捨てられた花嫁はエリート御曹司の執愛に囚われる

冬野まゆ

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1巻

1-3

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 ――あの日、彼女が少しでも結婚を躊躇ためらっていたら、自分はどうするつもりだったのだろうか。
 自分の立場を考えれば、出向先の特定の社員と個人的な関係を持つなどあり得ないことだ。
 トウワ総合商社の創業家の直系で現会長の孫といっても、現在の社長は一族以外の者が務めている。祖父がかなりのワンマン経営者だったこともあり、創業家の者に再度経営権を握らせることに難色を示す者もいる。
 そんな中で創業家の自分が社長になるためには、それ相応の努力が求められた。
 だから何年も努力して社内で地位を築いてきたのに、女性問題で足をすくわれるなんて洒落にもならない。
 たとえ異性として奈々実に好意を持っていたとしても、それを表に出すことは命取りになると思っていた。
 だからこそ、退職する彼女の背中を「幸せになってくれ」と、願いを込めて見送ったのだ。

「ええっ酷い。可哀想」

 そう言って眉を寄せる千華の頬には、嬉しそうなえくぼができた。
 言葉と態度がチグハグな女性の相手をするのに疲れて、視線を逸らして聞き流す。
 自分の中で消化しきれずに沈澱ちんでんしていく感情が愛情に育ったのか、愛情があるからこそもどかしい思いを抱き続けていたのかは、今となってはわからない。
 ただ確実に、彼女に惹かれていく気持ちが抑えられなくなっていた。
 だから、彼女から結婚の報告を受けた時は、ショックを受けるより先に、この思いから解放されると安堵した。
 それでも奈々実が会社を辞める日、思わず飲みに誘ったのは、自分の中に未だ消し去れない未練があったからだろう。
 もしあの時、彼女が自分の手を取っていたら、理性を保てたかは自信がない……

「榎本さん、結婚して遠くに行っちゃったから、もう会うこともないですね」

 どこか嬉しそうに千華が言う。

「そうだな」

 どうしようもない喪失感と共に、これでよかったのだという思いがあった。
 それでも今日一日だけは、彼女を思って一人酒を飲むくらいは許してほしい。
 思いのほか未練がましい自分に呆れつつ、社長が戻って来るのを待つのだった。


     ◇ ◇ ◇


「ほんとだ。婚約破棄の慰謝料の相場って、二百万でもいい方なんだね」

 ベッドに寝転がり枕にあごを預けて通帳を眺めていた奈々実は、背後から聞こえてくる陽気な声にぐぬぬと唇を噛んで振り返った。
 見ればこの部屋のあるじであり、奈々実の従姉妹いとこでもある榎本智子ともこがコタツに座ってパソコンと向き合っている。
 子供服メーカーに勤める彼女は、本日はリモートで在宅勤務とのことだが、パソコンで検索しているのは仕事には関係ない記事らしい。

「慰謝料って、もっともらえるものかと思ってた」

 パソコンから視線を上げ、チラリとこちらを見て智子が言う。

「どうせ私の人生は、二百万ポッチの価値しかないわよ」

 子供の頃近所に住んでいた二歳上の智子は、従姉妹いとこというより姉に近い存在だ。だからつい、子供の時のようなねた口調になってしまう。
 突然の婚約破棄から半月と少し。部屋の契約が切れた奈々実は、都内で暮らす従姉妹いとこの部屋に居候いそうろうさせてもらっていた。
 仕事も住むところも結婚相手も失ってなお都内に留まっているのは、ひとえに婚約破棄に伴う諸々もろもろの後処理があったからだ。
 弁護士を交えての話し合いの結果、これまで結婚に向けて使ったお金――式場代や新居の敷金、礼金、新しく買った家具などの代金――は、全て弘が負担し、既に奈々実が負担していた分は返却すると同時に、慰謝料として現金二百万円が支払われることになった。

「二百万円って、仕事も住むところも失う人生の値段としては安いけど、ポンッと用意するにはなかなかの金額じゃない?」
「それでも急いで相手と縁を切りたければ、どうにか用意できるみたいだよ」

 本日、二百万円の慰謝料の振り込みを確認し、奈々実と弘の関係は完全に切れたことになる。
 こちらとの関係を綺麗さっぱり清算した弘は、全額負担することになった結婚式場を無駄にしないために、今日、くだんの彼女と挙式するのだという。
 ――結婚式って言っても簡素なものだったしね。

「これが私の人生の値段か……」

 通帳を眺めて奈々実が呟く。
 感情を揺さぶるような、強い愛情があったわけじゃない。だけど、結婚してもいいと思うくらいには好意があったし、人としても信頼していた。
 けれど向こうは、他に相手がいるのなら、あっさり奈々実を捨ててしまえるのだ。
 まるで、自分にはその程度の価値しかないと言われているようでショックだった。

「そのお金、どうするの?」

 通帳と見つめ合っている奈々実に智子がそっと尋ねてきた。
 奈々実は通帳の入金額で一つだけ桁の違う二百万という数字を凝視する。
 この数字を見て泣きたくなるのは、思いのほか自分が傷付いているからなのかもしれない。

「こんなことなら、身を焼くような激しい恋をしておけばよかった」

 恋をするなら身を焼くような激しい恋がしてみたい――あの日、そう話していた篤斗の声がよみがえる。

「なにそれ? 二百万の使い道になってないけど……」

 ぽろりと零れた奈々実の呟きに、智子は眉を寄せて「んでる」と付け足した。
 まあ、そのとおりなのだろう。今の自分の思考が相当にんでいるという自覚はある。
 この金額を見ていると、自分の選択の浅はかさを突き付けられているような気がしてくるのだ。

「……このお金、一度に全部、無意味なことに使いたい」

 通帳をにらんでいた奈々実が言う。
 このままいつまでも智子の世話になっているわけにはいかないので、婚約解消の手続きが終わった以上、地元に帰るなり、マンスリーマンションを借りて次の仕事を探すなりしなければならない。
 だが、一度気持ちをリセットし、前向きに切り替えるために、自分の浅はかさを表すこの二百万という金額を消してしまいたい。

「ホストクラブに行って、上等な男をはべらすのはどう?」
「なんでそうなるの。私がそんなところに行くように見える?」

 突拍子とっぴょうしもない提案に思わず智子をにらむと、彼女はパソコンから視線を上げることなく告げる。

「見えないよ。だからいいんじゃない。だって無意味なことにお金を使いたいんでしょ?」

 真剣な表情で画面を確認している様子から、仕事を始めたらしいとわかる。
 どうやら真面目な提案というわけではないようだ。それでも奈々実は、智子の言葉にふむと考え込む。
 恋愛に否定的な考えを持つ奈々実は、これまで大枚を叩いてまでホストクラブで疑似恋愛をしようとする人の気持ちが理解できなかった。
 でも今は、その提案を頭ごなしに否定する気にもならない。

「まあ、せっかくもらったんだし、急いで使い道を決める必要もないんじゃないかな」

 智子が一瞬だけこちらを見る。
 その視線に首をかしげると、智子が気まずそうな表情を見せた。

「今日もウチに泊まるよね?」

 もちろんと言いかけて、その言葉を呑み込む。
 奈々実にとっては、今日は婚約破棄の後始末が終わった日であり、結婚式を挙げる予定だった日でもある。
 しかし世間的には、今日はバレンタインデーだ。
 恋人のいる智子は彼と過ごしたいだろう。けれど、奈々実に気を遣って言い出せないのかもしれない。

「実は今日、前の会社の人と飲む約束をしているから、近くのビジネスホテルに泊まろうと思ってる」
「……?」

 唐突に予定があると言い出した奈々実に、智子が疑いの眼差しを向けてくる。

「婚約破棄に同情した元同僚が、可哀想だからおごってくれるって。さっきメッセージがきた」

 奈々実はそう言ってスマホを振る。
 もちろんそれは嘘だ。婚約破棄になったことさえ、元の職場の人には伝えていない。

「ホントに?」
「うん。今日が今日だし、とことん飲んでくる。で、飲んじゃうと私、タクシーに乗るのも面倒になるから適当に泊まってくるよ」

 ベッドから体を起こして胡坐あぐらをかいた奈々実は、下ろしていた髪をまとめて手首にめていたシュシュで軽く結い上げる。
 なにか行動を起こす前に髪を結い上げるのは、奈々実の癖だ。
 それを見ていた智子が、心配そうに言ってくる。

「飲むのはいいけど、酔って変な男にお持ち帰りされないよう気を付けてね」

 疑っているのか心配しているのか、智子が物言いたげな視線を向けてくる。

「逆に私が男をお持ち帰りするかもよ。ここでこうやって通帳を眺めていても、気が滅入めいるだけだから、ちょっと遊んでくる」

 冗談めかしてそう言った奈々実は、勢いよく立ち上がって出かける準備を始めた。

「そうだね。マジで金の力でイケメンをはべらせるっていうのもありかもよ」

 奈々実が準備を始めたことで、智子も表情をやわらげて軽口を返してくる。
 そんな智子の言葉に、奈々実も「それもいいかもね」と、軽口を返すのだった。



   2 一夜の価値


 ――私、一体なにやってるんだろう……
 先月、篤斗に連れてきてもらったバーのカウンターで、甘いカクテルをめるように飲む奈々実は、アルコールでぼやけた頭で自分の行動を思い返す。
 智子が気兼ねなく恋人と過ごせるようにと出かけたはいいが、もちろん元同僚と飲む予定などない。
 それならそれで、いっそ本当にホストクラブで散財してしまおうと思い、二百万円の現金を下ろしてお店に繰り出した。
 もちろん金に物を言わせて男性とどうこうなろうなんて、本気で考えてはいない。ただ弘が自分との関係を早々に清算しようとしたのだったら、こっちもこのお金を使い切ることで踏ん切りをつける。
 そう思ったのだが……

「ホストクラブって、予約がいるって知ってました?」

 一瞬目が合った若い方のバーテンダーに問いかけてみるが、相手は軽く微笑むだけで返事はない。
 もとより奈々実も、彼に明確な答えを求めているわけじゃない。こうして言葉を発することで、ちっとも思いどおりにならない自分の行動を噛みしめているだけなのだから。
 二百万の現金を手に、覚悟を決めてホストクラブなるものに出向いた奈々実だが、バレンタインデーのためか、インターネット検索で一番人気の店を選んだためか、店は予約客だけで満員御礼のため、他の系列店を紹介すると言われたのだ。
 不躾ぶしつけにこちらのふところ具合いを探る店員のびた態度が不快で、奈々実の勢いはそこで一気に冷めた。
 だからといって智子の部屋に戻るわけにもいかず、一人酒を飲みつつお金の別の使い道を考えているところだった。
 大金の入っているバッグを大事に抱えてグラスを傾ける奈々実は、難しい顔でため息を吐いた。
 ――あの日、遠矢さんの手を取っていたら、今と結果は違っていたのかな?
 酔った頭で、幾度となくそんなことを考えてしまう。
 恋愛に苦しむような人生は送りたくないと、彼の誘いに気付かないフリをした。なのに、気が付けばどこかでずっとそれを後悔している。
 もしお金で時間を巻き戻せるのなら、迷わずそうするのに。
 そんなせんない想像をしていると、店の扉が開く気配がした。
 何気なくそちらへ視線を向けると、肩を半分扉の外に残して硬直している男性と目が合った。
 遠目にも高級な仕立てとわかるコートをまとう彼は、らしくないほど表情を強張こわばらせて目を見開いている。
 カウンターの奥に座る奈々実とは距離があるはずなのに、彼の琥珀こはく色の瞳が揺れているのが見えた気がした。

「遠矢部長……」

 思わず慣れた呼び方をしてしまう奈々実の手から、グラスが滑り落ちる。
 次の瞬間、ガシャンッと不快な音が店内に響き、床にガラスが飛び散った。

「ご、ごめんなさい」

 グラスが割れた音に、奈々実は慌ててスツールを下りて床にしゃがみ込んだ。
 そのはずみで、抱えていたバッグが床に落ちる。

「お客様、私どもが片付けますから、危ないので触らないでください」

 年配のバーテンダーがそう声をかけ、若い方のバーテンダーが素早くほうきとちりとりを手にカウンターから出てくる。しかし、それより早く手を動かしていた奈々実は、左手の小指の先に走った鋭い痛みに驚き手を引いた。

「榎本!」

 指先にぷくりと血が盛り上がってくる。どうしようと思っていると、少し焦った声が自分の名前を呼んだ。
 その声に顔を上げると、いつの間にか目の前に移動していた篤斗が、しゃがみ込んで奈々実の手首を自分の唇へ引き寄せる。
 そうして篤斗は、血の盛り上がった奈々実の指先を躊躇ためらいもなく自分の口に含んだ。

「――ッ!」

 店に入ってきたばかりの彼の唇は、冬の外気で冷えていた。なのに、その口内はひどく熱い。
 思いがけない彼の行動に戸惑い、咄嗟とっさに腕を引こうとする。けれど、奈々実の手首を掴んだ彼の手が緩むことはなかった。
 戸惑う奈々実に構うことなく、篤斗は彼女の指先を強く吸い上げる。
 チリリと痛みを感じるほど強く指先を吸われ、奈々実はたましいまで吸い取られてしまうような錯覚に襲われ、その場にへたり込んだ。
 ほうきとちりとりを持って出てきた若いバーテンダーが、篤斗に未使用のおしぼりを差し出す。
 受け取ったおしぼりで一度口を押さえた篤斗は、改めて奈々実へ視線を向けた。

「よかった。ガラスの破片は入っていないようだ」

 ホッと安堵の息を漏らした篤斗が、奈々実に微笑みかけてくる。

「あ、ありがとうございます」

 先に立ち上がった篤斗が、脱力する奈々実の手を取り立ち上がらせてくれた。
 しかし立ち上がった後も、彼が奈々実の手を離す気配はない。
 彼はそのまま奈々実の腰と腕を引き寄せ、掃除の邪魔にならないように場所を移動する。
 ――これは……夢?
 自分は酔っ払って、夢でも見ているのだろうか?
 心臓が加速して息をするのが苦しい。
 彼の胸にぴたりと抱き寄せられて、頭がクラクラした。
 今にも脱力しそうな奈々実に気付いたのか、篤斗の腕に力が入る。
 そんなことをされると余計に緊張してしまうので悪循環だ。なのに、自分から彼の手を解くことはもうできなかった。

「君がどうしてここにいるんだ? 今日は結婚式じゃ……」

 ただひたすら混乱する奈々実を強く抱きしめ、篤斗が問いかけてくる。その言葉尻をにごしている様子からして、彼もこの再会に混乱しているようだ。
 存在を確かめるように強く抱擁ほうようされた。どうしようもなく息苦しいはずなのに、その息苦しさに身を任せていたくなる。

「えっと……色々あって、結婚は中止になりました。あ……でも式は、彼が今日、他の女性と挙げているはずです」

 酔った上に混乱している奈々実は、なにをどう答えたらいいかわからず、気付けば端的にそう説明していた。
 奈々実の言葉に驚いた篤斗が、傷ましげな表情を浮かべる。
 自分のために彼にそんな表情をさせてしまうのが申し訳なくて、奈々実が視線を落とすと、若いバーテンダーが置き直してくれた自分のバッグが目に留まった。
 バッグの端から二百万円の札が入っている銀行の紙袋が見える。

「よくわからないが、今、俺がお前にしてやれることはあるか?」

 こちらをいたわるような篤斗の言葉に、紙袋に意識がいっていた奈々実は、思わず「部長の愛情を二百万円分、私に売ってください」と口にしていた。

「どういうことだ?」

 戸惑う篤斗の声に、奈々実はハッと我に返る。
 自分の結婚が破談になったからといって、彼には今も婚約者がいるのだ。

「いえ……あの……じゃなくて、その……時間を……」

 冷静さを取り戻し、しどろもどろに言葉を修正する奈々実だが、酔った頭のどこかでは、それがとても名案のように思えて、発言の全てを取り消す気にはなれない。
 思えば、この店で二人だけの送別会をした日から、怒涛どとうの日々を送り、あれこれ悩むことにも疲れ果てていた。そんな奈々実にとって、これ以上のお金の使い道はもう思いつかない。

「大丈夫か?」

 息を詰めるようにして自分を見上げる奈々実に、篤斗が気遣わしげな眼差しを向けてくる。
 もちろん、大丈夫なわけがない。
 まだ血がにじむ指が痛いし、胸が苦しい。

「大丈夫じゃないです。だから、一晩……いえ、一時間だけでもいいから、部長の時間を私に売ってください。お金ならあります」

 覚悟を決めた奈々実は、勢いのままそう口にする。
 不毛な片思いが苦しくて、その思いを断ち切るために一歩を踏み出したというのに、自分は多くのものを失ってしまった。
 けれど篤斗と再会して、自分がなにを失って一番辛かったのか理解した。

「……」

 こんなに苦しくなるのなら、片思いでいいから彼の部下として働き続ければよかった。そうすれば、彼が会社を去るその日までは一緒にいられたのに。
 ――どうしようもなく、この人が好きだ。
 それが叶わない恋だとわかっていても、この気持ちはどうすることもできない。
 おそらくこの偶然の再会を逃せば、今度こそ二度と彼に会うことはないだろう。

「榎本、お前、相当酔ってるだろう」

 腕を解き距離を取った篤斗が、困り顔で聞く。
 そんな彼のスーツのすそを掴み、奈々実はだからどうしたと胸を張る。

「酔っていませんっ!」

 必死に首を振ると、その勢いで体がふらついてしまう。
 すかさず篤斗が奈々実の体を支え、やれやれと息を吐く。

「とりあえず、場所を変えて話そう」
「ホテルがいいです」

 即答する奈々実の言葉に、篤斗がひたいを押さえてフリーズする。
 しかしすぐに表情を取りつくろい、片付けを済ませたバーテンダーにグラスの弁償を含めた代金の支払いを申し出て、奈々実を連れて店を出た。


「とりあえず、ゆっくり話せる店を探したいところだが、今日は難しいか……」

 店を出た篤斗が、片手でスマートフォンを操作する。
 仕事も兼ねて様々な飲食店の情報を持っている彼は、冷静に操作しているように見えるが、動揺しているのかその指が店を選択する気配はない。
 どこか冷静さを欠いている様子の篤斗は、奈々実にいつもと違った印象を与える。
 普段は自分と別の世界に住む彼だが、今だけ、今だけは彼に触れることを許してほしい。
 奈々実は手を伸ばし、スマホを操作する篤斗の手首を掴んだ。

「……榎本?」

 不思議そうに視線を向けてくる篤斗に、奈々実は真顔でさっきの言葉を繰り返す。

「ホテルがいいです」

 見つめ合ったまま、互いの動きが止まる。
 数秒か数十秒か。思考をめぐらせていた篤斗が、もう一方の手で前髪を掻き上げながら、奈々実に視線を戻す。
 自分に向けられる彼の瞳に、今まで見たことのない野生的な熱を感じる。
 そのことに驚き、咄嗟とっさに腕を引いた。その腕を、素早く篤斗に掴まれる。

「その言葉の意味を、ちゃんと理解しているのか?」

 こちらの覚悟を探ってくる篤斗に、奈々実はこくりと唾を飲む。

「私は、部長を誘っているんです」

 そう宣言する奈々実のあごを、篤斗が持ち上げ唇を重ねてきた。
 裏路地とはいえ、時折人の行き交う場所で口付けをされて、奈々実の心臓が大きく跳ねる。
 それでも彼の腕を振り解くことはしなかった。
 それどころか自分から彼の腰に腕を回し、体を密着させる。

「……っ」

 重ねられた唇を彼の熱い舌で撫でられ、それに驚いた奈々実の唇が薄く開くと、篤斗はそのまま舌を口内へとねじ込んできた。
 歯列を撫でられ、強引に舌を絡めてくる激しい口付けに、あっという間に奈々実の呼吸が浅くなる。
 息が苦しい。けれど、その苦しみにもっとおぼれたくて、奈々実は自ら彼に舌を絡めた。
 そっと目を開けると、情熱的な篤斗の眼差しと目が合った。
 奈々実を見つめる篤斗は、自分の口付けにおぼれる奈々実の反応を確かめるように舌を動かしていく。
 キスで簡単に息を乱している自分はひどく恥ずかしい。なのに、彼の唇を求めることをやめられない。
 互いの息遣いを感じながら舌を絡め合っているうちに、へその裏側でうずく熱を感じる。
 脳がとろけて、なにも考えられなくなっていく。
 膝から崩れそうになる奈々実を、篤斗が腰に回した腕に力を込めて支える。どれだけキスをしていたのか、ようやく彼の唇が離れた。

「いいだろう。売った」
「部長……」
「俺は、もうお前の部長じゃない」

 指先で奈々実の唇を拭いながら、篤斗がささやく。

「それに男を誘うなら、名前で呼ぶものだ」
「篤斗……さん」

 躊躇ためらいつつも名前を呼ぶと、それでいいと軽い口付けを落とされる。そして奈々実は、彼に手を引かれるまま歩き出した。


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