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ふたり暮らし
ふたり暮らし(1)
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翌朝、チェックアウトを済ませて、ロビーに出てみる。時間は9時少し前。見渡すけど、あの人はいない。
「やっぱりね」
そんなもんよ、やっぱり男は信用しちゃいけない。来るわけないもん。
10分ほど待って、ため息をついて、スーツケースを引こうとして、誰かがハンドルを握った。
「ごめんごめん、思ったより混んでて、待たせちゃったね」
ハンドルを持つ手はごつごつして、真っ黒に日焼けしてる。黒いTシャツにゴールドのネックレス。大きめのサングラスがかかる耳には、ダイヤのピアスが光ってる。
「ほんとごめん、怒ってるの?」
そうじゃなくて、誰!
「失礼、人違いでは?」
「人違いって、酷いな、俺だよ、義人だよ」
義人って……ちがう、これはなにかの間違いよ。だって、昨日は派手だけどちゃんとスーツ着てたし、そう、名刺ももらったし、こんな……
「ふ、藤岡さん?」
「そう、もうやだなあ、なっちゃん、酔っ払ってた?」
嘘よ、これは夢、悪い夢よ。私だって、いろんな恋人がいたけど、この類の人だけは避けてきたもの。ムリ、絶対ムリ。こんな、こんな、EXILEに憧れてる人みたいな人、絶対ムリ!
「おはよ、なっちゃん、行こっか」
彼は昨日みたいに、片手でスーツケースを引いて、片手は私の手を繋ぐ。周りの人がちらちら見てる、なんてこと、もう恥ずかしくて泣きそうよ。
「駐車場、混んでてさ。エレベーターから遠いんだよ。車まわすから、エントランスでまってて」
エントランスを出ると、ドアボーイがちらちらと彼を見てる。そりゃそうよ、こんな反社会的な出立の人、警戒するわよ。
白いスニーカーで地下に降りていく彼を見送って、この隙に逃げようか、ともおもったりして。でも連絡先交換してるし、変に刺激して、またあんな生活になったら……どうしよう、どうしたらいいの。そっか、携帯なんて番号変えればいいよね、うん、逃げよう、逃げたほうがいい。
スーツケースを引こうとした瞬間、後ろから誰かが声をかけた。
「森宮様、ああよかった、まだいらっしゃいましたね」
息を少し弾ませていたのは、フロントマンだった。もしかして、彼のこと? 違う、彼はほんとにただの行きずりの人で……
「こちらを、カウンターにお忘れかと」
フロントマンが差し出したのは、万年筆だった。
「あ、いけない、落としたのかしら」
「ネームが入っていたようなので、森宮様のお品かと思いまして」
「ええ、そうです。ありがとう、気がついてなかったわ」
フロントマンは満足したように笑って、持ち場へ戻っていく。ああ、そうだ、私、逃げなきゃ!
タクシー乗り場には行列ができてるし、仕方ない、駅まで歩くか。そんなに遠くないはずよね。とにかく、ここから離れないと。
「ウソ……」
まごまごしてる私の目の前に止まったのは、真っ赤なBMW。よくわかんないけど、たぶん、デフォルトではない。
「お待たせー、ごめんね、前のやつがとろくさくてさ」
もうダメ、チェックメイト。こんな派手な車! ああ、私としたことが、絶対ダメってわかってたのに!
「後ろに乗るかなー」
後部座席にスーツケースを詰め込んで、助手席のドアを開けてくれた。
「どうぞ」
引きつった笑顔のまま、私は助手席へ。
「汚かったからさあ、朝慌てて洗車したんだよ、臭くはないだろ?」
「え、ええ、まったく」
「住所教えて、ナビに入れるわ」
そっか! 引っ越しを手伝うってことは、家に来るんだ! どうしよう、電話番号どころの騒ぎじゃない。せっかく見つけたお部屋なのに……
「あの、藤岡さん」
「なに? 早く住所」
「やっぱり、申し訳ないわ。駅まで乗せてくれたら、後は電車でいくし、ほんと、大丈夫だから」
「そんな遠慮すんなよ。男手があったほうが絶対いいって。俺暇だし、力仕事慣れてるから大丈夫だよ。だから住所」
観念して、新居の住所を伝えた。すぐに引っ越すことになったらどうしよう。
「うん、こっから20分か。引っ越しって何時にくるの?」
「お昼すぎかな。その前に掃除したくて」
「オッケー、じゃ、なんか食うか。ブランチってやつ」
昨日みたいに、彼は上機嫌で話してくれるけど、私は正直、怖くて怖くて、仕方なかった。けんちゃんみたいなガリガリの男の人でも、殴られたらあんなに怪我したのに、こんなムキムキの人に殴られたら、死んじゃうよね。立ち寄ったカフェで食べたサンドウィッチも、買ってくれたコンビニのコーヒーも、まったく味がしない。ただひたすら、彼を刺激しないように、私はただ、固まった笑顔で相槌をうつだけ。
「なっちゃん、なんか元気ない? 車酔いするとか?」
「そ、そんなことないわ、おかしいわね、緊張してるのかしら」
その言葉に、彼の手が動いて、私は思わず、体を固くしてしまった。
「知らないとこに来たんだから、不安だよな。でも、俺がいるから大丈夫」
そう言いながら、彼は手探りで、私の手を握った。その手は大きくて、ふと、私の顔に襲ってくるような感覚がして、無意識に、私は、やめて、と叫んでいた。
「えっ、なに? なっちゃん、どうしたの」
いけない、私……どうしよう、吐きそう……
「気分悪い? 止めようか」
彼は公園の脇に車を止めて、降りた私の背中をさすってくれた。
「運転荒かったかな、ごめん」
「ち、ちがうの、ほんとに……」
何も吐かなかったけど、外の空気を吸うと、少し落ち着いた気がする。
「少し休んで行こうか」
私たちは、ベンチに座って風に吹かれる。 今日はいい天気で、暑いくらい。Tシャツの腕から見える太い腕にも、うっすら汗が滲んでいる。
「なっちゃん、あのさ」
「な、なに?」
思わず身を避けた私を見て、彼は、なんでもない、と言った。
「こっから近いんだよ。もう大丈夫そう?」
「うん、ごめんなさい。ちょっと……車酔いしたのかしら」
無理に笑う私を、サングラスの向こうからじっと見てる。黙って立ち上がって、先を歩く。どうしたのかしら、怒ったの?
新居につくまで、彼はもう、一言も話さなかった。なんだか難しい顔をして、何か考えてるみたい。
「ここだな、へえ、いいマンションじゃん」
新築ではないけど、まだ新しくて、設備もちゃんとしてる。駅から少し歩くけど、静かだし、家賃も安いし。1DKで、部屋は広め。締め切られた窓を開けると、夏の風が吹き込んでくる。
「いい部屋だね」
「広さと設備で選んだの」
窓の外は、生まれて初めて見る景色。よく似た街並みだけど、ここは横浜。大阪とはちがう生活が始まるのね。
「体調、大丈夫?」
「うん、さっきはほんとごめんなさい。どうしちゃったのかしら、私」
車は密室で息苦しかったけど、部屋はそうでもない。窓も開いてるし、それに、なんだろう、この人といると、なんだか……怖いのに、落ち着いてる。
「掃除しちゃう? 道具あるの?」
「うん、一応、でもきれいよね。しなくても大丈夫かしら」
「荷物入れてからのほうがいいかもな」
彼はそう言って、床にあぐらをかいた。少し離れて、私も座る。サングラスを外すと、右目が腫れていた。よく見ると、薄く痣ができてる。
「目、どうしたの?」
「ああ、ちょっとね」
「怪我してるじゃない、大丈夫?」
「昨日あれからさ、酔っ払いに絡まれてた女の子を助けようとして、返り討ちにあった。情けねえよなあ」
「殴られたの?」
「倍は殴ったけどな」
ははっと、彼は笑ったけど、私は彼の傷が、あの時の自分の傷のように思えて、手が震えていた。
「痛くないの?」
「大したことないよ、慣れてるから」
「慣れてるって? ケンカとかするってこと?」
「そうじゃないよ、なんていうか、俺の仕事ってさ……」
電話の相手は、引っ越し屋さんだった。
「あと30分で来るって」
「じゃあ、準備するか」
「ねえ、ケンカするの?」
引っ越しなんかどうでもよくて、彼が暴力をふるうのかどうか、私はそればかり不安だった。
「ケンカとか嫌い?」
「暴力は嫌い。暴力的な人も」
「俺、そんなことしないよ。特に女や子供には」
「でも、なんか……」
きっと不安な目をしている。また吐き気が襲ってきて、手足が震えだした。
「俺、社会面の記事書いてるんだよ」
「社会面って? 犯罪とか?」
「まあ、それもあるけど、俺はホームレスとか、道を外れたやつらを書いてる。だから、時には暴力受けることもあるし、身を守るために、殴ることもある。でも、自分からは手を出したりしないよ」
彼は大きな手を握って、じっと見つめた。
「俺が怖い?」
私は、恐る恐る頷いた。
「そっか、そうじゃないかと思った。こんなカッコしてるしね、誤解されること多い。まあ、なめられないためってのもあるかな、威嚇だよ、威嚇。だってさ、ホームレスが紺色のスーツ着たヤツになんか喋る? ガラの悪いヤツもいるし、白シャツなんか着てたら、すぐにフクロにされるよ」
「あの車は?」
「ああ、あれ? 車好きなんだよ。金かけるって、車だけだし。俺さ、月の半分は取材に出てるから、家にはほとんど帰らないんだよね。車で生活してるようなもんだからさ。そのかわり、俺の部屋ひどいぜ? 風呂なしトイレ共同、なんと家賃1万円、安くね?」
彼は笑ったけど、私は笑えなかった。怖いとかじゃなくて、なぜだか、ずいぶん遠い世界の人に感じたから。
「なっちゃんが心配するようなことはしない」
彼の手が私の髪を撫でて、そのまま、優しく抱きしめてくれた。少し汗ばんた黒いTシャツからは、昨日と同じ香水と、汗の匂い。
「キスしていい?」
どうしよう。キス……キスなんて、けんちゃんはしてくれなかったから……どうやってするんだっけ。
俯いたままの私の唇に、彼の唇が触れた。顎髭がチクチクする。
「なっちゃんの唇、柔らかいなあ」
彼はそう言って、今度はもっと、深くて、熱いキス。ああ、窓開いてる、カーテンもないし、外から見えたらどうしよう。
「好きになった」
背中に冷たい床を感じて、上には彼の熱い体を感じる。彼の手がTシャツの中に入って、唇が首筋に落ちてくる。
「だ、だめ、引っ越し屋さん、くるから……」
「くるまで」
「き、昨日は、帰ったじゃない」
「帰りたくなかったさ」
「じゃあ、なんで、なんでひとりにしたのよ」
「それは……酒入ってたし、お互い。酔ってるだけって、そう思われたらいやだったから」
彼はそう言って、もう一度、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「真面目なんだ」
「真面目だよ、俺。こんな見た目だけど、遊びで女を抱いたりしない」
「今は?」
「真面目だって。そうじゃなかったら、引っ越しの手伝いなんかこないよ」
「私のこと、本気ってこと?」
「ああ、本気。本気で好きになった」
「どこを? 昨日あったばかりなのに、どこを好きになるの? なにも知らないじゃない、私のこと。なにも知らないくせに、私のこと知らないのに、軽々しく好きとか言わないでよ! 私なんて……私なんて、ダメなのに……」
「ダメなんかじゃないよ、なっちゃん」
いつのまにか、泣いていたらしい。
「つらいこと、あったんだ」
彼は私の涙を拭いながら、優しい目で私を見てる。
「つらいことなんかない!」
絶対に、絶対に知られたくない。DVを受けてたなんて、絶対に!
「そっか、それならいい」
彼はゆっくり、私を起こして、乱れた髪を撫でてくれた。まだ、体に彼の匂いを感じる。
「メイクなおしてくる」
どんな顔をすればいいのかわからなくて、とにかく、彼のそばから離れたかった。
洗面所でメイクをしていると、インターホンが鳴って、彼の声が応対してる。
「はいはい、よろしくー」
「引っ越し屋さん?」
「うん、オートロック開けたよ」
もう、勝手に……まあいいけど。
ああ、でもついに、この部屋での生活が始まるのね。何もかもリセットして、がんばらなきゃ。
「やっぱりね」
そんなもんよ、やっぱり男は信用しちゃいけない。来るわけないもん。
10分ほど待って、ため息をついて、スーツケースを引こうとして、誰かがハンドルを握った。
「ごめんごめん、思ったより混んでて、待たせちゃったね」
ハンドルを持つ手はごつごつして、真っ黒に日焼けしてる。黒いTシャツにゴールドのネックレス。大きめのサングラスがかかる耳には、ダイヤのピアスが光ってる。
「ほんとごめん、怒ってるの?」
そうじゃなくて、誰!
「失礼、人違いでは?」
「人違いって、酷いな、俺だよ、義人だよ」
義人って……ちがう、これはなにかの間違いよ。だって、昨日は派手だけどちゃんとスーツ着てたし、そう、名刺ももらったし、こんな……
「ふ、藤岡さん?」
「そう、もうやだなあ、なっちゃん、酔っ払ってた?」
嘘よ、これは夢、悪い夢よ。私だって、いろんな恋人がいたけど、この類の人だけは避けてきたもの。ムリ、絶対ムリ。こんな、こんな、EXILEに憧れてる人みたいな人、絶対ムリ!
「おはよ、なっちゃん、行こっか」
彼は昨日みたいに、片手でスーツケースを引いて、片手は私の手を繋ぐ。周りの人がちらちら見てる、なんてこと、もう恥ずかしくて泣きそうよ。
「駐車場、混んでてさ。エレベーターから遠いんだよ。車まわすから、エントランスでまってて」
エントランスを出ると、ドアボーイがちらちらと彼を見てる。そりゃそうよ、こんな反社会的な出立の人、警戒するわよ。
白いスニーカーで地下に降りていく彼を見送って、この隙に逃げようか、ともおもったりして。でも連絡先交換してるし、変に刺激して、またあんな生活になったら……どうしよう、どうしたらいいの。そっか、携帯なんて番号変えればいいよね、うん、逃げよう、逃げたほうがいい。
スーツケースを引こうとした瞬間、後ろから誰かが声をかけた。
「森宮様、ああよかった、まだいらっしゃいましたね」
息を少し弾ませていたのは、フロントマンだった。もしかして、彼のこと? 違う、彼はほんとにただの行きずりの人で……
「こちらを、カウンターにお忘れかと」
フロントマンが差し出したのは、万年筆だった。
「あ、いけない、落としたのかしら」
「ネームが入っていたようなので、森宮様のお品かと思いまして」
「ええ、そうです。ありがとう、気がついてなかったわ」
フロントマンは満足したように笑って、持ち場へ戻っていく。ああ、そうだ、私、逃げなきゃ!
タクシー乗り場には行列ができてるし、仕方ない、駅まで歩くか。そんなに遠くないはずよね。とにかく、ここから離れないと。
「ウソ……」
まごまごしてる私の目の前に止まったのは、真っ赤なBMW。よくわかんないけど、たぶん、デフォルトではない。
「お待たせー、ごめんね、前のやつがとろくさくてさ」
もうダメ、チェックメイト。こんな派手な車! ああ、私としたことが、絶対ダメってわかってたのに!
「後ろに乗るかなー」
後部座席にスーツケースを詰め込んで、助手席のドアを開けてくれた。
「どうぞ」
引きつった笑顔のまま、私は助手席へ。
「汚かったからさあ、朝慌てて洗車したんだよ、臭くはないだろ?」
「え、ええ、まったく」
「住所教えて、ナビに入れるわ」
そっか! 引っ越しを手伝うってことは、家に来るんだ! どうしよう、電話番号どころの騒ぎじゃない。せっかく見つけたお部屋なのに……
「あの、藤岡さん」
「なに? 早く住所」
「やっぱり、申し訳ないわ。駅まで乗せてくれたら、後は電車でいくし、ほんと、大丈夫だから」
「そんな遠慮すんなよ。男手があったほうが絶対いいって。俺暇だし、力仕事慣れてるから大丈夫だよ。だから住所」
観念して、新居の住所を伝えた。すぐに引っ越すことになったらどうしよう。
「うん、こっから20分か。引っ越しって何時にくるの?」
「お昼すぎかな。その前に掃除したくて」
「オッケー、じゃ、なんか食うか。ブランチってやつ」
昨日みたいに、彼は上機嫌で話してくれるけど、私は正直、怖くて怖くて、仕方なかった。けんちゃんみたいなガリガリの男の人でも、殴られたらあんなに怪我したのに、こんなムキムキの人に殴られたら、死んじゃうよね。立ち寄ったカフェで食べたサンドウィッチも、買ってくれたコンビニのコーヒーも、まったく味がしない。ただひたすら、彼を刺激しないように、私はただ、固まった笑顔で相槌をうつだけ。
「なっちゃん、なんか元気ない? 車酔いするとか?」
「そ、そんなことないわ、おかしいわね、緊張してるのかしら」
その言葉に、彼の手が動いて、私は思わず、体を固くしてしまった。
「知らないとこに来たんだから、不安だよな。でも、俺がいるから大丈夫」
そう言いながら、彼は手探りで、私の手を握った。その手は大きくて、ふと、私の顔に襲ってくるような感覚がして、無意識に、私は、やめて、と叫んでいた。
「えっ、なに? なっちゃん、どうしたの」
いけない、私……どうしよう、吐きそう……
「気分悪い? 止めようか」
彼は公園の脇に車を止めて、降りた私の背中をさすってくれた。
「運転荒かったかな、ごめん」
「ち、ちがうの、ほんとに……」
何も吐かなかったけど、外の空気を吸うと、少し落ち着いた気がする。
「少し休んで行こうか」
私たちは、ベンチに座って風に吹かれる。 今日はいい天気で、暑いくらい。Tシャツの腕から見える太い腕にも、うっすら汗が滲んでいる。
「なっちゃん、あのさ」
「な、なに?」
思わず身を避けた私を見て、彼は、なんでもない、と言った。
「こっから近いんだよ。もう大丈夫そう?」
「うん、ごめんなさい。ちょっと……車酔いしたのかしら」
無理に笑う私を、サングラスの向こうからじっと見てる。黙って立ち上がって、先を歩く。どうしたのかしら、怒ったの?
新居につくまで、彼はもう、一言も話さなかった。なんだか難しい顔をして、何か考えてるみたい。
「ここだな、へえ、いいマンションじゃん」
新築ではないけど、まだ新しくて、設備もちゃんとしてる。駅から少し歩くけど、静かだし、家賃も安いし。1DKで、部屋は広め。締め切られた窓を開けると、夏の風が吹き込んでくる。
「いい部屋だね」
「広さと設備で選んだの」
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「体調、大丈夫?」
「うん、さっきはほんとごめんなさい。どうしちゃったのかしら、私」
車は密室で息苦しかったけど、部屋はそうでもない。窓も開いてるし、それに、なんだろう、この人といると、なんだか……怖いのに、落ち着いてる。
「掃除しちゃう? 道具あるの?」
「うん、一応、でもきれいよね。しなくても大丈夫かしら」
「荷物入れてからのほうがいいかもな」
彼はそう言って、床にあぐらをかいた。少し離れて、私も座る。サングラスを外すと、右目が腫れていた。よく見ると、薄く痣ができてる。
「目、どうしたの?」
「ああ、ちょっとね」
「怪我してるじゃない、大丈夫?」
「昨日あれからさ、酔っ払いに絡まれてた女の子を助けようとして、返り討ちにあった。情けねえよなあ」
「殴られたの?」
「倍は殴ったけどな」
ははっと、彼は笑ったけど、私は彼の傷が、あの時の自分の傷のように思えて、手が震えていた。
「痛くないの?」
「大したことないよ、慣れてるから」
「慣れてるって? ケンカとかするってこと?」
「そうじゃないよ、なんていうか、俺の仕事ってさ……」
電話の相手は、引っ越し屋さんだった。
「あと30分で来るって」
「じゃあ、準備するか」
「ねえ、ケンカするの?」
引っ越しなんかどうでもよくて、彼が暴力をふるうのかどうか、私はそればかり不安だった。
「ケンカとか嫌い?」
「暴力は嫌い。暴力的な人も」
「俺、そんなことしないよ。特に女や子供には」
「でも、なんか……」
きっと不安な目をしている。また吐き気が襲ってきて、手足が震えだした。
「俺、社会面の記事書いてるんだよ」
「社会面って? 犯罪とか?」
「まあ、それもあるけど、俺はホームレスとか、道を外れたやつらを書いてる。だから、時には暴力受けることもあるし、身を守るために、殴ることもある。でも、自分からは手を出したりしないよ」
彼は大きな手を握って、じっと見つめた。
「俺が怖い?」
私は、恐る恐る頷いた。
「そっか、そうじゃないかと思った。こんなカッコしてるしね、誤解されること多い。まあ、なめられないためってのもあるかな、威嚇だよ、威嚇。だってさ、ホームレスが紺色のスーツ着たヤツになんか喋る? ガラの悪いヤツもいるし、白シャツなんか着てたら、すぐにフクロにされるよ」
「あの車は?」
「ああ、あれ? 車好きなんだよ。金かけるって、車だけだし。俺さ、月の半分は取材に出てるから、家にはほとんど帰らないんだよね。車で生活してるようなもんだからさ。そのかわり、俺の部屋ひどいぜ? 風呂なしトイレ共同、なんと家賃1万円、安くね?」
彼は笑ったけど、私は笑えなかった。怖いとかじゃなくて、なぜだか、ずいぶん遠い世界の人に感じたから。
「なっちゃんが心配するようなことはしない」
彼の手が私の髪を撫でて、そのまま、優しく抱きしめてくれた。少し汗ばんた黒いTシャツからは、昨日と同じ香水と、汗の匂い。
「キスしていい?」
どうしよう。キス……キスなんて、けんちゃんはしてくれなかったから……どうやってするんだっけ。
俯いたままの私の唇に、彼の唇が触れた。顎髭がチクチクする。
「なっちゃんの唇、柔らかいなあ」
彼はそう言って、今度はもっと、深くて、熱いキス。ああ、窓開いてる、カーテンもないし、外から見えたらどうしよう。
「好きになった」
背中に冷たい床を感じて、上には彼の熱い体を感じる。彼の手がTシャツの中に入って、唇が首筋に落ちてくる。
「だ、だめ、引っ越し屋さん、くるから……」
「くるまで」
「き、昨日は、帰ったじゃない」
「帰りたくなかったさ」
「じゃあ、なんで、なんでひとりにしたのよ」
「それは……酒入ってたし、お互い。酔ってるだけって、そう思われたらいやだったから」
彼はそう言って、もう一度、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「真面目なんだ」
「真面目だよ、俺。こんな見た目だけど、遊びで女を抱いたりしない」
「今は?」
「真面目だって。そうじゃなかったら、引っ越しの手伝いなんかこないよ」
「私のこと、本気ってこと?」
「ああ、本気。本気で好きになった」
「どこを? 昨日あったばかりなのに、どこを好きになるの? なにも知らないじゃない、私のこと。なにも知らないくせに、私のこと知らないのに、軽々しく好きとか言わないでよ! 私なんて……私なんて、ダメなのに……」
「ダメなんかじゃないよ、なっちゃん」
いつのまにか、泣いていたらしい。
「つらいこと、あったんだ」
彼は私の涙を拭いながら、優しい目で私を見てる。
「つらいことなんかない!」
絶対に、絶対に知られたくない。DVを受けてたなんて、絶対に!
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彼はゆっくり、私を起こして、乱れた髪を撫でてくれた。まだ、体に彼の匂いを感じる。
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どんな顔をすればいいのかわからなくて、とにかく、彼のそばから離れたかった。
洗面所でメイクをしていると、インターホンが鳴って、彼の声が応対してる。
「はいはい、よろしくー」
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