56 / 62
Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。
54. 悔いが喜びを飲み込んでいく。
しおりを挟む
ガーゼから漂うラベンダーの香りと、喧《やかま》しい機械音に包まれ、ヒサシは息を引き取った。
その頃には桜の木も花を散らし、葉を生い茂らせる準備を始めていた。
医師を呼ぶとすぐにヒカルは機械音が満ちる病室を後にした。そしてクリニックの廊下の突き当たりにある大きな窓から、車が出たり入ったりする駐車場を見下ろす。白い車のルーフには桜の花びらが張り付いている。
地球は今も変わらず回っているのか。自分の動揺など地球には何の影響もないのか。
意味もなくそんなスケールの大きいことに思いを馳せ、自らの小ささに打ちひしがれる。
涙がぽつりと一滴だけ窓の下に落ちたとき、涙と入れ替わるように窓の下からモモンガが飛んできた。ふわりと器用に窓枠に止まると、早く手紙を取れと言わんばかりに赤いリボンが括られた尻尾をヒカルに向ける。
リボンを解いて手紙の封を切る。三つ折りの紙の一つの折り目を開くと“鑑定結果通知書”と太字で書かれていて、もう一つの折り目を開く手が震える。彼はモモンガがじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「ははっ、心配してくれているのかな? ほら、もう元気」
瞳の際に残る涙を指の先で拭う。わざとらしく両手を開いて笑顔を作ると、モモンガは満足したのか踵を返し、窓から暖かい空気の中へ飛び込んでいった。
モモンガに癒やされている間に躊躇なく紙を広げていて、通知書という太字の下には“癌治療薬として認可”とやけに控えめな文字が並んでいるのが目に入った。
「……っ!」
声にならない声が漏れる。思わず拳を強く握りしめ、紙がぐしゃっと音を立てて皺を作る。
「ヒカル、主治医が呼んでいる」
背後から遠慮がちにマコトが話しかけた。彼はヒカルの身体全体が震えているのを涙のためであると思っていたが、それは今はほとんど見当違いである。
振り返ってマコトの両肩に手を乗せる。マコトは彼が笑顔であることに驚いた。現実と表情のミスマッチさは、あまりの悲しみに狂ってしまったのではないかと疑ったほどだ。
「じいちゃんの仮説は合ってたんだ! つまりじいちゃんは前人未踏の偉業を成し遂げた!」
「ちょっと落ち着け。何の話だ?」
「これだよ、これ」
戸惑うマコトに、ポケットから取り出した小瓶と鑑定書を見せた。
「青いバラ、のアロマ?」
「ああ、じいちゃんがやっと植物園に咲かせることが出来た青いバラ。このアロマが癌治療に有効だという鑑定結果が出たんだ!」
「なんだと!?」
鑑定書を食い入るように見つめ、鑑定対象物質と結果を交互に見る。彼もまたヒカルと同じように声にならない声を漏らした。
喜ぶ彼を見て、より一層の実感が湧き上がった。嬉しさで足の力が抜け、マコトに全体重を預けるような形になる。そしてヒカルは絞り出したような声で、
「良かった、じいちゃんが試行錯誤して出来た植物の意味を証明出来て。本当に、良かった……けど、この結果をじいちゃんに伝えるのはあと少しというところで間に合わなかった……悔しい、悔しい……」
と、喜びと悔いを口にした。
もう少し早くタシロに研究を依頼していたら?
そういった後悔が渦を巻き、初めは強く感じていた喜びを飲み込んでいく。
マコトは次第に涙声になっていくのを間近で聞き取り、ヒカル特有のジャスミンの香りが濁っていくのを間近で嗅ぎ取っていた。あの朝、白衣を纏って出かけた彼が何をしようとしていたのか、このときようやく理解した。
彼は特に掛ける言葉を持たぬままヒカルの柔らかい髪を撫で、
「喜ぶのも悔いるのも後だ。まずは主治医のところに行こう」
と言って、半ばヒカルを引きずるようにヒサシの病室へ戻った。
医師が預かっていたという遺書には、遺産の行方、葬儀、墓など、死後必要な事柄が細かに綴られていた。
「葬儀場等はクリニック側から提案するのが一般的なのですが、というのは同じセラピストですから知っていましたね、失礼致しました。ではその通りに」
彼はこの後ヒカルが家族としてしなくてはならない手続きをマニュアル的に説明したが、それはヒカルたちもセラピストとして再三してきた説明だ。医師には申し訳ないが話半分に、ヒカルはヒサシがどのような思いで、どのような表情でこの遺書をしたためていたのかを想像していた。
また、最後に彼の中にあったのは、満足か、不足か。想像は止まることを知らない。
ヒカルが彼の成果を鑑定書という形にしても、出来たのは彼の努力を認めることだけだ。癌治療薬を作り出していながらも、ヒサシ自身はその薬を使うことは出来ず、癌によって命を落とした。
なんと皮肉なことだろうか。
医師の話が終わり、様々な手続きをするために病室を出たとき、ヒカルはマコトにこう言った。
「やっぱりセラピストは不幸だよ」
彼は不思議と笑っていた。
その頃には桜の木も花を散らし、葉を生い茂らせる準備を始めていた。
医師を呼ぶとすぐにヒカルは機械音が満ちる病室を後にした。そしてクリニックの廊下の突き当たりにある大きな窓から、車が出たり入ったりする駐車場を見下ろす。白い車のルーフには桜の花びらが張り付いている。
地球は今も変わらず回っているのか。自分の動揺など地球には何の影響もないのか。
意味もなくそんなスケールの大きいことに思いを馳せ、自らの小ささに打ちひしがれる。
涙がぽつりと一滴だけ窓の下に落ちたとき、涙と入れ替わるように窓の下からモモンガが飛んできた。ふわりと器用に窓枠に止まると、早く手紙を取れと言わんばかりに赤いリボンが括られた尻尾をヒカルに向ける。
リボンを解いて手紙の封を切る。三つ折りの紙の一つの折り目を開くと“鑑定結果通知書”と太字で書かれていて、もう一つの折り目を開く手が震える。彼はモモンガがじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「ははっ、心配してくれているのかな? ほら、もう元気」
瞳の際に残る涙を指の先で拭う。わざとらしく両手を開いて笑顔を作ると、モモンガは満足したのか踵を返し、窓から暖かい空気の中へ飛び込んでいった。
モモンガに癒やされている間に躊躇なく紙を広げていて、通知書という太字の下には“癌治療薬として認可”とやけに控えめな文字が並んでいるのが目に入った。
「……っ!」
声にならない声が漏れる。思わず拳を強く握りしめ、紙がぐしゃっと音を立てて皺を作る。
「ヒカル、主治医が呼んでいる」
背後から遠慮がちにマコトが話しかけた。彼はヒカルの身体全体が震えているのを涙のためであると思っていたが、それは今はほとんど見当違いである。
振り返ってマコトの両肩に手を乗せる。マコトは彼が笑顔であることに驚いた。現実と表情のミスマッチさは、あまりの悲しみに狂ってしまったのではないかと疑ったほどだ。
「じいちゃんの仮説は合ってたんだ! つまりじいちゃんは前人未踏の偉業を成し遂げた!」
「ちょっと落ち着け。何の話だ?」
「これだよ、これ」
戸惑うマコトに、ポケットから取り出した小瓶と鑑定書を見せた。
「青いバラ、のアロマ?」
「ああ、じいちゃんがやっと植物園に咲かせることが出来た青いバラ。このアロマが癌治療に有効だという鑑定結果が出たんだ!」
「なんだと!?」
鑑定書を食い入るように見つめ、鑑定対象物質と結果を交互に見る。彼もまたヒカルと同じように声にならない声を漏らした。
喜ぶ彼を見て、より一層の実感が湧き上がった。嬉しさで足の力が抜け、マコトに全体重を預けるような形になる。そしてヒカルは絞り出したような声で、
「良かった、じいちゃんが試行錯誤して出来た植物の意味を証明出来て。本当に、良かった……けど、この結果をじいちゃんに伝えるのはあと少しというところで間に合わなかった……悔しい、悔しい……」
と、喜びと悔いを口にした。
もう少し早くタシロに研究を依頼していたら?
そういった後悔が渦を巻き、初めは強く感じていた喜びを飲み込んでいく。
マコトは次第に涙声になっていくのを間近で聞き取り、ヒカル特有のジャスミンの香りが濁っていくのを間近で嗅ぎ取っていた。あの朝、白衣を纏って出かけた彼が何をしようとしていたのか、このときようやく理解した。
彼は特に掛ける言葉を持たぬままヒカルの柔らかい髪を撫で、
「喜ぶのも悔いるのも後だ。まずは主治医のところに行こう」
と言って、半ばヒカルを引きずるようにヒサシの病室へ戻った。
医師が預かっていたという遺書には、遺産の行方、葬儀、墓など、死後必要な事柄が細かに綴られていた。
「葬儀場等はクリニック側から提案するのが一般的なのですが、というのは同じセラピストですから知っていましたね、失礼致しました。ではその通りに」
彼はこの後ヒカルが家族としてしなくてはならない手続きをマニュアル的に説明したが、それはヒカルたちもセラピストとして再三してきた説明だ。医師には申し訳ないが話半分に、ヒカルはヒサシがどのような思いで、どのような表情でこの遺書をしたためていたのかを想像していた。
また、最後に彼の中にあったのは、満足か、不足か。想像は止まることを知らない。
ヒカルが彼の成果を鑑定書という形にしても、出来たのは彼の努力を認めることだけだ。癌治療薬を作り出していながらも、ヒサシ自身はその薬を使うことは出来ず、癌によって命を落とした。
なんと皮肉なことだろうか。
医師の話が終わり、様々な手続きをするために病室を出たとき、ヒカルはマコトにこう言った。
「やっぱりセラピストは不幸だよ」
彼は不思議と笑っていた。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます
七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。
「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」
そう言われて、ミュゼは城を追い出された。
しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。
そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる