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 「それでは、娘との婚約は破棄すると……」

 この日、宮殿に呼び出されていたのはサリアナの父であるハルン侯爵だ。

 「全ては俺の不甲斐無さが招いたこと。本当に申し訳ない」
 「……そうですか……元はと言えば、渋る閣下を無理矢理言いくるめ婚約を結んでもらったようなもの。仕方ないのかもしれません……」

 ハルン侯爵はサリアナに甘いが、決して話の通じない相手ではない。
 そして今回の争いで多大なる貢献を受けたのも事実だ。

 「そなたの家が私に与えてくれた恩恵は決して忘れてはいない。争いが終結したならば、そなたに公爵位を与え、諸外国との貿易を任せようと思っている」
 「なんと、恐れ多いことです……」

 ハルン侯爵は内心驚いていた。
 ここ一月ほどの皇帝の変化にである。
 これまでは傍若無人と言った言葉がよく似合う、暴君のような存在であった。
 それが最近では急に家臣たちのことを気にかけるようになったと聞く。
 もちろん、それは良いことなのであるが。

 「それから、そなたの娘のサリアナ嬢であるが……何かそなたに申しているか? 」
 「いえ……ただ、あなたには他に好きな女性がいるのだとは話しておりました」
 「そうか……」
 「その女性というのは、モンターン公爵令嬢でございましょうか? 」

 かねてより噂は耳にしていた。
 皇帝は未だにかつての婚約者に懸想していると。
 そして、その女性を宮殿に連れ込み隠すようにして匿っているとも。

 モンターン公爵令嬢の美しさは有名だ。
 社交界の華と呼ばれ、彼女に靡かぬ男などいないと言われていたほどである。
 そんな彼女が内乱のためにルクスに別れを告げられ、傷心のために社交界から姿を消したという噂も瞬く間に広まった。
 ルクスへ叶わぬ恋をしていた娘エレノアのことを思うと、少しホッとしてしまったのは父親故であろうか。

 「……いかにも。三年前、彼女と無理矢理別れたことを私は後悔していた。今回こそは、二度と離すつもりはない」
 「左様でございますか……」

 これは、本気だ。
 ハルン侯爵は皇帝の目の奥に宿るどろりとした熱を見て取った。
 狂おしいほどに人を愛するというのは、こういうことなのか。
 これでは娘に勝ち目などない。
 むしろ争うだけ彼女が不憫だ。

 「サリアナ嬢には、内乱が落ち着き次第しかるべき貴族令息を紹介しようと思っているのだが……それでも良いだろうか? 」
 「ありがたいお言葉ではありますが……娘もすぐには気持ちの切り替えが難しいかもしれませぬ。娘の様子が落ち着いてからでも、よろしいでしょうか? 」
 「それはもちろんだ。無理にとは言わん」


 それからしばらくして、ルクスとサリアナの婚約が破棄されたことが公表されたのである。


 「サリアナ、ルクス様のことは諦めろ。元々叶うはずのなかった縁なのだ」
 「嫌よお父様! なぜルクス様の仰ることに頷いてしまわれたのですか……? なぜ後から来たあの女のせいで、私がこのような目に……」

 ハルン侯爵家の屋敷では、サリアナの悲痛な叫びが聞こえてくる。

 「口が過ぎるぞサリアナ。ルクス様の元婚約者であるエレノア嬢は、モンターン公爵令嬢だ。元はと言えばお前が軽々しく見て良いお方ではない」
 「でもモンターン公爵家は今は政敵。あのお方もこちらからしてみれば裏切り者ですわ」
 「それでも、だ」

 サリアナは涙に濡れた瞳で恨めしそうに父を見上げる。

 「ルクス様のお気持ちは今後もエレノア嬢以外に向くことはないだろう。私はその事実を突き付けられた。あのお方はエレノア嬢無しでは生きてはいけないほど、彼女に執着されておられる」
 「そんな……」
 「今も昔も、ルクス様の中におられるのはエレノア嬢一人だけなのだよ」

 サリアナが両手で顔を覆い啜り泣く姿を、侯爵はただ見つめることしかできなかった。

 二人の婚約が破棄されたことにより、サリアナが宮殿に足を踏み入れることも無くなった。
 エレノアにとっては平穏な日々である。
 サリアナに申し訳ないと思いながらも安堵を隠せない自分は、嫌な女だと思う。
 だがルクスが他の女性と並ぶ姿は見たくなかったのだ。
 これは嫉妬というものなのか。
 幼い頃からルクスはエレノアしか目に入らないといった様子で、彼の隣に自分以外の女性が並ぶことなど考えたこともなかったのだが。
 三年前のあの日にその信頼は打ち砕かれた。
 初めてルクスの隣が自分のものでなくなるという焦りと喪失感に溺れそうになったことを思い出す。
 無理矢理ルクスの手で宮殿へ連れてこられてからも、エレノアの中では常にサリアナという存在が負担であり脅威でもあった。
 今ようやくその存在がいなくなり、ルクスは再びエレノアだけの男となったのだ。

 「エレノア様、皇帝閣下がお待ちです。お食事の時間が近づいておりますわ」

 ぼうっと庭の景色を眺めながらそんなことを考えていると、背後からミラにそう声をかけられた。
 この一月ほどの間に、ミラとの関係性はより親密になっている。
 しがない男爵令嬢として生まれたミラは良縁のあてもなく、数年前から宮殿で侍女として働き始めたらしい。

 『私はエレノア様のように見目も美しくはありませんし、実家も貧しい名ばかりの貴族。結婚の夢など、とうの昔に捨てましたわ』

 いつだったか、そう言って微笑むミラの姿を思い出した。
 果たして本当にそうだろうか。
 常に朗らかで太陽のように明るい微笑みは、見る者を安心させる。
 その見た目も決して本人が貶すほどのものではない。
 オレンジ色の髪はよく手入れが行き届いて艶々としており、肌の血色も良い。

 そして何より。

 (あのシオンが気にかけているんですもの)

 ルクスの側近でありエレノアの幼馴染でもあるシオンは、ミラに大して少なからず好意を抱いているのでないかとエレノアは思っていた。
 もちろんミラ本人はそのようなこと微塵も気付いてはいないのだが。

 シオンは公爵令息に加えてあの容姿だ。
 幼い頃から彼は常に人気者であった。
 そして成長してからは彼と近付きたいと願う令嬢達が大勢いたのだ。
 だがルクスとは違い、シオンは特定の相手を作らない。
 果たしてその理由が何なのかはエレノアにはわからないが、ミラにもシオンにも幸せが訪れて欲しい。


 「あの、エレノア様……? 」

 なかなか返事のないエレノアに、ミラは眉を寄せて答えを促す。

 「ああ、ごめんなさい。考え事をしてしまっていたわ。今行くわね」

 肩から薄いショールをかけてゆっくりと歩くエレノアの姿は、まるで女神のようである。
 ミラはその姿を眺めては感嘆のため息をついた。
 特にここ最近は皇帝との距離が近くなったせいか、より一層愛されている女としての誇りが滲み出し色香が溢れているように見える。
 相変わらず彼女の至る所には皇帝から付けられたであろう所有印が、消えることなく存在していた。
 真っ白な肌に咲く赤い薔薇のようなその印が、余計に彼女の妖艶さを増している。

 これは皇帝が虜になるのもやむなし、とその女神のようなエレノアの姿を脳裏から振り払うように、ミラはそっと首を振ると彼女と共に宮殿の中へと入っていったのである。
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