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第三章 月の神殿
3-13
しおりを挟む月の神殿、その最上階。そこには大きな扉だけが存在する。
ここを開ければ正殿。世界に十ある各神殿は、すべてここで繋がっている。こここそが、世界のどこかに存在する神のみが入ることを許された聖域。
その扉の前、結慧は目を瞑っていた。
傍らにある通信具から仲間の声。カウントダウンはあと一分。
「ユエ様」
左手に握ったドロリスの手。
あと三十秒。
「ご武運を」
右手に握ったスミティの手。
背を伸ばす、前を向く。両手を離して、あと十秒。
早朝、五時五十分。
世界中に鐘の音が響き渡った。
全ての教会、全ての時計台。ありとあらゆる鐘が誰も触っていないというのに突然動き出す。
その大音量に人々は驚き動きを止め、眠っていた人は飛び起きた。世界中の家の明かりが一斉に灯る。
「何だ!?」
「うるっせぇ!!」
月の国、ティコの役所の一室。朝も早いというのに既に、正しくは昨日からずっと働いていた繁忙期真っ只中の総合管理部もまた音に驚いて仕事の手を止めた。
座ったまま仮眠を取っていたハンスは椅子から転がり落ちたし、ウェーバーはコーヒーを請求書にこぼし、ネーターは清書中の報告書にペンで思い切り線を引っ書いた。鐘の音に負けない悲痛な叫び声が響く。
「おい、放映具ついたぞ」
「誰か起動した?」
「いや、」
けたたましい音がやっと止み、余韻だけが残る中で部署に設置されていた放映具が光る。誰も魔力を流してなどいないのに、ひとりでに。
ここだけではない。世界中の家で、人もまばらな街頭で、だれもいないオフィスや店の放映具でさえ何かを写し出す。
「何だ……?」
一体、何が起こっている?
画面に映っているのはどこか知らない場所――――いや、違う、知っている。見たことはないけれど、確かに知っている場所。小さい頃から何度も読んできた聖書の一節、世界中の誰もがそれを思い出していた。
「神々の議場……?」
鏡のように磨き上げられた床。壁も天井もなく、まだ暗い夜明け前の空が見えている。十の扉と、十の柱。それが円形に並ぶ、不思議な空間。中央には十の椅子が円く中心を向いて並んでいる。
本来天井があるべき場所には、階段。
柱も支えもなく、空中に浮く階段の先には盃のような形をした床。画面の角度からは底しか見えないけれど、そこがきっと正殿と呼ばれる場所。
この世界で最も神聖な、神の戴冠の場。
画面が切り替わる。十ある椅子の、その一つ。そこに誰かが座っている。
豪奢な服に身を包んだ痩身の男。太陽に焼かれた肌は浅黒く、眼光は鋭い。不機嫌そうに眉根を寄せて足を組んでいる。
短く刈り込んだ金の髪、同じ色の瞳。
その色を持つ者はこの世界でただ一人。
「まさか、」
人々はその日初めて、神の姿を見た。
自宅の、街頭の放映具の前で皆が膝を突く。この世界で最も尊いとされる二人の神の内の一人、太陽神。大多数の人間はその声すら聞くことができない、声を聞く事ができたとしても姿を見ることは叶わない。その神が、人の前に姿を現した。太陽の国はもちろんの事、他の全ての国でも殆どの人間が放映具に向かって祈りを捧げた。
再び画面が切り替わる。
太陽神の正面の扉が開く。
そこから出てきた人物に、人々は祈ることも忘れてただ画面を見つめる。言葉もなく、ぽかんと口を開けたまま。時が止まったかのように。
その人が、あまりに美しかったから。
星をちりばめたような煌めく黒のドレス。露出した肩や腕は細くしなやかで、柔らかく薄黄みかかった宵月の色。ドレスよりもなお黒い髪がまっすぐに流れ、瞳も、それを縁取る長い睫さえも黒。光を吸い込んで輝く漆黒というものがあるのだと人は始めて知った。
形の良い唇がゆるく弧を描いている。切れ長の目はどこかミステリアスで、まるですべてを見透かしているよう。
月神。
その姿はまさに、夜の女王。
「ユエちゃん……」
食い入るように見つめる画面の向こうで何が起こっているのか、人々はまだ知らない。
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