かりそめの婚約者のはずが冷徹上司の一途な溺愛に包まれています

冬野まゆ

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1巻

1-3

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 思いがけない伯母の提案に、莉子は思わず司冴を見た。
 彼の方はと言えば、莉子と目が合ってもこれといった反応を示さない。
 おそらく目の前の女性が自分の部下であることに、まだ気付いていないのだろう。
 でもさすがに一緒に食事をすれば、誤魔化しきれなくなる。

「伯母さま、急にお誘いしても……」

 いつもより声のトーンを高くして伯母にささやく。
 その莉子の声を、小泉夫人の陽気な声がかき消す。

「あら、ちょうど私も成宮さんをお誘いするつもりで、お店も予約してあるんですよ」
「まあ嬉しい」

 はしゃぐ美和子の声に、莉子は頰を引きつらせた。
 自分の上司と席が隣合わせるだけでも、ありえない偶然なのに、その上一緒に食事に行くことになるなんて……
 もし神様がいるのなら、これは喜劇の始まりなのかと聞いてみたくなる展開だ。
 チラリと司冴の様子をうかがえば、母親の話し相手をしていてこちらに意識を向けていない。
 プライベートのためか、母親と話す彼の表情は穏やかで、オフィスで見かける冷徹御曹司といった雰囲気はない。
 ――部長って、意外に鈍いな……
 小さく呆れつつ、それならそれで、頑張ればこの場をどうにか切り抜けられるのではないかと、莉子は気持ちを立て直した。


   ◇◇◇


 劇場から予約を入れていたホテルのレストランに場所を移した小泉司冴は、改めて自分の向かいに座る板倉莉子の様子をうかがう。
 今日の彼女は、オフィスで顔を合わせる時とはかなり異なるよそおいをしている。
 服装のセンスに始まり、メイクも髪型も別人レベルで違っているが、どれだけ着飾っても、好奇心旺盛おうせいな仔猫を思わせる黒目がちな目や、スッキリした卵形の輪郭、鎖骨の美しさが際立つほっそりとした首筋といった素の部分はそのままだ。
 そもそも、自分の部下を見間違えるわけがない。
 だと言うのに、彼女は終始、口数少なく他人行儀に接してくる。
 ついでに言うと、声のトーンが普段に比べてやたらと高い。
 ――まさか俺にバレてないとか、本気で思ってないよな?
 わずかに乱視はあるが、司冴が職場で眼鏡をしているのは、気持ちを切り替えるためというのが一番の理由だ。
 それにもし本当に視力が悪くても、声で彼女とわかる。
 直属の部下という関係性を抜きにしても、司冴にとって莉子は、それくらい存在感のある女性なのだ。
 それなのに彼女ときたら、伯母の手前だからか、他人のフリを決め込むためか、やけにおとなしいので笑えてくる。
 ――まさに借りてきた猫ってやつだな。
 司冴はさりげなく口元を手で隠し、笑いを噛み殺す。
 ――もしかして板倉君は、これが偶然をよそおった見合いであることに気付いていないのか?
 だとしたら、かなり鈍いし、相変わらず視野が狭すぎる。
 司冴の方は、母親から『知り合いが、姪御さんを紹介したいと言っているの。もし気が合うようだったら、結婚を視野に入れたお付き合いをしてみては?』と言われていた。直接的な表現ではなかったが、これが見合いだとすぐに理解した。
 司冴にはそろそろ、小泉家に相応ふさわしい女性と結婚してほしいということなのだろう。
 早くに実の両親を事故で亡くした司冴にとって、小泉家の父母は母方の遠縁にあたる。
 自分を引き取り育ててくれた恩を考えれば、親が望む相手と結婚するべきというのはわかっているが、今のところ司冴には結婚願望がない。
 泉ホールディングスには、成り行きで小泉家の養子になった司冴が後継者を名乗ることを認めていない者も一定数いて、なまじ司冴が優秀なだけに、グループ内で軋轢あつれきを生む原因になっている。
 もしこのタイミングで結婚したとして、司冴に付け入る隙がないのであればその配偶者に……と、考えるやからが出てきてもおかしくない。
 場合によっては、本人やその家族の痛くもない腹を探って、相手に不快な思いをさせることにもなりかねない。
 だから結婚などまだ先の話だ。
 タイミングを見計らって上手く断るつもりでいたのだが、その見合い相手として、自分の部下が現れたのでかなり驚いた。
 とはいえ、相手はイタゲンの社長令嬢。家柄の釣り合いを考えれば、十分ありえる縁談だ。
 本人が隠しているようなので、司冴から話題にしたことはないが、莉子の親の家業は最初から承知している。
 ――もともと彼女を最初に見かけたのは……
 司冴が過去に思いを巡らせていると、知沙希が声を弾ませる。

「莉子さんは、本当におしとやかなお嬢さんね」

 現実とはかなりかけ離れた評価に、司冴はグッと笑いをこらえた。
 すかさず成宮夫人が返す。

「あら、普段はもっと賑やかな子なんですよ。司冴さんがあまりに素敵な男性だから、照れているのよ」

 その言葉に、今度は莉子がグッとなにかをこらえる。
 奥歯を噛みしめ必死に発言をこらえる姿を見ると、中身はいつもの莉子なのだと、妙に安心してしまう。
 ――なんだかな。
 司冴が莉子を観察して苦笑している間も、ご婦人たちの会話は滑らかに進んでいく。
 先ほどの舞台の感想でひとしきり盛り上がったり、それぞれ莉子や司冴の思い出話を語ったりと話題は尽きない。
 非の打ち所がない優秀な子供として語られる司冴の幼少期とは違い、莉子の思い出話はなかなかに楽しそうだ。
 男きょうだいがいる影響か、莉子は正義感が強い上にかなりおてんばだったそうで、友達がいじめられていれば、相手が上級生でも臆することなく意見していたのだという。
 彼女のそんな行いを語る成宮夫人は、困ったものだと苦笑しつつも誇らしげだ。
 幼い頃の思い出として語るにしても、本気で莉子のおてんばぶりを恥じているのなら、見合いの席で話したりしない。つまり夫人は、伯母として天真爛漫な姪を愛おしく思っているのだろう。
 その気持ちは、司冴にもわかる。
 職場では立場上彼女に意見することも多いが、司冴としても、伸びやかで明るい莉子の性格を好ましく思っているのだ。
 泉ホールディングスの御曹司などと周囲から一目置かれてはいるが、司冴は小泉家の養子にすぎないので遠慮が多い。
 だから自分とは真逆の性格をしている莉子のことは、いつも意識していた。

「莉子さんは、普段どんなお仕事をされているの?」

 大学卒業後、コネなどに頼ることなく就職し、日々仕事にはげんでいるという話を聞いて、知沙希が興味を示す。
 おっとりとした性格の知沙希は、莉子がイタゲンの社長令嬢であることは承知していても、詳しい略歴までは知らなかったようだ。
 それは成宮夫人も同じだったようで、頰に指を添えて『そういえば、なんだったかしら?』とでも言いたげな眼差しを莉子に向けている。

「し、仕事ですか……」

 さすがに平静をよそおいきれなくなったのだろう。
 動揺した莉子の手からフォークが滑り落ち、刺さっていた肉ごと床で跳ねた。

「あらっ大変」

 成宮夫人が小さく声をあげて、テーブル端のボタンに手を伸ばす。
 個室で食事をしているので、用がある際はそれでスタッフを呼ぶ仕組みになっている。
 司冴は、とりあえずナプキンを手に立ち上がり、莉子の側へと回ってしゃがみ込む。
 フォークを拾い、落ちた肉片をナプキンで包み指を汚さないよう回収する。そのついでに莉子のワンピースが汚れなかったかと視線を向けると、彼女の顔が間近にあって驚いた。
 それは相手も同じだったようで、司冴と目が合った莉子が「ヒッ」と、喉の奥で小さな悲鳴をあげる。
 よく見ると彼女は、片方の手でテーブルを掴み、もう一方の腕を伸ばして椅子に座った姿勢のままフォークを拾おうとしていたらしい。
 深窓の令嬢にあるまじき姿だ。
 咄嗟とっさのことに動揺して、うっかり素が出てしまったようで、彼女越しに成宮夫人がおでこに手を当てているのが見える。
 ――こんな格好、この前もしていたな。
 それを思い出すと、妙な悪戯いたずら心が働く。

「君は視野が狭すぎる。もう少し落ち着きを持った振る舞いを心がけてはどうだ?」

 いつぞやのやり取りを思い出して、揶揄からかい交じりで投げかけた司冴の言葉に、莉子はみるみる顔色をなくしていく。
 いつも迷いなく強気な彼女が見せる初めての表情に、笑いがこみ上げる。

「ぶちょ……これ……あの……」

 自分にしか聞こえない声でゴニョゴニョ話す莉子の姿を見て、司冴は中途半端な状態に伸ばしたままになっていた莉子の手を取り立ち上がる。
 そしてそのまま、わざとらしいくらいさわやかな微笑みを添えて語りかける。

「莉子さん、よろしかったらこの後二人でお茶でもいかがですか?」

 司冴としては、これはちょっとした悪戯いたずら心で、ここまですればさすがに笑ってくれると思ったのだが、莉子の表情は青ざめていく一方だ。

「はい。……喜んで」

 莉子は、ちっとも嬉しそうじゃない顔で答えてうなだれる。
 隣の成宮夫人が「この子ったら照れちゃって」なんて莉子を茶化しているが、そういうことではないだろう。
 司冴は普段見ることのない彼女の反応に、どうにか笑いを噛み殺した。
 駆け付けたスタッフにナプキンを渡し、新しいカトラリーを頼むと自分の席に戻り、蒼白になってうつむく莉子を眺めた。
 ――まさか本気で、俺にバレていないと思っていたとは……
 その事実に気付くと、いつも威風堂々と生きる彼女が、急に危なっかしい存在に思えて目が離せなくなる。
 ――もう少しの間、普段とは違う彼女の表情を見ていたい。
 相手に迷惑をかけないためにも、最初から断わるつもりでいたはずの見合いなのに、急にそれが惜しくなる。
 自然とおのれの胸に湧いた欲求に、司冴自身が戸惑う。
 遺児になった自分を引き取り、なに不自由なく育ててくれた今の両親に恩返しするためにも、司冴はただひたすら勉強や仕事にはげんできた。そのせいで、かなり執着心の薄い性格に育った。
 そんな彼にとって、今不意に莉子に対して抱いたこの思いは、なんとも言えないくすぐったさがある。
 その感覚をすぐに手放す気にはなれず、司冴はこの後どんな話をしようかと考えながら食事を続けた。


   ◇◇◇


 先に帰ると言う伯母と小泉夫人を見送り、食事をしていたレストランから、同じ館内にあるラウンジに場所を移した莉子は、一人掛けのソファーに向き合って座る司冴に深々と頭を下げた。

「今まで黙っていてすみません。実は私の父はイタゲンという会社を経営しておりまして……」

 なにをどう話すべきかわからないけど、まずはそこから語るべきだろう。
 そう考えて、自分の家族について話し出そうとした莉子を、司冴がさえぎる。

「最初から知っているよ」
「はいっ!? 最初って、どういう意味ですか?」

 思いがけない言葉に、莉子は目をパチクリさせた。
 そんな莉子の反応を見て、司冴が小さく笑う。その表情は、オフィスで冷徹御曹司として恐れられている彼とは、まるで別人だ。
 ――眼鏡を外すだけでずいぶん印象が違う。
 莉子が妙な感慨を抱いていると、司冴が呆れ声で言う。

「職場で顔を合わせる前から、君のことはパーティーなどで見かけていた」

 そう言われれば納得はいく。
 泉ホールディングスの後継者である司冴はもちろんのことだが、莉子も時折、イタゲンの社長令嬢として公の場に出席することはある。
 莉子は気付いていなかったが、どうやらそういった際に、自分たちは顔を合わせていたらしい。

「さすが部長、すごい記憶力ですね」

 素直に相手を賞賛して拍手する莉子に、司冴が苛立ちの眼差しを向けてくる。
 凡庸な莉子からすると十分尊敬に値する記憶力なのだが、司冴にとっては、それくらい当然のことなのだろう。

「覚えてなくてすみません」

 莉子が肩をすぼめて謝ると、司冴は前髪をクシャリと乱す。

「……とりあえず、プライベートな場でその呼び方はやめてもらえないか」

 確かに休みの日まで部長と呼ばれては落ち着かないだろう。

「では、小泉さん」
「……」

 莉子が呼び方を改めると、司冴が肩を小さく上下させた。その仕草が、呆れているというより、寂しげに見えるのは、莉子の思い過ごしだろうか?
 ――気のせいだよね。
 このやり取りのどこにも、彼にそんな表情をさせる理由はない。

「改めてになりますけど、小泉さん、ありがとうございます」
「……なにが?」

 ペコリと頭を下げる莉子に、司冴が納得のいかない顔をするが、お礼を伝える理由はちゃんとある。

「私の家のことを承知で、普通に接してくれていたんだなと思って。それに家のこと、黙っていてくれたわけですし」

 良くも悪くも、イタゲンの社長令嬢という肩書きは、莉子の人生について回る。
 それでも板倉莉子一個人として評価してほしいと思うから、社会に出て働いているのだ。
 だから、素性を知った上で莉子を一社員として扱い、日々小言を口にしていた司冴の対応が嬉しい。
 ソファーの肘掛けを利用して頬杖をつく司冴は、莉子の意見に露骨に顔をしかめた。

「私、なにか間違ったことを言いましたか?」

 普段から相容れない仲ではあるが、今日の彼とはいつも以上に会話がかみ合わない。

「君は、お人好しがすぎる。そんなんだから、家族にだまされて俺と見合いさせられる羽目になるんだ」

 司冴の言葉に、莉子は目を丸くする。

「え、これお見合いだったんですかっ!」

 莉子としては伯母の観劇に付き合った先に司冴がいて、偶然の巡り合わせに驚いていたのだけど、違ったらしい。

「まあ俺も、相手が君だということは知らなかったがな。母からは、『知り合いが、姪御さんを紹介したいと言っている』『気が合うようだったら、結婚を視野に入れたお付き合いをしてみては?』と言われていた」

 司冴が、結婚を視野に入れたお付き合いとやらをする場合、その相手である莉子も同じ考えを持っておく必要がある。
 そうなればこれは、見合い以外のなにものでもない。
 ――そういえば……
 先日、断られるのを承知で見合い話を持ってきた伯母は、莉子が興味を示さないとわかれば、あっさりその話を引っ込めて今日の観劇に誘ってきた。
 その時彼女は、なんと言っていただろうか。
 ――今は時代が違うから……関心を持てる相手と巡り合わせるくらいに……
 先日の会話を思い出して目眩めまいを覚える。
 あの時の見合い話は、莉子の気を逸らすためのフェイクで、美和子の狙いは最初からこちらにあったのだ。
 そして、観劇に誘われた後の買い物や今日の一連の流れを考えると、この目論見には自分の母も少なからず加担しているのだろう。

「やられた」

 そんな裏があるとは知らず、司冴が自分に気付いていないことを願って、あれこれ小芝居した後なだけに腹立たしい。

「お見合いってわかっていたら、最初からちゃんと断っていたのに」

 悔しがる莉子の向かいで、司冴がそっと息を吐く。
 なにか不穏な気配を感じさせる息遣いに視線を向けると、司冴が莉子に冷ややかな眼差しを向けていた。

「小泉さん、どうかしましたか?」
「いや。俺との見合いは、よほど不本意だったのだなと思って」
「それはそうでしょう」

 莉子は大きく頷く。
 普通に舞台や食事を楽しみたかったのに、伯母が変なくわだてをしたせいで、無駄にやきもきして思うように舞台を楽しめなかった。
 司冴も、莉子と同じ気持ちのはず。

「そもそもお見合いや政略結婚なんて、私のキャラには合いません。小泉さんの方から『こんな跳ねっ返りはお断りだ』って、断ってください。ウチの家族が、それで気を悪くすることはありませんから」

 司冴のような非の打ち所のない完璧御曹司との縁談を、莉子の側から断るなんて失礼なことはできない。逆に莉子の家族は、おのれの娘の不出来を重々承知しているのでそれで問題ない。

「正式なお見合いというわけでもないし、それでお互い、今日のことは忘れて、会社ではこれまでどおりのお付き合いでいきましょう」

 サクサク話をまとめる莉子に、司冴が「断ると言ったらどうする?」と、意味深な表情で問いかけてくる。

「それで問題ありません」

 さっきから、そう言っているではないか。
 相変わらず彼との会話が噛み合っていないような気がして視線を向けると、司冴がニッと口角を持ち上げて悪戯いたずらな笑みを浮かべている。

「君の提案を俺が断ったらどうすると聞いているんだが?」

 意味がわからない。

「私の提案を断る……って、断ってどうするんですか?」

 戸惑う莉子に、司冴は、少し思案してからとんでもないことを言う。

「そうだな。君にプロポーズでもしてみようかと」
「な、なんでそうなるんですかっ!」

 とんでもない発言に、少しでも彼と距離を取ろうと、莉子は背中をソファーの背もたれに押し付けた。
 その声に他の客がチラリとこちらに視線を向けたので、莉子は慌てて表情を取りつくろい「ご冗談はよしてください」と、微笑んで見せた。
 なんとか社長令嬢としての体裁を保とうとする莉子を見て、司冴は、悪戯いたずらを楽しむ少年のような表情を見せる。

「イタゲンの社長令嬢である君を逃がさないため、と言ったらどうする?」

 口調から、彼が自分を揶揄からかっているだけとわかるのだけれど、普段、冷静沈着な上司が見せる思わぬ一面に上手く思考が追いつかない。

「小泉さん、もしかして、私になにか怒ってますか?」
「なぜそう思う?」

 問いかける司冴の声にはとげがある。
 どうやら正解らしい。
 莉子は、無意識のうちに彼を怒らせてしまったようだ。
 でもなにせ、あれこれ至らない跳ねっ返り令嬢なので、自分のなにがその引き金になったのかがわからない。
 見合い相手が莉子であることに怒っている様子はないので、これまで素性を隠していたことだろうか。
 よく考えればM&Aの橋渡しを主な業務内容とする泉M&Aパートナーは、独自の情報網を有していて様々な企業の内情などにも通じている。
 莉子としては、自分一個人を評価してほしくて素性を隠していただけだが、見ようによっては産業スパイと捉えられてもおかしくはない。
 もちろん莉子はそんなことはしていないし、司冴だって本気で疑っているのであれば、莉子を閑職に追いやっているはずだ。
 上司を信頼せず、素性を明かさなかったことが、完璧御曹司の彼としては面白くなかったのだろうか?
 確かにそれは、失礼だったかもしれないが。
 ――プライバシー保護が推奨されるこの時代、私は間違ったことをしていない……
 だから不当な扱いを受けるいわれはないのだけど、簡単に割り切れないのが人間心理というものだ。
 それは司冴も同じなのだろう。
 本気で莉子を疑ってはいないが、素性を隠して働く莉子に消化しきれない苛立ちを覚えていて、このタイミングで少し困らせてやろうと画策しても不思議はない。
 だとしても、これは少々意地悪がすぎる。

「政略結婚なんて、私のキャラに合いません」

 莉子は司冴をにらむ。
 眼鏡を外している彼は、顔の造形の良さがいつも以上に際立っている。
 しかも眼差しには獲物を狙う猛禽類もうきんるいのような鋭さがあるので、気後れしそうになるが、莉子はどうにか自分を奮い立たせる。
 獣のケンカでもあるまいし……そうは思うのだけど、なんとなく自分から目を逸らすのは悔しい。
 それでジッと見つめ返していると、フッと彼の表情が緩んだ。

「安心しろ、俺も君との政略結婚なんてお断りだ」

 長い指で頬を撫でて司冴が笑う。
 そんな言い方をされると少々かんに障るが、望んでいた台詞を引き出せたのでそれで良しとしておく。

「では、双方円満な形での契約不成立ということで」

 このことは早く忘れて、明日からお互い通常モードに戻ろう。
 莉子がテーブルに手をついて立ち上がろうとすると、彼がそこに自分の手を重ねてきた。

「あの……」
「結婚する気がないからこそ、君と婚約するのも悪くないかと思ってな」

 司冴はそう言って、悪戯いたずらな笑みを浮かべる。どうやら彼は、この言葉遊びをまだ続けるつもりらしい。
 莉子が脱力してソファーに座り直すと、司冴は重ねていた手をどけた。

「あの……、部長、プライベートと会社での態度が違いすぎませんか」

 本来の距離に戻りたくて、あえて役職で呼んでみる。
 だけど彼の反応は変わらない。ニッと、口角を持ち上げるだけだ。

「公私は、分ける主義だ。今の俺は上司としてではなく、泉ホールディングスの後継者として、イタゲンの社長令嬢である君に交渉という名の脅迫を持ちかけているのに」

 ――あ、ついに脅迫って明言した。
 声に出すのが面倒で、心の中でツッコミを入れる。

「今さらになりますが、私、板倉莉子は大手塗料メーカーであるイタゲン社長の一人娘です。そして小泉司冴さんは、泉ホールディングスの跡取り息子」

 自分と彼の顔を指し示しながら、確認をする莉子に、司冴がのらりくらりと言葉を返し、涼しい顔で久我の名前まで出しておどしてくる。
 久我に知られたらどうなるかと問われれば、「面倒なことになります」と認めるしかない。

「と言うわけで、俺と結婚を視野に入れたお付き合いとやらをしてみないか? 泉ホールディングスの利益に繋がる大企業のご令嬢と交際を始めたと言えば、俺も久我さんに、娘さんとの縁談を諦めてもらえるだろう」

 司冴は名案とばかりに不敵に笑うが、それは彼の側から見た場合の意見にすぎない。

「私へのメリットが感じられません」

 莉子が唇をわなわな震わせる。
 それに対して司冴は「本当にそうか?」と、揶揄からかい口調でのたまう。

「はい」
「だから君は視野が狭いと、いつも言っているんだ」

 キッパリ断言した莉子に、司冴が大袈裟に呆れて見せる。
 そしてこう付け足す。

「正しくは、そう見えるよう芝居に付き合ってほしいだけだ」
「はい?」
「お互いに結婚の意思がないからこそ、『結婚を視野に入れたお付き合い』を始めたことにしないかと言っているんだ。そうすれば俺は周りを納得させられるし、君も今回のようなだまし討ちのお見合いを仕組まれる心配もなくなるだろ」

 その意見に莉子が目をぱちくりさせると、司冴はやれやれと肩をすくめる。

「冷静に考えてみろ。現状、どちらの家も一気に結婚まで話を進めようとしているわけじゃない。家柄の釣り合う相手と交際することで外野を黙らせられるなら、表向きそういうフリをしておいて、折を見て別れたことにしてはどうかと提案しているんだ」

 つまり『結婚を視野に入れたお付き合い』というのは、あくまでも表向きの演技で、莉子に契約カップルにならないかと提案しているのだ。
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