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一章
4 落下、紛失、喪失
しおりを挟むほんとうに、前触れのない、突然の出来事だった。
シャープペンシルの芯が折れる時ほどの衝撃もなく、静かに、ともすれば気づかないうちに、私は名前を紛失した。
テスト開始、の声を聞き、薄い液晶に電子ペンの先をつけたとき。
「え」
そのつぶやきは胸の深くからこぼれ、口の中で微かな声となり、私の脳にある事実を投げ入れた。
唐突に。
(名前が、わからない?)
コツコツと、表示された記名欄をペン先で叩く。焦り、困惑、苛立ち。
(そんなばかな。忘れるなんて、あるわけがない)
友人の名前をいくつか思い浮かべる。
ひとり、ふたり、…
問題ない。では、私の名前は。
わからない。
混乱をそのままに、名前の欄はとばして生徒番号を記入する。
もう一度、名前を思い出そうと試みる。
あ、い、う、…50音をたどる。はじめの文字がつかめればわかるかもしれない。
ひとつも気になる文字がないまま終わり、さらに焦る。
二文字?三文字?
それすらもわからない。
わからない。
(ひとまず、)
目を閉じ、1つ深呼吸をする。
ふと、こめかみを伝う冷や汗に気づく。
(切り替えよう。試験を終えよう)
提出、という表示にペン先で触れ、受領の知らせを待つ。
前方の教壇で教員用のパネルを操作していた教授が、不意に顔を上げ私の目を見た。
記名欄の空白に気がついたのだろう。
私のパネルにメッセージが表示された。
【記名をしていないのはなぜですか】
なぜ、という質問に少し安心した。
(このおかしな出来事も、理由をもちうるのか)
試験は最終時限だった。
私は生徒が全員立ち去るまで席を動かなかった。
教授も、時折パネルを操作する以外は何もせず、退出する生徒達をただぼんやりと目で追っていた。
最後の一人が教室を出たあと、教授は徐に私を見た。
若い教授だった。生徒に混じって授業を受けていても疑問に思う人はほとんどいないだろうというほど、若く見えた。ただ少し気怠げな、生きて動くのに飽きてしまったというような、力を抜いた挙動が彼の表面にいくらかの年齢を貼り付けていた。これまでに、彼の授業を受けたことはなかった。
【名前を忘れてしまって思い出せません】
教授からの問いに対し、私はただ素直に、そう返信した。
【わかりました。試験終了後に話を伺うので少し残ってください】
教授は教室の入り口で待っていてくれた。私が教室を出ると照明を消し、施錠した。
廊下の高い所にある窓から差し込む月光と、壁の橙色の照明が夜の上澄みばかりを温めていた。
「では、名前を忘れてしまうまでの、経緯を話してください」
廊下の長椅子に腰掛け、教授はそう言った。
私は一人分の空白の隣に座った。
「なぜ、疑わないのですか」
思わず言ってから、これでは疑われたいみたいだと思った。
「疑うことに意味はないですから」
彼はただそう答えた。私はいくつかの意味を想像し始めて、やめた。
「…昨日までは、覚えていたはずです。昨日も記名する場面がありました。今朝から…今にかけてだと思います。特段変わった出来事はありません。ただ、先ほど思い出そうとしたら…思い出せなかった。自分でも、驚いています」
特別な出来事にしたくなかった。
「でも、よくあることなのかもしれません、明日には元に戻っているかも」
根拠もなく、なるべく大したことのない事に聞こえるように軽い調子を意識した。悲劇を好む子供のようには、絶対に見られたくなかった。
「そうですね、でも、あまり聞いたことはないですね、自分の名前を、なんの前触れもなく忘れるなんて」
教授は柔らかい調子で、言外に落ち着きなさいと肩を叩くように私に言った。
「明日、医務室の精神科の先生のところを訪ねてみないか。もちろん、気負わず、何かヒントが見つかるといいなというような軽い体でよいから」
真っ当な意見だけれど、行きたくないと思ってしまう。医務室でなんて伝える?信じてもらえる?…本質的ではないとわかっているが、億劫だという気持ちが重く居座っていて退いてくれそうにない。
「授業は」
教授は全て分かった上で、変わらず柔らかいように見えた。
「何限が最後?良ければ僕も行くよ、状態の説明に言葉を添えるくらいはできる」
「4限です」
「わかった、5限は空いているから、では、4限直後に時計塔の前で会おう」
「…ありがとうございます」
わたしは深く頭を下げた。
応援ありがとうございます!
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退会済ユーザのコメントです
感想ありがとうございます。
焦らず頑張らせていただこうと思います。
これからの作品も読んでいただけると幸いです。
作品拝見しました。長い作品を作り込まれていて、とても尊敬します。励みにして頑張ります!ユエルメルシリーズ、応援させていただきます。