かりそめの婚約者のはずが冷徹上司の一途な溺愛に包まれています

冬野まゆ

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1巻

1-2

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 どうにか定時で仕事を終えた莉子は、友人との待ち合わせ場所である〝花いち〟という和カフェを兼ねたダイニングバーを訪れていた。
 入り口が見渡せるボックス席を陣取り一息ついていると、ほどなくして幼馴染みの橋詰舞菜香はしづめまなかが戸口から顔を覗かせる。

「舞菜香」

 莉子が通路に顔を出して合図すると、相手も弾けるような笑顔で手を振る。
 舞菜香の家も以前は会社経営をしていたが、彼女が中学生の時に、社員の不正がもとで倒産した。それにともない舞菜香は、それまで一緒に通っていた私立校から公立校に転校したが、そんなことくらいで自分たちの関係は変わらない。
 幼少時代から大人になった今でも、お互いのことを親身に思い合う仲だ。

「莉子」

 店員に連れであることを合図して、舞菜香が向かいの席に腰を下ろす。

「いい雰囲気の店だね」

 莉子のめ言葉に舞菜香が「でしょ」とはにかんだのは、この店の内装を彼女が勤めるデザイン会社が請け負ったからだ。

「誕生日のお祝いに今日はおごるから、好きなの頼んでね」

 今日は一週間前倒しで、舞菜香の誕生日を祝うために集まった。
 莉子の誕生日は十二月で、その際には舞菜香が同じように祝ってくれる。
 長年気兼ねない付き合いを続けられる友達の存在を心地よく感じながら注文を済ませ、料理を待つ間、世間話をして楽しむ。
 付き合いが長いだけに、現在進行形の舞菜香の恋人の話に始まり、同級生の思い出や仕事の話など、話題が尽きることはない。
 ただいつもに比べて、舞菜香の表情が冴えない気がする。

「舞菜香、どうかした?」

 ――もしかして、彼氏に浮気されたとか?
 舞菜香の現在の恋人にいまいち好感を持てずにいる莉子としては、まずそう思わずにはいられない。

「ごめん。なんでもない」

 舞菜香は軽く首を振って、不器用に笑う。
 どこかうれいのある表情が気になるけど、本人が話したくないことを無理に聞き出すつもりはない。
 大事なのは、相手が助けを求めてきた時に迷わず手を差し伸べることだ。
 ――そんなことより、今日は舞菜香の誕生日を祝うために集まったんだから。
 気持ちを切り替えた莉子は、運ばれてきた料理を取り分けたタイミングで、彼女への誕生日プレゼントを取り出す。

「さてと……はい、これ」

 ふんわりとしたオーガンジーのリボンが掛けられたプレゼントを前に、舞菜香の表情がやわらぐ。
 そのことにホッとしつつ中身は香水だと話していると、店に男性客が入ってきた。
 ――小泉部長?
 どこか見覚えのある顔に見えて、一瞬そう思ったが、よく見れば少しも似ていない。
 どちらも長身で整った顔をしているという意味では同じなのだけど、生真面目で隙がなく近寄りがたい印象の司冴に比べて、今店に入ってきた男性は、華やかで遊び慣れた伊達男だておとこといった雰囲気だ。
 眼鏡を掛けていないし、髪型も全く違う。
 それなのにそんな錯覚を覚えたのは、店に入ってきた彼が、司冴と同じ一種独特の空気をまとっていたからだ。
 そこにいるだけで人を惹きつけるほどの強烈な存在感。
 それでつい目が離せなくなっていると、相手が『あっ!』という表情を見せた。

「えっと……イタゲンさんの……」

 そのまま歩み寄ってきた男性が、莉子の父が経営する会社名を口にしたことで、彼が誰なのかを思い出す。

「板倉莉子です。ハイバラ電気の榛原裕弥はいばらゆうやさんですよね。時々、パーティーなどでお見かけしています」

 基本、家柄に縛られることなく自由に生きていきたいと思う莉子だけど、家族をうとんじているわけじゃない。
 家の品位を落とさないよう状況をわきまえ、社長令嬢らしく振る舞うべきところではそのように対処することにしている。
 特に、彼の家が経営するハイバラ電気とイタゲンはビジネス上の付き合いがあるので、失礼があってはいけない。

「そうだった。失礼」

 立ち上がり、そつのない微笑みを添えて挨拶する莉子に、相手も社交辞令とわかる範囲の親しみを込めた笑顔を見せる。
 その流れでいくつか言葉を交わしていると、舞菜香も彼と面識があるようだったので世間の狭さに少々驚く。
 ――こういうの、少しだけ息苦しいな。
 社交的な挨拶を済ませて座り直した莉子は、内心で嘆息する。
 幸いにも莉子の父である板倉あつしは、世間体を気にすることなく、娘の自主性に任せてくれているが、それでもどうしたって、イタゲンの社長令嬢という肩書きはついて回るのだ。
 今の裕弥とのやり取りくらいなら構わないが、中にはイタゲン社長との繋がりが欲しくて、莉子にびてくる者もいるのでわずらわしい。
 舞菜香の今の恋人も、そういったタイプの人らしく、舞菜香の目を盗んで莉子に必要以上にびてきたことがある。
 もちろん、けんもほろろに誘いを断ったし、それ以降も舞菜香のことは大事にしているようなので口出しはしていない。だが、莉子としてはそんなことがあったので彼に好感を持てずにいる。
 ――小泉部長くらいできた人間になると、こういうことで悩まないのかな?
 舞菜香とたわいない話をしながら体をねじって裕弥の背中を見送っていると、ふとそんな考えが頭をよぎった。
 そして一拍おいて、さっき裕弥と司冴を見間違えたことが、なぜだか妙に腹立たしくなる。
 ――なんで私がこんなに小泉部長のことを思い出さなきゃいけないのよ。
 上手く消化できない感情を持て余した莉子は、舞菜香へと向き直ると、「舞菜香、彼に口説かれたでしょ」と、揶揄からかってみた。

「はいッ!? 急に変なこと言わないでよ」

 唐突な発言に舞菜香は目を丸くする。
 幼馴染みの素直な反応に心癒やされつつ、「だって彼、女慣れした遊び人として有名だから」と、出所もハッキリしない噂を根拠にそのまま話を広げていく。


   ◇◇◇


 舞菜香との楽しいひと時を過ごした翌日。
 昨夜のアルコールの余韻を引きずった気怠けだるさから、莉子は休日なのをいいことに惰眠をむさぼっていた。
 半分覚醒しているような心地よい眠気にたゆたっていると、リンゴンと古めかしいベルが鳴る。
 板倉家の玄関チャイムの音だ。
 ――宅配便かな?
 週末は家政婦も休みだが、他の家族がいるので問題ない。
 空腹感もあるにはあるが、もう少し寝ていたいと枕を抱えて目を閉じた時、階下から「突然お邪魔してごめんなさいね」と、陽気な女性の声が聞こえてきた。

「……ッ」

 ――失敗した。遊びに行けば良かった。
 枕を抱きしめて後悔してももう遅い。
 ほどなくしてドアをノックする音が聞こえる。

「起きてるんだろ? 美和子みわこ伯母さまが呼んでるぞ」

 こちらの返事を待たずにドアを開けた兄の板倉誠一せいいちが、朝の挨拶もなく用件だけを告げる。
 父方の伯母である成宮なるみや美和子は、他家に嫁いで三十年以上経った今も、時折予告なしに里帰りをする。
 莉子も誠一も、おおらかで面倒見のいい伯母の人柄を慕っているので、いつもは歓迎するのだけど、最近は少々事情が違う。

「体調悪くて横になっているって言ってよ」

 莉子は、むくりと顔を上げて兄に頼む。

「昨日、友達と夜遊びしてたってチクってある」
「えっ! なんでそんなこと言うのよ」

 抗議する莉子に、誠一がペロリと舌を出す。

「冗談だ。今日伯母さまが来た目的はお前だから、顔を出すまで帰らないぞ」

 誠一は、笑い声を残して部屋を出て行く。
 年の離れた兄は、外では仕事のできる切れ者として評価されているらしいが、家ではいつまでも悪ガキっぽさが抜けないので困る。
 兄の冗談のせいですっかり目が覚めてしまった莉子は、渋々ベッドを抜け出して身支度をした。


 莉子が二階の自室を出て階下のリビングに行くと、ジャカード織りが美しいクラシカルなデザインのソファーで、着物姿の年配女性がくつろいでいた。
 ふっくらとした面差しの彼女は莉子に気付くと微笑んだ。
 目尻に年相応なしわが刻まれているが、それでも名家のお嬢さまとして育ち、資産家の夫に嫁いで二人の息子にも恵まれて……と、大きな苦労もなく過ごしてきた彼女には色せない乙女のような愛らしさがある。

「美和子伯母さま、お久しぶりです」
「莉子さん、ピアノの練習を邪魔してごめんなさいね」

 ピアノなんてもう何年も触っていないが、どうやらそういうことになっているらしい。
 そのわりに、演奏の音が聞こえなかったなどと疑問に思わない伯母のおおらかさに感謝しつつ、曖昧あいまいに頷いておく。
 リビングには、美和子の他、莉子の両親の姿もあった。
 父の篤は、莉子と目が合うと困り顔で肩をすくめたので、それだけで伯母の来訪の目的は察せられる。
 というか、テーブルの上に置かれている装丁が立派なアルバムを見れば明白だ。

「それで、今日はどうされたんですか?」

 莉子が伯母の対角線上に配置されたソファーに座ると、母の板倉彩音あやねは「莉子のお茶の用意をしてきます」とその場を離れる。篤も「手伝うよ」と、それに続く。
 ――私のお茶の準備に、二人もいらないでしょ。
 莉子が心の中でツッコんでいると、紅茶で喉を湿らせた美和子が、コホンッと小さく咳払いをして莉子を見る。

「莉子さん、変わらず仕事にはげまれているということでなによりです。裕福な家庭に生まれたからといって家事手伝いに甘んじることなく、社会に出て働くという志は伯母として誇らしく思っています」
「それは……どうも、ありがとうございます」

 警戒しつつもお礼を言う莉子を相手に、軽やかな口調で語る美和子が「ただ……」と、言葉を続ける。

「時代がどれだけ変わっても、変わらない幸せもあります」

 ――来た。
 身構える莉子の方へと、美和子はテーブルに置かれたアルバムを押し出す。

「人は一人で生きていけるほど強い生き物ではありません。私は伯母として、可愛い姪の幸せを心から願っているのよ」

 真面目な顔で話す美和子は、莉子に中を見せるべくアルバムを開く。
 そこにはこちらの想像どおり、誠実そうなスーツ姿の男性の写真と、見事な学歴に始まり華々しい職歴や家族構成が綴られた文章が添えられている。
 いわゆるお見合い写真と釣書というやつだ。
 今回、それが三点ほどある。

「忙しいあなたの代わりに、これはという殿方を厳選してきました。今度こそ、莉子さんのお眼鏡にかなう方がいると思うわ」

 自信たっぷりの美和子の言葉に、莉子は軽い目眩めまいを覚えた。
 ――このやり取り、先月も先々月もやったよね。
 その際、まだまだ結婚は考えていないと丁重にお断りしたのだけれど、美和子は諦めていなかったようだ。
 なんというかこの伯母は、本気で『女の幸せは結婚にある』と信じて疑っていないのだ。
 時代の流れにそぐわない価値観を堂々と主張できるのは、それだけ彼女が幸せな結婚生活を歩んできた証と言える。
 姪として、それは嬉しいのだけれど、莉子の価値観には合わない。

「伯母さま、前にも話しましたが、今は仕事が忙しく、父も母もその辺は私の好きにすれば良いと言ってくれていますので」
「その話は前回断られた時に聞きました。だからこそ選び直してきたんです」
「うっ」
「先方はどのお宅も、ウチや板倉家と縁続きになれることを喜んでいて、もし結婚しても莉子さんに退職を求めたりしないと約束してくださっているわ」

 無邪気な美和子の言葉に、莉子は肩を落とす。
 イタゲンが特殊塗料メーカーとして大きく飛躍したのは、父が社長に就任してからだが、それまでもそれなりに歴史ある名家ではあった。
 そういう家同士の繋がりを重んじて成宮家に嫁いだ伯母は、板倉家の後ろ盾もあって、嫁いびりなど受けることなく幸せに過ごしたのだろう。だけど莉子はその部分が引っ掛かる。
 ――この人たちは、私と結婚したいわけじゃない。イタゲンと縁戚になりたいだけ。
 そう思うと、どれだけ好条件の縁談でも色せて見える。
 らしくない乙女心と笑われると恥ずかしいので言葉にはしないが、莉子としては、長い人生を共にする相手には、板倉莉子一個人を愛してほしいのだ。
 妄想全開で希望を述べていいのであれば、一目見た瞬間にお互い恋に落ちて、強い絆を確かめ合った後で莉子の素性を明かし、それまでと変わらぬ愛を誓っていただくのが好ましい。
 ――私、無駄に乙女。
 自分でもその点に関しては苦笑するしかないが、それでもまだ結婚に現実味がないだけに、ついあれこれ夢想してしまう。
 莉子はとりあえず、釣書に目を走らせてすぐに閉じる。

「伯母さま、すみません。この中に、私が会いたいと思える方はいませんので」

 莉子の言葉に、美和子はふうと息を吐く。

「そう。こればっかりは無理強いするわけにはいかないし、仕方ないわね」

 ――あれ? 珍しい。
 あっさり見合い話を引っ込める美和子の態度に、莉子は小さく驚く。
 これまでの彼女は、『女性の幸せは結婚にある』という自分の考えに絶大な自信があり、姪の幸せを願っているからこそ、なかなか引き下がってくれなかったのに……

「主人にも、今は時代が違うから、形式張った見合いを勧めるのでは駄目だって叱られたのよ。自然と関心を持てる相手と巡り合わせるくらいに留めなさいって」

 美和子は、頬に手を添えてため息を漏らす。
 どうやら今回の見合い話は、ダメモトで持ってきただけのものだったらしい。

「そうですね。こういう形式張った見合いは、私の性格には合いませんので」

 あっさり引き下がってもらえたことに安堵する莉子に、美和子は「ところで」と、話題を変える。

「莉子さん、来週の日曜日は、なにか予定があるかしら?」
「来週ですか?」

 金曜日は空けておきたいが、土日は特に予定がない。
 それをそのまま告げると、美和子が表情を輝かせる。

「じゃあ日曜日、私の観劇に付き合ってくれない? 一緒に行くって言っていた人の都合が悪くなって、チケットが余っているの。観劇の後で、お礼に美味しい食事をご馳走するから」

 美和子が手を合わせて可愛くお願いしてくる。
 彼女の趣味は観劇で、特に女性のみで構成されている歌劇団の大ファンで、ファンクラブにも入っている。
 他の家族は興味がなく、好きにすればいいけど巻き込まないでといった感じだ。
 そのためこういったことはままある。
 莉子も、歌ありダンスありの華やかな舞台を見るのは好きなので、嬉しいお誘いだ。
 なんなら、莉子の乙女な部分は、この伯母の影響が大きいだろう。

「はい、喜んで」

 興味のない縁談を持ってこられるのが嫌なだけで、伯母のことは大好きなのだ。
 莉子が笑顔で承諾すると、そのタイミングを見計らったように両親も戻ってきた。

「じゃあこの後、来週着ていくお洋服を一緒に買いに行きましょう。私に服を選ばせて」

 ご機嫌な様子で美和子が提案する。
 彼女には娘がいないので、着せ替え人形のごとく、莉子に自分好みの服を着せたがる。

「あら、いいわね。お義姉さんに服を選んでいただくと、莉子の印象がガラリと変わるから、見ていて楽しいわ」

 母の彩音も話に参加して、この後三人で買い物に行こうと話をまとめる。
 それはよくあることなので、莉子は伯母と母の意味深な目配せを気に留めることなく出かける準備に取り掛かった。



   2 利己的な願い


 翌週の日曜日。
 美容院で身支度を整えた莉子は、伯母との待ち合わせ場所である劇場へと急いだ。
 先日の買い物で美和子が選んだのは、ハイウエストな位置に切り替えがあり、すそがふわりと広がっているワンピースだった。
 白地に細かな花の絵柄が散らされたワンピースに、淡い桜色のカーディガンを合わせている。
 伯母好みな清楚なよそおいで、せっかくだからと彩音が行き付けの美容院にメイクとヘアセットの予約を入れた。
 結果、普段は自然なままに遊ばせている髪はった編み込みに結い上げられ、顔には完璧なメイクがほどこされている。
 機能性重視のラフな服装にナチュラルメイクという普段の莉子しか知らない人が見れば、まず本人とは気付かないだろう。

「伯母さま、お待たせしてすみません」

 劇場ロビーの売店で伯母の姿を見つけた莉子は、足早に駆け寄る。

「ここでなら、何時間待たされても平気」

 今日も着物姿の美和子はウフフと笑い、手にしていた商品を棚に戻してその場を離れる。

「それに、今日は開演直前に劇場での待ち合わせにしましょうと提案したのは、私の方よ」

 そんなことを話しながら客席へと向かう。
 莉子が美容院に行くこともあり、美和子が、指定席なので焦る必要はないと言ってくれたのだ。
 思いのほか髪のセットに時間を取られ、開演ギリギリの到着となったので、伯母の配慮はありがたい。
 そのまま美和子は、ドアを開けるついでに莉子の方へ振り返る。

「そうそう、今日の観劇、隣のシートが私の知り合い親子なの。篤の会社とも付き合いがあるかもしれないから、挨拶だけお願いね」
「そう……なんですね」

 ファン友達と予約のタイミングが合って、隣の席が取れたのだろうか。
 できれば先に言っておいてほしかったけど、まあ仕方ない。
 館内は既に暗くなり始めているし、劇が始まれば会話をする必要もないのであまり気にしないでおこう。
 なんとなく伯母と同世代の女性と、その娘といった組み合わせを想像しながら、彼女に続いて歩いていく。

「成宮さん」

 一階のステージに近い席に座る女性が、美和子に合図を送る。その左隣が二席空いているので、そこが自分たちの席なのだろう。
 莉子がそう推測していると、案の定、美和子は莉子に合図して彼女の隣の席に腰を下ろした。

「小泉さん、ご無沙汰しています」

 ――え? 小泉?
 聞き覚えのある名前に、隣に腰を下ろそうとする莉子の動きが一瞬止まる。
 ありがちな苗字なのだけど、日々価値観の違いから苦手意識を抱いている上司と同じなことに、警戒心が働く。

「この子が、先日お話しした姪の莉子。自慢の姪よ」

 美和子が莉子の膝に手を置いて言う。
 一段と照明が落とされていく中、莉子は相手の女性に会釈えしゃくする。
 美和子の向こう、前屈みになってこちらに微笑みかけてくる女性は、見るからに温厚で優しそうだ。
 ――大丈夫、あの冷徹御曹司とは、似ても似つかない。

「初めまして、小泉知沙希ちさきといいます」

 周囲を気遣い控えめな声で自己紹介をする女性は、次に体をらして隣の連れを紹介する。

「こっちは、私の息子の司冴と言います」

 彼女の右隣の男性がこちらに顔を向けた。
 無言のまま軽く会釈えしゃくをする男性の顔を見て、莉子は「ヒッ」と、息を呑んだ。
 ――ぶ、部長っ!
 開演直前でかなり暗くなっているが、自分の上司を見間違うはずがない。
 苗字を聞いた瞬間、一瞬頭をよぎった嫌な予感がまさか的中するとは……
 目を見開き硬直する莉子と違い、司冴はこちらに関心を示すことなく前を向く。

「愛想のない子でごめんなさいね」
「あら、親の趣味に付き合ってくれるだけ良い息子さんよ。ウチの息子たちときたら……」
「でも成宮さんには、こんな可愛らしい姪御さんがいらっしゃるじゃない」

 美和子たちのたわいない会話を、ブザーがさえぎる。

「始まるわ」

 どこからともなく聞こえるささやき声と、控えめな拍手の音。
 誰もがこれから始まる夢のようなひと時を心待ちにする中で、莉子一人が悪夢の始まりを感じていた。


 舞台は、中世ヨーロッパ。
 真実の愛を求める男女の物語が、歌やダンス、往年のファンの笑いを誘うギャグを織り交ぜて進んでいく。
 ――私の乙女な思考の原点は、伯母さまのこの趣味にあるよね。
 幼い頃から伯母に連れられて観てきた舞台の数々は、ヒーローとヒロインのドラマティックな出会いで幕を開けて、どれだけすれ違っても最後は必ず真実の愛を見つけて終わっていた。
 それを最高の歌とダンスで盛り上げていくのだから、乙女として憧れずにはいられない。
 ドラマティックな出会いから始まる運命の恋。それは、誰でも一度は夢見る憧れの展開なのだけど……
 ――これは違う。
 伯母たちの向こう、母親の隣で姿勢良く座る司冴の様子をうかがって、莉子は首を横に振る。
 無表情に舞台を眺める司冴が、莉子に意識を向ける気配はない。
 ――もしかして、私が誰かわかってない?
 よく見れば、今日の彼は眼鏡を掛けていない。
 コンタクトにしている可能性もあるけど、眼鏡をしていないため、いつもより視力が低く、薄暗い中では相手の顔がハッキリ見えていないという可能性もある。
 目が合ったのはほんの一瞬だったし、今日の莉子は、職場にいる時とはかなり異なるよそおいをしているので気付かなかったのかもしれない。
 ――だとしたら舞台が終わった後、速やかに撤収すれば、私だとバレずに済む。
 このまま男性と目を合わせるのも恥ずかしい初心うぶな娘ということにして、司冴と目を合わせることなく立ち去れば大丈夫だろう。
 幕間で明るくなる間は、一度席を外して、照明が落ち始めてから戻ってくればいい。
 ――よし。この作戦でいこう。
 どちらかと言えば楽観的な性格をしている莉子は、自分なりに考えをまとめると、後は舞台を楽しむことにした。
 そうやって舞台に集中していると、時間は一気に流れていく。
 ミュージカル調の演劇が終わると、長めの休憩時間を挟んでダンスパフォーマンスへと切り替わる。

「すみません。ちょっと……」
「あら、莉子」

 休憩に入るなり素早く席を離れようとする莉子に、美和子がなにか言おうとするが、気付かぬフリでその場を離れる。
 背後で美和子が「あの子、照れてるのかしら」なんて言っているのが聞こえたが、幻聴だと信じたい。
 なんにせよ、そうやって計画どおりに休憩時間をやり過ごし、全てのプログラムが終了し、数回のカーテンコールを経て夢の時間が終わると、莉子はうつむいたまま席を立とうとした。

「伯母さま、早く……」

 莉子の声をさえぎるように、美和子が、隣の小泉親子に声をかける。

「小泉さん、この後姪と一緒に食事をする予定なんですけど、良かったらご一緒にいかがかしら?」
「……ぇ?」
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