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Perfume2.過去への疑問と子供の感情。

20. 涙を一粒入れると。

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 セミナーの講師を務める伯剌西爾《ブラジル》人の男性は、ベテランらしい老人だった。
目が大きく、鼻が高く、顎に髭を蓄えている。
雑誌やテレビで何度か見たことがある有名な人物だ。
 その人物が講師ということもあってか、セミナーにはニッポンで有名なセラピストも多くいた。
やはりみなスーツを着ていて、ミカゲは浮いている。
 ヒサシと同級生で、小さい頃に何度か家に訪れていた男性たちが5人くらい集まってちらちらとヒカルのほうを見ていた。

「ヒサシさんの孫か……」
「相変わらず能力がないみたいだな……」
「あの栗色の髪、地毛らしいぞ。奇妙だな……」

 ひそひそ声は、普通の声とは違う周波数だからか、やけに聞こえてしまう。彼らは聞こえているはずがないと思っているようだったが。
 ヒカルはただうつむき、彼らの集団から離れようとした。
しかしミカゲはその集団を真っ直ぐ見つめたまま動こうとしない。

「ちょっとミカゲ」

 袖を引いても振り払われた。
 ヒカルが焦っているとミカゲは早足で集団に近付いて行く。
後を慌てて追うも、ミカゲはもうその集団の真ん中に押し入り、口を開いていた。

「貴方たちはヒカルよりも患者に寄り添ってはるんですか? ヒカルよりも鼻が利きはるんですか?」

 彼女は真ん中で回りながら、1人1人の胸に人差し指を当てて問うていく。
ヒカルは彼女の強気な態度に呆気に取られたまま少し離れた場所でその様子を見ていた。
 男性たちは何も言わず、ただ目を泳がせている。

「彼は優秀なセラピスト。悪く言ったら私が許さへんで」

 その声はより一層低くなり、その目はより一層鋭くなって彼らを睨み付けた。
彼らは互いに目配せしながら、無意識的に後ずさりしている。
 さらに何か問い詰めようとミカゲは口を開いたが、席に着くようアナウンスが流れた。
彼女はそのまま口を閉じ、集団から抜け出してヒカルのほうへ駆け寄ってきた。
そのまま腕を掴まれ、ステージに対して平行に並ぶ椅子の後ろの方に座る。

「ミカゲ、あの、ありがとう」

 隣に座るミカゲは膝下に置いた書類をがさがさとめくっていた。ヒカルの感謝には何も応えず、ふんと鼻を鳴らす。
 昔からミカゲはこうやって当然のように助けてくれるんだよなあ。
 そう思いながらヒカルも書類に目を通した。

「本日のセミナーでは、香りの合成についてお話します」

 講師の言語を、彼の隣に座っている女性が通訳する。
 合成は、ヒカルが苦手としている分野だ。
 ただ香りの液体や植物をすりつぶした粉末を同じ容器に入れて混ぜれば良いわけではない。素材の分量や入れる順番も重要な要素なのだ。
 様々なセミナーに参加しているヒカルにとっては、どういう系統の香りは最初に入れるだの、この手順のときにはここに注意だのということは今までも聞いたことのある話ばかりだったが、1つ初耳なことがあった。

「セラピストの涙を一粒入れると、合成した後の香りの安定率が数倍上がることが発見されました」

 これは伯剌西爾でも発見されたばかりだと言った。
涙にそういう効果があるなんて噂ですら聞いたことがなく、会場中がざわつく。
 どうやら研究機関でゴーグルを着け忘れて目が痛み涙が入ってしまった際、合成したときに生じる泡がかなり減ったらしい。
失敗は成功のもと、とはこういうことなのだろうとヒカルは思った。
 書類に赤ペンでメモをし、「本当だったらすごいね」とミカゲに話しかけてぎょっとした。
彼女は眠りに落ちかけていたのだ。
かくかくと頭が下がり、時々はっと上がる。ヒカルは彼女を小突いて起こした。

 セミナーが終わり会場から出るとき、ヒカルは怒っていた。
 「寝るなんてありえないよ」と繰り返すヒカルをミカゲは無視して夕食をどこで食べるか考えていた。頭の上で手を組んで真っ青な空を眺めている。
 聞いてるのかと怒るヒカル、はいはいと答えるミカゲ、はいは1回と怒るヒカル……この問答は終わらないまま、2人は揃ってホテルへ戻った。

「じゃあまた、夕食行く前に迎えに来る」
「ぜんぜん反省してないよねミカゲ」

 ミカゲは鼻歌を歌いながら、車から手を振ってどこかへ行ってしまった。

 ヒカルが部屋の前に来たときそこにはモモンガがいた。
見慣れた、クリニックで飼っているモモちゃんだ。
 モモンガとともに部屋に入り、尻尾についた手紙を見ると、マコトの文字が書かれていた。

『タクミくん、お母さんとたくさん話せて嬉しそう。こちらは順調だから勉強して来いよ』

 ヒカルはその手紙をそっとバッグの中のポケットに入れると、ベッドにうつ伏せに倒れ込む。
ふかふかのベッドと嗅ぎ慣れたローズの香りに癒され、彼はそのまま寝てしまった。

 ヒカルは手を伸ばし、真っ黒で艶のあるストレートへアを掴もうとする。
しかし髪は指をすり抜け、ぎゅっと握った手には何も残らない。
 その髪をもつ女性が、こちらを振り向く。
 それはヒカルの母親だった。
 目を細め、無理に歯を見せて、笑顔を見せてはいるが、気まずそうに見えて仕方がない。
ヒカルはその笑顔に牽制されたようにまったく動けないまま、母親は遠くの光へと消えて行った。
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