傲慢王子は月夜に愛を囁く

冬野まゆ

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1巻

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 そのままパソコンに向き直ろうとする涼子に、佐倉が「あ、それと先輩」と、声をかけてくる。

「……?」

 珍しく謝ってくるのかと視線を戻すと、佐倉はウフッと、可愛く首をかしげて言った。

「柳原先輩も少しくらい遊んでおかないと、あっという間にオバサンになっちゃいますよ。もう半分、オバサンなんだから」
「……っ」
「うちのママは、先輩の年にはもう結婚してましたよ?」

 はあっ? と、眉を寄せる。そんな涼子の顔を見て、佐倉は嬉しそうに肩をすくめ、椅子をくるりと回して自分のデスクへと向き直った。

「急いでるなら、自分でやった方が早いのに」

 聞こえよがしなその呟きで、彼女の意図することは理解できる。
 入力を代わると言ってくれなかった涼子に対する抗議として、嫌味の一つでも言いたかったのだろう。
 確かに二十三歳の佐倉に比べれば、今年二十八歳の自分は若くない。だけどおばさん呼ばわりされる年齢ではないはずだし、結婚も年齢に追い立てられるようにしてするものではないはずだ。
 第一、佐倉に哀れまれるほど、寂しい休日を過ごしてはいない。
 特にこの夏は、いろいろと衝撃的な休暇を過ごさせていただいた。

「……」

 苛立ちと共に、忘れることにしたはずの悪夢がよみがえってきてしまう。
 神様に贔屓ひいきされているとしか思えないハイスペックな男は、その体躯もまた神様に贔屓ひいきされたものだった。年齢は三十代後半と寿々花から聞いた気がするが、背が高く引き締まった体は若々しく、少しも年齢を感じさせなかった。
 そこまで考えて、涼子は、自分がえらくしっかり剛志の体を観察していたことに気付く。

「……仕事しよ」

 疲れたように呟くと、涼子はデスクに向き直るのだった。


 剛志との記憶や佐倉の発言にイラつきながらも、その日の業務を終えて帰ろうとした涼子は、エレベーターを待つ人の中に佐倉の姿を見つけた。
 挨拶あいさつしようと近付くと、佐倉がスマホを頬に添えて電話している。

「初日から先輩に仕事の無茶ぶりされて、遅くなっちゃった。最悪っ」

 佐倉の言う先輩とは、涼子のことだろう。あれは無茶ぶりではなく、休み前に済ませておくよう頼んでおいた仕事を、彼女が放置していた結果にすぎない。
 一瞬、次のエレベーターを待とうかと思ったが、こちらが気を遣うことでもないのでそのまま並ぶことにした。
 ただ、これ以上不愉快な会話を聞かされたくはないので、素知らぬ顔で声をかける。

「お疲れさま」

 ビクッと肩を跳ねさせた佐倉が、気まずい表情で振り返った。

「ああ、柳原先輩……お疲れさまです」

 慌てて通話を切りぎこちなく笑みを向けてくる佐倉は、自分の話を聞かれていたかどうか視線でうかがってくる。涼子はそれを無視して、ちょうど到着したエレベーターに乗り込んだ。
 すると佐倉も、なにもなかったような表情で乗り込んで来た。
 通話は切ったようだが、今度はメールでもしているのか佐倉はスマホを操作し続けている。
 ――その勢いで仕事も片付けてくれればいいのに。
 内心で独りごちる涼子は、見るとはなしに佐倉に目をやる。
 佐倉ティアラ。その名前は、メルヘンが大好きな彼女の母親が付けたものだと、聞いてもいないのに本人から何度も聞かされている。
 ティアラのように光り輝くお姫様に育つようにと名付けられたそうだ。そして彼女は、母の期待にこたえるべく、王子様みたいな素敵な男性と物語のような恋をして、幸せな結婚生活を送るのが夢なのだとか……
 これまた一方的に語られる彼女のライフプランに、「ティアラはお姫様を引き立てる装飾品に過ぎないぞ」と、ツッコむのはさすがに大人げないのでやめておいた。
 夢を見るのはいいけど、人の話を聞いてくれないのはなんとかしていただきたい。
 困ったものだと軽く首を回した涼子は、エレベーターを降りてオフィスのビルを出る。

「……?」

 そのまま駅へ向かおうとしたが、何故か会社の前に人だかりができていて気になった。
 比率としては、女性の方が多いだろうか。多くの社員が集まり、遠巻きになにかを見ている。
 好き好きに言葉を交わす社員たちの明るい表情から、重大な事故や喧嘩ではないようだ。そうなると、涼子の野次馬根性も働いてしまう。
 ヒョイッと首を傾け人垣の隙間から様子をうかがった涼子は、次の瞬間、眉根を寄せて頬を引きらせた。
 すぐ側で誰かが「カッコイイ」と、夢見心地な声を漏らしている。
 その声に視線を向ければ、所属部署は違うがなんとなく見覚えがある女性社員が、手を組み合わせてうっとりとした顔をしていた。

「――っ!」

 女性社員の言葉に驚きつつ、涼子はもう一度、周囲の人々の視線が集まる先を確認する。
 会社の正面玄関前に停められた一台の高級外車。その車に背の高い男性がもたれかかっているのが見えた。
 遠目にも粋なデザインのスーツを着ているのがわかり、それが彼のモデルばりのスタイルの良さを際立たせている。
 ――芦田谷剛志……何故アイツがここに⁉
 人に見られることに慣れているのか、無駄に心臓が頑丈なのか。剛志は周囲の視線を一身に受けながらも、涼しい顔で髪を掻き上げる。
 その何気ない仕草だけで、周囲が色めきたつのだから腹立たしい。
 あけぼのエネルギーの重役様が、こんなところでポーズを決めている理由はわからないが、彼が偶然ここにいるということはないだろう。
 だとすれば、先日のことでなにか話があるのかもしれないが、関わらないのが得策だと本能が警告している。
 涼子は腰をかがめると、人混みに紛れてここから立ち去ることに決めた。
 しかし、そんな涼子の思いに気付くことなく、佐倉が隣ではしゃいだ声を上げる。

「柳原先輩、あの人、すごく格好良くないですか? 格好いい彼氏のお迎えとかって、憧れますよね。……柳原先輩、聞いてます?」

 ――ちょっ、バカッ!
 涼子は腰をかがめたまま、人差し指を唇に添えて静かにするよう合図する。普通ならそれで黙ってくれそうなものなのだけど、ここで察してくれないのが佐倉ティアラだ。

「柳原先輩、なんで腰をかがめているんですか? お腹痛いんですか?」

 きゃぴきゃぴした声がうるさい。こんなに苗字を連呼されて、アイツに気付かれたらどうしてくれる。
 必死に唇に人差し指を添えて「黙って」と合図するのだけど、それを見た佐倉は、涼子を真似て人差し指を唇に添える。そしてその指を、ゆっくり頬に移動させて軽く首をかしげた。
 甘い色のネイルにいろどられた指が、柔らかな頬に沈む。

「……」

 異性受けはいいだろうけど、この状況でされてもただイラつくだけだ。
 もう無視して帰った方が早いかも……そう思った次の瞬間、佐倉が大袈裟おおげさに目を見開いた。それと同時に、中腰になっていた涼子の腰に手が回され、体がふわりと浮かんだ。

「キャァッ」

 不意の浮遊感に驚く涼子が小さく悲鳴を上げる。その背中は、すぐに誰かの体に受け止められた。
 こちらを見つめる佐倉は、口をあんぐりと開けポカンとした表情をしている。
 背中に感じるたくましい胸板や上品なトワレの香りに、嫌な予感しかしない。そしてそれを証明するように、耳元で低くつやのある男性の声がした。

「俺をここまで待たせる女は、滅多にいないぞ」
「……ま……待ち合わせた覚えはないです」

 声を絞り出した涼子に、剛志は彼女の腰に手を回したまま言い返す。

「電話をすると、君は怒るじゃないか」

 目を細め甘い声で告げた剛志が、ニヤリと微笑む。
 その表情を見れば、彼が周囲の反応を楽しんでいるのだとわかる。
 頬をヒクヒクと痙攣けいれんさせる涼子に、剛志が悪戯いたずらを楽しむ少年のような表情で言った。

「話の続きは、場所を変えてしようじゃないか」
「なんでっ!」

 語気を強めて腕を払うと、剛志と向き合う姿勢になった。
 するとどうしても、彼の特徴的なとび色の瞳を見つめる形となってしまう。
 その瞳に気を取られているうちに、剛志が涼子の耳元に顔を寄せてささやく。

「この間のこと、ここで話してもいいのか?」
「……ッ」

 その言葉に涼子が頬を引きらせると、弱みを見つけたと言わんばかりに嬉しそうに口角を上げた。意地悪さを含んだつややかな笑みを浮かべた剛志が、顔を寄せたまま低い声でささやく。

「俺の誘いに乗った方が、メリットは多いぞ」

 悪魔のようなささやきに、肌がぞわりとあわつ。
 感情に任せて爪先を踏み付けてやりたい衝動に駆られるけれど、チラリと視線を向けると佐倉がとろけるような表情で剛志を見ているのに気付く。
 下手へたに抵抗して、彼女の前で不用意な発言をされたらことだ。

「……わかりました」

 がっくりと項垂うなだれた涼子は、剛志に誘導されるまま見るからに高そうな彼の車に乗り込む結果となった。


「恥ずかしくて、明日から会社に行けない」

 さっきは呆気に取られ、ポカンとした表情で自分たちを見送った佐倉も、明日には正気を取り戻し、涼子を質問攻めにしてくることだろう。

「それは悪かった。よければ、別の職場を紹介するが?」

 助手席に座り両手で顔をおおっていた涼子は、運転席の男をにらんだ。
 ハンドルを握る剛志は、こちらを見ることなく軽い口調で問いかけてくる。

「どの企業がいい?」

 この男の場合、その台詞せりふを冗談で終わらせない力があるだけにたちが悪い。
 もし涼子がどこかの企業の名前を出せば、本当に転職の段取りを付けてくるのだろう。

「……用があるのなら、まず電話をしてください」
「前に電話をしたら、ストーカー呼ばわりしてきたじゃないか。幸い勤務先は承知していたから、ああして会社の前で待たせてもらうことにしたんだ。これで自宅の前で待てば、またストーカーだなんだと騒いだだろう?」

 確かに彼の妹の寿々花と自分は、同じクニハラの社員だ。
 ただし都内だけでもクニハラの関連施設は複数あり、寿々花は郊外にある技術開発室に勤務していて、本社の品質保証部に勤務する涼子とは別だが。それを知っていて本社の前で待っていたのなら、ストーカー気質は健在らしい。
 ――大体今の言い方だと、私の家の場所も知っているということでは……

「会社や家の前で待ち伏せするくらいなら、今度から用がある時は電話にしてください。それと、あの日のことは、絶対に秘密にしてください」

 その約束だけは取り付けておきたい。

「それが、人にものを頼む時の態度か? まずは、俺の話に耳を傾けるべきでは?」

 怖い顔をしてにらむ涼子に、剛志が挑発的な発言をする。
 その表情を見る限り、涼子の反応を楽しんでいるようだ。
 苛立ちで唇が波打つように震えてしまう。
 この男のことはもとより苦手だし、寿々花の兄でなければ、言葉を交わすこともないような相手だ。
 大企業の重役様と、言葉遊びのようなやり取りをしていてもらちが明かない。それなら、さっさと話を済ませた方がいい。

「では、ご用件は?」

 涼子が仏頂面ぶっちょうづらうながすと、剛志が涼しい顔で返してくる。

「せっかくだ。ゆっくり食事を取りながら話そう」
「なんで?」
「君とゆっくり話したいから」
胡散うさん臭いです」

 剛志と二人で食事をするなんて冗談じゃない。その不満を露骨に顔に出す涼子に、剛志が愉快そうに喉を鳴らす。
 そして意地悪な笑みを浮かべて確認してくる。

「今日のお迎えがご不満とあれば、明日、改めて最初からやり直してやるが?」
「最初……」
「今日のあれで物足りないのなら、明日は花束でもつけようか」

 それは、また会社の前で待ち伏せされるという意味だろうか。

「どうする?」

 剛志は、涼子を横目でうかがってくる。その口元は、どこかニヤついている。
 ――これはもうおどしだ。
 もしかしたら、剛志が会社の前で涼子を待ち伏せしていたのは、涼子に心理的プレッシャーをかけて、自分の望むとおりの返答を引き出すためだったのかもしれない。
 相手の手のひらの上で転がされるまま、剛志と食事をするなんて冗談じゃない。そうは思うのだけど、それをくつがえす方法が見つからなかった。

「ご馳走になります」

 苦々しい顔で涼子が返すと、剛志がそれでいいと言いたげに頷いた。
 顔の構造としては友人の寿々花とよく似て美しいけど、傲慢さを隠さない強気な表情のせいで、寿々花とは似て非なる印象をかもし出している。
 ――傲慢でオレ様気質の王子様。
 涼子は、心の中でそう相手を断じて、運転席の剛志から視線を逸らした。
 しかし、徐々に暗くなっていく助手席の窓に剛志の顔が映っているので、あまり意味はない。
 そのことにため息を漏らし、涼子は彼と電話で言葉を交わした日のことを思い出す。
 あけぼのエネルギーの令嬢である友人の寿々花に、過保護で面倒くさい父親と二人の兄がいることは、本人から聞かされていた。
 寿々花のおまけで参加するパーティーなどで、それなりに面識はあったが、これといった会話を交わした記憶はない。
 そんな相手から突然電話がかかってきたのは、今年の夏の初め頃。
 見知らぬ番号からの深夜の電話を不審に思いつつ出ると、それが剛志だった。
 最初、寿々花の行方ゆくえを心配する剛志の口調や芦田谷という家柄から、誘拐の心配をした。だけど話を聞くうちにわかったのは、人と会うから夕食はいらないと言って出かけた寿々花が門限を過ぎても戻らない、ということだった。
 しかも最近は、しばしばその友人と食事を取ることが続いていたという。
 カレンダーを見れば、その日は金曜日。
 寿々花は涼子より年上だし、聞けば門限は二十三時だという……
 あほか――それが、状況を理解した涼子の感想だった。
 最初は本気で心配していただけに、いい年をした娘が門限を一時間程度過ぎただけで大騒ぎしている芦田谷家の面々に心底呆れてしまった。
 誰かに会うことをほのめかしていた年頃の娘が、門限を破る。それが意味することなど、少し考えればわかるはず。
 デートでもしていて、相手と別れがたくて帰るのが遅くなっているだけだ。
 それを涼子がやんわり伝えると、剛志から「君の価値観で語られては困る」と、不機嫌に返された。夜中に突然電話してきてその言い様。よく考えたら、教えてもいない自分の番号を知っていることにも納得がいかない。
 以前寿々花が、面倒くさい家族が迷惑をかけそうだからと、恋愛を諦めるようなことを言っていたのを思い出した。それでつい、勢いで「そうやってストーカー気質に捜し回る家族が嫌で、家出したんじゃないですか?」という嫌味から始まり、いろいろ説教してしまったのだ。
 それから一ヶ月ほど経った先日のパーティーで、顔を合わせた剛志に「私の言ったことが正しかった」という意味を込めて、あっかんべーをしたのは気分がよかった。
 よかったのだけど、ご機嫌な気分で美味おいしいお酒を飲んだ後の記憶が曖昧あいまいで、気が付けばあの状況におちいっていたのだ。
 そんな剛志と、何故か食事をする羽目になっている。
 ――酒は飲んでも飲まれるな。
 あの日以来、何度も繰り返している言葉を胸に、涼子はついでに「芦田谷剛志のペースに呑まれるな」と心に刻んでおいた。


 仲居の案内を受け、剛志は堂々とした態度でひのきの廊下を歩いていく。
 その後に続く涼子は、足下を照らす間接照明の柔らかな明かりに視線を落とした。
 廊下全体の照明は控え目で、視線は自然とほのかに明るい足下へと向く。そうやって足元へ視線を誘導されることにより、他の客とすれ違った際に互いの顔を認識しづらくしているのだろう。
 だが、そうした視覚効果はあくまでも保険であり、座敷に案内する時にも細心の注意が払われているに違いない。なにしろ剛志が、客のプライバシーを極度に重んじている店と言うくらいなのだから、人とすれ違うこと自体がまずなさそうだ。

「こちらです」

 そっと床に膝をついた仲居がふすまを開けた。
 そこで一度動きを止めた剛志が、涼子を振り返り挑発的に口の端で笑う。

「取って喰われるとでも思っているのか? 美味うまいものを食わせてやるから、そんな難しい顔をするな」

 剛志の台詞せりふに、仲居が控え目に微笑む。気まずさに眉間みけんに寄っていたしわを撫でると、剛志から「そもそも俺はグルメだ」と付け足され、さらに深いしわが寄った。
 そんな涼子の表情を見て、剛志が楽しげに目を細めて部屋へと入っていく。
 ムスッとしつつそれに続くと、剛志は下座に腰を下ろし涼子に上座を譲ってきた。
 いろいろムカつく相手なので、遠慮なく上座に腰を下ろす。
 フンッと鼻息荒く居住まいを正す涼子に、くつろいだ様子の剛志がお品書きへと視線を向けて言った。

「料理はお任せで頼んであるが、他に気になる品があったら好きに注文してくれ。酒も好みのものを選んでいい」

 腹いせに高いものを頼んだところで、この男の財布にはまったく響かないのは承知している。この前、涼子のために用意してくれた着替えの品々でさえ、彼にとってはたいしたことではなかったのだろうから。
 それでも好奇心からお品書きに視線を向けた涼子は、次の瞬間、パッと顔を上げた。

「ホントに、好きに選んでいいんですか?」

 突然キラキラと目を輝かせる涼子に、剛志がわずかに背中をらす。それに構わず、涼子は重ねて確認した。

「お酒、好きに頼んでいいんですか?」

 それを聞き、納得した様子で剛志は頷く。

「希望があれば、そこに載っていない秘蔵の品も用意させるが?」

 その言葉に、涼子の目がさらに輝き、普段なら彼に向けることのない笑顔まで添えてしまう。
 だが次の瞬間ハタと表情を改め、口元を手でおおってうなる。

「誓ったばかりなのに」

 独り言のつもりが、剛志の顔に皮肉な笑みが浮かんだ。

「学習能力は高いようだ」

 思わずなにか言い返そうとするが、剛志が「よかったよ」と呟き、仲居にある酒の銘柄を告げた。それは年間生産量が恐ろしく少ない、酒好きの間で幻の一品とささやかれている品だった。
 そんな簡単にお目にかかれる品ではないと思いつつ、剛志が口にするのだからと期待を抱いてしまう。無意識に手を組み合わせる涼子の前で、仲居が頷いた。その姿に、涼子の中から不満の言葉が吹き飛んでいく。
 そんな涼子の表情を見ていた剛志が、したり顔でたしなめてきた。

「酒好きは構わんが、量より質を楽しむべきだ」

 仲居の目もあるので、さすがに「質と量、両方楽しみたいんです」とは口にしないでおく。

「お気に召す品があってなにより」

 仲居がふすまを閉めると、剛志がそっと笑う。
 その笑い方に、よからぬたくらみが見え隠れして得体の知れない不安を感じた。

「あの……お話というのは?」

 背筋を伸ばし確認する涼子に、剛志が笑みを深める。

「まあ急ぐな。話は酒を楽しんでからでいいだろ。あれこれ考えながら飲んだら、幻の酒の味が落ちるだけだぞ」
「話が気になって、お酒の味を楽しめません」
「話の内容によっては、目の前の酒を諦めて帰るのか? どのみち飲むなら、話は後にしてもいいんじゃないか?」

 ――悪魔のささやきだ。
 そしてこの美酒は、値段以上に高くつきそうな気がする。
 そうは思うのだが、幻の酒を目の前にちらつかされた状態で、それでは……と席を立つ気にはなれなかった。黙り込む涼子に、剛志が駄目押しのように付け足してくる。

「焼酎もいけるクチなら、薩摩焼酎のレアものをキープしているから、それも試すといい」

 銘柄を告げられた涼子の喉が、無意識にゴクリと鳴る。
 それを見逃さず、剛志は「ゆっくり楽しむといい」と、勝者の笑みを浮かべるのだった。


 ――さすが天下のあけぼのエネルギー。
 最初に運ばれてきたお通しと、一杯目の酒を味わった涼子はしみじみとそれを感じた。
 以前からの持論として、酒は生き物なので最適な状態のものを最高の環境でいただくことで、味わいはさらに良くなると考えていた。
 ここの料理と酒を味わえば、その持論が正しかったのだと実感できる。

「ご満足いただけた様子で」

 日本酒から剛志がボトルごと下ろしてくれた焼酎のロックに切り替え、それを堪能していた涼子に剛志が言う。
 酒と料理のかもし出す調和にすっかり心奪われていた涼子は、そこで剛志と食事をしていたことを思い出した。

「で、ご用件は?」

 涼子は表情を改めて、再び剛志へ話の内容を問う。

「そんな怖い顔をするな。せっかくいい表情をしていたんだから、そのまま酒を味わっていればいいだろう」

 今日は車だからとお茶を飲んでいる剛志は、胡坐あぐらをかき頬杖をついている。ベストは着ているが、ジャケットを脱いでネクタイを緩めた彼からは、随分とくつろいだ雰囲気がただよう。
 ――なんか、無駄に色気があふれている。
 もしここに佐倉がいれば、王子様のつやっぽい姿に興奮してテンションを上げまくり、卒倒したかもしれない。でも自分はこの男の色気に惑わされたりしないと、半眼になった涼子は、さっきと同じ台詞せりふを繰り返す。

「それで、ご用件は?」

 冷めた表情で問いかける涼子に、剛志はつまらないと言いたげな表情を浮かべた。
 だがすぐに、なにかたくらんでいそうな悪い笑みを浮かべると、軽く腰を浮かせて腕を伸ばす。そして、からになっていた涼子のグラスに惜しみなく焼酎をいだ。
 グラスからあふれそうな酒を見て、ついそれを口へと運んでしまう。

美味うまい酒と料理は好きだろう?」
「まあ……」

 さすがに否定しようがない。渋々といった顔で頷く涼子に、剛志がしたり顔で頷く。そんな彼の口の端に、悪巧みの匂いがただよっているのを涼子は見逃さない。

「では、それを堪能しながら、俺に口説くどかれてみないか?」
「はいっ?」

 あまりに突拍子とっぴょうしもない発言に、手にしていたグラスを落としそうになってしまう。
 それを慌てて持ち直した涼子は、勢いのまま焼酎をあおる。
 氷がグラスの中で揺れて、カランと涼やかな音を鳴らした。

「冗談はやめてください」
「本気だ」

 白々しいと、涼子は目を細めて彼をにらんだ。男性的な長い指で自分のあごのラインを撫でる剛志の表情は、とても真面目に話しているとは思えない。

「貴方と付き合うなんて、あり得ないです」
「それは、俺としてもあり得ない話だ」

 涼子の言葉に、剛志が楽しげに笑う。
 ――飲んでもいないのに、酔っているのだろうか。
 意味がわからないと涼子が眉根を寄せる。でもあごに指を添えたままの剛志の表情を見れば、わざと戸惑わせるような言い回しをしているのだと気付く。

「からかうのはやめてください」

 涼子が冷めた声で言うと、剛志はつまらなそうに肩をすくめて居住まいを正す。

「この前のパーティーで、妹が婚約発表をしたのは見ていたな?」
「ええ、まあ……」


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