境界線の向こう側 〜主従のはじまり〜

ゆずる先生

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第4章 視線の残響

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~~ 光が揺れる窓辺に映る影 ~~
~~ 閉じられた瞳の奥に広がる風景 ~~
~~ 誰かの声が呼ぶ、境界線の向こうから ~~

日曜日の夕方、わたしはアパートの窓辺に座り、膝の上に開いた『白夜』を見つめていた。外では雲が流れ、刻々と夕日の色が変わっていく。そのグラデーションは、先日のバーで野崎と飲んだウイスキーの色を思い出させた。琥珀色の液体。ラフロイグの薫り。野崎の眼差し。

あれから三日が過ぎた。わたしは何度もあの夜の出来事を思い返していた。野崎がカウンターから立ち上がり、わたしを見下ろした瞬間の圧倒的な存在感。「佐々木さん、わたしの目を見てください」と言われた時の、逆らえない感覚。視線を合わせた時の、身体の奥から湧き上がる不思議な旋律。それらすべてが、わたしの心の奥底で眠るパンドラの箱の輪郭をうっすらと照らし出しているかのようだった。

「あの感覚は一体なんだったのだろうか」

本を閉じ、立ち上がる。部屋の隅に置いてある小さなオーディオプレーヤーのスイッチを入れると、ドビュッシーの「月の光」が静かに流れ始めた。その音色に身を任せながら、わたしは紅茶を入れるために台所へ向かった。

湯気が立ち上る。

窓の外では夕暮れが深まり、街の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。ふと、沈みゆく太陽の残照が、風景をバーの照明のような柔らかな光で包み込んでいるように感じた。そしてまた、野崎の言葉が頭の中で反響した。

「自分の中で今、どんな変化が起きているか感じていますか?」

わたしは紅茶を手に、再び窓辺に戻った。この三日間、野崎からの連絡はなかった。わたしの方からメールを送ることもできただろう。でも何を書けばいいのかわからなかった。あの夜のことを、どう言葉にすればいいのだろう。

紅茶を一口飲み、わたしは『白夜』を再び手に取った。あの夜からすべてが変わったように、この小説も異なる姿を見せ始めていた。

「夢想家」とナースチェンカの物語が、今では幻想と現実の対比として映った。彼らは互いを見つめながらも、実は見ていたのは相手ではなく、自分の内なる欲望の投影だったのかもしれない。

ナースチェンカが祖母の家という牢獄から解放されたいと願うように、わたしもまた何かの束縛から逃れたいと思っていた。けれど、その「牢獄」は外側ではなく、わたしの内側にあるのではないか。自分で作り上げた枠、自分で設けた限界。

「夢想家」は彼女に寄り添いながらも、決して彼女の世界に踏み込まないという距離感を保っていた。それは野崎がわたしに示す態度と似ているようでいて、何か本質的な部分が違う。彼は確かに距離を保っているが、その視線はわたしの内側まで届いている。

ページをめくりながら、物語の結末を思い出した。ナースチェンカは結局、「夢想家」ではなく、かつての恋人の元へ戻っていく。彼女は「夢想家」が創り出した幻想の世界ではなく、現実を選んだのだ。その選択に、わたしは以前は純粋な悲しみを感じていた。けれど今は、違う感情が湧いてくる。

もし野崎がわたしに幻想の世界を見せているだけなら、わたしはそれを見抜けるだろうか。あるいは、喜んでその世界に身を委ねてしまうのだろうか。境界線の向こう側にあるものが幻であったとしても、それがわたしの求めるものならば、それは現実と同じ価値を持つのではないか。

窓の外を見ると、空が少しずつ暗くなり始めていた。白夜とは正反対の、深い闇に向かっていく東京の夕暮れ。けれど、この都市の夜は決して完全な闇にはならない。常に光が残り、昼と夜の境界が曖昧になる。それもまた、一種の白夜なのかもしれない。

わたしはゆっくりと本を閉じ、立ち上がった。心の中では、野崎への思いと『白夜』の物語が重なり、絡み合い、新たな形を作り始めていた。幻想と現実。支配と従属。これらの境界線は、思っていたよりずっと曖昧なものなのかもしれない。

オーディオからは「月の光」の最後の音が消えていった。窓の外は完全に夜になっていた。自分の顔が窓ガラスに映り、その向こうには東京の夜景が広がっている。二つの世界が重なり合う。境界線が曖昧になる時間。

電話が鳴った。

スマートフォンの画面を見ると、知らない番号が表示されていた。野崎の名刺に書かれていた番号かもしれない、という考えが頭をよぎった。

わたしは静かに息を吸い、電話に出た。

「もしもし」

「佐々木さん」その声を聞いた瞬間、心臓が早鐘を打ち始めた。野崎だった。「お電話してもよろしいですか?」

「ええ、大丈夫です」わたしの声は少し震えていた。

「あの日はありがとうございました」野崎は穏やかに言った。「ウィスキーは気に入りましたか?」

「はい、とても」わたしは答えた。「特にラフロイグが印象に残っています」

「そうですか。嬉しいです」野崎の声には微かな笑みが感じられた。「今、何をしていましたか?」

なぜだろう。その何気ない質問に、心を見透かされたような気がした。まるで野崎がこの部屋を見ているかのような感覚。わたしはチラリと窓の外を見た。

「『白夜』を読んでいました」素直に答えた。「それから...あの日のことを思い出していました」

電話の向こうで、野崎が小さく息を吸う音がした。

「思い出してくれていたんだね」彼は静かに言った。「どんなことを?」

言葉に詰まった。なんて答えればいいのだろう。バーカウンターで彼が立ち上がったこと?その視線の重さ?それとも...

「野崎さんの...視線のことを」わたしは小さな声で言った。「わたしに目を見るよう言われた時の...」

「佐々木さん」野崎の声が少し低くなった。「その時、あなたの中で何が起きていたのか、説明できますか?」

わたしは深く息を吸った。説明することで、あの時の感覚が現実のものになる。けれど、その感覚から逃げ続けることもできない。

「わたしは...見られているということに、恥ずかしさと同時に...言葉にできない別の感情も感じました」言葉を選びながら話す。

「誰かにこんな風に見つめられたことがなくて。でも、それは嫌な感じではなくて...」

言葉が途切れた。どう説明すればいいのだろう。安心?充足感?どれも正確ではない気がした。

「理解していますよ」野崎が言った。「言葉にするのは難しいでしょう。でも、それでいいんです」

短い沈黙の後、野崎が続けた。「佐々木さん、今度の土曜日、時間はありますか?」

「土曜日ですか?」わたしは窓に映る自分の顔を見た。「はい、あります」

「銀座に良い画廊があるんです。そこで開催されている展示会に、もしよろしければご一緒しませんか」

「展示会ですか?」わたしは尋ねた。

「抽象画の展示です。そこで会ってもらいたい知人がいるんです」野崎は言った。「佐々木さんが興味を持ちそうな人です」

わたしは少し考えた。野崎の知人とはどんな人だろう。しかし好奇心が不安を上回っていた。

「わかりました」わたしは答えた。「ご一緒します」

「ありがとうございます」野崎の声には満足感が滲んでいた。「それから、佐々木さん」

「はい?」

「今夜、寝る前に、もう一度あの夜のことを思い出してみてください」野崎の声はさらに低くなった。

「細かい部分まで、できるだけ鮮明に。」

その言葉に、わたしの心臓が再び早く打ち始めた。まるで指示を受けたような、けれど同時に柔らかな勧めのような。その言葉には、わたしの内なる声が従いたいと囁いていた。それは目に見えない糸のようなものが、心の奥底から引っ張られる感覚だった。

「わかりました」わたしは答えた。自分の声が遠くから聞こえてくるようだった。

「おやすみなさい、佐々木さん」

「おやすみなさい、野崎さん」

電話が切れた後も、しばらくわたしは動けなかった。窓辺に立ったまま、自分の姿と夜景が重なり合う風景を見つめ続けた。野崎の声が耳の中で余韻を残している。「今夜、寝る前に、もう一度あの夜のことを思い出してみてください」

今にもあの夜のことを思い返してしまいそうになったが、ぐっと心を落ち着かせた。今すぐではなく、寝る前に。彼はそう言ったのだ。わたしは静かに呼吸を整え、浴室に向かった。

湯を張りながら、湯気が立ち上る様子をぼんやりと眺めていた。思考を空白にするように努めた。

服を脱ぎ捨てて、熱めのお湯に足先から徐々に身体を沈めていく。立ち込める湯気の中で息を吸い込むと、肩の力が少し抜けた気がした。湯船に浸かりながら、さっきの野崎との電話のことを考えていた。

銀座の画廊。野崎が会わせたいという人物。そして、わたしが興味を持ちそうな人。

野崎が言う「興味を持ちそうな人」とは、いったいどんな人なのだろう。文学関係の人だろうか。それとも全く別の世界の人なのか。野崎はそれ以上詳しく説明しなかった。わたしも特に尋ねなかった。何となくそうするべきではないような気がしたからだ。

湯船の表面に小さな波紋が広がっていた。指先でそっと水面に触れると、新たな波紋が生まれ、やがて消えていった。その動きがわたしの心の揺らぎと重なって見えた。不安と期待の波が同心円を描いて広がり、また静まっていく。その波紋のように広がる感情を見つめながら、野崎の声を思い出していた。電話越しでも伝わってきた、あの静かな確信と導くような口調。不思議と、それを思い出すだけで心が落ち着いた。

浴室を出て、鏡に映る自分を見た。いつもと同じ顔。同じ目。タオルで髪を拭きながら、ふと、野崎が自分の髪に触れたことを思い出しそうになった。胸が小さく跳ねる。まだ、その時間ではない。わたしは意識を引き戻し、半乾きの髪を指で梳いた。

軽く夕食を摂ったあと、本棚から取り出した小説を読もうとしたが、文字が目に入ってこなかった。一行読んでは、野崎の姿が浮かび、また一行読んでは、彼の声が耳に蘇る。「今夜、寝る前に」という言葉が脳裏に刻まれ、その静かな響きの中に、逆らえない力を感じていた。まるで見えない糸で引かれるように、その言葉がわたしの思考を支配していた。

時計の針が十一時を指した頃、わたしはようやくベッドに横たわった。それまでの数時間、思い出してはいけないという自分との戦いだった。頭の中で再生されそうになる映像を必死に押し返し、別のことを考えようとしてきた。けれどついに定められた時間が来て、体の緊張が一気に解けていくのを感じた。これでいいのだ、今こそ思い出す時なのだという許可が下りたような安堵感。自分を縛っていた鎖が外れ、心が軽くなっていく感覚。わたしは深く息を吸い、天井を見つめながら、野崎の言葉通り、あの夜のことを思い出し始めた。

琥珀色のウイスキー。バーの薄暗い照明。野崎がバースツールから立ち上がる瞬間。彼の視線。わたしの中に広がる感覚。

その感覚を追うほどに、体が熱くなっていく。あのときと同じ感覚が蘇ってくる。以前にも増して鮮明に、少しずつ形を持ち始めているように感じた。単なる「導かれる」というよりも、もっと深いところにある感覚なのかもしれない。自分の意志を手放し、野崎の静かな声の中にある揺るぎない確信に身を委ねたいという、不思議な欲求。

「佐々木さん」

あの夜の彼の声が鮮やかによみがえってきた。

「うぅっ、、、っっ、、、」わたしは思わず唇を噛んだ。身体の奥が疼き、熱を持ち始めている。

シーツの上で足が小さく動き、言葉にできない衝動を探り求めていた。これまで自分に許したことのなかった、心の奥底に閉じ込めていた秘めやかな姿。いつも理性と慎みを大切にしてきたわたしが、今は自分でも信じられないような未知の自分へと変貌しつつあるようだった。恥と悦びが混ざり合い、その境界が曖昧になっていくような感覚。それすらも彼の目は、このわたしを見透かしているような気がした。

「あぁ、これもまた境界なのね」

気がつくと、わたしの指先はシーツから離れ、無意識のうちに自分の身体へと移動していた。まるで誰かに操られているような、でもそれは自然な水の流れのように抗いようがなかった。触れていいのかという躊躇いと、触れずにはいられないという衝動が交錯する。

身体が次第にさらなる熱を帯びていくのを感じた。まるで氷の彫刻が陽炎の中でゆっくりと溶けていくように、固く閉ざされていた感覚が解きほぐされていく。シルクのパジャマの下で肌が敏感になり、布地の触れる感覚さえ甘い痛みのように感じられた。

「わたしの目を見てください」

突然、野崎の声が頭の中で響いた。あの夜の彼の瞳、その深く澄んだ黒曜石のような輝きが鮮明に蘇ってきた。わたしを見つめるその眼差しは、わたしの内側の閉ざされた扉を静かにこじ開けていくようだった。

思いがけず、指先が自分の素肌に触れていた。それは古い楽器を奏でるような、おそるおそるの、それでいて神聖な所作だった。自分の手でありながら、どこか他者の手のような感覚。野崎の視線そのものがわたしの指先となって、未知の旋律を奏でているかのように。

「細かい部分まで、できるだけ鮮明に」

彼の電話での言葉が反響する。熱を帯びた指先が朝露に濡れた花びらのように震え、自分でも知らなかった敏感な場所を探り当てていく。野崎の声の震え、その言葉に込められた意図、わたしを貫く彼の視線の記憶が、体の芯を少しずつ溶かしていく。

身体の奥深くから湧き上がる波が、肌の表面を震わせていく。淡い月明かりに照らされた肌は真珠のように白く、その下を血が滝のように流れているのを感じた。生命の根源にある透明な流れが、静かに、滴れていくのを感じた。それは潮騒のように引いては押し寄せ、次第に大きくなっていく。思考は次々と溶け去り、ただ感覚だけがわたしの存在を満たしていく。

野崎の視線の下で見つめられているという幻想が、身体の隅々までを緊張と期待で満たしていった。まるで彼の指先が触れているかのように、肌の下に隠された神経が悦びに震えた。あの静かな声で、わたしの名を呼ぶ音が耳の奥で鳴り響く。

そして星のような光が内側から広がり、純白の砂浜に波が打ち寄せるような瞬間が訪れた。それは短く、けれど永遠のように感じられた刹那。わたしの身体は一瞬、この世界から解き放たれたような感覚に包まれた。まるで白夜の光に包まれるように、時間の境界が溶けていくような瞬間。

やがて波は静かに引いていき、わたしはゆっくりと現実の感覚を取り戻した。天井を見上げながら、わたしは自分の行為にうっすらと驚いていた。普段は決してしないことだった。はしたないという意識が強く、自分に許してこなかったことだから。

けれど今、その後に残った感覚は、罪悪感ではなく、ある種の静けさだった。わたしは胎児のように身を丸め、窓から洩れる月の光に照らされた壁の微かな凹凸を見つめた。その光の中に、野崎の視線の残像を見る気がした。

瞼が重くなり、わたしは花びらが閉じるように目を閉じた。明日の朝、身体は不思議な感覚に包まれているだろう。この夜の記憶と共に。野崎の声に導かれるという新しい感覚と共に。
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