あの日、肩越しに見た青

岩崎みずは

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2.島と、ひと

あの日、肩越しに見た青

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 人口およそ四千人の鹿咲島。高校はなく、小学校は二校。中学校も二校あるものの、うち一校は、半年前から休校中。
 その、休校中校舎の屋根が、台風で一部飛ばされ、応急の修理がされたものの、素人の杜撰な処置で、数か所に雨漏りがあり、数ヶ月間、役場の人間も気づかずにいたというから、お粗末な話だ。
「なんか、そのカッコ。不貞腐れて留守番してるオコチャマみてえ」
 佐治は、音楽室の床に、子供のように膝を立てて座り込んだ志田に冷えた缶コーヒーを投げて寄越すと、自分も飲み始めた。
 実際、待ち草臥れたのは確かだ。佐治は、約束していた時間より、たっぷり一時間は遅れて到着したのだから。
 志田が座っているのは、元々はピアノが置いてあった場所なのだろうが、いまはそこには何もない。ピアノのような高価な備品は、休校が決まってすぐに運び出され、別の場所で保管されている。
「いるる、よくここ(音楽室)に辿り着けたなあ。迷って、途方に暮れてると思ってたんだけど」
 遅刻しておきながら、佐治は悪びれる様子もない。文句のひとつもぶつけてやりたいが、立場的に、佐治は棟梁で、志田は臨時アルバイト以下なのだから、まあ仕方ない、と苦笑し、有り難くコーヒーを頂く。
 いるる、というのは、学生時代の志田の仇名で、大学で同じサークルだった女子生徒が呼び始めた。志田自身は、正直、気に入ってはいないが、佐治は昔から志田をいるると呼ぶ。
 確かに佐治の言う通りで、音楽室は容易には分からない場所に在った。二階の端に準備室、その陰に四、五段程の階段が、隠れるように設置されていた。その階段を降りた先がここで、構造的に、床の高さが違う、簡単に言うと宙に浮いているような形になっているのだ。つまり、音楽室は二階ではなく、正確には、中二階ということになる。勿論、中学校を迷路やからくり屋敷にしようなどという遊び心などではなく、無計画に増築した結果がこうなってしまったのだろう。
 音楽室の場所を教えてくれたのは、この中学校に昔通っていたという、砂生と名乗ったあの怪し気な男なのだが、志田も少しヘソを曲げていたので、佐治には黙っていることにした。
「ほれ、いるる。仕事仕事」
 佐治に促され、腰を上げる。
「今日の手番は?」
「棟板金の下のヌキ板の具合見て、防水コーキングだろ、そのあと、棟板金を取り換える」
 問いに真面目に応えられても、志田には何のことやら分からない。
「あー。カラーネイル、足りねーや。ビスも。いるる、帰ったら、親父に伝えて発注頼む。俺、忘れちまいそうだから」
「了解、ボス」
 普段おちゃらけていても、佐治は本職だけあって、驚くほどの身軽さで屋根に上がり、作業を始める。志田に出来ることは、指示された工具を手渡したり、梯子を抑えたりすることくらいだ。
「そもそもさあ、なんで休校中の学校の屋根なんて修理すんの?必要ないだろ」
 志田が訊くと、佐治は片方の口の端をつり上げた。笑うときの癖だ。
「そう、休校。廃校じゃないからな。雨曝しにしとくワケにゃいかんでしょ」
 鹿咲島は、似通ったロケーションの他の地方自治体に先駆けて、十数年前から移住者誘致に力を注いでおり、自治体のみならず、島の有力な個人までもが私財を投じて支援活動に貢献しているという。その甲斐あってか、ここ数年は、人口減に歯止めをかけることに辛うじて成功しているらしい。
 診療所を作り、スーパーマーケットを設置し、インフラを整備し、行政と有志が協力して畑や空き家を管理するなどして、移住者を諸手を揚げて待っている。だからこそ、いざ子供連れの一家が越してきてくれたとき、通える学校が無い、では、すぐに島を去られてしまう。
 いつでも稼働出来るようにメンテナンスしておくことが重要なのだ、と、佐治が熱弁を振るう。
 志田の口許に微笑が浮かぶ。こんなところも昔と少しも変わっていないな、と思ってしまうのだ。陽気で自信に溢れ、少々強引なところもあるが、それすらも魅力に変えてしまう、いつも集団の中心にいた佐治。
 佐治は、島を盛り立てようと尽力している青年団の執行役員の一人で、工務店の仕事とは別に、観光客を呼び寄せるためのイヴェント発案や、近隣の島に住む若者同士の交流の企画など、積極的に動きまわっている。
 そんな、ただでさえ多忙な毎日を送る佐治が、遠くに離れた東京の志田を忘れず連絡を絶やさずにいてくれたこと、島を訪ねてもいいか、と電話をしたとき、即座に「大歓迎だ」と言ってくれたこと、船着き場に降りたら、両手を大きく振って、本当に嬉しそうに出迎えてくれたこと。民宿に泊まると言ったら、懐具合まで案じ、工務店の離れの一室を格安で提供してくれたこと、突然の訪問の理由を根掘り葉掘り聞こうとしないこと。何から何まで有り難いことばかりで、佐治には感謝してもしきれない。
 宿泊代とは別に食費を渡そうとしても頑として受け取らないから、せめて、工務店の仕事を手伝わせてくれと申し出た。それは、快諾された。工務店の主人である佐治の父親がしばらく前から腰の具合が悪く、施工作業など体を使う仕事は、佐治一人が担当しており、労働力はいつでも欲しいのだと言ってくれた。
「こき使ってやるからな、覚悟しとけよ、いるる」
 それが本当なのか、志田に肩身の狭い思いをさせまいとの気遣いなのかは分からないが、アルバイトや使い走りでも、打ち込めるものが、いまの志田にはなにより必要だった。
 陽が落ちる前に作業を切りあげ、佐治と志田は、中学校を後にした。もともと、一日で完了する施行ではない。
「うう、あちい」
 佐治が工務店の上着を剥ぐように脱いで、乱暴に自分を扇ぐ。佐治は志田とは違い、スレンダーな身体つきだが、無駄のないきれいな筋肉を保っている。
「いるる、よく長袖なんかずっと着てられるよなあ。俺だったら耐えられん」
 志田が長袖を脱がないのは、そのほうが涼しく感じるからで、日中、肌を直接日光に炙られることにまだ慣れていないせいだ。島に着いた翌日、調子に乗って日焼け止めも塗らずにランニング一枚で海沿いを散策していたら、酷い目にあった。
「ふーん。都会もんのオハダは、軟弱じゃのう」
 鼻歌混じりに歩く佐治の足を、思い切り蹴飛ばす。
 入江沿いに進むと、磯の香りが一段と強くなる。民家の軒先に吊るされている魚やイカの干物は、頼めば小売りして貰える。小学校から帰って来た、ランドセルを背負った子供達がはしゃぎながら志田の横をすり抜けて行く。
 網を繕っている老人や、バケツを洗う中年の女に親し気に声をかけられると、佐治は誰にでも屈託なく笑いかけ、片手を上げて応える。この島の住人皆、親や祖父母、或いはそれ以前からの知己で、全員が親戚みたいなもん、といっていたのは本当なのだ。マンションの隣や上下の部屋にどんな人間が住んでいるのかも分からない暮らししか知らない志田には、眩しく、少し羨ましい。
 漁港まで行くと、車座になった男たちが、缶ビールやコップ酒などを手に談笑していた。島の漁師たちだ。
 夕方とはいえ、まだ陽のある時間帯からの酒盛りに一瞬、驚くが、よくよく考えれば、かれらの仕事は深夜から始まるのだから、勤め人だった志田とはタイムスケジュールが違う。
「よう、克ちゃん。混ざらねえかい。そっちの東京のお客さんも」
 佐治と志田を目ざとく見つけた漁師の一人が誘う。五十絡みでごま塩頭の頑強そうな男だ。他の男たちの目線が一斉に此方に注がれる。海の男は年齢が分かりづらいが、上は六十代から、志田と同年代、下は、十代ではないかと思われる若者までがいるようだ。
 東京のお客さん、などと呼ばれるのは、正直、あまり嬉しいものではないが、観光客も滅多に訪れない小さな島だ。余所者は珍しいのか、あっと言う間に面が割れる。でも、少なくとも、かれらに都会の人間への偏見や悪意はない。むしろ、偏見を持っているのは志田のほうだ。
 漁師というのは、気短なうえに粗野だというイメージがどうにも拭えないのだ。気圧されるというか、怖いというか。地元の人間である佐治が隣にいなかったら、志田は、下を向いて走り抜けただろう。自分が基本的に小心者なのは知っている。
「ヤボヤボ。察してよ、山さん。俺ら、これからしっぽりおデート」
 佐治はいきなり志田の片手を取ると、指を絡め、見せつけるように高々と掲げた。
「おほー。隅におけないねえ」
 山さん、と呼ばれたごま塩頭が豪快に笑い、それにつられたように座がどっと湧いた。
「気の良い連中なんだけどさ、付き合って飲んでたら、肝臓が持たない」
 佐治がこっそり耳打ちする。
 カドが立たない断り方なのは分かるが、ジョークとしてはあまり品がよろしくない。漁港を離れるが早いか、志田は佐治に噛み付いた。
「おまえ、あんなこと言って。明日から、俺がヘンな目で見られたらどうしてくれんだよ」
「別にあんな冗談、誰も真に受けやしねえよ。それともなに、俺がああ言ったから、意識しちゃった?」
「誰が」
 子供のように小突き合いながら、小さな石ころと砂だらけの坂路地を昇った。佐治の工務店は、海沿いからは少し離れた、拓けた山の傾斜地にある。途中、佐治が「スーパーマーケット」と呼ぶ、規模的には少し大きめなだけの雑貨屋で、二人で持てるだけのビールの六缶パックを購入した。
 店を出ると、美しい夕焼けが広がっていた。坂を幾度か折り返した眼下に、空の色を映した海が耀いている。志田は、深呼吸した。四角く切り取ってそのまま絵葉書にでも出来そうなこの景色を、色彩を、自分のなかに取り込みたい。
 風景に流していた目線が、ふと、ある一点で止まった。遠く、白い突堤の上に、腕組みをして立つ人影を見つけたのだ。
 砂生が「たつき」と呼んだ、あの若者だ。
 此方を見つめているような気がするのは、思い過ごしだろうか。
「どうした、いるる」
 少し先を歩いていた佐治が、怪訝そうに振り返り、小走りに戻って来る。
「なんだ、あいつ。島に帰ってたのか」
 志田の視線の先を辿るように佐治も目を遣り、低く呟く。
「佐治。知り合いなのか?」
 佐治の表情が、不意に曇った。
「ありゃあ、ここの網元の息子だよ。弓村龍希(ゆみむら・たつき)」
 志田は首を傾げた。網元、とは、あまり耳慣れない言葉だ。
「まだ高校生のガキだけどな。なんというか、まあ、ちとマトモじゃない。関わるんじゃねえぞ、いるる」
 吐き捨てるようにそれだけ言うと、志田を促し、歩調を早める。慌てて佐治の後を追いながら、思った。そういえば砂生も、あいつに構うな、と言っていた。
 それにしても高校生とは驚いた。当初の印象では、もう少し年上に見えた。
 腕も首筋も色濃く日焼けした肌、堂々とした体躯。それに、接客業という仕事柄、これまで多くの人間と出会ってきた志田ですら、ちょっと驚くような男前だった。道で擦れ違ったら、思わず振り返って二度見するだろう。テレビ番組や若者向けのファッション雑誌で気軽に出会える、量産された今どきの『イケメン』などでは決してない。アイドル風の甘いマスク、というのとはまったく違う、野生の豹のような、精悍な美しさ。実際の年齢よりも大人びて見えたのは、整った容貌のせいだったのかもしれない。
 確か、この島には高校はなかった筈だ。内地(本土)の学校へ通うのに都合がいい時間帯の定期船もないから、島を出て、寮に入るか、或いはアパートでも借りて自活するしかない。子供が中学を卒業するタイミングで、島を捨てる家族も多いのだと、佐治が嘆いていたことを思い出す。
 事情はひとそれぞれだから、夏休みの時期でも休日でもないのに高校生がこの島にいる、といってもそれほど不思議なことではないだろうが、あの、佐治の反応はなんだったのだろう。まるで、毒蛇を目にしたような、あの言いようは。
 マトモじゃない、とは。
 確かにいきなり殴りかかられはしたが、かれ、龍希が誰彼の見境なく襲う狂犬じみた危険人物だとは、志田には思えなかった。
 あのとき、龍希はなにかを見て顔色を変えた。そして飛び掛かって来た。なにが引鉄となったのか。志田は、無意識に自分の身体に目線を落とす。
 別に、何もない。志田には角も尻尾も生えていないし、皮膚に鱗だってない。服装だってごく普通だ。ジーンズにTシャツ、その上に、公務店のロゴ入りの青い上着。
 振り返っても、龍希はまだそこにいた。目に焼き付けたばかりの空の色に、僅かに灰色の影がさしたようで、少し気が重くなる。
 二度目に振り返ったとき、波に融けたかのように、人影は消えていた。
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