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1巻
1-3
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――だからって、いつまでもそれが通用すると思っているなら大間違いよ。
わざわざこの場所に来たのだから、他にもなにか目的があるのかもしれないが、いい迷惑だ。
――この手はあまり使いたくないんだけど……
大切な友人の結婚式で、これ以上朱音に空気を悪くされるよりよっぽどいい。そう結論付けた寿々花は、彼女に顔を寄せた。
「もしかして貴女、本気で芦田谷家と喧嘩をしたいのかしら?」
「――っ」
その一言で、朱音の顔が強張る。
微かに体を後ろに引いた朱音の目をまっすぐ見据え、自分がその気になれば、ただの脅しでは済まないのだと暗に告げる。
自分の家が政財界でどのくらいの影響力を持つかは承知している。
学生の頃ならいざ知らず、朱音にもその言葉の意味するところはわかったはずだ。
「……っ」
顔色を失った朱音は、悔しげに唇を噛みその場を離れていった。
本来なら謝罪を求めたいところだが、これ以上彼女と言葉を交わすのも面倒なのでそのまま見送る。そんな寿々花の脇腹を、比奈がつついてきた。
「私のせいで、嫌なこと言わせてごめんなさい」
寿々花が家の名前を使うのを嫌っていることを知っている比奈が、申し訳なさそうに肩を落とす。その姿に、先ほどの尚樹を思い出した。
彼の謝罪に何故か心が和んだのは、たぶん比奈のようだと思ったからだろう。
「貴女の後ろ盾になりたいと申し出たのは、私の方よ。こういう時のために、私がいるの」
これくらいたいしたことないと笑顔で返し、レストランの中を見渡す。すると、自分に向けて視線で礼を言う昂也と目が合った。でもその隣に、尚樹の姿はない。
「……」
何気なく首を動かし、尚樹の姿を探してしまう。
だけどすぐに、自分らしくないと思い至り、彼を探すのをやめた。
2 再会
比奈と昂也の結婚式から十日後。
技術開発室でデータの確認をしていた寿々花は、先輩の松岡晃に声をかけられ顔を上げた。
目が合うと、何故か松岡が驚いた様子で後ずさる。
自分から話しかけておきながら、寿々花が反応する度過剰に驚くのは、もはや彼の癖のようなものなので気にしないことにしている。
「来客。応接室に、本社から」
寿々花が籍を置く技術開発部は、クニハラの本社から少し離れた郊外にある。そのため、本社から来客があるのは珍しくなかった。
打ち合わせの場合、会議室で話をするのが常だが、今日は違うらしい。
松岡にお礼を言い、席を立つ。
その背中に、松岡が「専務だから」と、追加情報を伝えてくる。
「専務……」
それは少し珍しい。
専務の昂也は忙しい人なので、よほどのことがない限りここを訪れることはない。
悪い知らせでありませんように、と祈りながら寿々花は足早に応接室へ向かった。
「失礼します」
ドアをノックして中に入ると、昂也が悪戯っぽい表情を見せる。
「やあ、柳原さん」
「えっ?」
昂也の言葉に小さく目を見開くのは、技術開発部の責任者である江口良和だ。
「冗談だ。この前は、式に出席してくれてありがとう、芦田谷君」
驚く江口を尻目に、昂也が涼しい顔で言う。
「いえ。その節は、失礼いたしました」
頭を下げつつ、勧められるままソファーに腰掛ける。
そんな寿々花を見てくすりと笑った昂也だったが、すぐに表情を改めて仕事の話を始めた。
「他社との自動運転システムの共同開発ですか」
話を最後まで聞いた寿々花が、思わずといったように言葉を漏らす。それに、昂也が深く頷いた。
「そうだ。まだ調整をしている段階なので内密にして欲しいのだが、レベル5の自動運転システムを構築するために、AI開発のノウハウに長けた他社との連携を考えたい」
世界的自動車メーカーであるクニハラ。その国内商品に搭載されている自動運転システムは、現在レベル2。部分的に運転を自動化しているレベルだ。
運転を完全自動化するレベル5のシステムも、限定的な条件下でのテスト走行までは進んでいるが、実用化に辿り着くまでにはまだまだ課題も多い。
自動運転において、AIに求められるものは大きい。様々な状況に応じた空間把握能力はもちろん、アクシデントへの適切な対処法や咄嗟の判断能力も必要になってくる。そして、それだけの処理をAIに任せる以上、ハッキング対策などセキュリティの強化も欠かせない。
人の命を預かるのだから、念には念を入れて取り組む覚悟が必要だ。
今までも、必要に応じてアドバイザー契約をしている有識者に意見を求めてきたが、AI開発がより一層重要視されるこれからは、専門の企業と二人三脚でシステム開発にあたっていくのだという。
現在、業務提携先として、SANGIというIT企業が内定しているそうだ。
「まだ交渉中で、SANGIで決定というわけじゃない。そこで、正式な契約を結ぶ前に、一度相手側の担当者や社長を交えた食事会を開くつもりだ。そこで、今後の方針や互いの希望を摺り合わせたいと考えている」
「はあ……」
それが自分とどう関係しているのだろうと首をかしげる寿々花に、昂也が告げる。
「このプロジェクトは、芦田谷君に陣頭指揮を執ってもらう予定だ。だから、君にもその食事会に同伴してもらい、先方の技術力のほどを判断して欲しい」
突然のことに戸惑い、寿々花は隣に座る江口の顔色を窺う。どうやら、既に昂也との話し合いは済んでいるらしく、冷静な表情で寿々花の回答を待っている。
責任の重さを感じながら、寿々花は昂也と江口がいいのならと承諾した。そんな彼女に、昂也はSANGIの技術者と、過去に手掛けたプロジェクトに関する資料を渡し、食事会の場所と時間を告げた。
話を終えた昂也を車まで送ることになった寿々花は、二人きりになったタイミングで彼の友人に名前を偽ったことを詫びた。
「まあ、わからなくもないよ。芦田谷は重い名前だ。油断すると、君個人の私生活を侵食してくるからな」
昂也の言葉に、寿々花はそっと視線を落とす。
「國原さんは、自分の生まれを窮屈に思ったことはないんですか?」
寿々花が抱える息苦しさを、昂也も感じたりするのだろうか。
昂也は軽く肩をすくめてみせる。
「そのように生まれてしまったからな。家族にも会社にも愛着があるから、手放すわけにはいかない。君も芦田谷の人間であることをやめられないのなら、自分なりに上手く折り合いを付けていくしかないんだよ」
そう言って、昂也はそっと笑う。だが、すぐに真面目な顔で付け足した。
「俺は常々、部下には『面倒事から逃げるな。面倒だからといって問題を先送りにすると、大抵事態は悪化する』と教えている。そのことを忘れないように」
咄嗟に名前を偽ったところで、寿々花が芦田谷家の人間である事実は変わらない。その事実から目を逸らしても、なんの解決にもならないと言いたいのだろう。
「わかってます」
あの時はいろいろとタイミングが悪くて、本当の名前を言い出せなくなってしまったのだ。
それでも嘘はよくなかったと反省する寿々花に、昂也が意味ありげに笑った。
「まあ、嘘の代償は、近いうちに支払うことになるよ」
その意味を問う前に、車に辿り着いてしまった。
運転手が恭しく頭を下げ、彼のために後部座席のドアを開ける。それに応える昂也の顔は、気さくな友人の夫ではなく、大企業の重役の顔をしていた。
「では、食事会は頼むよ」
そう言い残し、昂也は去って行った。
◇ ◇ ◇
食事会は、その週の金曜日に開かれることになった。
当日、事情を知る江口に定時であがらせてもらった寿々花は、待ち合わせ場所へと向かう。
「まだ誰も来てないのかな?」
都内にあるホテルのラウンジに着いた寿々花は、周囲を見渡し見知った顔がいないことを確認すると、入り口から見えやすい席を選んで腰を下ろす。
約束の時間まで三十分ほどあるので、寿々花はタブレットを出して読書を始めた。
読書といっても、寿々花が読むのはたいてい数学の論文だ。
若い研究者の論文は、拙い部分もあるが発想が柔軟で面白い。暇つぶしにはちょうどいいと読み始めた寿々花は、いつしか論文に集中してしまっていたらしい。
ふと時間が気になって顔を上げた次の瞬間、大きく背中を仰け反らせる。
「――っ!」
いつの間にか、自分の席と通路を挟んだ向かいのソファーに、見知った顔が座っていた。しかも相手は、ソファーの肘掛けに頬杖をつき、じっと自分を眺めているではないか。
「熱心だな」
「……鷹尾さん」
ゆっくりと立ち上がった尚樹は、薄い笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってくる。そのしなやかな足取りは、まるで獲物を前にしたネコ科の大型獣を思わせた。
今日の尚樹の装いは、先日に比べると華やかさは控えめだ。しかし、質のよいビジネススーツを優雅に着こなす彼には、強烈な存在感がある。
――まさか、こんなところで会うなんて……
もう二度と会うことはないだろうと思っていたのに。
「また会ったな」
気まずさから愛想よく微笑む寿々花の向かいに、尚樹がドスッと腰を下ろす。
「あの……、私は人と待ち合わせをしているんですけど」
「俺もだ」
長い手足を持て余すように股を広げて座る尚樹は、寿々花がテーブルの上に置いたタブレットを手に取る。
「あっ」
タブレットを奪われて戸惑う寿々花に構うことなく、尚樹は画面をスクロールさせる。
そしてそこに書かれている内容を確認して、不思議そうな眼差しを寿々花に向けてきた。
「なんだ……随分いい顔で読みふけっているから、恋人からのメールか、恋愛小説かと思ったのに。それ数学の論文だろ? しかも英文」
つまらないといった表情で、尚樹がタブレットを返してきた。
「恋人はいませんし、恋愛小説なんて疲れるものも読みません」
思わず不満げな表情で言い返し、寿々花はタブレットを受け取る。
「疲れる?」
「恋愛小説には、駆け引きや嫉妬心のような疲れる内容が多いので」
その点数学は、駆け引きも裏切りもなく、ただ純粋な問いと解答があるだけだ。
もっとも誰かが和訳してくれるのなら、寿々花だって日本語の方が楽だとは思う。
「純粋だな」
尚樹の呟きに、寿々花の眉がピクリと跳ねる。
「子供扱いしないでください」
「そんなつもりはないよ。恋愛小説を読んで疲れるのは、それだけ感情移入しているってことだ。きっと君は、実在しない物語の登場人物のために泣いたり喜んだりするんだろう? その感情の柔軟さを褒めただけだ」
不機嫌さを隠さず食ってかかった寿々花を、尚樹が優しく諭す。しかしすぐに、からかうように付け足した。
「ただし、純粋と言われて腹を立てるのは、いささか子供っぽいと思うが」
「……」
なんともいえない表情を浮かべる寿々花の顔を、肘掛けに頬杖をついて尚樹が観察してくる。
その表情が、余裕綽々といった感じで面白くない。でもここでなにか言い返したら、また子供っぽいと言われてしまう気がした。
――この人といると、上手く自分を保てない。
寿々花は、心の中でため息を漏らす。
「申し訳ないのですけど、仕事の待ち合わせをしていますので……」
だから貴方と話している暇はありませんと、そつのない笑みを添えて伝える。すると尚樹が「奇遇だな」と返した。
「俺も、ビジネスの話をするためにここに来た」
「……」
その瞬間、寿々花は息を呑んだ。
先日、昂也は「嘘の代償は、近いうちに支払うことになる」と話していた。
そして、昂也に指示された待ち合わせ場所に、ビジネスの話をするために来たと言って尚樹が現れたのだ。
嫌な予感に頬を強張らせる寿々花を見て、尚樹が目を細める。
「この前、クニハラの社員とは聞いていたけど、今日の同伴者が君だとは思わなかったよ」
尚樹の言葉に、体からどんどん血の気が引いていく。そんな寿々花に、尚樹が右手を差し出してきた。
「改めまして柳原寿々花さん。SANGIの社長をさせてもらっている鷹尾尚樹だ」
あまりの展開に、目眩を覚える。
神様に、嘘をついたお仕置きを受けた気分だ。
「あの、実は……」
さすがにこれ以上嘘をつき続けているわけにはいかない。そう覚悟を決めた時、こちらへ近付いてくる人の気配を感じて言葉を止めた。
「申し訳ない。待たせたな」
爽やかな口調で昂也が挨拶してくる。寿々花は立ち上がりつつ、あまりのタイミングの悪さに頭を抱えたくなった。
そんな寿々花の胸の内に気付く様子もなく、同じように立ち上がった尚樹が鷹揚に笑う。
「俺と柳原さんが、早すぎただけだ」
「やな……」
尚樹の言葉に、昂也がもの言いたげな視線を向けてくる。寿々花は視線を逸らしながら、心の中で「すみません。ちゃんと本当のことを話そうと思っていたんです」と言い訳した。
「奧さんは?」
尚樹に問いかけられ、小さくため息を吐いた昂也は、寿々花の名前の件に触れることなく尚樹へと視線を向けた。
「別件を任せている。とりあえず、お前のところの社員が来たら、場所を変えるとするか」
そう話す昂也が空いていたソファーに腰掛けようとすると、尚樹がそれを制した。
「ウチの社員は、俺が帰らせた」
さらには、昂也に向かって「ついでに、お前も帰っていいぞ」と、虫を払うようにシッシッと手を動かす。
「おい、帰っていいって……」
昂也が困惑した表情を見せる。
「相手が柳原さんなら、初対面というわけでもないし、ウチのことなら大抵は俺が説明できる。どのみち、今後は柳原さんと話すことになるんだから、予行練習みたいなものだよ。奧さんが働いてるなら、今日は早く帰って家のことでもしておいてやれよ」
「しかし、彼女は……」
昂也が思案げに寿々花を見る。だがすぐに、大きく頷いた。
「確かに、俺は帰った方が話しやすいかもしれない」
「そんな、國原さんっ」
悲鳴に近い声を上げる寿々花に、昂也が言う。
「いろいろと、自分の頭で考えて判断するように。それと、ちゃんと説明するんだ」
ちゃんと説明しろ……とは、もちろん名前のことだ。
きちんと自分の意思で本名を告げ、嘘をついたことを謝罪しなさいとのお達しに、寿々花は承知いたしましたと項垂れるしかなかった。
昂也は予約してある店の名前を告げると共に、人数が減ってしまったことへの詫びを指示することも忘れない。
「これも、いい勉強だ」
昂也は、情けない顔をする寿々花の肩を軽く叩いて帰って行った。
「……」
立ち去る昂也の背中に深く頭を下げた寿々花は、姿勢を正して尚樹を見る。
――今度こそちゃんと名乗って謝ろう。
覚悟を決めた寿々花が口を開くより早く、尚樹が言った。
「そんなに怯えなくても、取って喰ったりしないよ。もしかして、男と二人で食事をしたことないのか?」
「――っ!」
大きく目を見開いた寿々花は、ポカンと口を開ける。
「怖じ気づいてないで、ついてこい。別にビビるようなことじゃないよ」
挑発するような視線を向けた尚樹は、顎を動かし寿々花を誘う。
――どうして私が、この人に怖じ気づくのよっ!
寿々花はムッと口を一文字に結び、彼の後を追った。
予約を入れていた割烹料理店に入り社名を告げると、すぐに個室へ案内された。
案内してくれた女将に、当初の予定より人数が減ったことを謝罪すると、既に昂也から連絡があったとのことだ。
寿々花には自分で伝えるよう指示していた昂也だが、一応連絡を入れておいてくれたらしい。
――ついでに、鷹尾さんにも私の名前の件を伝えておいてくれたらいいのに……
彼と向き合い、お品書きに視線を落とす寿々花は、そんなことをふと思う。
だが昂也の性格からして、そんなことはあり得ない。
どのタイミングで伝えればいいのだろうかと尚樹を窺うと、酒を頼み終えた彼が寿々花に視線を向けてきた。
「他に頼みたいものでも?」
食事はお任せのコース料理なので、酒以外、特に頼む必要はない。お品書きを開いているのは、手持ち無沙汰からだ。
「特にないです」
「そう。じゃあ、これで」
尚樹の言葉に、女将が頷く。
女将が退室してしまうと、いよいよ尚樹と向き合うしかなくなる。
「……あの、名前なんですけど……」
思い切って切り出した言葉に重なるように、尚樹が口を開いた。
「そういえば君は、國原の奧さんとは長い付き合いなのか?」
「え、いえ……まだ二年にもなりませんが」
出鼻をくじかれた形になり、寿々花はため息を吐きつつ答える。
「そうか……」
目の前で不思議そうな顔をする尚樹に首をかしげた。
「それがなにか?」
「ああいや……二次会で見かけた印象から、長い付き合いなのかと思っただけだよ」
「そうですか」
そう言ってもらえるのは素直に嬉しい。
フッと表情を緩ませる寿々花に、尚樹も表情が和らぐ。
「二次会で俺と話した後、客に絡まれていた新婦を助けに行っただろう。今にも相手に噛み付きそうな姿は、遠目に見ても凜々しくてかっこよかった」
「ああ……」
朱音とのやり取りを、見られていたらしい。
「君が好戦的な性格をしているとは思えない。あえてそんな態度を取っていたなら、きっとそれだけ新婦に対する思い入れが強いからだろう? だから、長い付き合いかと思ったんだ」
「……そういうのは、出会ってからの時間の長さではなく、どれだけ相手に魅力があるかだと思います」
「確かに……」
寿々花の言葉に、尚樹が柔らかな表情で同意し、大人が子供を褒めるような優しい口調で言う。
「君は、大事なことを見誤らない。その感覚は大事にするべきだ」
彼の言葉になんとも言えない気恥ずかしさを覚えて、寿々花は困り顔を見せた。
「そういえば、さっき名前がどうとか言わなかった?」
「あ、えっと……」
褒めてもらったタイミングで切り出すのも……と思いつつも、寿々花が言葉を発しようとした時、最初の料理と酒が運ばれてきてしまった。
再三出鼻をくじかれ、ますますタイミングが掴めなくなる。
それに食事会に来て、料理に箸を付ける前に尚樹の気分を害してしまったらと悩んでしまう。
仕方なく謝罪の件は後回しにして、会社名について気になっていたことを口にする。
「SANGIって、和算で使う算木のことですか?」
すると、尚樹が嬉しそうに目を細めた。
「当たり。会社を興して十年以上になるが、それに気付いた人は君が初めてだ」
「会社は、自分で創業されたんですか?」
「ああ。最初は金がなくて苦労したよ」
そう話す尚樹に、それほど苦労した印象は受けない。
彼の纏う空気や身のこなし、昂也と親しげに話す様子から、裕福な家庭に生まれ、親の会社を引き継いだ若社長だとばかり思っていた。
それに創業十年以上ということは、この人は何歳なのだろう。
――私より少し年上くらいに思っていたけど、もしかして……
彼の鷹揚な雰囲気が年齢からくるものだとしたら、これまでの寿々花の態度は失礼だったかもしれない。
「随分、お若く見えますね」
生意気な態度を取って申し訳ありません。そんな思いを表情に滲ませる寿々花に、尚樹が嫌そうな顔をする。
「幾つだと思われているか知らんが、國原と同い年だからな。アイツとは、大学の同級生だ」
ということは、今年で三十三歳だ。それはそれで、起業時の年齢に驚く。
「ITは、パソコン一つあれば起業できる。二十代の社長なんて珍しくないよ」
「確かにそうですけど……」
先日昂也からもらった資料に示されていたSANGIの実績を考えると、社長をはじめよほど優秀な社員が集まっているのだろう。
――ということは、会社勤めをした経験がないということか。
だとすれば、思ったことを遠慮なく口にする彼の我の強さにも納得がいく。
そういう人ならよく知っていた。自分の父親がそうだ。
人間として好きになれるかは別として、悪意はなくそういう人なのだと納得すると、彼の言動に怒ってもしょうがないと諦めがつく。
寿々花の表情が緩んだことで、尚樹の笑みが深まる。
それだけで、部屋の空気が和むから不思議だ。
「君の大学の専攻は?」
「数学です」
「卒論の課題は?」
「スペクトラルグラフ理論と周辺領域に関してです」
「理学部? 工学部?」
「理学部です」
「なるほど、ガチの数学オタクか」
彼の性格さえ理解できれば、からかうような口調にも、いちいち目くじらを立てたりしない。
「そうですね。ガチガチの数学オタクです」
寿々花が素直に認めると、尚樹が柔らかな表情で酒を飲む。
「若いうちから自分の好きなものがわかっているのは、幸せなことだ。他人の言葉に踊らされることなく、自分の進む道が選べる」
自然体な彼の口調に、こちらの毒気が抜けていくようだ。
「……鷹尾さんこそ、迷いなく生きてそうですね」
数学を除けば、あれこれ悩んで、いろいろなものを諦めてしまう寿々花には羨ましい話だ。
「そうだな。悪くない人生だ……。ここで満足する気はないが」
わざわざこの場所に来たのだから、他にもなにか目的があるのかもしれないが、いい迷惑だ。
――この手はあまり使いたくないんだけど……
大切な友人の結婚式で、これ以上朱音に空気を悪くされるよりよっぽどいい。そう結論付けた寿々花は、彼女に顔を寄せた。
「もしかして貴女、本気で芦田谷家と喧嘩をしたいのかしら?」
「――っ」
その一言で、朱音の顔が強張る。
微かに体を後ろに引いた朱音の目をまっすぐ見据え、自分がその気になれば、ただの脅しでは済まないのだと暗に告げる。
自分の家が政財界でどのくらいの影響力を持つかは承知している。
学生の頃ならいざ知らず、朱音にもその言葉の意味するところはわかったはずだ。
「……っ」
顔色を失った朱音は、悔しげに唇を噛みその場を離れていった。
本来なら謝罪を求めたいところだが、これ以上彼女と言葉を交わすのも面倒なのでそのまま見送る。そんな寿々花の脇腹を、比奈がつついてきた。
「私のせいで、嫌なこと言わせてごめんなさい」
寿々花が家の名前を使うのを嫌っていることを知っている比奈が、申し訳なさそうに肩を落とす。その姿に、先ほどの尚樹を思い出した。
彼の謝罪に何故か心が和んだのは、たぶん比奈のようだと思ったからだろう。
「貴女の後ろ盾になりたいと申し出たのは、私の方よ。こういう時のために、私がいるの」
これくらいたいしたことないと笑顔で返し、レストランの中を見渡す。すると、自分に向けて視線で礼を言う昂也と目が合った。でもその隣に、尚樹の姿はない。
「……」
何気なく首を動かし、尚樹の姿を探してしまう。
だけどすぐに、自分らしくないと思い至り、彼を探すのをやめた。
2 再会
比奈と昂也の結婚式から十日後。
技術開発室でデータの確認をしていた寿々花は、先輩の松岡晃に声をかけられ顔を上げた。
目が合うと、何故か松岡が驚いた様子で後ずさる。
自分から話しかけておきながら、寿々花が反応する度過剰に驚くのは、もはや彼の癖のようなものなので気にしないことにしている。
「来客。応接室に、本社から」
寿々花が籍を置く技術開発部は、クニハラの本社から少し離れた郊外にある。そのため、本社から来客があるのは珍しくなかった。
打ち合わせの場合、会議室で話をするのが常だが、今日は違うらしい。
松岡にお礼を言い、席を立つ。
その背中に、松岡が「専務だから」と、追加情報を伝えてくる。
「専務……」
それは少し珍しい。
専務の昂也は忙しい人なので、よほどのことがない限りここを訪れることはない。
悪い知らせでありませんように、と祈りながら寿々花は足早に応接室へ向かった。
「失礼します」
ドアをノックして中に入ると、昂也が悪戯っぽい表情を見せる。
「やあ、柳原さん」
「えっ?」
昂也の言葉に小さく目を見開くのは、技術開発部の責任者である江口良和だ。
「冗談だ。この前は、式に出席してくれてありがとう、芦田谷君」
驚く江口を尻目に、昂也が涼しい顔で言う。
「いえ。その節は、失礼いたしました」
頭を下げつつ、勧められるままソファーに腰掛ける。
そんな寿々花を見てくすりと笑った昂也だったが、すぐに表情を改めて仕事の話を始めた。
「他社との自動運転システムの共同開発ですか」
話を最後まで聞いた寿々花が、思わずといったように言葉を漏らす。それに、昂也が深く頷いた。
「そうだ。まだ調整をしている段階なので内密にして欲しいのだが、レベル5の自動運転システムを構築するために、AI開発のノウハウに長けた他社との連携を考えたい」
世界的自動車メーカーであるクニハラ。その国内商品に搭載されている自動運転システムは、現在レベル2。部分的に運転を自動化しているレベルだ。
運転を完全自動化するレベル5のシステムも、限定的な条件下でのテスト走行までは進んでいるが、実用化に辿り着くまでにはまだまだ課題も多い。
自動運転において、AIに求められるものは大きい。様々な状況に応じた空間把握能力はもちろん、アクシデントへの適切な対処法や咄嗟の判断能力も必要になってくる。そして、それだけの処理をAIに任せる以上、ハッキング対策などセキュリティの強化も欠かせない。
人の命を預かるのだから、念には念を入れて取り組む覚悟が必要だ。
今までも、必要に応じてアドバイザー契約をしている有識者に意見を求めてきたが、AI開発がより一層重要視されるこれからは、専門の企業と二人三脚でシステム開発にあたっていくのだという。
現在、業務提携先として、SANGIというIT企業が内定しているそうだ。
「まだ交渉中で、SANGIで決定というわけじゃない。そこで、正式な契約を結ぶ前に、一度相手側の担当者や社長を交えた食事会を開くつもりだ。そこで、今後の方針や互いの希望を摺り合わせたいと考えている」
「はあ……」
それが自分とどう関係しているのだろうと首をかしげる寿々花に、昂也が告げる。
「このプロジェクトは、芦田谷君に陣頭指揮を執ってもらう予定だ。だから、君にもその食事会に同伴してもらい、先方の技術力のほどを判断して欲しい」
突然のことに戸惑い、寿々花は隣に座る江口の顔色を窺う。どうやら、既に昂也との話し合いは済んでいるらしく、冷静な表情で寿々花の回答を待っている。
責任の重さを感じながら、寿々花は昂也と江口がいいのならと承諾した。そんな彼女に、昂也はSANGIの技術者と、過去に手掛けたプロジェクトに関する資料を渡し、食事会の場所と時間を告げた。
話を終えた昂也を車まで送ることになった寿々花は、二人きりになったタイミングで彼の友人に名前を偽ったことを詫びた。
「まあ、わからなくもないよ。芦田谷は重い名前だ。油断すると、君個人の私生活を侵食してくるからな」
昂也の言葉に、寿々花はそっと視線を落とす。
「國原さんは、自分の生まれを窮屈に思ったことはないんですか?」
寿々花が抱える息苦しさを、昂也も感じたりするのだろうか。
昂也は軽く肩をすくめてみせる。
「そのように生まれてしまったからな。家族にも会社にも愛着があるから、手放すわけにはいかない。君も芦田谷の人間であることをやめられないのなら、自分なりに上手く折り合いを付けていくしかないんだよ」
そう言って、昂也はそっと笑う。だが、すぐに真面目な顔で付け足した。
「俺は常々、部下には『面倒事から逃げるな。面倒だからといって問題を先送りにすると、大抵事態は悪化する』と教えている。そのことを忘れないように」
咄嗟に名前を偽ったところで、寿々花が芦田谷家の人間である事実は変わらない。その事実から目を逸らしても、なんの解決にもならないと言いたいのだろう。
「わかってます」
あの時はいろいろとタイミングが悪くて、本当の名前を言い出せなくなってしまったのだ。
それでも嘘はよくなかったと反省する寿々花に、昂也が意味ありげに笑った。
「まあ、嘘の代償は、近いうちに支払うことになるよ」
その意味を問う前に、車に辿り着いてしまった。
運転手が恭しく頭を下げ、彼のために後部座席のドアを開ける。それに応える昂也の顔は、気さくな友人の夫ではなく、大企業の重役の顔をしていた。
「では、食事会は頼むよ」
そう言い残し、昂也は去って行った。
◇ ◇ ◇
食事会は、その週の金曜日に開かれることになった。
当日、事情を知る江口に定時であがらせてもらった寿々花は、待ち合わせ場所へと向かう。
「まだ誰も来てないのかな?」
都内にあるホテルのラウンジに着いた寿々花は、周囲を見渡し見知った顔がいないことを確認すると、入り口から見えやすい席を選んで腰を下ろす。
約束の時間まで三十分ほどあるので、寿々花はタブレットを出して読書を始めた。
読書といっても、寿々花が読むのはたいてい数学の論文だ。
若い研究者の論文は、拙い部分もあるが発想が柔軟で面白い。暇つぶしにはちょうどいいと読み始めた寿々花は、いつしか論文に集中してしまっていたらしい。
ふと時間が気になって顔を上げた次の瞬間、大きく背中を仰け反らせる。
「――っ!」
いつの間にか、自分の席と通路を挟んだ向かいのソファーに、見知った顔が座っていた。しかも相手は、ソファーの肘掛けに頬杖をつき、じっと自分を眺めているではないか。
「熱心だな」
「……鷹尾さん」
ゆっくりと立ち上がった尚樹は、薄い笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってくる。そのしなやかな足取りは、まるで獲物を前にしたネコ科の大型獣を思わせた。
今日の尚樹の装いは、先日に比べると華やかさは控えめだ。しかし、質のよいビジネススーツを優雅に着こなす彼には、強烈な存在感がある。
――まさか、こんなところで会うなんて……
もう二度と会うことはないだろうと思っていたのに。
「また会ったな」
気まずさから愛想よく微笑む寿々花の向かいに、尚樹がドスッと腰を下ろす。
「あの……、私は人と待ち合わせをしているんですけど」
「俺もだ」
長い手足を持て余すように股を広げて座る尚樹は、寿々花がテーブルの上に置いたタブレットを手に取る。
「あっ」
タブレットを奪われて戸惑う寿々花に構うことなく、尚樹は画面をスクロールさせる。
そしてそこに書かれている内容を確認して、不思議そうな眼差しを寿々花に向けてきた。
「なんだ……随分いい顔で読みふけっているから、恋人からのメールか、恋愛小説かと思ったのに。それ数学の論文だろ? しかも英文」
つまらないといった表情で、尚樹がタブレットを返してきた。
「恋人はいませんし、恋愛小説なんて疲れるものも読みません」
思わず不満げな表情で言い返し、寿々花はタブレットを受け取る。
「疲れる?」
「恋愛小説には、駆け引きや嫉妬心のような疲れる内容が多いので」
その点数学は、駆け引きも裏切りもなく、ただ純粋な問いと解答があるだけだ。
もっとも誰かが和訳してくれるのなら、寿々花だって日本語の方が楽だとは思う。
「純粋だな」
尚樹の呟きに、寿々花の眉がピクリと跳ねる。
「子供扱いしないでください」
「そんなつもりはないよ。恋愛小説を読んで疲れるのは、それだけ感情移入しているってことだ。きっと君は、実在しない物語の登場人物のために泣いたり喜んだりするんだろう? その感情の柔軟さを褒めただけだ」
不機嫌さを隠さず食ってかかった寿々花を、尚樹が優しく諭す。しかしすぐに、からかうように付け足した。
「ただし、純粋と言われて腹を立てるのは、いささか子供っぽいと思うが」
「……」
なんともいえない表情を浮かべる寿々花の顔を、肘掛けに頬杖をついて尚樹が観察してくる。
その表情が、余裕綽々といった感じで面白くない。でもここでなにか言い返したら、また子供っぽいと言われてしまう気がした。
――この人といると、上手く自分を保てない。
寿々花は、心の中でため息を漏らす。
「申し訳ないのですけど、仕事の待ち合わせをしていますので……」
だから貴方と話している暇はありませんと、そつのない笑みを添えて伝える。すると尚樹が「奇遇だな」と返した。
「俺も、ビジネスの話をするためにここに来た」
「……」
その瞬間、寿々花は息を呑んだ。
先日、昂也は「嘘の代償は、近いうちに支払うことになる」と話していた。
そして、昂也に指示された待ち合わせ場所に、ビジネスの話をするために来たと言って尚樹が現れたのだ。
嫌な予感に頬を強張らせる寿々花を見て、尚樹が目を細める。
「この前、クニハラの社員とは聞いていたけど、今日の同伴者が君だとは思わなかったよ」
尚樹の言葉に、体からどんどん血の気が引いていく。そんな寿々花に、尚樹が右手を差し出してきた。
「改めまして柳原寿々花さん。SANGIの社長をさせてもらっている鷹尾尚樹だ」
あまりの展開に、目眩を覚える。
神様に、嘘をついたお仕置きを受けた気分だ。
「あの、実は……」
さすがにこれ以上嘘をつき続けているわけにはいかない。そう覚悟を決めた時、こちらへ近付いてくる人の気配を感じて言葉を止めた。
「申し訳ない。待たせたな」
爽やかな口調で昂也が挨拶してくる。寿々花は立ち上がりつつ、あまりのタイミングの悪さに頭を抱えたくなった。
そんな寿々花の胸の内に気付く様子もなく、同じように立ち上がった尚樹が鷹揚に笑う。
「俺と柳原さんが、早すぎただけだ」
「やな……」
尚樹の言葉に、昂也がもの言いたげな視線を向けてくる。寿々花は視線を逸らしながら、心の中で「すみません。ちゃんと本当のことを話そうと思っていたんです」と言い訳した。
「奧さんは?」
尚樹に問いかけられ、小さくため息を吐いた昂也は、寿々花の名前の件に触れることなく尚樹へと視線を向けた。
「別件を任せている。とりあえず、お前のところの社員が来たら、場所を変えるとするか」
そう話す昂也が空いていたソファーに腰掛けようとすると、尚樹がそれを制した。
「ウチの社員は、俺が帰らせた」
さらには、昂也に向かって「ついでに、お前も帰っていいぞ」と、虫を払うようにシッシッと手を動かす。
「おい、帰っていいって……」
昂也が困惑した表情を見せる。
「相手が柳原さんなら、初対面というわけでもないし、ウチのことなら大抵は俺が説明できる。どのみち、今後は柳原さんと話すことになるんだから、予行練習みたいなものだよ。奧さんが働いてるなら、今日は早く帰って家のことでもしておいてやれよ」
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昂也が思案げに寿々花を見る。だがすぐに、大きく頷いた。
「確かに、俺は帰った方が話しやすいかもしれない」
「そんな、國原さんっ」
悲鳴に近い声を上げる寿々花に、昂也が言う。
「いろいろと、自分の頭で考えて判断するように。それと、ちゃんと説明するんだ」
ちゃんと説明しろ……とは、もちろん名前のことだ。
きちんと自分の意思で本名を告げ、嘘をついたことを謝罪しなさいとのお達しに、寿々花は承知いたしましたと項垂れるしかなかった。
昂也は予約してある店の名前を告げると共に、人数が減ってしまったことへの詫びを指示することも忘れない。
「これも、いい勉強だ」
昂也は、情けない顔をする寿々花の肩を軽く叩いて帰って行った。
「……」
立ち去る昂也の背中に深く頭を下げた寿々花は、姿勢を正して尚樹を見る。
――今度こそちゃんと名乗って謝ろう。
覚悟を決めた寿々花が口を開くより早く、尚樹が言った。
「そんなに怯えなくても、取って喰ったりしないよ。もしかして、男と二人で食事をしたことないのか?」
「――っ!」
大きく目を見開いた寿々花は、ポカンと口を開ける。
「怖じ気づいてないで、ついてこい。別にビビるようなことじゃないよ」
挑発するような視線を向けた尚樹は、顎を動かし寿々花を誘う。
――どうして私が、この人に怖じ気づくのよっ!
寿々花はムッと口を一文字に結び、彼の後を追った。
予約を入れていた割烹料理店に入り社名を告げると、すぐに個室へ案内された。
案内してくれた女将に、当初の予定より人数が減ったことを謝罪すると、既に昂也から連絡があったとのことだ。
寿々花には自分で伝えるよう指示していた昂也だが、一応連絡を入れておいてくれたらしい。
――ついでに、鷹尾さんにも私の名前の件を伝えておいてくれたらいいのに……
彼と向き合い、お品書きに視線を落とす寿々花は、そんなことをふと思う。
だが昂也の性格からして、そんなことはあり得ない。
どのタイミングで伝えればいいのだろうかと尚樹を窺うと、酒を頼み終えた彼が寿々花に視線を向けてきた。
「他に頼みたいものでも?」
食事はお任せのコース料理なので、酒以外、特に頼む必要はない。お品書きを開いているのは、手持ち無沙汰からだ。
「特にないです」
「そう。じゃあ、これで」
尚樹の言葉に、女将が頷く。
女将が退室してしまうと、いよいよ尚樹と向き合うしかなくなる。
「……あの、名前なんですけど……」
思い切って切り出した言葉に重なるように、尚樹が口を開いた。
「そういえば君は、國原の奧さんとは長い付き合いなのか?」
「え、いえ……まだ二年にもなりませんが」
出鼻をくじかれた形になり、寿々花はため息を吐きつつ答える。
「そうか……」
目の前で不思議そうな顔をする尚樹に首をかしげた。
「それがなにか?」
「ああいや……二次会で見かけた印象から、長い付き合いなのかと思っただけだよ」
「そうですか」
そう言ってもらえるのは素直に嬉しい。
フッと表情を緩ませる寿々花に、尚樹も表情が和らぐ。
「二次会で俺と話した後、客に絡まれていた新婦を助けに行っただろう。今にも相手に噛み付きそうな姿は、遠目に見ても凜々しくてかっこよかった」
「ああ……」
朱音とのやり取りを、見られていたらしい。
「君が好戦的な性格をしているとは思えない。あえてそんな態度を取っていたなら、きっとそれだけ新婦に対する思い入れが強いからだろう? だから、長い付き合いかと思ったんだ」
「……そういうのは、出会ってからの時間の長さではなく、どれだけ相手に魅力があるかだと思います」
「確かに……」
寿々花の言葉に、尚樹が柔らかな表情で同意し、大人が子供を褒めるような優しい口調で言う。
「君は、大事なことを見誤らない。その感覚は大事にするべきだ」
彼の言葉になんとも言えない気恥ずかしさを覚えて、寿々花は困り顔を見せた。
「そういえば、さっき名前がどうとか言わなかった?」
「あ、えっと……」
褒めてもらったタイミングで切り出すのも……と思いつつも、寿々花が言葉を発しようとした時、最初の料理と酒が運ばれてきてしまった。
再三出鼻をくじかれ、ますますタイミングが掴めなくなる。
それに食事会に来て、料理に箸を付ける前に尚樹の気分を害してしまったらと悩んでしまう。
仕方なく謝罪の件は後回しにして、会社名について気になっていたことを口にする。
「SANGIって、和算で使う算木のことですか?」
すると、尚樹が嬉しそうに目を細めた。
「当たり。会社を興して十年以上になるが、それに気付いた人は君が初めてだ」
「会社は、自分で創業されたんですか?」
「ああ。最初は金がなくて苦労したよ」
そう話す尚樹に、それほど苦労した印象は受けない。
彼の纏う空気や身のこなし、昂也と親しげに話す様子から、裕福な家庭に生まれ、親の会社を引き継いだ若社長だとばかり思っていた。
それに創業十年以上ということは、この人は何歳なのだろう。
――私より少し年上くらいに思っていたけど、もしかして……
彼の鷹揚な雰囲気が年齢からくるものだとしたら、これまでの寿々花の態度は失礼だったかもしれない。
「随分、お若く見えますね」
生意気な態度を取って申し訳ありません。そんな思いを表情に滲ませる寿々花に、尚樹が嫌そうな顔をする。
「幾つだと思われているか知らんが、國原と同い年だからな。アイツとは、大学の同級生だ」
ということは、今年で三十三歳だ。それはそれで、起業時の年齢に驚く。
「ITは、パソコン一つあれば起業できる。二十代の社長なんて珍しくないよ」
「確かにそうですけど……」
先日昂也からもらった資料に示されていたSANGIの実績を考えると、社長をはじめよほど優秀な社員が集まっているのだろう。
――ということは、会社勤めをした経験がないということか。
だとすれば、思ったことを遠慮なく口にする彼の我の強さにも納得がいく。
そういう人ならよく知っていた。自分の父親がそうだ。
人間として好きになれるかは別として、悪意はなくそういう人なのだと納得すると、彼の言動に怒ってもしょうがないと諦めがつく。
寿々花の表情が緩んだことで、尚樹の笑みが深まる。
それだけで、部屋の空気が和むから不思議だ。
「君の大学の専攻は?」
「数学です」
「卒論の課題は?」
「スペクトラルグラフ理論と周辺領域に関してです」
「理学部? 工学部?」
「理学部です」
「なるほど、ガチの数学オタクか」
彼の性格さえ理解できれば、からかうような口調にも、いちいち目くじらを立てたりしない。
「そうですね。ガチガチの数学オタクです」
寿々花が素直に認めると、尚樹が柔らかな表情で酒を飲む。
「若いうちから自分の好きなものがわかっているのは、幸せなことだ。他人の言葉に踊らされることなく、自分の進む道が選べる」
自然体な彼の口調に、こちらの毒気が抜けていくようだ。
「……鷹尾さんこそ、迷いなく生きてそうですね」
数学を除けば、あれこれ悩んで、いろいろなものを諦めてしまう寿々花には羨ましい話だ。
「そうだな。悪くない人生だ……。ここで満足する気はないが」
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