境界線の向こう側 〜主従のはじまり〜

ゆずる先生

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第2章 モネの睡蓮

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~~ 光と影が溶け合う水面のように ~~
~~ 境界が曖昧になる瞬間 ~~
~~ 視線の交差が織りなす新たな糸 ~~

出版社のエレベーターは、いつもの通り五階で静かに止まった。わたしは編集部のドアを開け、自分のデスクへと向かった。月曜日の朝はいつも静かだ。同僚たちが週末の疲れを引きずっているのか、それとも新しい一週間への覚悟を決めているのか、空気は少し重い。

わたしのデスクの上には、先週から読みかけていた原稿が置かれていた。それとは別に、『白夜』の新訳のゲラ刷りもあった。神保町で見つけた古い版を取り出し、現在進行中の新訳と比較してみる。言葉の選び方、文の運びの微妙な違い。翻訳とは不思議なもので、同じ原文から生まれるのに、訳者によって全く違う印象を受けることがある。

目の前にある新訳は洗練されていた。現代的で読みやすい。しかし古い訳には独特の風合いがあった。時代を経た木のような、年輪を刻んだ言葉の重み。わたしは両方の訳を交互に読み比べながら、メモを取っていった。

「おはよう、佐々木さん」

声がして顔を上げると、田村が立っていた。コーヒーを持ち、目の下に軽い隈があった。わたしは昨夜から残っていた紅茶の空カップをとっさに脇へよけた。

「おはよう」わたしは答えた。「週末はどうだった?」

「子どもとディズニーランドに行ってきたよ。楽しかった」田村は笑って椅子に腰掛けた。「君は?」

「特に何も」と答えながら、わたしは神保町で見つけた本のことを思い出していた。「昼と夜の境界線を超えておいで、本当の自分を与えてあげる」。その言葉は、まだわたしの中で反響していた。でも、それについて田村に話す気にはなれなかった。

「そうか」田村はわたしのデスクの上の本に目を向けた。「『白夜』の準備は順調?」

「ええ、まあ」

「僕も読んでみたけど新訳はいい感じだと思うよ。ドストエフスキーが現代に蘇ったみたいだ」

田村はそう言って、自分のデスクに戻っていった。彼は普段から陽気で話好きだが、今日はいつもより静かだった。疲れているのかもしれない。

一日は静かに、しかし忙しく過ぎていった。『白夜』の装丁デザインについての会議、訳者との電話、解説を依頼する文学研究者とのメール、他の原稿の確認。夕方になり、わたしが帰り支度をしていると、田村が声をかけてきた。

「佐々木さん、『白夜』の新装版、いつになく気合が入ってるね」

「そう見える?」わたしは少し照れたように原稿から顔を上げた。

「ああ、いつもなら黙々と仕事をこなすタイプなのに、この企画ではデザイナーとも熱心に打ち合わせしてるって噂だよ」

「まあ、たまたまね」わたしは言葉を濁した。「古典だからこそ、現代に伝わる形にしたいだけ」

「そうかな?」田村は意味ありげに笑った。「ドストエフスキーの『白夜』に特別な思い入れでもあるの?」

「古い本には思い入れがあるの」わたしは言葉を選びながら答えた。

「なるほど」田村はうなずいた。「僕も学生時代に『カラマーゾフの兄弟』に救われたことがある。人生の岐路で読む本って不思議と心に残るよね」

「そうね」わたしは微笑んだ。「どんな本に出会うかで、人生は変わるかもしれない」

「哲学的だね」田村は笑って言った。「じゃあ、その思いを新装版に込めてください。期待してるよ」

「ありがとう」わたしは軽く頭を下げた。

その後、わたしはデスクに戻り、仕事を続けた。田村の言葉が妙に心に残った。確かに『白夜』には特別な思い入れがある。でも本当の理由は言えなかった。古書店で見つけた謎めいた書き込み。その言葉は、わたしの内側のどこかで、かすかな波紋を広げている感じがした。

その週は、目まぐるしいスピードで過ぎていった。毎日が同じようなリズムで繰り返される。朝、目覚める。紅茶を飲む。電車に乗る。仕事をする。帰宅する。そして眠る。時々、神保町で見つけた『白夜』の書き込みのことを思い出すが、それ以上深く考えることはなかった。現実的な日常の流れに身を任せているほうが、心が落ち着く気がした。

会社帰りの電車のなか、疲れた目で車内の広告を眺めていると、六本木の美術館でのモネ展の中吊り広告が目に入った。「睡蓮:光と水の交錯」というタイトル。わたしはその広告を長い間見つめていた。大学時代、初めてモネの「睡蓮」の複製画を見たときの感動を思い出した。水面に映る空と、水と空が溶け合うあの不思議な世界。現実と反射が一つになる瞬間。

電車を降りる直前、ふと決意した。この週末、その美術館に行ってみよう。風のように過ぎ去る毎日から少し離れて、新たな刺激に触れたい、という思いが突然湧き上がってきた。

そして土曜日の午後、わたしは六本木の美術館に向かっていた。空は明るく、風は穏やかだった。いつもと違う週末の過ごし方。小さな冒険と言えるかもしれない。

美術館は予想以上に混雑していた。エントランスは人で溢れていた。事前に予約していればよかったと思いながら、列に並ぶ。三十分ほど待った。その間、わたしは周囲の人々を観察していた。カップル、家族連れ、友人同士、一人で来ている人。皆、それぞれの関係性の中に存在している。わたしだけが何の関係性もなく、ただそこに立っているような虚ろな感覚がぼんやりとした。

やっと展示室に入ると、静かな空間が広がっていた。壁に掛けられたモネの絵画たち。色彩が踊り、光が揺れている。わたしはゆっくりと歩きながら、一つ一つの作品を見ていった。睡蓮の連作は、同じモチーフでありながら、光の当たり方、時間、季節によって全く異なる表情を見せる。同じ池を、同じ場所から描いているのに、見えているものが違う。これは見る人の心の状態が反映されているからなのだろうか。

そして最後の展示室に入ったとき、わたしは「睡蓮」の大作の前で足を止めた。青と緑と紫が混ざり合う水面。水に映る雲の姿。水面と空が溶け合い、どこからどこまでが現実で、どこからが反射なのか判然としない光景。わたしはその絵に見入っていた。

「美しいですね」

突然、横から声がした。振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。

野崎。大学時代の文芸サークルの先輩。黒縁の知的な眼鏡をかけ、ダークグレーのジャケットを着ていた。八年ぶりだろうか。

「野崎さん?」わたしは驚いて言った。

「佐々木さん」彼は微笑んだ。「久しぶりですね」

「ええ、八年くらい」

「七年と四ヶ月です、同窓会以来ですね」彼は正確に言った。そして少し間を置いて、「覚えていてくれて嬉しいです」と付け加えた。

野崎の記憶の正確さに、わたしは少し驚いた。彼がわたしのことをそこまで覚えていたことが、どこか不思議だった。わたしたちは静かに立ち、再び絵に目を向けた。

「このシリーズは特別ですね」野崎は言った。「現実と幻想の境界が溶け合う。水面は二つの世界の間にあって、分けるのではなく、むしろ繋ぐ場所になっている」

わたしは一瞬息を飲んだ。「境界」という言葉に、古書店で見つけた『白夜』の書き込みを思い出したからだ。それが偶然なのか、意図があるのか判断できなかった。

「どうかしましたか?」野崎が尋ねた。

「いいえ、ただ...その表現が印象的だなと思って」わたしは言葉を濁した。

野崎は微笑んだ。「佐々木さんが文芸サークルで発表していた小説、覚えていますか?あれも境界についてのものでした」

わたしは驚いた。「覚えているんですか?、えっと、わたし、境界についてでしたっけ」

「もちろん」彼の目はわたしをじっと見つめていた。「あの小説は印象的でした。『鏡と私、そして犬』というタイトルでしたね。特に印象に残っているのは、主人公が鏡を通して別の世界を覗き見るシーンです。現実と非現実の間に張り巡らされた透明なとばりを、あなたは驚くほど繊細に描いていました。日常と非日常の境目が曖昧になる瞬間の描写は、今でも鮮明に覚えています。」

わたしは頬が熱くなるのを感じた。大学時代に書いた拙い小説を覚えているなんて。わたし自身、ほとんど忘れていた。さらには、「境界」という言葉で野崎が表現したその真意に、わたしは自分でも気づいていなかった。単に不思議な鏡の物語を書いたつもりだったのに。野崎の言葉によって、自分の書いたものの異なる側面が突然光の中で浮かび上がったような感覚があった。

「今は何をされているんですか?」わたしは話題を変えるために尋ねた。

「IT関係の仕事をしています。システムのアーキテクトやコンサルタントとして」野崎は答えた。「最初は会社勤めでしたが、今は自分のペースで仕事を選べるようになりました」

「文学とはかけ離れた世界ですね」

「いいえ、意外と近いんです」彼は言った。「プログラミングも言語を操る芸術です。構造と美学があり、論理と直感が交わる」

わたしは彼の言葉に興味を持った。「それは面白い視点ですね」

「佐々木さんは?」

「今も出版社で編集者をしています。最近はドストエフスキーの『白夜』の新訳版を担当しているんです」

野崎の目が輝いた。「『白夜』ですか。興味深い選択です」

「選択というより、任命されただけですが」

「偶然とは思えませんね」彼は言った。「『白夜』は境界についての物語でもあります。昼と夜の境界、現実と夢の境界、孤独と繋がりの境界」

その言葉に、わたしは息をのんだ。神保町で見つけた本の書き込みが頭をよぎった。野崎の「境界」という言葉の使い方には、意図的な響きを感じた。あの書き込みを知っているかのような。

野崎はわたしの反応を見逃さなかった。「どうかしましたか?」

「いいえ、ただ...」わたしは言葉を探した。「最近、古い『白夜』の本を見つけたんです。そこに不思議な書き込みがあって」

「どんな書き込みですか?」彼は真剣な眼差しでわたしを見た。

わたしは少し躊躇した後、答えた。「『昼と夜の境界線を超えておいで、本当の自分を与えてあげる』と書かれていたんです」

野崎は長い間黙っていた。その沈黙はわたしの心拍を早める効果があった。そして静かに言った。「興味深いメッセージですね。まるで招待状のようです」

「招待状?」

「はい、別の世界への」彼は微笑んだ。「まだ時間がありますか?このあと少しお付き合いいただけませんか?」

わたしは一瞬迷った。初めは戸惑いもあったが、見えない力に引き寄せられるように、「はい」と答えていた。自分の口から出た言葉に、わたし自身が少し驚いた。

美術館を出ると、午後の柔らかな光が街を包んでいた。野崎は六本木のヒルズ近くにあるカフェへとわたしを案内した。「『アルテ』というカフェです。静かで落ち着いた場所で、コーヒーがとても美味しいんです」

カフェは大きな窓から光が差し込む、洗練された空間だった。白い壁、木の温もりを感じる家具、そして壁には抽象画が飾られていた。土曜の午後だというのに、それほど混雑していなかった。場所を知る人だけが訪れる隠れ家のような雰囲気だった。

窓際の静かなテーブルに案内され、わたしたちは向かい合って座った。店内からは美術館の建物が見えた。窓ガラスに反射する光が、テーブルの上に揺らめく影を作っている。

「ここは隠れた名店なんです」野崎が言った。「焙煎から丁寧に行っていて、一杯一杯ハンドドリップしています」

「よく来られるんですか?」わたしは尋ねた。

「ええ、考え事をするときによく来ます。静かな環境が好きなんです」

注文を取りに来た店員に、野崎は「いつもの」と言った。そして「今日のスペシャルティコーヒーは何ですか?」と尋ねた。店員はエチオピアのイルガチェフという豆について説明し始めた。花のような香りと柑橘系の酸味が特徴的で、最近入荷したばかりだという。わたしには専門的な話で難しかったが、野崎は興味深そうに聞いていた。

「佐々木さんは何にしますか?」

「わたしは...」迷った末に「紅茶をお願いします」と答えた。

「こちらのアッサムがおすすめです」店員は言った。「今シーズンの新茶です」

わたしは頷いた。飲み物が運ばれてくるまでの間、わたしたちは窓の外を眺めていた。空は青く、雲ひとつない完璧な日だった。

「『白夜』についてどう思いますか?」野崎が飲み物を前に尋ねた。

「『白夜』...」わたしは言葉を探した。「孤独な主人公が偶然出会った女性との四日間の交流を通じて、何かを見出そうとする物語です。でも最後には彼女は去り、主人公は再び一人になる」

「そう見ることもできますね」野崎は頷いた。「でも私は違う読み方をしています。『白夜』とは、現実と非現実の境界が曖昧になる時間。その中で『夢想家』が初めて現実と向き合い、自分の本質に気づく物語だと」

「本質、ですか?」

「はい」野崎の目はわたしをじっと見つめていた。「私たちは皆、自分の本当の姿を知らないまま生きているところがあります。特に『夢想家』のような人は」

「『夢想家』のような人?」

「現実と距離を置き、内面に生きる人」野崎は言った。「佐々木さんもそうではありませんか?」

わたしは息を呑んだ。彼の言葉は心の深層に触れるようだった。そして少し恐ろしかった。まるで透明なガラスのように、わたしの知らない内側を覗き込まれているような感覚があった。深く見られる心地よさと、同時に怖れが入り混じる複雑な感情がわたしの中に蠢いていた。

「わたしのことをどうして...」

「目に映るものを見ているだけです」彼は静かに言った。「でも、佐々木さんの中には語られていない物語が潜んでいる気がします」

その言葉は思いがけず、心のどこかに小さな揺らぎを作り出した。わたしの日常は平凡で、特別なことなど何もないと思っていた。でも野崎の言葉を聞いていると、もしかするとわたしの中にも見えない物語が眠っているのかもしれないという予感が、ぼんやりと浮かんでは消えた。それは霧の向こうに見える風景のように、輪郭がはっきりしない。見られることの居心地の悪さと、同時に期待のような感覚が混ざり合って、言葉にできない気配がそこにあった。

ハンドドリップで入れられたコーヒーが運ばれてきた。陶器の白いカップに注がれた琥珀色の液体から、芳醇な香りが立ち上っていた。野崎はそれを丁寧に受け取り、香りを楽しむように目を閉じた。わたしのアッサムも運ばれてきた。茶葉の繊細な香りが立ち上っていた。

「『白夜』の『夢想家』は、ナースチェンカという女性に導かれて初めて自分自身と向き合います」野崎は続けた。「人は時に、誰かに導かれることで自分の本質に気づくことがある」

「導かれる...」わたしはその言葉を反芻した。

「導く側と導かれる側、その関係性には特別な意味があると思いませんか?」野崎の声は静かだったが、何か力強いものを感じさせた。

わたしは黙って紅茶に口をつけた。温かな香りと渋みが口の中に広がった。窓の外では、人々が行き交っていた。カフェの柔らかな光の中で、野崎の表情は一層知的に見えた。彼の言葉には、わたしが聞いたこともないような視点があり、それは不思議と心に響いた。

「導かれるというと、受動的なイメージがあるかもしれませんが、実はそうではないんです」野崎は続けた。カップを両手で持ち、その温もりを感じるように。「本当の意味で導かれるためには、自ら望み、選び取る意志が必要なんです。それは一種の信頼関係、あるいは互いの理解の上に成り立つ特別な絆とも言えるかもしれない」

わたしは首を傾げた。「特別な絆、ですか?」

「ええ。『この人になら導かれたい』と思える強い意志があってこそ成立するものなんです」野崎の目は穏やかだったが、その奥に熱を秘めていた。「導く側は相手の本質を見抜き、その可能性を引き出す。導かれる側は自分の本当の姿を映し出す鏡を得る。二人は互いに共鳴し合い、互いを高め合う。それは稀有な関係性だと思いませんか?」

野崎の言葉は、わたしの中に奇妙な共感を呼び起こした。導かれることで見えてくる自分自身。それは恐ろしくもあり、魅力的でもあった。言葉にすることが難しい、複雑な感情がわたしの中に広がった。

もし野崎さんに導かれるとしたら——。その思いが不意に頭をよぎった。彼の洞察力、繊細さ、知性。そして何より、静かな強さ。わたしの中の見えない本質を見抜く眼差し。そこに身を委ねることは、どのような体験になるのだろう。ほんの一瞬、その可能性を想像して、わたしは自分の思考に驚いた。こんな風に考えること自体が、いつもの自分とは違っていた。

野崎はわたしの表情の変化を察したのか、さりげなく話題を変えた。

「ところで佐々木さんは、最近他になにか面白い本に出会いましたか?」彼は微笑みながら尋ねた。

わたしはその問いかけに感謝しつつ、最近読んだフランス文学の翻訳について話し始めた。そうして文学の話から、わたしたちの会話は自然と広がっていった。大学時代の思い出、それぞれが読んだ本、好きな映画、東京の変化について。野崎のIT関係の仕事の話も興味深かった。彼はプログラミングの世界を、まるで詩のように語った。論理と美学が交わる場所として。わたしは自分の編集の仕事についても少し話した。著者との関わり方、言葉を磨く時間の大切さについて。

会話は途切れることなく続き、お互いの言葉に耳を傾けながら、時間が流れていった。不思議なことに、八年ぶりの再会にもかかわらず、そこには違和感はなかった。むしろ、長い間知っていた人と再会したような心地よさがあった。大学時代には感じることのできなかった、新しい繋がりのようなものを感じた。

いつの間にか窓の外の光が傾き始めていた。わたしは時計を見て驚いた。三時間近くが過ぎていたのだ。時間の感覚が曖昧になるほど、会話に没頭していたことに気づいた。

「こんなに長居してしまって」わたしは言った。

「いいえ、楽しい時間でした」野崎は微笑んだ。

外に出ると、夕暮れ時の柔らかな光が街を包んでいた。野崎はわたしを駅まで送ってくれた。帰り道、わたしたちは特に何も話さなかったが、その沈黙は不快なものではなかった。むしろ心地よく、二人の間に言葉以上の絆が流れていると感じた。

「今日はありがとうございました」駅に着いて、わたしは言った。

「こちらこそ」野崎は微笑んだ。「今日の再会は偶然のようで、でもなんだか必然を感じます」

そう言って、彼はポケットから名刺を取り出した。シンプルだが質の良い紙に、名前と連絡先が印刷されていた。指先に感じるその紙の質感が、野崎という人の本質を表しているようだった。

「もし良かったら、また会いませんか?」彼はそう言って名刺を差し出した。「今日の話の続きができたらと思います」

わたしは名刺を受け取り、お礼を言った。彼との会話の中で触れた「境界」という概念についてもっと知りたいと思った。そして、わたしの中にある名付けられない空虚さについても。

電車の中で、わたしは窓に映る自分の顔を見つめていた。野崎の言葉が頭の中で反響していた。導く側と導かれる側。現実と幻想の境界。特別な絆。窓に映る自分の顔が、いつもと少し違って見えた。もしかすると、内側で変化が始まっているのかもしれない。

アパートに帰り着くと、わたしは浴槽にお湯を張った。その日の出来事を整理するように、湯船に身を沈めた。新しいものが始まろうとしているという予感と、それに対する躊躇いが入り混じっていた。湯の温かさが身体を包み込むように、野崎との会話がわたしの心を満たしていた。

湯から出ると、窓の前に立った。雨上がりの街の明かりが、アスファルトの上の水たまりに落ちて小さく揺れている。通りを行き交う車のヘッドライトが壁に影を作り、やがて消えていく。部屋の中は深い静寂に包まれ、その静けさがわたしの思考を鮮明にするようだった。白いカットソーと黒のパジャマパンツに着替え、ソファに横になる。手元には『白夜』があった。ページを開くと、またあの文字が目に飛び込んでくる。「昼と夜の境界線を超えておいで、本当の自分を与えてあげる」。その言葉はまるで誰かの囁きのように、わたしの意識の周りをぐるぐると回っていた。気がつけば、壁の時計は静かに午前0時を指していた。

その夜、わたしは不思議な夢を見た。

螺旋階段を上っていくわたし。階段の上には白い光、下には神秘的な闇。途中の踊り場に置かれた鏡の前で立ち止まると、そこには見覚えのある顔が映っていた。でもそれはわたしではなかった。少し違って見えた。自信に満ちた目、柔らかな表情。鏡の中のわたしは微笑み、手招きをした。わたしが手を伸ばすと、鏡の表面は水面のように波打ち、指先が少しだけ向こう側に沈んでいった。

目が覚めると、夢の記憶が鮮明に残っていた。普段は夢なんてすぐに忘れてしまうのに。そして気づいた——これは大学時代に書いた『鏡と私、そして犬』の場面そのものだった。あのときのわたしが創り出した物語の世界が、今のわたしを招き入れようとしているかのようだった。ベッドに横たわったまま、夢の余韻に浸りながら、窓から差し込む朝日を見つめた。柔らかな光が部屋を満たし、新しい一日の始まりを告げていた。

わたしはベッドから出て、野崎の名刺を手に取った。彼に連絡を取るべきか。昨日の出会いが残した印象は強かったが、同時に未知のものへの恐れも感じていた。わたしはスマートフォンを手に取り、野崎の連絡先を見つめた。指が画面の上で宙に浮いていた。
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