55 / 62
Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。
53. 悲しみを原動力に。
しおりを挟む
「おはようございます!」
アヤノがベルの音とともにクリニックにひょっこりと顔を出す。ついこの間まで柔らかいマフラーが首を包んでいたというのに、マフラーはおろか、羽織っているのはコートでなくカーディガンだ。
外から春の香りが漂う。俗っぽく言うと桜の香りだが、桜のみならず暖かい陽の光や木々の芽吹きがこの香りをつくっている。
その香りを深く吸い込んで堪能していると、イノウエが彼の腕をぽんと叩いた。
「ちょっと、なに香り楽しんでるのよ。先生の具合はどうなの?」
昨日、彼女は彼に会えないまま今日を迎えているのだということを思い出した。
まるでなんでもない日のように出勤しているが、短くはない時間、ともに働いてきたのだ。気に留めていないわけがない。たしかに彼女の目の下には隈が広がっている。
彼女いわく、モモンガによって彼が癌であること、先が長くはないことは知っているという。
「先生が倒れたと連絡を受けて、サイタマからクリニックに急いだことあったじゃないですか。あのときに癌だと診断されていたようです。全身に転移していて何にせよ手術は出来ないからと、俺たちには癌のことを隠していたようで」
「あのとき先生のそばにいた看護師さんの表情、少し気になってたのよね……でも言わなかったのはほとんどヒカルくんのためなんでしょう? ヒカルくんの様子はどうなの?」
イノウエもマコトと同様に、ヒサシが病気のことを打ち明けなかった理由をすぐさま見抜いた。皆がヒカルのことをよく分かっているため、ヒサシが彼に心配させまいとする気持ちを責めることは出来ない。
マコトは日が上るまで何やら動いていたヒカルの気配と、目を覚ましたとき街を歩いていくヒカルの姿を頭に浮かべ、
「俺たちの想像通り、あいつはめちゃくちゃ動揺しています。でも何か考えて動こうとしている。あいつは悲しみを原動力に、何かを成し遂げようとするやつですから」
とはっきり言った。
イノウエは彼の凛々しい横顔を見つめて微笑み、
「よし、今日も頑張りましょう!」
と手をぱちんと合わせた。
更衣室へ入っていった彼女の後ろ姿を見送るマコトの腕に、アヤノはそっと触れる。
背の低い彼女を見下ろすと、ワンピースの裾を小さい手できゅっと掴んでいるのが見えた。
「昨日、私がいたせいでクリニックへ向かえなかったこと、イノウエさんはどう思っているでしょうか」
小声で言ったそれを聞いて、マコトは思わず吹き出してしまった。
真面目に悩んでいたアヤノはあまりに驚きすぎて目を丸くするのみである。
「ははは、イノウエさんがそれで怒ったりするわけないよ。というかね」
アヤノの耳元に口を寄せ、囁く。
「イノウエさんがクリニックに行っていたら、どうして早く言わないんですか! 林檎剥きましょうか! って大騒ぎするだろうから、先生も困っていたと思うよ」
それを聞いたアヤノは、“大騒ぎするイノウエ”がすぐに頭に浮かんだ。
口元を片手で隠し、ふふと笑いながら、
「想像出来ちゃいました」
と言って彼女もまた更衣室へ入っていった。
ザーザー……雨が窓ガラスに打ち付け、クリニックの前の道を走る車は水溜りを踏んで水を撒き散らす。
マコトは外に立てた看板を仕舞うため雨の中出ていった。正午あたりから突然降り出した雨は冷たく、冬の名残を感じさせる。
クリニックに戻ったマコトは、髪から雨を滴らせていた。
「タオル用意してから出なさいよ!」
イノウエに注意されつつも渡された白いタオルを頭に乗せ、弁当の用意された休憩室ではなくクリニックの窓際に立った。
予報にはなかった雨なので、バッグやジャケットを傘代わりにして走り行く人々を眺める。
「タオルに髪の色がついたりはしないんですね」
隣からしたアヤノの声に驚く。窓の外に夢中で、彼女の足音には気付かなかった。
驚きを隠すように饒舌に、なぜ雨は髪色を落とさないか説明する。酸性がどうの、ピーエイチがどうのと詳細すぎるほどの説明であったが、アヤノは興味深そうに相槌を打つ。
説明が終わると、二人の間に微妙な静寂が訪れた。話しているうちに髪が乾いてきたのでタオルを首に掛けて休憩室に戻ろうとすると、
「どうして髪を水色にしているんですか?」
とアヤノが尋ねた。
マコトは曇り始めた窓を指でなぞって文字とも絵ともいえぬ模様を描きながら、
「水色が好きだから」
とだけ言って、少し経ってまた口を開く。
「ヒカルの髪って明るくて目立つだろ? 栗色、とでも言うのかな。あいつの母親はあの色が気に入らなくてひどいことを散々言われたらしいし、スクールでは“外人だ”とかって辛い思いをしていたのは俺がこの目で見てた。だから俺のほうがあいつよりも目立つ髪色になってやろうって思った」
アヤノは唐突にマコトの髪に手を伸ばし、指をそのさらさらの髪に通した。
何も言えないでいる彼ににっこりと可愛らしい笑みを向け、
「ヒカルさんのこと、とっても好きなんですね」
と言った。呆気に取られたままのマコトを窓際に残し、彼女は先に休憩室へ戻っていった。
アヤノがベルの音とともにクリニックにひょっこりと顔を出す。ついこの間まで柔らかいマフラーが首を包んでいたというのに、マフラーはおろか、羽織っているのはコートでなくカーディガンだ。
外から春の香りが漂う。俗っぽく言うと桜の香りだが、桜のみならず暖かい陽の光や木々の芽吹きがこの香りをつくっている。
その香りを深く吸い込んで堪能していると、イノウエが彼の腕をぽんと叩いた。
「ちょっと、なに香り楽しんでるのよ。先生の具合はどうなの?」
昨日、彼女は彼に会えないまま今日を迎えているのだということを思い出した。
まるでなんでもない日のように出勤しているが、短くはない時間、ともに働いてきたのだ。気に留めていないわけがない。たしかに彼女の目の下には隈が広がっている。
彼女いわく、モモンガによって彼が癌であること、先が長くはないことは知っているという。
「先生が倒れたと連絡を受けて、サイタマからクリニックに急いだことあったじゃないですか。あのときに癌だと診断されていたようです。全身に転移していて何にせよ手術は出来ないからと、俺たちには癌のことを隠していたようで」
「あのとき先生のそばにいた看護師さんの表情、少し気になってたのよね……でも言わなかったのはほとんどヒカルくんのためなんでしょう? ヒカルくんの様子はどうなの?」
イノウエもマコトと同様に、ヒサシが病気のことを打ち明けなかった理由をすぐさま見抜いた。皆がヒカルのことをよく分かっているため、ヒサシが彼に心配させまいとする気持ちを責めることは出来ない。
マコトは日が上るまで何やら動いていたヒカルの気配と、目を覚ましたとき街を歩いていくヒカルの姿を頭に浮かべ、
「俺たちの想像通り、あいつはめちゃくちゃ動揺しています。でも何か考えて動こうとしている。あいつは悲しみを原動力に、何かを成し遂げようとするやつですから」
とはっきり言った。
イノウエは彼の凛々しい横顔を見つめて微笑み、
「よし、今日も頑張りましょう!」
と手をぱちんと合わせた。
更衣室へ入っていった彼女の後ろ姿を見送るマコトの腕に、アヤノはそっと触れる。
背の低い彼女を見下ろすと、ワンピースの裾を小さい手できゅっと掴んでいるのが見えた。
「昨日、私がいたせいでクリニックへ向かえなかったこと、イノウエさんはどう思っているでしょうか」
小声で言ったそれを聞いて、マコトは思わず吹き出してしまった。
真面目に悩んでいたアヤノはあまりに驚きすぎて目を丸くするのみである。
「ははは、イノウエさんがそれで怒ったりするわけないよ。というかね」
アヤノの耳元に口を寄せ、囁く。
「イノウエさんがクリニックに行っていたら、どうして早く言わないんですか! 林檎剥きましょうか! って大騒ぎするだろうから、先生も困っていたと思うよ」
それを聞いたアヤノは、“大騒ぎするイノウエ”がすぐに頭に浮かんだ。
口元を片手で隠し、ふふと笑いながら、
「想像出来ちゃいました」
と言って彼女もまた更衣室へ入っていった。
ザーザー……雨が窓ガラスに打ち付け、クリニックの前の道を走る車は水溜りを踏んで水を撒き散らす。
マコトは外に立てた看板を仕舞うため雨の中出ていった。正午あたりから突然降り出した雨は冷たく、冬の名残を感じさせる。
クリニックに戻ったマコトは、髪から雨を滴らせていた。
「タオル用意してから出なさいよ!」
イノウエに注意されつつも渡された白いタオルを頭に乗せ、弁当の用意された休憩室ではなくクリニックの窓際に立った。
予報にはなかった雨なので、バッグやジャケットを傘代わりにして走り行く人々を眺める。
「タオルに髪の色がついたりはしないんですね」
隣からしたアヤノの声に驚く。窓の外に夢中で、彼女の足音には気付かなかった。
驚きを隠すように饒舌に、なぜ雨は髪色を落とさないか説明する。酸性がどうの、ピーエイチがどうのと詳細すぎるほどの説明であったが、アヤノは興味深そうに相槌を打つ。
説明が終わると、二人の間に微妙な静寂が訪れた。話しているうちに髪が乾いてきたのでタオルを首に掛けて休憩室に戻ろうとすると、
「どうして髪を水色にしているんですか?」
とアヤノが尋ねた。
マコトは曇り始めた窓を指でなぞって文字とも絵ともいえぬ模様を描きながら、
「水色が好きだから」
とだけ言って、少し経ってまた口を開く。
「ヒカルの髪って明るくて目立つだろ? 栗色、とでも言うのかな。あいつの母親はあの色が気に入らなくてひどいことを散々言われたらしいし、スクールでは“外人だ”とかって辛い思いをしていたのは俺がこの目で見てた。だから俺のほうがあいつよりも目立つ髪色になってやろうって思った」
アヤノは唐突にマコトの髪に手を伸ばし、指をそのさらさらの髪に通した。
何も言えないでいる彼ににっこりと可愛らしい笑みを向け、
「ヒカルさんのこと、とっても好きなんですね」
と言った。呆気に取られたままのマコトを窓際に残し、彼女は先に休憩室へ戻っていった。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます
七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。
「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」
そう言われて、ミュゼは城を追い出された。
しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。
そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる