S級冒険者の子どもが進む道

干支猫

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紡がれる星々

第五百四十五話 抑えられない感情

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クルシェイド劇団の公演が始まる約一時間前。

「凄い人の数だな。けど帝都の武闘大会よりはちょっと少ないぐらいかな?」

舞台袖から観客席を見渡すヨハン。

(でも本当に大丈夫かな? 一応僕の演技を劇団の人に見てもらったけど)

カレンが見込んでいたように、戦場シーンは満場一致で納得してもらっていた。その場面だけを切り取れば劇団員のだれよりも真に迫れたのは実力の高さと実戦経験の成せる業。

(それでも不安だよなぁ)

だが不安は付きまとっている。
頭の中では覚えたての台詞を間違えないよう、何度も何度も繰り返していた。

(それにしても、この衣装恥ずかしいな。誰か知っている人が観に来てたらどうしよう……)

小さく摘まむ王子の衣装。

「ふふっ。その服、良く似合っているわよ」
「えぇ? そうですか?」

背後から掛けられる声。まるで見透かすかのようなカレンの声。

「本当よ。かっこいいわ」

不安そうにしているからこそ敢えて口にしている。

(かっこいいというより、可愛いわね)

小さく漏れる笑い。
王子の衣装が似合わないというわけではないのだが、どちらかというと衣装に着させられている感が強い。

「絶対お世辞ですね」

含み笑いでなんとなく理解できた。そのままカレンの衣装に目を向ける。

「まぁでも僕の方はアレですけど、カレンさんの方はさすがですね。本当によく似合っています。っていっても実際本物ですしね」

カレンもまた綺麗な装飾を着けて着飾っている王女の衣装に身を包んでいた。元々カサンド帝国の皇女なのでその佇まいや仕草も流石の一言。

「ありがと。でも見た目だけじゃなく、わたしは人前で演技をするからにはもちろん本気で演じきるわ。ミカエルを想うアイリーン王女に、ね」

内心で重なるアイリーン王女の想い。見事に重ね合わせられた。

「で、ヨハンの方はどう? 台詞は覚えられた?」
「ええまぁはい、なんとか。思っていたほど難しい話でもないですし、雰囲気を合わせればいいだけなら多少は誤魔化せるかと」
「そう、なら良かったわ。あともう少しで始まるから、それまで少しでも合わせられる部分は練習しておきましょう」
「はい」

そうして開演直前まで、座長のモルガンを始め裏方が慌ただしく準備を進める中、ヨハンとカレンは他の劇団員の演者と内容の確認を行う。
劇団員も素人のヨハンを加えることに一抹の不安を感じていたのだが、それ以上に卓越したカレンの演技と記憶力の高さにヨハンが台詞を間違えた際の応用力に感嘆の息を漏らしていた。
持ち前の美貌、その容姿だけに留まらないその洗練された動きに思わず惹き込まれる程。

「いくわよ」

短時間の中でやれるだけのことはしている。
そうした中、ヨハンとカレンが代役を務めるクルシェイド劇団の演劇が開演したのだ。
開演した瞬間、観客席は舞台を照らす魔灯石によりほとんど見えない。顔の判別もできない。そのため、観客の視線は気にならなかった。

「大丈夫よ。自信を持ってやりましょう。普段のヨハン、冒険者ヨハンなら間違いなく王子様みたいにカッコいいわよ」
「…………ふふっ」

強気な笑みで腕を引かれると、思わず笑ってしまう。

「どうしたの?」
「いえ、カレンさんはやっぱり優しいなぁって」
「?」

突然の言葉に思わず疑問符を浮かべるカレン。

「ありがとうございますカレンさん。カレンさんも緊張してるはずなのに、僕の緊張を解かす為に言ってくれてるのは伝わりましたから」
「べ、別にそんなことないわよ!」
「またまたぁ」

誤魔化そうとしても誤魔化しきれていない。表情よりも、握られた腕が微かに震えていたのがわかっていた。

「僕は大丈夫ですから、カレンさんはカレンさんらしく、お願いしますね」
「むぅ。なんだかその顔されるとそれはそれで悔しいわね」
「どういうことですかそれ」

思わず笑い合う二人。
カレンからすれば自分の方が年上であり、こういったことには間違いなく精通している。余裕を見せなければいけないのはどちらの方なのかと。

(でも、この調子なら大丈夫そうね)
(こういうカレンさんってなんだか年上っぽく見えなくてなんだか可愛いんだよなぁ)

膨れっ面を見せる仕草の可愛らしさ。
そうして笑い合ったことでいくらかの緊張も解け、集中して劇に臨むことが出来た。

「じゃあいってらっしゃい。こけないでよね」

力強く背中を押されるその最初の登場場面。

「はい。いってきます」

肩越しに笑みを向け、すぐさま表情を切り替える。
程なくして冒頭場面を終え舞台袖に引き上げた。

「おい、初めての舞台にしては中々度胸あるじゃねぇか! 上々っ! その調子で頼むぜ」
「ありがとうございます」

と劇団員に声を掛けられ、それがより一層の自信に繋がる。
そこから先は舞台袖に戻る度に台詞の確認を入念に行い、着々と物語は進行していく。

(次は……――……ここで……こう……――)

思っていた以上に楽しく、相乗的に集中力を発揮していった。
そんな中で迎えた最後の場面。
いよいよミカエルヨハンアイリーンカレンの今生の別れの場面。

(よし、これで残るは最後のシーンだけだ。あとは僕がカレンさんに別れの口上を述べて、カレンさんが僕の胸の上でむせび泣く。その後はカレンさんが立ち上がって未来に向けた台詞を言って幕が下ろされる)

ベッドに横たわるヨハンはそこで劇の終わりを見据える。

(やっと終わった)

物語の最後の場面、ラストシーンは本来の台本ではこうなっていた。
ミカエルがアイリーンに別れを告げ、瞳を閉じる。そしてアイリーンもまた亡骸となったミカエルに泣きながら別れを告げた後に立ち上がり、観客席に向き直って強く生きることを誓う。ミカエルのその死、最後の願いを叶えるために正面から向き合うという終わり方だった。

(にしても、劇とはいえ別れを告げるのってなんだか寂しいな)

なんとかならなかったのかと、決まっている結末に若干の想いを馳せる。

「それが……俺の……願い…………だ。俺に…………囚わ、れ……ないで…………く…………れ………………――――」

最後の台詞を言い終えて、ゆっくりと目を閉じる。

(ふぅ、長かったような短かったような。まぁ今回限りの良い経験が出来たと思えば……――)

観客席が固唾を飲んで見守る中、ヨハンは目を瞑っておりカレンの動作を見ていなかった。

「――……むぅ?」

考え事をした最中に感じる頬の痒み。次の瞬間に得られる唇の柔らかい感触。本来胸の上に感じなければいけない筈のカレンの頭の重みの一切がない。

(え?)

これは一体どういうことだと思い薄目を開ける。

「…………」
「…………」

目を開けたその眼前、そこにはカレンの美しい顔があった。
長く透き通る様な美しい銀髪が頬にかかっている。先程頬に感じた少しばかりの痒みがカレンの髪が頬に触れたからだと理解した。
しかしわからないのは唇の感触。ヨハンが薄目を開けるのと同時に触れていた唇、その柔らかい感触が名残惜しさを残しながらそっと離れていく。

「っ」

小さく漏れるカレンの声。
唇を離しながら僅かに頭を浮かせたカレンが漏らす声。

「えっ!?」

ヨハンも思わず大声を漏らしそうになったのだが、ぐっと堪える。今大声を出すわけにはいかない。
目の前にはこれでもかというぐらいに顔を真っ赤にさせたカレンが居る。どこか苦しそうにもしている。こんなカレンは見たことがない。

横目に舞台、観客席側を見ると緞帳が徐々に下り始めていた。
それが指し示すのは、つまり終幕したのだと。通常、台本では本来ここではカレンの台詞があって然るべき。ミカエルに別れを述べるアイリーンの台詞があったはず。
それだというのに予定にあったカレンの台詞は何故か飛ばされ、このまま劇が終わろうとしている。観客席からは物凄い拍手と割れんばかりの歓声が巻き起こっていた。

「じっとして」

吐息がかかる距離の呟き。カレンも理解している。
今ここで思いっきり顔を上げてしまってはいけない。ここで顔を上げ、動揺したアイリーンを見せるわけにはいかない。ここで崩れてしまっては観客席からこれだけ声援、拍手が送られている劇を最後の最後でぶち壊すことになると。

このまま、このままあと数十秒、緞帳が下り切るその瞬間までこのままでいないといけない。
緞帳が下り切るまでの間、ヨハンとカレンは共に静かにじっと見つめ合う。

「カレンさん……今……」
「わかってるわ! でも今は黙って! お願い! お願い…………」
「……はい」

振り絞る様な、消え入りそうな声での懇願。

(今……)

真っ赤になっている自信はあった。自分でも信じられない程に体温の上昇を感じた。心臓はバクバクと鼓動している。今まで感じたことのない程に。
理由は明白。今の柔らかい感触が自身の唇とカレンの唇が触れていたのだからだと。
熱が込み上げてくるのは自覚しているのだが、同じ状況に陥っているだろうと推測できるカレンの顔。
カレンもどうしようもないほどに真っ赤になっており、その表情からは僅かに苦悩が窺えるのだが、真っ赤になったその表情はどこか美しくさえもあった。

これまで見せたことのない、妙に可愛らしく愛らしいカレンがいることで更に胸の高鳴りを覚える。

(とにかく、今は我慢)

身じろぎ一つできない状況。
そうして緞帳は音を立てずに静かに下り切った。緞帳の向こうでは尚も鳴りやまない拍手が聞こえてくる。

「…………っ!」

ヨハンとカレンはそこでやっとじっと見つめ合っていた顔を離すことが出来た。
緞帳の向こうでは座長のモルガンが締めの挨拶をしている声が聞こえるのだが内容が全く入って来ない。

「「…………」」

上体を起こすヨハンと後ろを向くカレン。
お互いに顔を向けられない。目を合わせられない。先程まで数十秒もの間お互いに目を逸らさずにじっと見つめ合っていたにも関わらず。言葉も発せない。声を掛けられない。

「いやぁ素晴らしい演技だった」

挨拶を終えたモルガンが舞台袖から姿を見せる。観客席からはざわざわといくつもの話し声が聞こえてきた。満足感に浸されている観客達。口々に感想を言っている。

「あ、あの……」

このままでは何も進まない。なんとか声を掛けようとしたところ、先に口を開いたのはモルガン。

「それにしても流石婚約者だ。いくらなんでもキスまでするとは思いもよらなかった! 思っていた以上の仕上がりだったな。お前たち二人に演じてもらったのは大正解だった! 多少アドリブを入れるとは聞いていたが、最後の最後にとんでもないアドリブを放り込んできたな! 極上の仕上がりだ……って、おい? どうした?」
「いえ……――」

どれだけ賛辞をもらおうとも、賞賛されようとも、どうでも良い。もう終わってしまったのだ。
他の劇団員が忙しそうに片付けに追われる中、疑問符を浮かべるモルガン。

「――……これで終わりよね? もうやらないわよ」
「ああ。とにかく今日一日を乗り越えられれば十分だ。明日以降については今から検討することになるがな。だが、ただなぁ、あれだけの演技ができるならむしろ正式にうちの劇団に入らんか?」
「いえ、さすがにそれは無理よ」
「そうか、冒険者って言ってたもんな。勿体ねぇが仕方ないか。じゃあさっきの楽屋で今回の報酬を渡すからすぐに来てくれ」
「ええ」

カレンの静かな口調。

「……カレンさん?」

モルガンの後ろ姿を見送りながら疑問が浮かぶ。どう見ても重い雰囲気。

(どうしようどうしようどうしよう、ヨハンの顔がまともに見られないわ)

必死に平静を装いモルガンに返答していたのだがヨハンだけは見れない。一旦冷静になる時間を設けようと楽屋へ向かおうにもこの場を離れられない。動けない。

「あの……?」

ヨハンはもう後ろ姿だけをずっと見ている。表情がわからない。

(あぁ、もうっ!)

とはいえ、カレンもいつまでもこのままでいるわけにはいかない。
勢いよく振り返るとすぐさま頭を下げた。

「ご、ごめんなさい! 役に入りすぎちゃって、思わず……キス、しちゃっ、た……」
「…………いえ」
「あ、あの、アイリーンならあの場面ではミカエルに別れのキスをすると思ったの。だって、いくらミカエルのためとはいっても、最期のあの瞬間にすぐさま前を向くなんてアイリーンは、女性はそんなこと、できないもの。だって、最愛の人を失ったばかりなのよ」
「……はい」
「言い訳にしかならないけど、感情移入し過ぎちゃった。本当にごめんなさい」
「言い訳、ですか」
「ヨハンも……嫌だったよ、ね?」
「いえ、あの、その……」

上目遣いで話すカレンにどう答えたらいいものなのだろうかと、悩む。わかるのは、恐らく本心ではない何かが含まれているということ。

「僕は……」

視線の向かう先は温かな柔らみを帯びていたカレンのその唇へ。ありありと思い出せるその感触。せっかく冷静になれたというのに再び心臓の鼓動を感じる。心が掻き乱された。
だが、先程見せたカレンの戸惑いや困惑に混乱。言葉の節々にも見られる一瞬一瞬の違和感。明らかに今の自分よりも冷静さを欠いているのはカレンの方。申し訳なさそうに俯いている姿を見ていると、間違いなくこのまま受け入れてはいけない感じ。

「すいません、正直に言います。そうしないといけないと思うので」
「…………」

互いに意を決する。
カレンはヨハンが何を言ってこようと甘んじて受け入れる覚悟を作るのだが、それでも不安が胸中を駆け巡り思わずぎゅっと唇を噛んだ。

「本音を言うと、予定にないことで正直びっくりしました」

これからどういう言葉を掛けられるのかと、顔を逸らしたいのだが逸らすわけにはいかない。
疑問に思うのは、次に口を開こうとしているヨハンが僅かに笑うのだから。

「……けど、僕はカレンさんの唇の感触を感じた時、たぶんもうその瞬間にはもうそこで劇だということを忘れてしまっていました。厳密には劇だということは頭の中では理解していたのですが、他のことを考えられなくなったと言いますか」

視線を彷徨わせながら、後頭部を指でかきつつ言葉を探す。

「どうしてそんなことになったかって、それはカレンさんの唇の感触が、その……凄く柔らかくて、なんと言いますか……、凄く、物凄くドキドキしました。それは今もまだ続いていて、ずっとドキドキしています。決して嫌だったとかそういうわけじゃなく、嬉しいのかとなればちょっと返答に困りますけど、でもそういうのとはまた違うというかなんと言いますか、どう表現したらいいのかわからないのが正直なところで、その、要は不思議な感覚なんですよね」

それが嘘偽りのない本音。

「はっきりしなくてごめんなさい」
「ふふっ」
「え?」

視線をカレンに戻すと、そこには先程までのどこか落ち込んだ様子のカレンは既にいなく、いつも通り綺麗な笑みを浮かべたカレンがいた。

「カレンさん?」
「十分伝わったわ。ありがとう。あっ、いえ、違うわね。やっぱりごめんなさい、ね」
「えっ?」
「なんでもないわっ! 早く帰るわよ!」

腕を引いて控室へと向かう。堪えきれない。この嬉しさ。
羞恥は幾度も襲い掛かって来ているのだが、今はこの手を離したくない。

(カレンさんの手、あったかいなぁ)

その手の温もり。肌の柔らかさ。小さな手。

「ひんっ!」

クッ、と指に力を入れた時に前を歩くカレンが漏らす小さな声に思わず首を傾げてしまうのだが、カレンは振り返ることなく歩いていた。

(きゅ、急に力を込められると)

不意討ちでしかない。しかし嬉しさが込み上げてくる。

「おっ、やっと来たか。遅かったじゃねぇか」
「ごめんなさい、ちょっと話していたから」
「そうか。とにかくこれが今回の報酬ってことで」
「ええ」

控室に戻り、モルガンから出演料として報酬を受け取った。

「すまないな、今回は無理言っちまって」
「いえ。大丈夫よ。ね、ヨハン?」
「ま、まぁはい」

振り返り笑みを浮かべるカレンの表情に感じるこれまでとの違い。

(カレンさんってこんなに可愛かったっけ? いや、綺麗なのは前から知っているけど)

どこが違うのかわからないが、はっきりとした愛おしさを感じさせる。

「さーて、終わったわね。すぐに帰るわよ。ほら、何しているの?」

伸びをしながら口開くカレンはもう戸惑いや困惑を感じさせなかった。
そうして控室を出ていく。

「ま、元気そうだからいいのかな?」





「あれ?」

劇場の裏口を出たところ、そこにはモニカやエレナ達が既に待っていた。

「ごめん、みんな遅くなっちゃって」

連絡もできていないことからして迎えに来たのだと。

「それよりも、カレンさん、ちょっとよろしいでしょうか?」

エレナとモニカは明らかに怒りの感情が窺える表情。サナは静かに俯いており表情が見えない。

「レイン、どうしたの?」
「お前のせいだお前の……」

木に吊るされ逆さ向きのレイン。
まるで他人事のナナシーはマリンに劇の内容を事細かに質問しており、マリンは煩わしそうにだがそれでも答えていた。

「さっきのアレ、どういうことかもちろん説明してくださいますのよね?」
「さっきのって?」

小さく話しているエレナとカレンとモニカ。

「とぼけないでよ! あんな大衆の面前で、その、き、キスをするだなんて!」
「えっ? もしかして皆で観ていたの? やだ、どうしよう……」
「なーにが、やだ、どうしようなのよ。可愛い子ぶらないでよ!」
「べ、別に可愛い子ぶってなんかいないわよ。だいたい、婚約者ならキスのひとつぐらい」
「しないわよ!」
「しないですわ!」

貞操観念がどうなっているのかと。そもそもヨハンはまだ成人前の学生。

「むふっ。ねぇねぇ、どうだった、カレンさんの唇の感触は?」
「え?」

三人の様子を眺めていたところで不意にナナシーに話し掛けられる。

「あ……あー、いや……うーん…………まぁ、その、凄く柔らかかった、かな?」

にやにやするナナシーに問い掛けられたヨハンは思い返すようにゆっくりと答えながら、その唇の感触を思い出し、自身の手で唇を触った。

「良かったね!」
「いたっ」

バシッと背中を叩かれる。

「いやぁ、面白かった」

ナナシーはスタスタと歩いて行った。

「一体何が良かったんだか」

疑問符を浮かべるヨハンの横にそっとサナが立つ。

「……ねぇヨハンくん?」
「うん? なに、サナ?」
「…………ちょっとお願いしてもいい?」
「えっ? うん。どうしたの?」

俯き加減で表情が良く見えないが声の調子は深刻そうに感じられた。

(どうしたんだろう?)

何か重大な事態でも起きたのかと。

「ちょっとここに座って」
「ここって、ここでいいの?」

サナが示したのは劇場の外にある石で出来た長椅子。
言われるがままに座ると、立ったままのサナを見上げる程度の高さ。

「座ったけど?」

それからどうしたらいいのかわからず目の前に立つサナを少し見上げると、既に目の前にはサナの両手があり、その手の平がヨハンの頬をそっと優しく撫でるように触れる。

「……っ」

目の前のサナの幼い顔の可愛らしさに思わず目を奪われた。ドキッとする刹那の瞬間には艶のある綺麗な黒髪を揺らしながらその唇が重ねられる。

「…………」
「…………」

一秒ほど重ねられた唇はそこですっと離された。
目の前には頬を紅潮させてはいるが、しっかりとヨハンを見つめるサナがいる。

「え?」

ゆっくりと立ち上がりサナを見ると、サナは恥ずかしそうに上目遣いで見て来た。

「どう?」
「……どうって…………その……柔らか、かった、けど?」

確かに柔らかかった。カレンの時より僅かに肉感を感じさせるその唇。

(どっちがって聞くのはナシだね)

問い掛けたくなるその衝動を堪えるサナ。

「えっと、急にごめんね! 王子様のヨハンくんカッコ良かったよ!! それじゃあねっ」
「えっ?」

サナはそれ以上何も言わず走って行く。ただし、一度だけ振り返ったかと思えば唇に人差し指をもっていきそっと当てていた。

(ないしょだよ)

そう言わんばかりに片目を瞑る。

「どう、したら良かったんだろ」

とすっと長椅子に再び腰を下ろした。

「今のって?」

理解できない。正確には行動自体を理解はしているのだが、感情面での理解が追い付かない。間違いなく今のはキス。しかし、どうしてキスをされたのか。
思わずぼーっとその後ろ姿を眺め、そのままカレンへと視線を向ける。

「おいおい、マジかこいつ」

木に吊るされたレインがその様子の全てを見届けていた。

「ってか、サナの勇気がすげぇよ。今の、誰も見ていなかったよな」

モニカとエレナとカレンは未だに話を継続している。

「ふぅ。とりあえず俺しか見てなかったんだな。よかったよかった。はあぁっ、っつか、もうほんとこれどうしてやろうかな」

ニーナを許嫁にしていることなど、日に日に収拾がつかなくなってきていた。
憂鬱な気分になるレインの背後では、その様子を見ていた少女がいる。

(キスって、どういうのなの……?)

指先で自身の唇を触るマリン。





ナナシーの提案によって行われる予定だった模擬デートは結局残りが行われることはなかった。

「はあぁぁぁぁぁぁっ! 私ってば、勢い余ってなんてことしてるのよ!?」

学生寮のベッドに顔を埋めて混乱しているのはサナ。

「カレン先生、役に没頭し過ぎてして思わずしてしまったってモニカさんとエレナさんに説明してたけど、絶対ヨハンくんにもおんなじように説明してるよね!?」

あれだけの演技ができればそんなこともあり得るのかと。事実、その直前まで自身も食い入るようにして魅入っていた。

「ってことは、ってことはだよ? じゃあ純粋にヨハンくんに向かってキスしたの私だけってことになるじゃない! これもう絶対気付かれてるよ! 気付かないはずないじゃない!」

そう考えるものの最終的に至った結論に賭ける。

「ま、まぁこれでも気付かないのがヨハンくんだったりするのかな?」

それはそれでどうなのかとも思いつつも、縋る思いでヨハンの鈍感さに期待していた。本心としては気付いて欲しいという期待も抱きながら。


「あの、サナ?」
「よ、ヨハンくん、ちょっと今忙しいからまた今度ね!」

翌日以降、話し掛ける度にこの調子。結局何日か過ぎれば問い掛けることも難しくなる。
そうして明確な答えが得られないまま日が過ぎて行った。





「ふぅ。ようやく帰って来たな」
「ああ。これで一段落だな」

王都の南の草原に姿を見せたのはアトムとラウル。後ろにはエリザやガルドフ、シルビアにクーナ、そして大賢者パバール。
長きにわたるローファスの依頼。その任務を終えた冒険者達が王都へと帰還する。

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緋色優希
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 勇者召喚に巻き込まれて異世界へやってきたサラリーマン麦野一穂(むぎのかずほ)。得たスキルは屑(ランクレス)スキルの『本日一粒万倍日』。あまりの内容に爆笑され、同じように召喚に巻き込まれてきた連中にも馬鹿にされ、一人だけ何一つ持たされず荒城にそのまま置き去りにされた。ある物と言えば、水の樽といくらかの焼き締めパン。どうする事もできずに途方に暮れたが、スキルを唱えたら水樽が一万個に増えてしまった。また城で見つけた、たった一枚の銀貨も、なんと銀貨一万枚になった。どうやら、あれこれと一万倍にしてくれる不思議なスキルらしい。こんな世界で王様の助けもなく、たった一人どうやって生きたらいいのか。だが開き直った彼は『住めば都』とばかりに、スキル頼みでこの異世界での生活を思いっきり楽しむ事に決めたのだった。

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