見知らぬ恋人

葉月零

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「帰るんだ」
 時間は2時。私は眠い体を起こして、シャツを着る彼の背中につぶやいた。
 聞こえているのかいないのか、彼はロレックスを腕につけて、鏡に向かう。
「けんちゃん」
「朝からオペなんや。病院で寝る」
 神経質にシャツの襟を整えて、メガネをかけた。長い手足に、センスのいいスーツ。端正な顔立ちに、白い肌。冷たい彼に、やっぱり私は、うっとり見惚れてしまう。
「今度はいつ会える?」
 その質問に、彼は何も答えない。黙ったまま、玄関に向かう。かかとに少し傷の入った私のパンプスを見て、財布から一万円札を5枚出した。
「そんなボロボロの靴はくな。これで買え」
「お金なんかいらん。なあ、けんちゃん、もう少し、一緒にいたい……」
「奈都、おまえのええとこは、その見た目と、そんなこと言わんとこや」
 こみ上げる涙を飲み込んで、私は、そうやな、と笑顔をつくった。
 彼はシューズボックスにお金を置いて、ドアを開けた。

 彼とは、もう5年になる。出会いは、私が腹膜炎で手術したとき、執刀してくれたのが、彼だった。
 絶対にダメとわかっていたのに、私は彼に夢中になった。病院での彼は優しくて、食事に誘ったのは、私だった。
 初めてのデートで、彼に家庭があることを知った。忘れないと、諦めないと、と頭でわかっていても、彼からの誘いを断れない。いつのまにか、体の関係ができて、いつのまにか、私はこの未来のない関係から、抜け出せなくなっていた。
 それでも、付き合い始めた頃はお互いに幸せだった。家族には申し訳ないと思いつつ、私の部屋で、私たちは何度も夜を過ごす。
 一年ほど経ったころ、彼が担当した手術でミスが起きてしまう。助手か起こしたミスだったけど、執刀医だった彼は責任を問われて、勤めていた病院を追われ、大学病院から市民病院へ。エリート街道を走っていた彼にとって、初めての挫折だっんだろう。優しかった彼は、すっかり変わってしまった。

「俺にさわんな!」
 その夜は、特段機嫌が悪かったらしい。セックスの後、彼に体をよせた私に、怒鳴り声が響いた。
「ご、ごめんなさい」
 優しいセックスは、すっかり、彼の性処理、ううん、ストレス処理のツールになっていた。
「帰る」
「ごめんって、けんちゃん、謝るから」
 ベッドから抜けた彼を、裸のまま、必死で止めようとした。きっと、それがよくなかった。触っちゃいけないのに、私は……無意識に彼の腕にすがっていた。
「さわんなって言ってるやろ!」
 その瞬間、目の前が真っ白になって、裸の私は、床に倒れていた。何が起こったのか、わからない。また頬の辺りに衝撃が走って、頭がクラクラする。
「何回言わすんや!」
 髪の隙間から、ぼんやりと視界が戻って、目の前に、花瓶を持った彼が立っていた。
「ご、ごめん……」
 生けてあった花が散乱して、床は水で濡れている。ポタポタと、赤い染みが広がるのを見て、自分の口から血が流れていることに気がついた。
「奈都、今度俺に勝手に触ったら、殺すからな!」
 長い足が私の肩を蹴り飛ばして、花瓶が床で割れた。
「けんちゃん、私……血が……」
 彼は私の髪を掴んで、無理やり口を開けさせた。
「い、いたいよ……」
「ふん、大丈夫や。中がちょっときれてるだけや」
 なんて惨めな姿なんだろう。割れたガラスの破片で、指が切れたらしい。全裸のまま、私はその場で蹲っている。そんなボロ布のような私を、彼は汚いものを見るような目で睨みつけて、そのまま、部屋を出て行った。
「けんちゃん……なんで……」

 翌朝、鏡を見ると、花瓶で殴られた顔が真っ青に腫れていた。こんな顔じゃ、仕事にいけない。私の仕事は結婚相談所のカウンセラー。今日は休もうか、そう思ってスマホをとると、彼からの着信が鳴った。
「奈都、昨日は悪かった。顔、腫れてへんか?」
 心配してくれてるのね! やっぱり、昨日は機嫌が悪かったんだ。私もしつこくしてしまったから、いけなかったのよ。
「少し、青痣になってる」
「そうか、悪いなあ、客商売やのにな。会社、行けそうか?」
「今日は無理かな、でもいつまでも休めないし」
「そうやな、それやったら、俺が診断書出すから、診察においで。予約しとくから、受付でゆうたらええ」
「いいの?」
「今日はオペもないし、外来やから」
 そう、本当は優しいのよ。昨日はどうかしてただけ。けんちゃんは、私のこと愛してくれてる。

 言われた時間に病院に行くと、すぐに診察室に通された。白衣の彼はずっと素敵。
「ああ、ひどいな、内出血が深い」
「まだ腫れるかしら」
「うーん、そうやな……腫れが引くまで休んだ方がいいな。二週間ほど休んだら青痣も目立たんようになるやろ」
「二週間……そんなに休めないわ」
「診断書出すから、それ会社に提出したらいい。たまには家でゆっくりしたらええよ、毎日忙しいやろ」
 彼はにっこり笑って、ナースに見えないように、影で手を握ってくれた。
 会計に行くと、診断書が出ていますと、封筒を渡された。中を開けると、こう書いてあった。

『所見 
階段から転落した際に、頬骨部打撲による筋挫傷を認める。全治まで二週間の安静を要する』

 階段から転落……まあ、そうよね、殴られたなんて書けないよね。私だって、カレシに殴られたなんて言えないし。
 二週間の休業の間、彼は時々昼間にも来てくれて、外に出れないだろうと、食事も差し入れてくれた。傷の痛みも少しずつ引いて、青痣も目立たなくなったころ、彼がまた、セックスを求めるようになった。
「まだ、肩が痛くて……」
 私のその言葉に、彼の目つきが変わった。
 いけない、私……また殴られる!
「で、でも大丈夫よ」
 それから、私は彼の無言の圧力に怯えるようになった。彼は気に入らないことがあると、手をあげるようになったけど、顔や見える部分は絶対に殴らない。それは紛れもなくDVで、結婚相談員の私は、頭ではわかっているけど、気持ちは認められない。ドクターの彼は、家で治療をして、私を病院に行かせないようにしていた。私も、彼の琴線に触れさえしなければいいと、奴隷のように、いいなりになっていった。
 時には肋骨が折れて、時には肩を脱臼して、麻酔と痛み止めを打たれながら、仕事に集中する。そんな生活のおかげか、私の営業成績はいつもトップクラス。大阪の激戦区で店長に抜擢され、もちろん、地域トップの店舗になるまでの成果を上げた。体中、傷だらけだけど、誰にもわからない。私は痛みと恐怖と戦いながら、まだ彼から離れられずにいた。

 そんな生活が4年続いたころ、私に東京の本店異動の話が持ち上がった。絶対的な栄転だし、待遇も悪くない。それに……東京に行けば、彼から離れられる、そう思った。
 だからもう……
「けんちゃん、あのね」
 ドアを開けた彼は、一瞬立ち止まった。
「私、私ね……」
「なんやねん、早く言えよ」
 腕の青痣を抱き締めて、私は、声を絞り出した。
「東京に行くの」
 きっと、声は震えている。手も足もガタガタと震えている。ゆっくりとドアが閉まって、ゆっくりと彼が振り返った。
「本店に、異動になったの」
 振り返った彼の手に、車のキーが握られていて、そのまま、私の顔を目掛けて振り下ろされた。
「やめて、けんちゃん、もうやめて」
 私は必死で顔を腕でかばった。キーが肘に刺さって、すごく痛い。
「東京にいくねん、だから、けんちゃん、もう……会われへん」
 バスタオルを巻いただけの私に、彼の革靴が突き刺さって、私はそのまま、床に倒れ込んだ。
「勝手にせえ」
 バタン、とドアが閉まって、いつもみたいに、下から、彼の車のエンジン音が聞こえる。蹴られたおなかをかかえて、私はそのまま、ベッドへ戻った。
「けんちゃん……ごめんね……」
 朝起きたら、また体に青痣が増えてる。それでもいい、もう、この痣が増えることはない。
 
 この地獄から、やっと……やっと、抜け出せる。

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