あの日、肩越しに見た青

岩崎みずは

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3.移住と、網元

あの日、肩越しに見た青

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 志田が寝泊まりさせて貰っている離れは、以前に住み込みで働いていた従業員に貸していた部屋だという。
「よく働くいいアンチャンだったんだけどな。やっぱし都会っ子だったんだよなあ。半年、持たなかったよ」
 三本目の缶ビールを手に取り、佐治が溜め息を漏らす。ビールのほかにも、チューハイの空き缶と飲み終えたワンパックの日本酒ブリックが、二人の間に無造作に幾つか転がっている。学生時代からあまり酒に強くなく、飲むと愚痴る癖が、佐治にはあった。
「田舎暮らしに憧れて、ってだけじゃあ、無理だよなあ」
 その通りだ、と志田も思う。
 青い空と海、大自然に囲まれ、獲れたての旨い魚が味わえる。そんなふうに浮かれ、物見遊山で数日を過ごすのとはわけが違う。居住するとなると、生活の利便性、雇用の確保といった、現実の問題が壁となる。台風などの自然災害や、海風による塩害。子供がいれば、当然、教育の面も心配だろう。
「でも、俺は、この島、好きだよ」
 そう言うと、佐治の目が輝いた。
「そんじゃ、住んじゃえよ、いるる」
 いや、そんなことをいきなり言われても。そう返す前に、佐治がずいと身を乗りだしてくる。
「そーだそーだ。それがいい。いるる、移住して来い。網元に頼めば、資金は援助して貰える。仕事だったら、島にもハローワークあるし、新しい職が見つかるまでウチを手伝えばいい。家は、役所に登録のある空き家バンク当たれば、十分に広くて住みやすいトコが見つかるからさ」
 えらく矢継ぎ早に具体的な話を持ちかけてくるが、見たところ、佐治は酔っている。その証拠に、少々、呂律が回っていない。
「網元って、おまえ、さっきも口にしてたな。話がイマイチ見えないけど、マトモじゃない息子がいるんだろ。なんでそれが、資金を援助してくれるんだ?」
「んーと。そっちの網元じゃなくて。俺が言おうとしてんのは」
 意味がよく分からない。
「なんだよ。はっきりしないな。この島には網元ってのが複数いるのか?」
 もっともな志田の疑問は、佐治の耳には届かなかったようだ。
「俺、いるるが来てくれたら、ホントに嬉しいよお。いるるくらい、気の合うヤツ、いねえんだもん」
 その言葉に、不意に胸が詰まった。本音で言ってくれているのなら、こんなに嬉しいことはない。
 妻に去られ、仕事も失くし、自分は誰からも必要とされていない人間だと思った。居場所がない不安に、幾晩も眠れず過ごした。
「てか、おまえ、酔っ払ってんだろ。明日になったら、ナニ言ったか覚えてない、なんてオチは無しだからな」
 怒ったように言い返したのは、照れ隠しだ。
「大体、なんでそんなに俺を引っ張りたいんだよ。まさか、マジに俺に惚れちゃってるとか?」
 最後の質問は無論のこと、佐治の先刻の冗談を引き合いにして言っただけだが、佐治は何も答えない。
「おい、コラ」
 肩に手を掛けて軽く揺さぶると、ぐらりと傾いた。壁に背中をつけたまま、佐治は、いつの間にか寝入っている。
「ったく、もう」
 疲れているのだろう、無理もない。軽い鼾をかき始めた佐治を横たわらせ、楽な姿勢をとらせてやる。少し考えて、タオルケットを腹に投げかけてから、志田はビールのパックを手に取り、離れを出た。
 向かう先は、海だ。
 船溜りでの宴会は、とうにお開きになったとみえ、漁師小屋の前を通り過ぎても、ひそりと静まり返っている。田舎は夜が早いというが、どうやら本当で、海沿いに軒を連ねる民家も、灯りが点いている窓は少ない。
 そのまま真っ直ぐに進む。志田には目的地があった。
 白浜の上の、立派な流木。
 一抱えもありそうな木が、そのままの形で朽ちたような。武骨で巨大で、太古に滅んだ恐竜が頭(こうべ)を垂れた姿勢で、半身を砂に埋もれさせたような、その絵に惹かれた。佐治が送ってくれた画像の場所。どうしても実物が見てみたかった。
 島に到着したその日、旅装も解かぬうちに佐治に場所を尋ねたのだが、返事は、どこだったかなあ、という曖昧なものだった。仕事で移動するとき、気分転換に写メるだけだから、思い掛けないもんが映り込んだりするし、特に意識していない、いちいち覚えてもいない、とにべもなく言われた。なので、翌日、翌々日と海辺を歩き回って、自分で見つけた。
「よお」
 風と波に漂白されながら長い時間をかけてここに辿り着いたに違いない恐竜の骨は、沈黙したまま、志田を待っていてくれた。
 砂地に腰を降ろし、それに背中を凭せかける。潮の香りを嗅ぎ、波の音を聞きながら、満天の星の下で飲むビール。一度やってみたかった、映画のようなシチュエーション。誰の姿も見えない、ひとの声も聞こえない。無人島のようだ。
 生憎、星は見えなかったが、月は明るい。今夜は満月だ。
 潮風が耳元を通り過ぎると、少しずつ、疲弊した心が癒されていくような気がする。ここに住んじゃえよ。そう言ってくれた佐治の言葉を胸で反芻する。移住など想像したことはなかったが、もしかしたら、一考の価値はあるのかもしれない。この島でなら、自分の居場所が見つかるかもしれない。
 こんな自分などでも、誰かが必要としてくれるのなら、差し延べてくれた手を取るのは正しいのだと、そう思いたい。
 でも、もし、この島に住むことになったら、どうなるのだろう。老いていく東京の両親はどうする。呼び寄せるのか。資金を援助して貰える、と佐治が言っていたが、自治体に期待出来る補助金などたかが知れている。行政と別に、有力な個人が私的にカネを出しているというようなことも聞いたが、それが網元なのだろうか。
 時代劇や小説の中でなら、見たことがある単語だ。学生の頃によく読んでいた、横溝正史の金田一シリーズにも度々出て来た。
 そういった小説に描かれる『網元』とは、漁場の漁業権の支配者で、ある意味、閉鎖社会の特権階級だ。歴史にそれ程詳しくはないが、網元制度というのは明治維新以降は崩壊し、現代では漁業協同組合などが役目を担っている筈だ。
 志田は、飲みかけの缶ビールを、倒れないように砂に挿した。目を閉じ、息を深く吐く。
 生き方の模索、などというほど高尚なことではないが、もう少し、考える時間が欲しい。
 そのまま、少し眠ってしまったようだ。
 いま、何時だろう。
 時計も携帯も持って来ていないから、時間が分からない。というより、島に着いて以来、志田は携帯を触るのをやめていた。携帯も、音楽プレイヤーも、都会で肌身離さず持っていたものとは、縁を切りたい。今も、キャリーバッグの奥底に転がっている筈だ。
 足元に置いたビールの缶を手探りする。それ程ぬるくなってはいないから、眠っていたとしても、せいぜい五分か十分といったところだろう。
 ふと、気がついた。誰かが、砂を踏み締めて歩いて来る。きっと、佐治だ。離れで目を覚まして、志田がいないことに気づき、探しに来たのだ。
「こっちだ、佐治」
 顔を上げた志田の目線が、すぐ側に立った人間のそれとまともにぶつかった。佐治ではなかった。そこに居たのは、昼間、中学校で出会った男、砂生だった。
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