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オマエカ
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今夜も、聞き慣れた足音が響く。
カツン、コツン、カツン。深夜のアパートの一角。
「お隣、またみたいよ、お兄ちゃん」
炬燵のなかから半身を捻って俺に呼びかける妹の表情には、ほんの少し恐怖が滲み出ているように見える。
大学受験の下見のため、二週間の予定で預かっている妹は、不審な足音に困惑気味だ。
俺は、それには答えないまま、外の音に耳を澄ます。
三ヶ月程前からだ、隣の部屋に、週に三回、いや、多い時は四回程、真夜中に女が訪ねてくるようになったのは。女といっても姿を見たわけではないが、あの固い足音は、間違いなくハイヒールの靴音だ。
東京都下、木造モルタル、安普請の二階建てアパート。俺の部屋は202号室、問題の部屋はその隣、201号室。
いくら都下といったって、ここは東京だ。今どき、引越しの挨拶なんぞしない。宅配便を預かったり、作り過ぎた夕食のおかずをシェアしあったり、なんてこともあり得 ない。だから、両隣や階下の住人の性別も年齢も、どころか一人住まいなのか、そうでないのかすら分からない。就職を機に田舎を離れてから一年経つが、未だ にアパートのほかの住人の姿を見たことがない。俺は会社のフレックス制度を利用しているので、出勤時間は一般的なサラリーマンより大分遅いし、帰宅は深夜 に近い。それも、他の住人と出会わない理由の一つなのかも知れない。いまは慣れたが、最初のうちは、正直、俺も戸惑った。
「東京のひとって、そんなにお互い無関心で冷たいの?それじゃ、お兄ちゃんが孤独死とか衰弱死していたって分からないじゃない」
と、妹は、不満を隠そうとしない。
勝手に兄貴を衰弱死させてくれる兄想いの妹を、俺は諭した。隣の部屋であっても、興味を持たない、何かあったとしても、手も口も出さない。無関心ではなくて、それが東京の集合住宅で暮らす者のマナーで、暗黙のルールなのだ、と。妹は当然、不服そうな表情(かお)をした。
さて、ルールだマナーだといっても、やはり気になるものは気になるのだ。隣の部屋の訪問者。時刻はだいたい、深夜の二時から三時の間だ。普通ならとっく にベッドに潜りこんで深い眠りに落ちている時間だが、生憎、俺も妹も、幼い頃から並の宵っ張りではなかった。だからこそ、こんな時間の足音が気になってし まうのだ。
ちなみに、201号室の住人は、男だ。会ったことはない。学生なのか、社会人か、既にリタイア済の老人なのかも皆目、見当がつかないが、時々、ベランダ越しに洗濯物が干してあるのが見える。男物の下着と、黒いメンズソックス。一人暮らしの女が痴漢や下着泥棒避けに男物の下着を干したりすることがあるというのは聞いたことがあるが、下着泥棒避けであれば、何足ものメンズソックスを毎週洗濯して干すなど、まずしないだろう。だから男だと分かる。そして、洗濯物の干し方から 察するに、そこそこ几帳面な性格だ。
だいたい、いつも同じだった。階段を昇りきったハイヒールの主は、201号室の前で立ち止まる。決してチャイムを鳴らすことはない。深夜という時間帯を考えての、アパートの他の住人 への配慮なのだろう、それとも、事前にきっちりと段取りが組まれているのか。足音が止まって数分もしないうちに、ドアが開く音がする。何か小さく囁き交わ す声。はっきりとは聞こえない。それに、幾ら安普請とはいえ、部屋のなかに入ってしまえば、壁に片頬をピタリとつけて聞き耳でも立てない限り、会話の音な ど聞こえないし、そこまでする程、俺は出歯亀野郎じゃない。
だが、やはり、普通ではないし、なんだか薄気味が悪い。
草木も眠る丑三つ刻、そんな時刻に現れる女と、それを迎え入れる男。ハイヒールの女は、本当に生きた人間なのか。そんな怪談じみた考えすら浮かんでくる。
俺は妹に気づかれぬように、聞きかじりの六根清浄を喉奥で唱えた。
その日は、夕方から雪が降り出した。今年の初雪。降り始めは大したことは無かったが、深夜になって、雪は勢いを増した。
そんな天候だというのに、やはり、深夜の三時過ぎ、足音はやって来た。
俺は、聞くともなしにそれを聞く。もう、癖になってしまっていたのだ。
しかし、なんだか様子がいつもと違う。足音がドアの前で止まって、もう十分程も経つというのに、ドアが開く気配がない。足音の主は、階段を降りかけて、そして戻り、また降りては戻る、という妙な動作を数回繰り返した。
どうしても気になった俺は、ほんの少しだけドアを開け、覗いてみることにした。やはり幾分、怖いので、ドアチェーンはしっかりかけた状態で。
出来るだけ音をたてないように静かに静かにドアを開けたつもりだったが、上手く行かなかったらしい、こちらを振り向いた女と、いきなり目があった。
「こ、こんばんは」
間抜けた声が出た。しかも、上ずった調子で。
だって、誰が想像出来るというのか。深夜の怪しい訪問者が、こんな、二十歳そこそこ、アイドル顔負けのめちゃくちゃ可愛く可憐な女の子だなんて。
「こんばんは。夜中に、申し訳ありません」
寒さのためだろうか、囁くような声が震えている。彼女のブルーのダウンコートにも、白いマフラーにも、セピア色の髪にも、薄っすらと雪が積もっている。
「どうしたんですか?」
俺は一度ドアを閉め、チェーンを外すと、再度、彼女と向き合った。当然、もう恐怖心なんてどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
彼女は、少し恨みがましく、201号室のドアを見つめた。
「彼、寝ちゃってるみたいで。いつもだったら、足音で気づいてくれるんですけど、私がアフターでいつもより遅くなっちゃったし、おまけに、お店に携帯を忘れてしまって」
彼、という言葉が、正直、ショックだった。こんな可愛い女の子が、週に三度も四度も会いに来てくれるなんて、なんて羨ましい、いや、罰当たりな野郎だ。
そうこうしているうちに、俺を押し退けるようにして妹が顔を出した。
「お兄ちゃん、上がって貰ったら?」
俺も、それを強く奨めた。彼女は、幾分躊躇いを見せたが、寒さが余程堪えたのだろう、結局、頷いた。
それでも、俺が一人だったら、絶対に男一人の部屋に足を踏み入れたりなどしなかったに違いない。俺は、十数年振りに妹の頭をナデナデしてやりたくなった。
最初の口振りから察していたが、彼女は、キャバ嬢だった。といっても、本職は美容師で、インターンの給料では生活がカツカツなので、仕方なくアルバイト しているのだという。201号室の男とは、店の客として知り合った。大人で、包容力のある男に、彼女の方が一目惚れだった。
妹が淹れてやったココアを啜りながら、彼女は話してくれた。
彼女の家は埼玉で、店からも、昼間の勤め先からも遠い。だから、店が終えた後は、彼氏の家に泊めて貰い、昼間の職場に出勤するのだとか。
妹が熱心に彼女の話を聞いている間、俺は憤懣遣る方ない思いだった。
201号室め、貴様、どんだけの果報者だ?キャバ嬢に一目惚れされて付き合うだなんて、男に取っては夢のまた夢だ。しかも、こんな美人の女の子を雪の中に放っておいて、自分はぐうすか眠っているだと?
ココアを飲み終えたあと、妹が貸してやったスマホで、彼女は201号室に電話した(チャイムを鳴らさなかったのは、住人への配慮ではなく、随分前から201号室のチャイムが壊れているからということだった)。十何回目かのコールでやっと繋がった。
彼女は俺と妹に丁寧に礼を言うと、いそいそと部屋を出て行った。妹が玄関先まで見送りに行った。俺は、見送らなかった。彼女の嬉しそうな顔に、なおさら201号室の男への嫉妬と怒りが沸き起こり、胸のなかで渦を巻いてどうにも治まらなかったのだ。
少しして戻った妹に、俺は尋ねた。出来るだけのさり気無さを装って。
「隣、どんなヤツだった?」
201号室の野郎、どんだけニヤケた優男なんだ。
妹は、ほんの束の間、俺をじっと見つめた。笑うような、泣くような奇妙な表情を浮かべ、だが何も言わずに首を横に振っただけだった。
そして俺は、その夜だけでなく、次の夜、また別の夜も、何故か固く口を閉ざす妹から201号室の男についての情報を得ることは出来なかったのである。
雪のなかで出会った妖精のような彼女への淡い想いを封印し、数ヶ月が経って、季節は春。
俺に転勤の辞令が出た。運がいいのか悪いのか、異動先は実家からの通勤圏だったので、俺は住んでいたアパートを、晴れて女子大生になった妹に引き渡し、入れ違いに実家に戻ることとなった。
家電一式はそのまま残し、布団やらカーテンやら着るものなどは梱包して実家に送った。後は、俺の身一つだ。
新幹線の時間まで少しあったので、俺は建物から少し離れた住人専用駐車場に立って、昨日まで自分の城だったアパートの部屋を見上げた。
と、決して広くはない駐車スペースに、引越しトラックが横付けされた。慌ただしくトラックから降りて来た同じユニフォーム姿の男が三人、アパートの階段を駆け上がる。向かった先は、201号室だ。
偶然にも201号室も、今日、引越しだったのか。
「まったく段取り悪過ぎやで。トラック、来てもうたやないの」
奥に向かって関西弁でがなり立てながら、五十絡みの太った女が201号室から姿を現した。
呆気に取られて見つめる俺を尻目に、中年女性は、部屋の奥に向かって怒鳴るのと、引越し業者の若者たちに指示を出すのを同時に、しかも驚く程器用にやってのけ、部屋の奥から運び出された段ボールや家電が次々とトラックのコンテナに吸い込まれていく。
「兄ちゃん、何や。そんなとこボーっと突っ立っとったら邪魔やで」
ふと気が付いたら、目の前にその女性が立って、俺の顔を覗き込んでいる。俺は慌てた。喰いつかれるのではないかと一瞬、本気で思ったのだ。
「あ、あの、隣の202号室の者です」
俺が既に202号室の住人ではないことを思えば、これは正確な表現ではないが、この際、そんなことは些細な問題だ。中年女性は、いきなり相好を崩した。
「あらまあ、お隣さんやったん。堪忍な、挨拶もせんと」
女は、がっちりと俺の左腕を掴むと、201号室に向かって大声で呼ばわった。
「あんた、お隣さん。最後くらい、ちゃんとご挨拶しい」
201号室からのっそりと姿を現した男の姿を目に留めた瞬間、俺の全身はそのまま凍り付いた。あの、可愛く可憐な、雪の妖精のような女の子が一目惚れしたという彼氏、201号室の男。
そいつは、でっぷりと腹の出た、頭の禿げあがった、がに股ジャージ姿のオッサンだった。201号室は、どんな鈍感な人間でもそれと分かる程、気まずそうな顔で俺を見た。小動物のように、決して、目を合わせようとはせずに。
鉤爪のような女の指に掴まれた腕の痛みすらも忘れ、次の瞬間、俺は、叫んでいた。
「おまえかああああッ」
<<FIN>>
カツン、コツン、カツン。深夜のアパートの一角。
「お隣、またみたいよ、お兄ちゃん」
炬燵のなかから半身を捻って俺に呼びかける妹の表情には、ほんの少し恐怖が滲み出ているように見える。
大学受験の下見のため、二週間の予定で預かっている妹は、不審な足音に困惑気味だ。
俺は、それには答えないまま、外の音に耳を澄ます。
三ヶ月程前からだ、隣の部屋に、週に三回、いや、多い時は四回程、真夜中に女が訪ねてくるようになったのは。女といっても姿を見たわけではないが、あの固い足音は、間違いなくハイヒールの靴音だ。
東京都下、木造モルタル、安普請の二階建てアパート。俺の部屋は202号室、問題の部屋はその隣、201号室。
いくら都下といったって、ここは東京だ。今どき、引越しの挨拶なんぞしない。宅配便を預かったり、作り過ぎた夕食のおかずをシェアしあったり、なんてこともあり得 ない。だから、両隣や階下の住人の性別も年齢も、どころか一人住まいなのか、そうでないのかすら分からない。就職を機に田舎を離れてから一年経つが、未だ にアパートのほかの住人の姿を見たことがない。俺は会社のフレックス制度を利用しているので、出勤時間は一般的なサラリーマンより大分遅いし、帰宅は深夜 に近い。それも、他の住人と出会わない理由の一つなのかも知れない。いまは慣れたが、最初のうちは、正直、俺も戸惑った。
「東京のひとって、そんなにお互い無関心で冷たいの?それじゃ、お兄ちゃんが孤独死とか衰弱死していたって分からないじゃない」
と、妹は、不満を隠そうとしない。
勝手に兄貴を衰弱死させてくれる兄想いの妹を、俺は諭した。隣の部屋であっても、興味を持たない、何かあったとしても、手も口も出さない。無関心ではなくて、それが東京の集合住宅で暮らす者のマナーで、暗黙のルールなのだ、と。妹は当然、不服そうな表情(かお)をした。
さて、ルールだマナーだといっても、やはり気になるものは気になるのだ。隣の部屋の訪問者。時刻はだいたい、深夜の二時から三時の間だ。普通ならとっく にベッドに潜りこんで深い眠りに落ちている時間だが、生憎、俺も妹も、幼い頃から並の宵っ張りではなかった。だからこそ、こんな時間の足音が気になってし まうのだ。
ちなみに、201号室の住人は、男だ。会ったことはない。学生なのか、社会人か、既にリタイア済の老人なのかも皆目、見当がつかないが、時々、ベランダ越しに洗濯物が干してあるのが見える。男物の下着と、黒いメンズソックス。一人暮らしの女が痴漢や下着泥棒避けに男物の下着を干したりすることがあるというのは聞いたことがあるが、下着泥棒避けであれば、何足ものメンズソックスを毎週洗濯して干すなど、まずしないだろう。だから男だと分かる。そして、洗濯物の干し方から 察するに、そこそこ几帳面な性格だ。
だいたい、いつも同じだった。階段を昇りきったハイヒールの主は、201号室の前で立ち止まる。決してチャイムを鳴らすことはない。深夜という時間帯を考えての、アパートの他の住人 への配慮なのだろう、それとも、事前にきっちりと段取りが組まれているのか。足音が止まって数分もしないうちに、ドアが開く音がする。何か小さく囁き交わ す声。はっきりとは聞こえない。それに、幾ら安普請とはいえ、部屋のなかに入ってしまえば、壁に片頬をピタリとつけて聞き耳でも立てない限り、会話の音な ど聞こえないし、そこまでする程、俺は出歯亀野郎じゃない。
だが、やはり、普通ではないし、なんだか薄気味が悪い。
草木も眠る丑三つ刻、そんな時刻に現れる女と、それを迎え入れる男。ハイヒールの女は、本当に生きた人間なのか。そんな怪談じみた考えすら浮かんでくる。
俺は妹に気づかれぬように、聞きかじりの六根清浄を喉奥で唱えた。
その日は、夕方から雪が降り出した。今年の初雪。降り始めは大したことは無かったが、深夜になって、雪は勢いを増した。
そんな天候だというのに、やはり、深夜の三時過ぎ、足音はやって来た。
俺は、聞くともなしにそれを聞く。もう、癖になってしまっていたのだ。
しかし、なんだか様子がいつもと違う。足音がドアの前で止まって、もう十分程も経つというのに、ドアが開く気配がない。足音の主は、階段を降りかけて、そして戻り、また降りては戻る、という妙な動作を数回繰り返した。
どうしても気になった俺は、ほんの少しだけドアを開け、覗いてみることにした。やはり幾分、怖いので、ドアチェーンはしっかりかけた状態で。
出来るだけ音をたてないように静かに静かにドアを開けたつもりだったが、上手く行かなかったらしい、こちらを振り向いた女と、いきなり目があった。
「こ、こんばんは」
間抜けた声が出た。しかも、上ずった調子で。
だって、誰が想像出来るというのか。深夜の怪しい訪問者が、こんな、二十歳そこそこ、アイドル顔負けのめちゃくちゃ可愛く可憐な女の子だなんて。
「こんばんは。夜中に、申し訳ありません」
寒さのためだろうか、囁くような声が震えている。彼女のブルーのダウンコートにも、白いマフラーにも、セピア色の髪にも、薄っすらと雪が積もっている。
「どうしたんですか?」
俺は一度ドアを閉め、チェーンを外すと、再度、彼女と向き合った。当然、もう恐怖心なんてどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
彼女は、少し恨みがましく、201号室のドアを見つめた。
「彼、寝ちゃってるみたいで。いつもだったら、足音で気づいてくれるんですけど、私がアフターでいつもより遅くなっちゃったし、おまけに、お店に携帯を忘れてしまって」
彼、という言葉が、正直、ショックだった。こんな可愛い女の子が、週に三度も四度も会いに来てくれるなんて、なんて羨ましい、いや、罰当たりな野郎だ。
そうこうしているうちに、俺を押し退けるようにして妹が顔を出した。
「お兄ちゃん、上がって貰ったら?」
俺も、それを強く奨めた。彼女は、幾分躊躇いを見せたが、寒さが余程堪えたのだろう、結局、頷いた。
それでも、俺が一人だったら、絶対に男一人の部屋に足を踏み入れたりなどしなかったに違いない。俺は、十数年振りに妹の頭をナデナデしてやりたくなった。
最初の口振りから察していたが、彼女は、キャバ嬢だった。といっても、本職は美容師で、インターンの給料では生活がカツカツなので、仕方なくアルバイト しているのだという。201号室の男とは、店の客として知り合った。大人で、包容力のある男に、彼女の方が一目惚れだった。
妹が淹れてやったココアを啜りながら、彼女は話してくれた。
彼女の家は埼玉で、店からも、昼間の勤め先からも遠い。だから、店が終えた後は、彼氏の家に泊めて貰い、昼間の職場に出勤するのだとか。
妹が熱心に彼女の話を聞いている間、俺は憤懣遣る方ない思いだった。
201号室め、貴様、どんだけの果報者だ?キャバ嬢に一目惚れされて付き合うだなんて、男に取っては夢のまた夢だ。しかも、こんな美人の女の子を雪の中に放っておいて、自分はぐうすか眠っているだと?
ココアを飲み終えたあと、妹が貸してやったスマホで、彼女は201号室に電話した(チャイムを鳴らさなかったのは、住人への配慮ではなく、随分前から201号室のチャイムが壊れているからということだった)。十何回目かのコールでやっと繋がった。
彼女は俺と妹に丁寧に礼を言うと、いそいそと部屋を出て行った。妹が玄関先まで見送りに行った。俺は、見送らなかった。彼女の嬉しそうな顔に、なおさら201号室の男への嫉妬と怒りが沸き起こり、胸のなかで渦を巻いてどうにも治まらなかったのだ。
少しして戻った妹に、俺は尋ねた。出来るだけのさり気無さを装って。
「隣、どんなヤツだった?」
201号室の野郎、どんだけニヤケた優男なんだ。
妹は、ほんの束の間、俺をじっと見つめた。笑うような、泣くような奇妙な表情を浮かべ、だが何も言わずに首を横に振っただけだった。
そして俺は、その夜だけでなく、次の夜、また別の夜も、何故か固く口を閉ざす妹から201号室の男についての情報を得ることは出来なかったのである。
雪のなかで出会った妖精のような彼女への淡い想いを封印し、数ヶ月が経って、季節は春。
俺に転勤の辞令が出た。運がいいのか悪いのか、異動先は実家からの通勤圏だったので、俺は住んでいたアパートを、晴れて女子大生になった妹に引き渡し、入れ違いに実家に戻ることとなった。
家電一式はそのまま残し、布団やらカーテンやら着るものなどは梱包して実家に送った。後は、俺の身一つだ。
新幹線の時間まで少しあったので、俺は建物から少し離れた住人専用駐車場に立って、昨日まで自分の城だったアパートの部屋を見上げた。
と、決して広くはない駐車スペースに、引越しトラックが横付けされた。慌ただしくトラックから降りて来た同じユニフォーム姿の男が三人、アパートの階段を駆け上がる。向かった先は、201号室だ。
偶然にも201号室も、今日、引越しだったのか。
「まったく段取り悪過ぎやで。トラック、来てもうたやないの」
奥に向かって関西弁でがなり立てながら、五十絡みの太った女が201号室から姿を現した。
呆気に取られて見つめる俺を尻目に、中年女性は、部屋の奥に向かって怒鳴るのと、引越し業者の若者たちに指示を出すのを同時に、しかも驚く程器用にやってのけ、部屋の奥から運び出された段ボールや家電が次々とトラックのコンテナに吸い込まれていく。
「兄ちゃん、何や。そんなとこボーっと突っ立っとったら邪魔やで」
ふと気が付いたら、目の前にその女性が立って、俺の顔を覗き込んでいる。俺は慌てた。喰いつかれるのではないかと一瞬、本気で思ったのだ。
「あ、あの、隣の202号室の者です」
俺が既に202号室の住人ではないことを思えば、これは正確な表現ではないが、この際、そんなことは些細な問題だ。中年女性は、いきなり相好を崩した。
「あらまあ、お隣さんやったん。堪忍な、挨拶もせんと」
女は、がっちりと俺の左腕を掴むと、201号室に向かって大声で呼ばわった。
「あんた、お隣さん。最後くらい、ちゃんとご挨拶しい」
201号室からのっそりと姿を現した男の姿を目に留めた瞬間、俺の全身はそのまま凍り付いた。あの、可愛く可憐な、雪の妖精のような女の子が一目惚れしたという彼氏、201号室の男。
そいつは、でっぷりと腹の出た、頭の禿げあがった、がに股ジャージ姿のオッサンだった。201号室は、どんな鈍感な人間でもそれと分かる程、気まずそうな顔で俺を見た。小動物のように、決して、目を合わせようとはせずに。
鉤爪のような女の指に掴まれた腕の痛みすらも忘れ、次の瞬間、俺は、叫んでいた。
「おまえかああああッ」
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