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第2話

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「あのぉ…ありがとうございます!」
「別に感謝する必要はない。遠乗りの帰りに、街中に湧いた害虫が目障りだっただけだ。行くぞ、ブレイズ」
「ハッ!」

 アリエルは王子の近くまで移動すると、地面に平伏してお礼を言いました。けれども、王子は平民にはまったく興味がないようです。アリエルを一度もまともに見ずに、隣にいる屈強な従者を連れて、城に帰ろうとしています。

「さっきの男はデューク伯爵とか言ったな?」
「はい、私の記憶違いでなければ、国王陛下からロンドゲネス領を任されているかと…」
「ふん、くだらん! そんな地方から王都まで街娘を拐いにわざわざ来るとは、余程暇らしい。仕事がないのなら、爵位は取り上げて、平民にしてやろう。朝から晩までたっぷりと働かせてやれ」
「ハッ、そのようにしておきます。……それにしても、街娘の中にも美しい娘はいるものですね。伯爵が強引に連れて行こうと思うはずです」

 ブレイズと呼ばれた従者は、人集りの中心にいるアリエルを見ています。街の人達がアリエルの周りに集まって、アリエルの無事を喜んでいました。

「くっくっ。ブレイズ、笑わせるな。馬から落ちてしまう。俺の暗殺を誰かから頼まれたのか?」
「はい、ですが、全てお断りしています」
「そうか。それでいい。平民は平民だ。我々とは違……」

 王子は白馬に跨ると、ブレイズのという言葉が気になって、少しだけ興味本位で人集りの中心に目を向けて見ました。
 王子にとって街娘は、どれも同じ服装をしていて、袖の長い白シャツやオレンジのロングスカートを履いている事しか覚えていません。その中からさっきの街娘を見つけるのは至難の技です。
 でも、王子は沢山の平民の中に紛れ込んでいる黒髪の美しい少女をすぐ見つけてしまいました。そして、しっかりと見つめたまま黙り込んでしまいました。

「……王子? どうかなさいましたか?」

 従者が白馬に跨ったままピクリとも動かない王子を心配して声をかけます。けれども、王子の反応は返ってきません。

「王子! 王子! どうかなさいましたか!」
「……ブレイズ、さっき私が助けたのは、あの黒髪の女か…」

 王子が伸ばした左手の人差し指は真っ直ぐに黒髪の少女を指しています。アリエルです。

「はい、その通りですが……それがどうかしましたか?」
「いや……そうか……問題ない。いや、問題はあるのか……」
「はぁ…?」

 いつもの堂々とした王子とは思えない、おかしな態度にブレイズは戸惑っています。ただ黒髪の少女をジッと見つめたまま、王子は馬に跨がったまま動こうとしません。

「王子、そろそろ城に戻らないと、王子の身に何かあったのかと城の者達が心配します」
「ああ、分かっている。ブレイズ、あの女を城に連れて行く」
「ハッ……んっ? 今、王子なんと言いましたか?」

 王子が正気に戻ったと思い、ブレイズは茶毛の馬に跨がって城に帰ろうとしましたが、その寸前で王子の言葉をよく思い出して踏み止まりました。

「あの女を城に連れて行くと言ったのだ。確かに美しい女だ。このまま街中に置いておけば、また同じような事件が起こるだけだ。そうならないように私の部屋の使用人として雇う事にする」
「それはなりません、王子! お考え直しくださいませ!」
「決定事項だ」

 ブレイズはこの状況にかなり困っている。王子の言い分は間違っていない。このまま何も対策せずに黒髪の女を街中に置いておけば、伯爵のような男が確実に現れる。それほどに女は美しい。あと2~3年もすれば、その美しさはより完璧なものに変わるだろう。それほどの美しい女だ。
 だが、今は時期が悪かった。王子の従者の前に、ブレイズは国王陛下の従者だ。

「王子! お立場をお考えください。王子は来月にはララノア様とのご結婚を控えている身です。そんな大切な時期に平民の女を部屋の使用人にするなど、王宮に無用な争いを引き入れるようなものです。街の治安がご心配ならば、あの女の周辺を街を警備する兵士に守らせます。どうぞ、お考え直しくださいませ」
「決定事項だ」
「王子!」

 ブレイズは王子の頑固な性格は知っている。一度言ったことは決して曲げようとしないその頑固な性格は、父親の国王陛下と瓜二つだ。従者の自分にはこれ以上、何も出来ることはない。王子が決定したのなら、あの女を城に連れて行かなければならない。そうブレイズは決心しました。

「……分かりました。連れて来ます。それと……」

 ブレイズは王子と王子の白馬を交互に見て言いにくそうにしています。

「何だ? 言いたい事があるなら、ハッキリ言え」
「女を王子の馬には乗せる事は出来ません。それはご理解くださいませ」
「当たり前だ! そんな事は分かっている! さっさと連れて来い!」

 従者に言われなくても、それぐらいは王子にも分かります。若い女と王子が一頭の馬に跨がって街中を移動するなんて、破廉恥極まる行為です。そんなのは愛人を作りました、と街中で堂々と宣伝するようなものです。


 
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