愉快な殺し屋幽霊

キリアイスズ

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目線の先にあるもの

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「藍、大丈夫?まだ体痛い?」

地面に手を付き、力なく地面に座り込んでいる藍は返事をしない。強制媒介で体を乗っ取られた人間はその間の記憶だけがない。霊が体の中に入った瞬間、ぷつっと糸が切れたかのように意識が途切れる。そして霊が体から弾かれると途端に覚醒する。
つまり、藍にとって今の状態は五月雨家の脱衣所から外までいつのまにかワープしたかのような状態ということだ。

「ごめんね。ちょっとの間、雫の体を借りてたんだ。一応、脱出は成功したよ」

弾かれた瞬間、藍の意識は覚醒したと同時に体中に鈍い痛みが走っただろう。
無理をしてしまった自覚のある雫は恐る恐るといった様子で藍に声を掛ける。
しかし、藍は返事も返さず、顔も上げない。ただ、その場に微動だにせずに座り込んでいた。

「ごめんね、藍。色々と」

藍が五月雨家の秘密を知らないままだったら、きっと無事に脱出できたことは笑いながらお互いに語り合っていただろう。しかし、もう以前のような関係には戻れない。戻れないからこそ、雫は頭を下げた。

顔を一向に上げようとしなかった藍がゆっくりと体を動かし、立ち上がった。

「帰る」

雨音にかき消されそうなほどのか細い声だった。それが独り言なのか、雫に向けてはなったのか判断できないほどのものだったがその声ははっきりと雫の耳に届いていた。

「そう、じゃあね」

雫もそれ以上何かを言うことはせず、静かに見送ることに決めた。
藍はスポーツバックを肩に向けて、ふらふらと今にも倒れそうな足取りで雫から距離を取るように一歩、また一歩と足を進ませる。角を曲がり、雫の視界から完全に消えるまで藍は一度も振り向くことはなかった。

雫と同じ方向に目を向けていた玖月が口を開いた。

「雫さん、彼女の体から出た今、どう感じていますか?」

「突然だね」

玖月の口調は普段通りの淡々としたものだった。質問の意図が図れない。

「やっぱり、名残惜しいと思っていますか?」

「そりゃあね、名残惜しいと言えば名残惜しいよ。ふわっとしている今の感覚も悪いとは言わないけど、血が巡っている生身の体のほうがやっぱり断然いいって思うし。まぁ、変な言い方になると思うけど、いい思いをさせてもらったって思うよ。私みたいに地獄に逝く人間からすれば贅沢な体験だった」

「そうですか、安心しました」

「安心?」

「返ってきた答えが執着ではなく感想で。原則、地獄に逝くべき魂の強制媒介は禁止されているので」

「え、そうだったの?それは初耳だ………まぁ、理由はなんとなく想像できるけど」

「ええ、黒に染まった魂の未練はかなりやっかいなんです。やっかいな魂なので、生者に危害を加えたり生者の体を乗っ取られないか妙な企てを試みる可能性が十分ありますので」

「私はそんなことをするつもりはないよ。借り物だって自覚あるし」

「だからあなたがそういう人で安心しました。少し不安でしたので。生きていた時の感覚に味を占めて、現世に対して未練が大きくなってしまうのではないかと」

「大丈夫だって。私、そういう執着ないから。だから、そういう意味からのカゲオチになる可能性は低い………と思う」

「そう願いたいですね」

「私ね、藍には悪いことしたなって思ってる。でも、それだけなんだ。それ以上は思えないんだ」

物事に頓着しない性質だと自覚している。命や倫理観、罪悪感にも頓着しない。
僅かな罪悪感にも頓着しないため、贖罪という概念も著しく低い。だからこそ、雫は放心状態の藍のために弁明しようともしたいとも思えなかった。
薄情と言われればその通りだろう。

「執着はしないけど………雨のせいかな。なんか、気が滅入るな。雨はそんなに好きなほうじゃないんだよね」

魂となった体には雨粒は当たらない。すべて通り抜ける。身体的な不調はあるはずがない。
それでも、雨に濡れた感触や浮き沈む感覚は覚えている。

「とりあえず、移動しよっか」

「ええ」

雫は天を仰ぐ。目の前に広がっているのは灰色だらけの雨雲だった。
この、まるで靄がかかったかのような心地悪さはきっと雨と淀んでいる雨雲のせいだろう。


◇◇◇


激しい雨音が止まらない。バケツをひっくり返した雨とはまさにこのことだろう。
大きな雨粒が地面を叩きつけ、一面に飛沫が舞っている。天から降り注ぐ雨は地上のすべてを打ち付けた。地面、植物、家々、人にも。

突然の雨に対処しきれず突っ切ってばかりいた通行人も今では傘を差している。
傘を差していない通行人を探すのが難しいほど雨脚が強い。雨粒の一粒が大きく、速い。傘にその一粒が当たると強く弾け、響く。通行人のほとんどが風によって傘の中に入り込んだ雨粒が一粒顔に当たるたびに、鬱陶しく手の甲で拭っている。
傘が手元にない時、突拍子もなく降ってきた雨の対処の仕方と言えば雨宿り、傘を代わりになるものを頭の上に乗せて雨からガードするようなやり方だろう。もしくは雨滴が顔にかからないように下を向きながら、突っ切る対処の仕方もある。こんなどしゃぶりで傘を差さずに平気でいられる人間は早々いない。そんな雨の中、そのどの対処の仕方もしていない人間がいた。

藍だった。俯きがちの顔に容赦なくかかる大量の雨粒を拭うことも雨を遮るような動作もせず、ふらふらとした歩調を保っていた。小さな背中が雨のせいか、透き通って消えてしまいそうなほど弱弱しかった。目元に落ちる雨粒が瞬きするたびに睫の先から零れ落ちた。何滴も藍の目元から止めどなく溢れ続けている。藍は全身濡れ鼠状態だった。意に返す様子はない。
そしてもう一人、傘を差さずにいる人間がいる。その人物は顔に降りかかる雨粒を一切拭わず、藍の後ろ姿を凝視している。視界から完全に消えるまで微動だにせず、目線だけを動かしている。

物陰に隠れて気配を完全に消していた、五月雨吹雪がそこにいた。首や頬に張り付いた髪をかき上げながら、にやりと吹雪は微笑む。

「目当ての金物はなかったし、途中から雨が降ってきたし………今日はさんざんだって思っていたけど、そうでもなかったみたい」

小さく呟いた声は天から降り注ぐ雨音にかき消された。
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