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第3章 琥珀色の記憶
しおりを挟む~~ 琥珀色の杯に揺れる記憶の断片 ~~
~~ 視線の重みに震える心 ~~
~~ 他者の意図に身を静かな委ねる悦び ~~
その日の午後、わたしは『白夜』の解説文の原稿を眺めながら、全く集中できずにいた。わたしのバッグには野崎の名刺が入っている。昨日受け取ったばかりなのに、何度も取り出しては眺め、また戻すという行為を繰り返していた。
「連絡すべきだろうか」
心の中でつぶやきながら、画面に向かって適当にキーボードを叩く。「夢想家」とナースチェンカの関係について書こうとしていたが、頭の中は野崎の言葉でいっぱいだった。
午後三時のコーヒーブレイク。田村が席に戻ってくるタイミングで、わたしはトイレに立った。個室に入り、バッグから野崎の名刺を取り出す。メールアドレスと電話番号。どちらに連絡すればいいのだろう。いや、そもそも連絡すべきなのか。
「佐々木さん、締め切りまで大丈夫?」と田村が声をかけてきたのは、トイレから戻ってすぐだった。わたしは慌てて頷いた。「ええ、問題ないわ」
夕方五時を過ぎても、まだ決めかねていた。野崎に連絡する。その一歩を踏み出すことが、深い森に足を踏み入れるように、未知の領域へと誘うような予感があった。怖さと同時に、強い好奇心も湧き上がっていた。このまま会わなければ、「境界」についてもっと深く知ることができない。
結局、その日の夜、わたしは野崎にメールを送ろうと決意した。スマホを手に取り、名刺に記載されたアドレスを画面に入力した。しかし、どんな言葉を綴ればいいのかわからなかった。何度も文章を書いては消し、また書き直す。まるで大学の小論文を書いているような緊張感。ため息をついて、ベッドに背中を預けた。こんな簡単なことなのに、なぜこれほど迷うのだろう。送るメッセージについて一時間近く悩んだ末、ようやく意を決して、指が送信ボタンに触れた。
『先日は楽しい時間をありがとうございました。美術館でのお話や、あのカフェでの会話も興味深かったです。佐々木』
送信した後、なぜか胸がドキドキした。寝る前に何度もメール画面を確認し、届いていることを確かめた。何か返信があるかもしれないという期待と不安を抱えたまま、眠りについた。
翌朝、目覚めるとすぐにスマホを手に取った。通知が一つ。野崎からの返信だった。『こちらこそありがとうございます。またお会いできれば幸いです』というシンプルな内容だけだった。わたしは胸に抱いていた期待が少しだけ萎んだ。あれほど迷って送ったメールに対する返事としては、あまりにも素っ気なく感じた。けれど同時に、「会いたい」と言われたことの意味を噛みしめると、ふと胸のつかえが溶けていくような感覚があった。
その後、平凡な日常が続いた。
しかし、一日が過ぎ、二日が過ぎても、野崎からの新しい連絡はなかった。朝起きるたびに、まずスマホの通知を確認する。メールを開き、迷惑メールフォルダまでチェックする。会社でも、ふとした瞬間に携帯を確認してしまう。何を期待しているのか、自分でも理解できないような空虚感が、少しずつ広がっていった。
野崎からの反応がないことに、わたしは思いのほか落ち込んでいた。美術館での再会、カフェでの会話。あのすべてが一度きりの偶然だったのかもしれない。そう思うと胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
夜の散歩の時間も、いつもより長くなった。アパートの周りを何周もしながら、野崎との会話を何度も思い返す。「『白夜』は境界についての物語」という彼の言葉。「導く側と導かれる側」という関係性についての言及。それらはすべて、わたしの心の奥底の何かを震わしていた。だからこそ、この沈黙が耐え難かった。
三日目の夜、入浴後に全身鏡に映る自分を見つめながら、わたしは自問自答していた。「なぜこんなに気にしているんだろう」。鏡の中の自分は答えてくれなかった。
三日後、再びメールが届いた。
『先日は楽しい時間をありがとうございました。もし良ければ、またお会いできないでしょうか。「本当の自分」について、もう少し話がしたいと思っています。六本木の素敵なバーを知っています。静かで会話に適した場所です。お返事をいただければ幸いです。野崎』
メールを何度も読み返した。「本当の自分」その言葉が心に引っかかった。神保町の古書店で見つけた本の書き込み、「昼と夜の境界線を超えておいで、本当の自分を与えてあげる」という言葉を思い出した。
わたしは再び、あの夜と同じように文章を何度も書き直した。前回は一時間もかけて単なる挨拶文を考えたというのに、今度は返事を求められている。カジュアルすぎず、かといって堅すぎず。「もちろんお会いしたいです」は積極的すぎるか。「都合がつけば」は無関心に聞こえないだろうか。削除と書き直しを繰り返した末、最終的に、シンプルに『はい、お会いしたいです』と返信した。念のため電話番号も添えた。
その後、日常は表向き同じように流れていた。出版社での仕事、『白夜』の編集作業、同僚との何気ない会話。しかし、わたしの中では何かが変わり始めていた。鏡に映る自分をより頻繁に見るようになった。特に家のバスルームの全身鏡の前で、いつもより長く自分を観察するようになっていた。野崎の目に映るわたしはどのように見えているのだろうか。そんな思いが、ふと頭をよぎることがあった。
『白夜』の新装版の作業を進めながら、わたしは原作を改めて読み返していた。「夢想家」とナースチェンカの関係性について、野崎の解釈が心に残っていた。自分は「夢想家」のように、誰かに本当の自分を見出してほしいと願っているのではないか。わたしの心の深淵には、もしかしたら、自分でも気付いていないパンドラの箱があるのかもしれない。
「佐々木さん、ぼんやりして大丈夫?」出版社の休憩室で、田村がそう尋ねてきた。
「え?大丈夫だよ、どうして?」
「なんとなく心ここにあらずというか」田村は言った。
わたしは少し動揺した。そんなふうに見えているのだろうか。
「気のせいよ」と答えながらも、自分の中の変化をあからさまに意識した。
週末、約束の日がやってきた。六本木の駅で野崎と待ち合わせをした。
その日は、小雨が降っていた。傘を持ってくるのを忘れていたわたしは、駅の出口の屋根の下で雨脚を眺めていた。約束の時間より少し早く着いてしまったので、しばらくその場で立ち止まっていた。傘をさして待つ人々。急ぎ足で歩く人々。光に濡れた道路。すべてが少し違って見えた。いつもより鮮やかに、いつもより立体的に。
「佐々木さん」
声がして振り返ると、野崎が立っていた。黒い傘を差し、ダークブルーのジャケットに黒いシャツという出で立ち。少し離れていても、どこか落ち着いた佇まいが目を引いた。
「お待たせしました」と野崎が言った。彼は時計を見た。「少し早く着きましたね」
「はい、仕事が予定より早く終わったので」
野崎は微笑んで、「では、行きましょうか」と言った。彼はわたしの隣に立ち、傘を少し寄せた。「一緒にどうぞ」
一瞬躊躇したが、小雨が強くなってきている。素直に頷いて傘の下に入った。突然の親密な距離に、心臓が少しだけ速く打ち始めた。微かな緊張と恥ずかしさ、そして傘を忘れた自分への気遣いに対する感謝が入り混じる。
わたしたちは並んで歩き始めた。野崎の傘は大きく、二人が十分に入るスペースがあった。それでも、雨に濡れないようにするには、わたしは少し身を寄せなければならなかった。彼の腕がときどきわたしの肩に触れる度に、小さな電流が走るような感覚。香水の匂いが鼻をくすぐった。柑橘系のトップノートに、どこか木材を思わせる香り。そのほのかな匂いに包まれることの安心感と、同時に生まれる緊張感で、わたしの心拍が微かに速くなるのを感じた。
「ここです」と野崎が言った。
そこは大通りから少し入った路地にあるビルの地下だった。小さな看板だけが、そこにバーがあることを示していた。「AMBER」と書かれている。野崎は先に立って階段を降りていった。わたしはその後に続いた。
扉を開けると、静かな空間が広がっていた。カウンターと数テーブルだけの小さなバー。照明は落とされ、琥珀色の光が空間を包んでいた。
バックグラウンドではマイルス・デイヴィスの「Kind of Blue」が流れていた。その穏やかでありながらも深みのあるトランペットの音色が、バーの落ち着いた雰囲気にぴったりと溶け込んでいた。青い影のような旋律が空間を満たし、時間の流れを少しだけゆっくりにしているようだった。
「いらっしゃいませ」と、カウンターの向こうから中年のバーテンダーが迎えてくれた。野崎と顔見知りのようだ。
「こんばんは」と野崎は答え、「カウンターでいいですか?」とわたしに尋ねた。
わたしはうなずいた。二人並んでカウンターに座る。照明が落とされているので、お互いの表情がぼんやりとしか見えない。それがかえって落ち着いた。
「このバーは四年くらい前から通っています」と野崎は言った。「ウイスキーの品揃えが素晴らしいんです」
バーテンダーがメニューを差し出した。ウイスキーのリストは何ページにも及んでいた。スコットランドの地域別、蒸留所別に細かく分類されている。わたしは圧倒された。ワインは少し知っていたが、ウイスキーについてはほとんど無知だった。
「何がいいですか?ウイスキーはあまり知らなくて」とわたしは尋ねた。
「おすすめを」と野崎はバーテンダーに言った。「彼女はウィスキーはほとんど初めてなんです」
バーテンダーはわたしを見て、「では、まずはハイランドの優しいタイプから」と言った。彼は棚から一本のボトルを取り出した。「これはグレンドロナックの12年です。シェリー樽で熟成されていて、フルーティな味わいが特徴です」
彼は丁寧にグラスに琥珀色の液体を注いだ。それを野崎の前に置き、次にわたしの分を注いだ。クリスタルのグラスに注がれたウイスキーは、バーの照明に照らされて美しく輝いていた。
「乾杯」と野崎はグラスを軽く持ち上げた。
「乾杯」とわたしも言った。
グラスを口に運ぶと、甘い香りが鼻に抜けた。レーズンやドライフルーツのような。一口飲むと、舌の上で広がる複雑な味わい。甘さと同時に、かすかな苦みもある。喉を通った後、胸に広がる温かさ。わたしは初めての体験に少し驚いた。
「どうですか?」と野崎が尋ねた。
「美味しいです」とわたしは答えた。「想像していたより、ずっと複雑な味がします」
「ウイスキーは面白いものです」と野崎は言った。「同じ原料から作られるのに、蒸留所によって、熟成に使う樽によって、まったく違う個性になる。人間と似ているかもしれません」
わたしはグラスを見つめた。「人間ですか?」
「ええ。同じような環境で育っても、一人ひとり違う個性を持つ。でも時間が経つにつれて、その個性は変わっていく。熟成するというか」
わたしは野崎の言葉を考えながら、もう一口ウイスキーを飲んだ。二口目は最初より味わい深く感じた。不思議なことに、体が少し温かくなる感覚があった。緊張が解けていくような。
会話は自然に流れていった。プログラミングと文学の共通点。システムの設計と物語の構造の類似性。話題は次々と変わっていったが、どこか一貫したテーマがあるようにも感じた。
「佐々木さんは今でも小説を書いていますか?」と野崎が突然尋ねた。
わたしは少し驚いた。「いいえ、大学を卒業してからは書いていません」
「それは残念です」と野崎は言った。「あなたの『鏡と私、そして犬』は本当に独創的でした。続きが読みたかった」
「あの頃は時間もあったし...」わたしは言い訳をしかけたが、野崎の視線に言葉を切った。彼の眼差しには、言葉の隙間を埋めるような鋭さがあった。
「何か書きたいことはありますか?」彼は静かに言った。
「...あるかもしれません」わたしは素直に答えた。「でも、それを形にする自信がなくて」
「自信は後からついてくるものです」と野崎は言った。「まずは始めることから」
バーテンダーが新しいウイスキーを勧めてきた。今度はアイラ島のラフロイグだという。スモーキーな香りが特徴的なものだと説明された。グラスに注がれた液体は、先ほどのウイスキーと同じ琥珀色に見えたが、香りは全く違っていた。
「こちらは個性的です」と野崎は言った。「好みが分かれますがチャレンジしてみてください」
最初の一口で、わたしは少し驚いた。煙のような、海のような、薬品のような複雑な香り。最初は抵抗を感じたが、飲み込んだ後に広がる余韻は不思議と心地よかった。
「どう?」
「面白いです」わたしは答えた。「最初は驚きましたが、飲み進めるとなんだか引き込まれる味わいですね」
野崎は満足そうに頷いた。「そういう味だよね。一見すると厳しく感じるけど、実は奥深い。何かに似ている気がしないかい?」
「何かに?」
「人間関係、特に深い関係性にね」野崎は言った。「最初は戸惑うかもしれないけど、時間をかけて理解していくと、そこに本当の価値を見出せる」
わたしは黙って頷いた。
二杯目を飲み終える頃、バーはさらに静かになっていた。他の客はもういなくなり、バーテンダーは奥で何かを整理している。わたしと野崎だけが、カウンターに向かって並んで座っていた。時計の針が通り過ぎる音も聞こえないほど静寂が深まり、ウイスキーの温かさが体の芯から四肢の先まで流れていた。頬がほんのり熱を帯び、思考の輪郭がぼやけてきた。
やがて会話が自然と途切れた。その沈黙には、バーカウンターの年輪を刻んだ木のような、幾重もの時を重ね、物語を秘めた重みがあった。
野崎の呼吸、グラスの中の氷が溶ける音、遠くで流れる音楽の余韻。すべてが意味を持ち始めたように感じる。野崎はグラスの中の琥珀色の液体をじっと見つめていた。わたしはその横顔を見つめていた。その静寂に身を委ねていると、野崎はゆっくりとバースツールから立ち上がった。
バーの照明を背に立つ彼の姿には、どこか背筋を正さざるを得ないような威厳があった。
「佐々木さん」彼の声のトーンが少し変わっていた。低く、しかし明確に。
わたしは見上げながら答えた。「な、なんでしょう?」思わず声が小さくなる。
野崎のまっすぐな視線に、わたしは耐えきれず目をそらした。カウンターの木目、グラスの中の氷、自分の手、どこでもいい、ただ彼の目を避けたかった。心臓が早鐘を打ち、その音が耳の中で鳴り響く。
「佐々木さん、わたしの目を見てください」
彼の声は穏やかだったが、その言葉には逆らえない力があった。ためらいながらもゆっくりと顔を上げると、彼の瞳に自分の姿が映り込むのを感じた。頬が熱くなる。見られることの恥ずかしさと、同時に心が激しく揺さぶられるような感覚が入り混じった。見られたくない、でももっと深く見てほしい。その相反する感情が胸の中で交錯する。
野崎の目は優しく、でも鋭く、わたしの仮面の奥に何かを見つけたようだった。その貫く視線が続くほど、体の芯が熱くなっていく。
「うぅっっ、、、」
思わず小さな声が漏れた。意識していなかったのに、野崎の視線だけで何か見えない力に心が縛られたような感覚。何か絶対的なものと対峙したときの不安と恐怖、それでいて確かな生を感じる悦び、そんな複雑な感情が押し寄せてきた。
野崎はさらに一歩、わたしに近づいた。その一歩だけで、空間がぐっと縮まったように感じる。わたしは座ったままで、彼を見上げる角度がより急になった。彼の体からの温もりと、かすかな香りがわたしを包み込む。威厳と優しさが同居する、彼独特のオーラがわたしの全身を覆い尽くした。
「佐々木さん、自分の中で今、何が起きているか感じていますか?」
その問いかけに、わたしの内側の感覚がより鮮明になる。喉が乾き、手のひらに汗がにじみ、呼吸が浅くなっている。そして何より、彼の視線の重さ。まるで物理的な重みがあるかのように、わたしの肩を押し下げる。耐えきれなくなり、わたしは身体を小刻みに震わせながら、うつむいてしまった。目を閉じても、彼の存在感は消えない。むしろ視覚を閉ざすことで、他の感覚がより鋭敏になる。
「わたし...」言葉が喉の奥で互いにもつれ合い、出口を見つけられない。自分の身体が示す反応に戸惑った。血管を流れる恐れと期待が混ざり合い、逃げ出したい衝動と、もっと近づきたいという願望が拮抗していた。
そのとき、頭上に温かみを感じた。野崎の手がそっとわたしの髪に触れていた。優しく、ゆっくりと、頭を撫でる感触。まるで小さな動物を安心させるような、そんな動作。それなのに、その手の動きには確かな意図と力強さがあった。
「大丈夫、顔を上げてごらん」
野崎の声は低く、柔らかかった。諭すような、でも命令のような響き。わたしはその言葉に導かれるように、少しずつ顔を上げていった。目が合った瞬間、彼の表情に浮かぶ微笑みがわたしの緊張をほぐした。それは勝利の微笑みではなく、理解と受容を示す優しい微笑みだった。
「いい子だ」と野崎は言った。
その言葉に、わたしは一瞬戸惑った。こんな風に言われるとは思ってもいなかった。けれど、不思議なことに心が温かくなる。なぜこれほど嬉しいのか、理屈ではうまく説明できないのに、純粋な悦びが静かに、けれど確かに内側から満ちていくのを感じた。
「佐々木さん、君には恐れがある。それは自然なことです。でも、あなたはその恐れとは裏腹にある可能性を感じている。それが、あなたを引き寄せているのでしょう」
その言葉に、わたしの心が大きく揺れた。彼はわたしの内側で起きていることを、わたし自身よりも正確に理解しているようだった。恐れと期待。逃げたい気持ちと、導かれたい気持ち。そのすべてを彼は見透かしていた。
「恐れと期待。その二つの領域が重なり合うところに、最も鮮やかな感覚が生まれます」野崎はそっと言葉を続けた。「それを否定する必要はありません」
彼の手はまだわたしの髪に触れたままだった。その温もりと重みが、奇妙な安心感をもたらしていた。彼はゆっくりと手を引き、一歩後ろに下がった。その表情は、先ほどまでの圧倒的な存在感から、いつもの穏やかさに戻っていた。まるで別の人格を持つかのような変化に、わたしは少し混乱を覚えた。
野崎はバーテンダーの方に顔を向け、「チェックで」と静かに告げた。
わたしはまだ言葉が見つからず、ただ頷くことしかできなかった。
「初めてのウィスキーの味わいは、いかがでしたか」バーテンダーが静かに尋ねた。磨き上げられたグラスを光に透かしながら、彼の目には長年の経験から来る穏やかな洞察が宿っていた。その問いかけは単純でありながら、この夜に起きた見えない変化にも触れているかのような余韻を持っていた。
野崎はクレジットカードを差し出した。わたしが財布を取り出そうとすると、軽く手を振って制した。「今日は私が」
会計を済ませ、二人でバーを後にした。階段を上がり、地上に出ると、雨はさらに強さを増していた。野崎が大きな傘を広げた。
「一緒にどうぞ」
わたしは黙って傘の下に滑り込んだ。野崎が傘を持ち、わたしはその腕からほんの数センチの距離で並んで歩いた。雨音が作り出す単調な音楽だけが都会の喧騒を覆い隠し、わたしたちはその中をゆっくりと進んでいく。やがて六本木の駅が視界に入った。信号で立ち止まったとき、野崎がふと空を見上げた。「この雨はまだ続きそうですね」と言った。
「そうかもしれませんね」とわたしは答えた。雨の匂いと、野崎の香水の香りが混ざり合う。
駅に着くと、野崎は傘をわたしに差し出した。
「これをどうぞ。家まで濡れないように」
「でも、野崎さんは...」
「わたしは大丈夫です」彼は微笑んだ。「次に会うときまでに、今日のことをよく思い返してみてください。」
「自分の中で何が起きたのか、本当の自分はどこに眠っているのか」
「本当の自分...」わたしは傘を受け取った。その手触りに、野崎の指の温もりがまだ残っているかのようだった。
「また会えますか?」わたしは小さな声で聞いた。
「ええ、もちろん」野崎は穏やかに答えた。「あなたが望むなら」
その言葉には、わたしに選択を委ねるような響きがあった。それでいて、何か避けられない流れのようなものも感じられた。
「おやすみなさい、佐々木さん」
「おやすみなさい」
野崎は軽く頭を下げ、雨の中を歩き去っていった。彼の背中が照明に照らされて一瞬輝き、そして徐々に闇に溶けていくのを、わたしは見つめていた。
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