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『第三部 因果と果報』 救いの代償
16▶弟 7:前後
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研究授業へ向かう哀萩を見つけ、声をかける。足を止めてくれたが、そっぽを向かれた。
「別れよう……」
呟いた刹那、背を向け駆けていく。突然のことに羅凍は呆気にとられたが、すぐさま哀萩を追いかける。
グッと手を伸ばし、何とか腕をつかんで引き止める。
「俺のこと、嫌いになった?」
反動で振り返った哀萩はうなずく。
──何かがおかしい。
羅凍はしゃがみ込む。
見上げると、哀萩は涙ぐんでいた。目尻をこっそりと拭う。
「何があった?」
のぞき込めば、みるみるうちに哀萩の瞳は涙でいっぱいになっていく。今度はそっと耳を傾けると、
「古武道しなさいって、お母さんが言ったの……は、私が、嫌いだから」
震える声を懸命に絞り出した哀萩を抱き寄せる。怯えている様子は、羅凍を奮い立たせた。
「絶対に別れない。一生、俺が守るから」
そうは言ってみたものの、帰宅してから羅凍は頭を悩ませた。
一体、どうしたら守れるのか。
羅凍自身もまだ自立していない。学生であり、親がいるからこそ生活が成り立っている。
大きいことを言ったが、それだけのものを今は持っていない。
打開策を思案し、まずは自立だと仮定する。
──どうするのが近道か……。
思い悩み、閃く。
「飛び級しよう!」
翌朝、会うなり羅凍が唐突に言ったものだから、哀萩は目を丸くした。
「え?」
「大丈夫。これからは俺もっと勉強に励むし、哀萩にも教えていくから」
一年でも早く卒業すれば、自立も一年早まる。哀萩を母から少しでも早く救う手立てになると、羅凍は閃きを信じた。
それに哀萩は、あれからも少なからず嫌がらせを受けている様子。羅凍が哀萩を想っていると研究授業の中では周知の事実だが、他では未だ知らない輩は多数いるようだ。つまり、やっかみを受けている。
哀萩は言わないし、隠しているつもりだろうが、節々で羅凍は痕跡を感じ取っている。
学年を変えるのは、哀萩にいい環境の変化をもたらすかもしれない。
「でも、大変なんじゃ……」
「哀萩が、今のままの学力じゃね」
『もう!』と哀萩がかわいらしく怒る。クスリと羅凍は笑って受け止める。いつまでもこの笑顔を守っていきたい。
「だから、今度こそ……ちゃんと一緒に勉強しよ」
ギュッと手を握り締め、約束を取り付ける。
「もう……しばらくイヤらしいことはナシよ!」
照れている声もかわいらしいと、つい顔がにやけた。
「はい」
自信はないが、しっかりと返事をする。未来をつかみとろうとする気持ちは本物だから。
この日から、羅凍は勉学に打ち込み始める。
真面目に取り組めばスルスルと内容は頭に入ってきて、目標ができた喜びを知った。
ただ、喜んでばかりもいられない。
羅凍ひとりが飛び級に成功しても、彼にとっては意味がないのだ。
まずは哀萩の都合を第一にし、学力把握から始める。
夢中になれば煩悩は飛ぶが、哀萩は恋しい。恋しいからこそ、羅凍は極力人目の届く場所を選んだ。
帰宅をすれば、今後の教え方を考える。復習も必要だが、予習をかなり進めなければ飛び級は不可能だ。
頭を抱えそうになるが、羅凍から言い出したこと。諦めるわけにはいかない。
哀萩に出会い、毎日が楽しくなった。ワクワクもソワソワもドキドキも、毎日が慌ただしく過ぎていった。人生が有意義なものになった──そんな感覚だ。哀萩に会うまでは、何をやってみてもおもしろくなくて、何にも打ち込もうとも思えなかった。
それが古武道に興味を持ち、懸命に哀萩に追いつこうとしてきた。しっかりと技術を習得し──不純な動機だったが、初めて楽しいと思って取り組めた。
哀萩がいてくれたからこそ楽しかったのは間違いない。言い換えれば、哀萩がいてくれれば何でも楽しいと思える。
だから、この先もずっと一緒にいてほしいと願うのは、利己的だ。けれど、何かに乾き、飢えていたかのような羅凍には不可欠な存在になっている。
羅凍には変化の連続だった。改めて思い知ってしまったからには──打開策となり得るものが手に届くものなら、必死になって取り組もうと思える。
自覚すれば、教科書を開く手も、どこかウキウキしていた。
──早く会いたいなぁ……。
想い人の笑顔が浮かび、苦悩は消えていく。できるだけのことをやるしかない。
弱音を捨て、気合いを入れる。こうして羅凍は、毎晩勉学に励んだ。
数ヶ月後、頑張った甲斐があり、哀萩も無事に飛び級できた。
クラスが違い残念だったが、元々違うクラスだったのだ。またいつでも会いに行けばいい。
「研究授業、また一緒に行こうね。廊下で待ってる」
年度初め、哀萩のクラスの前まで手を繋いでわざわざ行った。哀萩は『恥ずかしい』と嫌がったが、羅凍は『いいから』と押し切る。
『傷付けるな』と、やっかみを防止するためだ。名残惜しく手を離し、羅凍は別れ際に耳元で囁く。
向き直れば、哀萩は真っ赤に顔を染めている。そんな彼女に心満たされ、少しじゃれて羅凍も自身のクラスへと向かう。
これで、哀萩を虐める輩は出てこないだろう。
そうして、羅凍自身のクラスに入った──が、目を疑った。雲の上の存在、そんな人物を目にしたから。
──沙稀……様。
鴻之宮、その名字だけでも周囲に噂が立つというのに、沙稀は特に噂が飛び交う人物だった。
様々な髪と瞳の色を聞いた。人によっては日により、時間により違う色に見えると言う。所詮は噂話だと想っていたが、百聞は一見に如かずとはまさにと痛感した。
羅凍にはリラに見えた。明るめの──ピンク色にも見えるような明るい紫色。
──鴻嫗城の末裔なら、クロカッスなのに。
認識した色よりもクロカッスは青寄りで、尚且つ灰色が混ざるような暗さがある色だ。
見間違えはしない。
何より、羅凍も知らない色ではないのだ。
沙稀には、双子の兄がいる。双子の兄は親しみやすいと有名で、同学年の羅凍も野次馬になって見に行ったことがあった。
人懐っこい笑みを浮かべる人物で、親しみやすいと有名になるだけあると見とれた色彩は忘れない。クロカッスがふさわしいと、心が震えたものだ。
──確かに、似てないなぁ……。
孤高、そんな言葉が沙稀には似合う気がした。けれど、なぜか話したいとも興味を引いた。
「初めまして。羅凍といいます」
あいさつは話す常套手段。話題はないが、話すきっかけとしてはちょうどいい。
羅凍の思惑通り、沙稀が視線を上げた。バチリと目と目が合い──羅凍は意識的に微笑む。
「暁院です。聞いたことは……あるでしょう?」
噂を利用する。自らも噂の立つ人物でよかったと、今日ほど思ったことはない。
「ああ」
相手はすぐに会話を終わらせたが、言葉を交わせただけで羅凍は満足だった。
そういえば、新学期は五十音順の席が指定されている。羅凍の席は、ちょうど今いる位置の確率が高い。
念のためチラリと黒板を確認すれば、予想通り。羅凍は席に座る前のあいさつと装い、座ろうとする。
「噂以上の美男子だね」
サラリと言われ、ドキリとした。
男性に言われたのに、どうしてか頬が熱く感じる。動揺を隠せないまま、羅凍は返す。
「そう言われて……うれしいのは初めてです」
ふと、沙稀が悪戯な視線を投げてきた。それは、第一印象からは想像ができない仕草で。羅凍は呼吸を忘れそうになる。
──恐ろしい人に、出会ってしまったかもしれない。
一瞬にして羅凍は想像する。もし、哀萩よりも先に、沙稀に会っていたら、と。
「いいよ、敬語じゃなくて」
今度はゆったりとした、やさしい笑みを向けてくる。
「でも……」
『同じ飛び級組でしょ』と、今度は沙稀から話題をくれた。
羅凍はそれがうれしくて、照れたように『そうですね』と笑う。
鴻嫗城の末裔は特別な存在。前後の席の関係とはいえ、すぐには敬語が抜けなかった。
だが、雰囲気とは真逆というほど沙稀は気さくで、月日を追うごとに気兼ねなく話せるようになっていく。
一方の哀萩は、クラスで一歳年上の友人ができたようだ。髪と瞳にクロッカスの色彩を持ち、凪裟という。苗字には当然のように『院』が入っている。だが、本人が名前呼びを幅広く許可していた。
凪裟はおしゃべり好きで、いつもにこにこしている。人見知りはしないらしい。
いつの間にか、羅凍たちは四人でいることが多くなった。
羅凍から見て、凪裟は沙稀に興味があると見て取れた。
たとえ凪裟の目的が初めから沙稀と近づくことだったとしても、哀萩に友人ができた。それが羅凍にはうれしかった。
勝手に羅凍は『沙稀にも彼女がいたらいい』と思うようになったが、
「好きな人はいる」
と沙稀は言っていた。
ただ、凪裟が想いを告げたら心変わりするかもしれない。
──うまくいけばいいな。
独り善がりな願いだが、羅凍は楽しい時間が長く続くよう願った。
「別れよう……」
呟いた刹那、背を向け駆けていく。突然のことに羅凍は呆気にとられたが、すぐさま哀萩を追いかける。
グッと手を伸ばし、何とか腕をつかんで引き止める。
「俺のこと、嫌いになった?」
反動で振り返った哀萩はうなずく。
──何かがおかしい。
羅凍はしゃがみ込む。
見上げると、哀萩は涙ぐんでいた。目尻をこっそりと拭う。
「何があった?」
のぞき込めば、みるみるうちに哀萩の瞳は涙でいっぱいになっていく。今度はそっと耳を傾けると、
「古武道しなさいって、お母さんが言ったの……は、私が、嫌いだから」
震える声を懸命に絞り出した哀萩を抱き寄せる。怯えている様子は、羅凍を奮い立たせた。
「絶対に別れない。一生、俺が守るから」
そうは言ってみたものの、帰宅してから羅凍は頭を悩ませた。
一体、どうしたら守れるのか。
羅凍自身もまだ自立していない。学生であり、親がいるからこそ生活が成り立っている。
大きいことを言ったが、それだけのものを今は持っていない。
打開策を思案し、まずは自立だと仮定する。
──どうするのが近道か……。
思い悩み、閃く。
「飛び級しよう!」
翌朝、会うなり羅凍が唐突に言ったものだから、哀萩は目を丸くした。
「え?」
「大丈夫。これからは俺もっと勉強に励むし、哀萩にも教えていくから」
一年でも早く卒業すれば、自立も一年早まる。哀萩を母から少しでも早く救う手立てになると、羅凍は閃きを信じた。
それに哀萩は、あれからも少なからず嫌がらせを受けている様子。羅凍が哀萩を想っていると研究授業の中では周知の事実だが、他では未だ知らない輩は多数いるようだ。つまり、やっかみを受けている。
哀萩は言わないし、隠しているつもりだろうが、節々で羅凍は痕跡を感じ取っている。
学年を変えるのは、哀萩にいい環境の変化をもたらすかもしれない。
「でも、大変なんじゃ……」
「哀萩が、今のままの学力じゃね」
『もう!』と哀萩がかわいらしく怒る。クスリと羅凍は笑って受け止める。いつまでもこの笑顔を守っていきたい。
「だから、今度こそ……ちゃんと一緒に勉強しよ」
ギュッと手を握り締め、約束を取り付ける。
「もう……しばらくイヤらしいことはナシよ!」
照れている声もかわいらしいと、つい顔がにやけた。
「はい」
自信はないが、しっかりと返事をする。未来をつかみとろうとする気持ちは本物だから。
この日から、羅凍は勉学に打ち込み始める。
真面目に取り組めばスルスルと内容は頭に入ってきて、目標ができた喜びを知った。
ただ、喜んでばかりもいられない。
羅凍ひとりが飛び級に成功しても、彼にとっては意味がないのだ。
まずは哀萩の都合を第一にし、学力把握から始める。
夢中になれば煩悩は飛ぶが、哀萩は恋しい。恋しいからこそ、羅凍は極力人目の届く場所を選んだ。
帰宅をすれば、今後の教え方を考える。復習も必要だが、予習をかなり進めなければ飛び級は不可能だ。
頭を抱えそうになるが、羅凍から言い出したこと。諦めるわけにはいかない。
哀萩に出会い、毎日が楽しくなった。ワクワクもソワソワもドキドキも、毎日が慌ただしく過ぎていった。人生が有意義なものになった──そんな感覚だ。哀萩に会うまでは、何をやってみてもおもしろくなくて、何にも打ち込もうとも思えなかった。
それが古武道に興味を持ち、懸命に哀萩に追いつこうとしてきた。しっかりと技術を習得し──不純な動機だったが、初めて楽しいと思って取り組めた。
哀萩がいてくれたからこそ楽しかったのは間違いない。言い換えれば、哀萩がいてくれれば何でも楽しいと思える。
だから、この先もずっと一緒にいてほしいと願うのは、利己的だ。けれど、何かに乾き、飢えていたかのような羅凍には不可欠な存在になっている。
羅凍には変化の連続だった。改めて思い知ってしまったからには──打開策となり得るものが手に届くものなら、必死になって取り組もうと思える。
自覚すれば、教科書を開く手も、どこかウキウキしていた。
──早く会いたいなぁ……。
想い人の笑顔が浮かび、苦悩は消えていく。できるだけのことをやるしかない。
弱音を捨て、気合いを入れる。こうして羅凍は、毎晩勉学に励んだ。
数ヶ月後、頑張った甲斐があり、哀萩も無事に飛び級できた。
クラスが違い残念だったが、元々違うクラスだったのだ。またいつでも会いに行けばいい。
「研究授業、また一緒に行こうね。廊下で待ってる」
年度初め、哀萩のクラスの前まで手を繋いでわざわざ行った。哀萩は『恥ずかしい』と嫌がったが、羅凍は『いいから』と押し切る。
『傷付けるな』と、やっかみを防止するためだ。名残惜しく手を離し、羅凍は別れ際に耳元で囁く。
向き直れば、哀萩は真っ赤に顔を染めている。そんな彼女に心満たされ、少しじゃれて羅凍も自身のクラスへと向かう。
これで、哀萩を虐める輩は出てこないだろう。
そうして、羅凍自身のクラスに入った──が、目を疑った。雲の上の存在、そんな人物を目にしたから。
──沙稀……様。
鴻之宮、その名字だけでも周囲に噂が立つというのに、沙稀は特に噂が飛び交う人物だった。
様々な髪と瞳の色を聞いた。人によっては日により、時間により違う色に見えると言う。所詮は噂話だと想っていたが、百聞は一見に如かずとはまさにと痛感した。
羅凍にはリラに見えた。明るめの──ピンク色にも見えるような明るい紫色。
──鴻嫗城の末裔なら、クロカッスなのに。
認識した色よりもクロカッスは青寄りで、尚且つ灰色が混ざるような暗さがある色だ。
見間違えはしない。
何より、羅凍も知らない色ではないのだ。
沙稀には、双子の兄がいる。双子の兄は親しみやすいと有名で、同学年の羅凍も野次馬になって見に行ったことがあった。
人懐っこい笑みを浮かべる人物で、親しみやすいと有名になるだけあると見とれた色彩は忘れない。クロカッスがふさわしいと、心が震えたものだ。
──確かに、似てないなぁ……。
孤高、そんな言葉が沙稀には似合う気がした。けれど、なぜか話したいとも興味を引いた。
「初めまして。羅凍といいます」
あいさつは話す常套手段。話題はないが、話すきっかけとしてはちょうどいい。
羅凍の思惑通り、沙稀が視線を上げた。バチリと目と目が合い──羅凍は意識的に微笑む。
「暁院です。聞いたことは……あるでしょう?」
噂を利用する。自らも噂の立つ人物でよかったと、今日ほど思ったことはない。
「ああ」
相手はすぐに会話を終わらせたが、言葉を交わせただけで羅凍は満足だった。
そういえば、新学期は五十音順の席が指定されている。羅凍の席は、ちょうど今いる位置の確率が高い。
念のためチラリと黒板を確認すれば、予想通り。羅凍は席に座る前のあいさつと装い、座ろうとする。
「噂以上の美男子だね」
サラリと言われ、ドキリとした。
男性に言われたのに、どうしてか頬が熱く感じる。動揺を隠せないまま、羅凍は返す。
「そう言われて……うれしいのは初めてです」
ふと、沙稀が悪戯な視線を投げてきた。それは、第一印象からは想像ができない仕草で。羅凍は呼吸を忘れそうになる。
──恐ろしい人に、出会ってしまったかもしれない。
一瞬にして羅凍は想像する。もし、哀萩よりも先に、沙稀に会っていたら、と。
「いいよ、敬語じゃなくて」
今度はゆったりとした、やさしい笑みを向けてくる。
「でも……」
『同じ飛び級組でしょ』と、今度は沙稀から話題をくれた。
羅凍はそれがうれしくて、照れたように『そうですね』と笑う。
鴻嫗城の末裔は特別な存在。前後の席の関係とはいえ、すぐには敬語が抜けなかった。
だが、雰囲気とは真逆というほど沙稀は気さくで、月日を追うごとに気兼ねなく話せるようになっていく。
一方の哀萩は、クラスで一歳年上の友人ができたようだ。髪と瞳にクロッカスの色彩を持ち、凪裟という。苗字には当然のように『院』が入っている。だが、本人が名前呼びを幅広く許可していた。
凪裟はおしゃべり好きで、いつもにこにこしている。人見知りはしないらしい。
いつの間にか、羅凍たちは四人でいることが多くなった。
羅凍から見て、凪裟は沙稀に興味があると見て取れた。
たとえ凪裟の目的が初めから沙稀と近づくことだったとしても、哀萩に友人ができた。それが羅凍にはうれしかった。
勝手に羅凍は『沙稀にも彼女がいたらいい』と思うようになったが、
「好きな人はいる」
と沙稀は言っていた。
ただ、凪裟が想いを告げたら心変わりするかもしれない。
──うまくいけばいいな。
独り善がりな願いだが、羅凍は楽しい時間が長く続くよう願った。
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