陽が出てきて、私の体が乾いていくのがわかった。一つ一つの小さな水滴が、蒸気として少しずつ天に登っていく。とても暖かい。できることならずっとここで、この温もりを感じていたい。私の体から離れていく水滴一つ一つが切なかった。その水滴を全て捕まえて、いつまでもそばに置いておきたいと思った。涙が溢れて止まらなくなった。溢れる涙が、体にまとわりつく水滴と一緒に登っていく。私は雲がほとんどなくなった空を見上げ泣いた。雲の最後の一つが建物に隠れて見えなくなるまで、その雲のずっとずっと先に届くように
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