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Perfume2.過去への疑問と子供の感情。

21. 過去に“何か”があった。

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 手に柔らかな毛の感触がする。
それがくすぐったくて手を動かしているうちに、耳にどんどんという大きな音が流れ込んで来ていることに思い至る。
 しばらくそれが何なのか理解出来なかったが、意識が遠くから近寄ってきて彼の身体と一致した瞬間、ヒカルは飛び起きた。ベッドには彼の姿に沿って皺がくっきり付いている。
 ふらつく脚が絡みながらも部屋のドアまで行くと、

「そろそろご飯行こうよ、何してるん⁉︎」

 というミカゲの声が聞こえてきた。
 すぐ行くとこちらも大きな声で言って、先ほど置いたばかりのように思えるバッグを手に取って出た。

「うちのはーちゃん出したのに気付いてなかったみたいだし、心配したやんか」

 はーちゃんとは彼女のハヤブサに付けられた名前である。
 ヒカルは自分以外に通信用の動物に名前を付けている人を初めて見た。
彼らは似た者同士なのかもしれない。
 思わず寝てしまったのは久しぶりで、ヒカル自身も驚いていた。
ここ数日、この出張のために期限が先の仕事もなるべく片付けようと徹夜していたのが祟ったようだ。
 マコトに何の返事も出さずにモモちゃんを部屋に置いてきてしまったことを思い出したが、平気だろうと深く考えずに決め込んでしまった。

 昼あんなに食べたのにもう腹が減ったというミカゲは、地下にある洒落た喫茶店に入る。
 ミカゲはミルクレープとアイスレモンティー、ヒカルはガトーショコラとホットブラックコーヒーを注文するとすぐにそれらは運ばれてきた。
コーヒーカップの底が見えず、まるで永遠にコーヒーがあるように見える。
 ヒカルはゆっくりとコーヒーの香りを楽しんでいる一方で、ミカゲはミルクレープを一層ずつ剥がして食べ進めている。
そういえば彼女はなんでも不思議な食べ方をする子だったなと思い出す。
 ガトーショコラは緻密な味わいで、苦めのチョコレートと甘めのチョコレートのコンビネーションが絶妙だった。
コーヒーの酸味と苦味のバランスもちょうど良く、一気に食べるミカゲを見て呆れていたヒカルもぱくぱくとそれらを平らげてしまう。
 ミカゲはミルクレープを半分まで一気に食べると、レモンティーをこれまた半分まで飲んだ。
そしてカップの縁に刺さった、4分の1に切られたレモンでヒカルのほうを指す。

「なあ、どうして嗅覚を奪われたのか知ってる?」

 ミカゲは声を潜めてそう言った。
 歴史について探ってはいけない……それはこの世界での暗黙の了解だ。

「いや、過去に“何か”があって嗅覚を奪われた、としか聞いたことないよ。じいちゃんに聞いたことがあるけど、そのときもわからないと言われた」

 それは嘘ではなく、本当に知らないように見えた。
ヒサシの世代でも、彼ほどのセラピストでも、歴史については知らないのだ。
ゆえに事実を知っているのは歴史学者だけ、もしくはその中でも一握りの人物だと思われる。
 ミカゲは「ふうん」と言って、ストローでレモンティーをかき混ぜる。
そしてまたミルクレープを一層口に入れて、さらに声を潜めて言った。

「どうやら世界中で生贄《いけにえ》がどうこうと理由付けて人々が大量に処刑されていたらしいんや」
「生贄……? それよりミカゲ、どうしてそんなことを調べてるの? 君、歴史嫌いじゃなかった?」

 歴史を調べ回ることは危険だ。その危険を冒してまで調べる理由がヒカルにはわからなかった。
 ミカゲはフォークを皿に置いた。
そして肘を机に置き、手の平を額に当てて下を向く。

「たしかに嫌いやけど、いろいろあるねん。歴史を知らないときっといつか後悔する」
「どういう意味……?」

 いつものミカゲからは想像がつかないほど暗い雰囲気に、少し怖気付く。
しかしミカゲは何事もなかったかのようにまたフォークを手に取り、話し始めた。

「図書館にある本を片っ端から読んだんやけど、その処刑に関する部分がほとんど黒く塗り潰されてたんや。その処刑と嗅覚には必ず繋がりがあるはず」
「嗅覚がある人が生贄にされていた、とか?」
「見当も付かないけど、例えばそういうことやな」

 トウキョウの図書館でもそういった文献を見てみること、そして何かわかったことがあれば連絡すること。
それらを約束して、2人はオムライスを注文した。
 それ以降この話をすることはなかったが、互いに他の話題を持ち出すこともなく無言でオムライスを食べ進める。
素朴な味のチキンライスが、学生の頃の歴史の授業を懐かしく思わせた。

 再び昼間と同じ道でセミナーへ向かう途中、ヒカルは自分に対して違和感を抱いていた。
 なぜ歴史が好きな自分が今まで、嗅覚を失った歴史について興味を持たなかったのだろう?
 それについてわずかな疑問を持ったことさえなかった。
1度ヒサシに質問した後、その疑問はすっかりどこかへ行ってしまったようだった。
 今までセラピストである自分に自信を持ってきたが、ここで1つ自分を疑う材料が出来てしまったことを彼は良くないことだと思った。
早く解決しなければならない。
そう思った。
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