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第1章 雨の古書店
しおりを挟む~~ 眠りと覚醒の間で揺れる意識 ~~
~~ インクと紙の香りが漂う ~~
~~ 知らない誰かの痕跡を追いかけて ~~
午前十時十分、わたしは神保町の古書店に入った。日曜日だというのに雨が降っていた。予報では晴れのはずだったのに。地下鉄の駅を出た瞬間、灰色の空から細かな雨が頬にかかった。人々は足早に歩き、カフェの軒先には避難する人たちの小さな群れができていた。古書店街の通りは普段よりも静かで、雨に濡れた石畳が薄暗い光を反射していた。
わたしは駅前のコンビニで買った透明なビニール傘を片手に古書店に滑り込んだ。傘を畳みながら、店内を見渡すと、何層にも重なる本棚が迷宮のように広がっていた。
「いらっしゃい」
静かな声が本棚の向こうから聞こえてきた。顔を向けると、痩せた老人が古い木製の椅子から立ち上がり、こちらへ歩いてきた。店の主人らしい。白髪は薄く、頬はこけていて、灰色のカーディガンを羽織っていた。しかし目は若々しく光り、その瞳には穏やかな知性が宿っているかのようだった。
「ありがとうございます」
わたしはそう言って会釈すると、奥の棚に向かった。狭い店内は本の香りで満ちていた。この天気のせいか、店の中にはわたし以外の客がいなかった。
はじめて足を踏み入れたこの古書店の雰囲気に、わたしは自然と引き込まれていった。静かな空間に漂う紙とインクと時間が混ざり合った独特の香りが心地よい。三十歳を超えたあたりから、なぜか本の匂いが昔よりも強く感じられるようになった。けれど今日は単に店の雰囲気を楽しむために来たわけではない。ドストエフスキーの『白夜』を探しているのだ。この作品が最近イギリスの翻訳文学売上ランキングで上位に入り、SNSでも話題を集めたことから、出版社では新訳による新装版の発売が決まった。そしてわたしがその担当編集者に選ばれたのだ。
古い文庫本が並ぶ棚の前で、わたしは指を本の背に沿って滑らせながら、目的の本を探した。そして「ド」の並びを見つけると、背筋を自然と伸ばした。ドゥマ、ドライサー、そしてドストエフスキー。『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、そして『白夜』。古い新潮文庫版だった。手に取ると、表紙はかなり色あせていた。
パラパラとページをめくると、中に書き込みがあることに気がついた。わたしは普段、書き込みのある本は好きではない。他人の思考の跡に、わたし自身の読書体験が汚染されるような気がするからだ。でも今回は違った。何か引き寄せられるように、その書き込みに目を凝らした。
ページの余白に、青いインクで書かれた文字。
「昼と夜の境界線を超えておいで、本当の自分を与えてあげる」
わたしは息を止めた。その文字は優美で計算された筆跡だった。流れるような曲線と、一文字一文字の間に置かれた絶妙な間隔。男性の字か女性の字か、判然としなかった。何か特定の人物に向けたメッセージのようでもあり、単なる読書の余韻として残された感想にも見えた。
わたしは慎重に他のページも確認したが、書き込みはそれだけだった。最後のページだけに、その一文だけが残されていた。神秘的な暗号のようでもあった。わたしはその瞬間、なぜか背筋に小さな震えが走った。
「何か見つかりました?」
老人の声に、わたしは少しばかり驚いた。いつの間にか背後に立っていたらしい。
「ドストエフスキーの『白夜』です」とわたしは答えた。「古い版を探していたんです」
「ああ、ドストエフスキーの『白夜』かい、あれは素晴らしい」
老人は懐かしむような表情を浮かべた。彼はわたしの手に持つ本を見て、目を細めた。本を手に取ると、ぱらぱらとページをめくって最後のページを見せた。
「ここに書き込みがあるけど、それでもよければどうぞ」
「ご存知だったんですか?」わたしは驚いて聞き返した。
「この本は昨年買い取ったんだ。書き込みがあることは知っていたよ。でも、その文章が何を意味するのかは、わしにはよくわからん。君にはわかるかい?」
老人の目は、わたしの反応を見極めようとしているようだった。まるで試しているように。わたしは首を横に振った。
「でも、気になります。この本、いただけますか?」
老人は静かに頷いた。「縁があったのかもしれないね。あるべき人の手に渡ると、本は扉になることがある」
その言葉に、わたしは一瞬息をのんだ。忘れかけていた、本が別世界への入り口だという感覚が、遠い記憶から蘇ってきた。
雨はまだ降り続いていた。わたしは透明な傘を開いて、古書店を後にした。空気は湿り、足元には大きな水たまりができていた。神保町の古い建物の間を縫うように歩いていく。週末だというのに人通りは少なかった。
古書店から雨の舗道を数分歩くと、路地の角に小さな喫茶店が現れた。ガラス窓に雨粒が斜めに走り、中からは温かな光が漏れていた。わたしは濡れた傘を畳み、その光に誘われるように店内へと足を踏み入れた。
窓際の席に腰掛け、紅茶とサンドイッチを注文する。湯気の立ち上る琥珀色の紅茶が運ばれてくるのを待つ間、わたしは今日見つけた『白夜』を再び手に取った。ページの余白に書かれた文字を、指先でそっと撫でるように辿る。あの流れるような曲線と計算された文字間隔は、ただの偶然の書き込みとは思えなかった。まるで誰かが、わたしのためだけに残したメッセージのような気がした。
隣のテーブルでは、若いカップルが結婚式の準備を相談していた。男性の言葉に女性が微笑み、時折小さく頷く。その仕草に、二人の間を満たす期待と幸福感が滲み出ていた。女性がふと顔を上げ、わたしと目が合うと、自然な笑顔を向けてきた。わたしも微笑み返したものの、その瞬間、胸の奥に沈む鈍い痛みを感じた。
サンドイッチを噛みながら、一年前のことが静かに思い出されてきた。婚約の破棄。それ以来、確かに何かが変わった。彼は真面目で誠実な男性だった。良い夫になるはずだった。良い父親にもなっただろう。それでも、その関係には何かが足りなかった。足りないものの正体を、わたしはうまく言葉にできなかった。
それはまるで、わたし自身の何か根本的な欠陥を証明されたような感覚だった。欠陥と向き合う方法も、それを埋める術も、わたしには見つからなかった。いつしか、サンドイッチを半分も食べることができないことに気がついた。わたしは急いで会計を済ませ、再び雨の中へと身を投じた。
アパートに帰り着く頃には、雨がやんでいた。傘を畳むと、予想以上に水滴が飛び散った。わたしはビニール傘を玄関脇にある傘立てに立てかけた。いつの間にか三本目になっていた。
同じような透明なビニール傘が三本並ぶ光景に、わたしは足を止めた。そこには生活の何かが象徴されているような気がした。取り替え可能でどこにでもあるような品々。日々を過ごすだけの、特別でもない、誰かに記憶されることもない存在。それがわたし自身の姿と重なって見えた。
部屋に入ると、わたしは買ってきたドストエフスキーの『白夜』をテーブルに置いた。キッチンに向かい、紅茶を入れた。いつもの動作、いつもの味。
キッチンから戻ると、テーブルの上の『白夜』が窓から差し込む夕方の光を浴びて、輝いているように見えた。本の角が金色に光り、その輪郭だけが浮かび上がっているようだった。わたしはそれを手に取り、窓際の小さな椅子に腰掛けた。
『白夜』は短い作品だ。主人公の「夢想家」が白夜の季節のサンクトペテルブルクで、ナースチェンカという女性と出会い、四日間を共に過ごす物語。結局彼女は恋人と再会して去っていき、主人公は再び孤独に戻る。
なぜこの小説が今、イギリスで流行しているのだろう。わたしはその理由を考えた。おそらく現代人の孤独感に共感する何かがあるのだろう。あるいは、束の間の出会いとその後の喪失感が、現代の関係性の儚さを象徴しているのかもしれない。
窓の外では、黄昏時の光が徐々に薄れ、夜の気配が忍び寄っていた。わたしは本を脇に置き、テレビをつけた。料理番組を何となく眺めたが、言葉の意味はほとんど頭に入ってこなかった。思考はどこか遠くに漂い、指先でソファの布地を無意識に撫でている自分に気づいた。
その夜、わたしはいつもより早く床に就いた。明日は月曜日で、また普通の一日が始まる。編集部での仕事、著者とのやり取り、夕方の打ち合わせ。慣れ親しんだ日常という名の檻の中に戻る。
ベッドに横たわり、天井を見つめながら、今日見つけた本のことを考えた。あの書き込みは誰が、何のために残したのだろう。偶然にしては意味深すぎる言葉だった。まるで誰かが、わたしだけに向けて残したメッセージのように思えた。
わたしは明かりを消して目を閉じた。「昼と夜の境界線を超えておいで、本当の自分を与えてあげる」という言葉が闇の中で青く光っているような気がした。その文字が徐々に薄れていくにつれて、わたしの意識も溶けるように拡散していった。
夢と現実の境界線が溶けていく感覚のなかで、わたしはいつしか眠りに落ちていた。
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