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少年期 港町小旅行編
(40)弛緩
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二人が宿に着くころにはすっかり日が暮れてしまっていた。日の落ちたカーライルは街灯は少なくないもののロンゴミニアドと比べると一段暗く感じられた。道中の思わぬトラブルもありすっかり軽からぬ疲労感を覚えていた二人はリキアに騎乗、というよりは背負われるような具合で宿に到着したのであった。
リキアを宿に七日分の料金を先払いしてから客室に至るとフィンは品が無いとは自覚しつつもソファに横になった。体がクッションに沈み込む。馬体を挟むのに酷使した内腿が震えるようにであった。腰も尻も痛かった。
「フィン、疲れているのはわかりますが外套は脱がないといけませんよ」
ドロシーが普段の調子で言う。彼女は必死に背伸びをしながら外套をコート掛けに預けている。
フィンは師のつま先立ちする様子を横目に眺めて、いよいよ旅行に来たのだな、と込み上げるものがあった。大学の居室にある家具はそのほとんどがドロシーが使うことを前提に誂えており、余程のことでもない限り背伸びをしなくては届かないものなどありはしなかった。こうして他所に来ると忽ち不便をしてしまうのは大人を客として想定した施設が世の過半であるからだろうか。
師に促されてフィンも外套を脱ぐ。備え付けのブラシで軽く払うと思いのほか埃が落ちた。今日一日でだいぶ汚れていたようだった。
ぐぅうううう――。
フィンが背伸びをして外套をかけようとしたとき、ドロシーの腹から犬の威嚇するような音が鳴った。部屋が静かであったためにそれはやけに大きく聞こえた。
見ればドロシーが顔を真っ赤にしている。
フィンは先程まで疲労の中でもなお品行にあろうとしていた師の振る舞いと打ち破るその音と、これを恥じ入る表情とに相好が崩れてしまうのを堪えられなかった。
「くっ……あははは」
「ふぃ、フィン――っ」
ドロシーは平時からあまり感情を表情にしないでいる。なにも情緒がないというのではない。喜怒哀楽を表情にする習慣を持っていなかったに過ぎないのであるが、こうして眉根を寄せて耳まで赤くしながら戸惑う先生はそう見られるものではなく、フィンは時折垣間見えるドロシーの表情が堪らなく愛おしかった。
その後、「人の不手際を笑うのは品行のないものですから慎むように」と幾分言い訳がましいドロシーの説教を受け、二人はパンに肉と葉物野菜とを挟んで夜食にした。
「フィン……にやにやと人の顔を見て笑いながら食事をするのはよくないことです」
「す、すみません……表情が、どうしても」
夜食を頬張りながらフィンはいまだに口角を持ち上げている。笑うのを堪えている。
お陰でいまだに据わりが悪いままのドロシーは再度釘を刺すが、口では嗜めながらもその実不快な気持ちはいくらもなかった。
フィンは常にしっかりとしていた。座学にも武錬教練の類にも真面目に取り組み不平も漏らさず、師の研究のみならず生活への支援も不足なく取り組んでくれていた。
無論、微笑んだり楽しんだりといったことがないわけではなかった。今朝のように乗馬を楽しみ笑い声を上げることもないではなかった。しかしながら今回のように無遠慮な笑いを彼が自分に見せてくれるのは初めてのことだった。
表現が適切かどうかは差し置いて、彼が無遠慮に笑ってしまっているその様子がドロシーにとってどれほど有難いものであったか。
笑うのを堪えながら食事するフィンよりも幾分早く食べ終えたドロシーは口元をハンカチで拭いながら席を立った。
「明日は朝から出かけますから早く支度して体をお休めなさい」
ハンカチで口元を拭ったのは何も汚れを落とすためばかりではなかった。こうしてフィンを連れて小旅行に来てよかったと、初日の晩から弛緩する自分の表情を隠しつつドロシーはしみじみと感じ入っていた。
港町カーライルでのバカンスはまだ始まったばかりである。
リキアを宿に七日分の料金を先払いしてから客室に至るとフィンは品が無いとは自覚しつつもソファに横になった。体がクッションに沈み込む。馬体を挟むのに酷使した内腿が震えるようにであった。腰も尻も痛かった。
「フィン、疲れているのはわかりますが外套は脱がないといけませんよ」
ドロシーが普段の調子で言う。彼女は必死に背伸びをしながら外套をコート掛けに預けている。
フィンは師のつま先立ちする様子を横目に眺めて、いよいよ旅行に来たのだな、と込み上げるものがあった。大学の居室にある家具はそのほとんどがドロシーが使うことを前提に誂えており、余程のことでもない限り背伸びをしなくては届かないものなどありはしなかった。こうして他所に来ると忽ち不便をしてしまうのは大人を客として想定した施設が世の過半であるからだろうか。
師に促されてフィンも外套を脱ぐ。備え付けのブラシで軽く払うと思いのほか埃が落ちた。今日一日でだいぶ汚れていたようだった。
ぐぅうううう――。
フィンが背伸びをして外套をかけようとしたとき、ドロシーの腹から犬の威嚇するような音が鳴った。部屋が静かであったためにそれはやけに大きく聞こえた。
見ればドロシーが顔を真っ赤にしている。
フィンは先程まで疲労の中でもなお品行にあろうとしていた師の振る舞いと打ち破るその音と、これを恥じ入る表情とに相好が崩れてしまうのを堪えられなかった。
「くっ……あははは」
「ふぃ、フィン――っ」
ドロシーは平時からあまり感情を表情にしないでいる。なにも情緒がないというのではない。喜怒哀楽を表情にする習慣を持っていなかったに過ぎないのであるが、こうして眉根を寄せて耳まで赤くしながら戸惑う先生はそう見られるものではなく、フィンは時折垣間見えるドロシーの表情が堪らなく愛おしかった。
その後、「人の不手際を笑うのは品行のないものですから慎むように」と幾分言い訳がましいドロシーの説教を受け、二人はパンに肉と葉物野菜とを挟んで夜食にした。
「フィン……にやにやと人の顔を見て笑いながら食事をするのはよくないことです」
「す、すみません……表情が、どうしても」
夜食を頬張りながらフィンはいまだに口角を持ち上げている。笑うのを堪えている。
お陰でいまだに据わりが悪いままのドロシーは再度釘を刺すが、口では嗜めながらもその実不快な気持ちはいくらもなかった。
フィンは常にしっかりとしていた。座学にも武錬教練の類にも真面目に取り組み不平も漏らさず、師の研究のみならず生活への支援も不足なく取り組んでくれていた。
無論、微笑んだり楽しんだりといったことがないわけではなかった。今朝のように乗馬を楽しみ笑い声を上げることもないではなかった。しかしながら今回のように無遠慮な笑いを彼が自分に見せてくれるのは初めてのことだった。
表現が適切かどうかは差し置いて、彼が無遠慮に笑ってしまっているその様子がドロシーにとってどれほど有難いものであったか。
笑うのを堪えながら食事するフィンよりも幾分早く食べ終えたドロシーは口元をハンカチで拭いながら席を立った。
「明日は朝から出かけますから早く支度して体をお休めなさい」
ハンカチで口元を拭ったのは何も汚れを落とすためばかりではなかった。こうしてフィンを連れて小旅行に来てよかったと、初日の晩から弛緩する自分の表情を隠しつつドロシーはしみじみと感じ入っていた。
港町カーライルでのバカンスはまだ始まったばかりである。
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