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暗黒のフェルマータ
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今日、俺は、バスケットに入れた一匹のウサギを持って、雅紀の部屋を訪れた。
「すごいや。上杉さんが捕まえたの?」
薄茶色のウサギを抱き上げて頬擦りしながら、嬉しそうに雅紀が言う。
馬鹿なやつだ。
今のご時世、この都会のどこをどう探せば、野生のウサギが捕まえられると思うのだろう。
「まさか」
あからさまな軽蔑が表情にも態度にも出ないように苦心しながら、俺は笑った。
「クラスの奴に譲ってもらったんだよ。お陰で物理のレポート、そいつの分までやらなきゃならない羽目になったけどな」
さり気なく後ろから近づくと、俺は雅紀の体を両腕で抱きすくめた。
「もう、いいだろう」
表情こそ見えないが、雅紀が息を呑む気配。雅紀の腕から逃れて床に飛び降りたウサギが、俺たちの足元でひくひくと鼻を動かしている。
俺はお前の欲しいものを持ってきてやった。だから、今度はお前が俺の欲しいものをよこす番だ。
身を固くする雅紀を、ゆっくりとベッドに押し倒す。
これが初めてでもないくせに、俺がシャツのボタンに手をかけるとき、雅紀はいつも、一瞬、怯えた目で俺を見つめる。そう、まるで、追い詰められ傷ついたウサギのように。
雅紀を抱くのは久しぶりだった。三週間、いや、もっとかも知れない。
俺は雅紀を手荒に扱い、あいつは、瞼をきつく綴じたまま、悲鳴をこらえるように枕のカバーをずっと噛んでいた。
コトが終わり、俺が服を着た後も、雅紀は放心したように横たわったままだった。
「おまえが悪いんだぜ。しばらく連絡をしないから」
俺の言葉に、雅紀は物憂げに半身を起こした。俯くと、目元を縁取る睫の長さが目立つ。
「次回は、俺をあんまり待たせないようにするんだな」
じゃないと、こんなもんじゃすまなくなるぜ。
雅紀は唇を軽く噛み、哀願するように俺の顔を見上げ、小さく頷いた。
その姿を見て、俺は、またも気持ちが昂ぶるのを覚えた。でも、今日はもう時間が無い。塾があるし、それに、家に帰ったら二人分のレポートもやらなければならない。
「うん。必ず、連絡するよ」
呟くように、雅紀が言う。
「でも、今度は、仔猫やウサギじゃ駄目なんだ。出来たら、もっと大きな動物がいい。もっと、べつの」
分かったよ。俺は手で合図すると、部屋を出た。
ドアを閉めるとき、振り返った俺の目に、裸の胸にウサギを抱き上げた雅紀が俺を見つめているのが映った。その顔が何故か寂しそうに見えたのは、多分、気のせいに違いなかった。
俺と雅紀の関係が始まったのは、三ヶ月と少し前くらいからだ。
雅紀は、俺が生徒会長を務めて二期目になる、進学校としては都内では割りと名の知れた私立男子校の一学年下の後輩で、確か編入生だったと思う。
夏休み前の我が校の恒例行事となっている一、二年合同の球技大会のチーム分けで偶然同じチームになったことが、俺と雅紀の出会いだった。
雅紀は、これと言って特徴があるというわけでもないのに、何となく人目を引く生徒だった。
同年代の少年にしては、細身で華奢な体つき、ちょっと気弱そうな、はにかんだような笑い方。
俺は、雅紀に全く注目などしていなかったし、興味もなかった。
事情が変わったのは、球技大会の強化練習に入る少し前、更衣室で下らない話に興じていた、やはりバスケで同じチームとなった隣のクラスの同級生二人の会話を、そのつもりもなく耳に挟んでしまってからだ。
俺がロッカーの反対側で着替えていることには気づかなかったのだろう、自分たちしかいないという気安さからか、奴らは普段なら決して口にしないような、かなり際どい猥談を始めた。友人の誰それの初体験、どこの女子高のナントカ言う名前の女と誰が寝たとか。
そんな下らない幼稚な話に、俺は興味も関心も無かった。
とっとと着替えを終えてその場を去ろうとしたとき、不意に耳に飛び込んできた名前があった。
一年の立原雅紀。あいつ、結構いいよな。良いって、何だよ。俺、モーホーは勘弁だ。いいじゃん、ああいうタイプだったら、一回くらい、ケツ借りても良いって気になるって。
その連中は、引退した十代のアイドルのスキャンダルに話題を移し、馬鹿みたいに下卑た笑い声を上げながら、更衣室を出て行った。一人残された俺は、たいして深い考えもなく、そいつらの台詞を反芻し始めた。
ああいうタイプ。その言葉には、何となく頷けるものがあると思った。
小柄で、少々、線は細いものの、その外見から別に女を感じさせるわけでもない、いつも清潔な感じの、一見どこにでもいそうな普通の高校生。
だが。
あいつには、何かがあった。
見る者が見れば、敏感にそれを感じ取るに違いない。時折見せる、ふとした仕種のなかに。一瞬の表情のなかに。
あいつを玩具(おもちゃ)にし、蹂躙し、悲鳴をあげさせたくなるようなもの。何か、こちらの、酷く嗜虐的な欲望を刺激する、底暗い影のようなものを。
だからと言って、翌日から俺が雅紀を意識し始めたわけではない。雅紀を意識し始めたのは、更衣室で雅紀のことを猥談のネタにしていたあの二人組だった。
多分、自分たちの心の奥にあった欲望を言葉に出したことで、何らかの常識的な枷が外されてしまったのだろう、露骨に雅紀にちょっかいをかけるようになったのだ。
練習中、わざとボールを死角から叩き込んだりするのはまだましな方で、紅白戦のときに、奴らのうちの一人が、ブロックに失敗した振りをして、雅紀の鳩尾に肘を食い込ませるのも見た。
体育館で、更衣室で、校舎の影で。奴らは、常に雅紀を視界のなかに入れていた。獲物の隙を狙う肉食獣のように。
初めは見て見ぬふりをしていた。煩わしい面倒事は御免だった。雅紀が殴られようと、何をされようと、俺の知ったことではない。だが、エスカレートしていくそいつらの行動が段々、俺を苛立たせるようになり、俺はその二人を停学処分にした。
無論、生徒会長とは言え、一生徒にそんな権限があるわけではない。そんな無理が通るのも、この俺だからだ。
表向きはお上品なお坊ちゃん学校ということになっている進学校、そのなかでも、入学以来、常にトップの成績を守り続けている俺は、教師どもの期待の星なのだそうだ。煙草を吸っていた、恐喝の現場を目撃した、どんな下らないデッチ上げだって教師は俺の言葉を信用する。
別に、雅紀を助けたつもりはないし、俺は正義感が強いわけでもなんでもない、生徒会長だって、ただ内申書のためにやっているだけのことだ。薄汚い二人を一時、学校から遠ざけたのは自分自身の精神衛生上のためにしたことだが、雅紀は、どこでそれを知ったのか、俺に礼を言いに来た。
ある日の練習終了後、二人きりで取り残された体育館。真夏の夕暮れ、穏やかな静けさを壊し、鼓膜を引き裂く、暴力的なまでの蝉の鳴き声。じっとしていても汗が目の中に流れ落ちてくる程の蒸し暑さ。火照った肌に触れてきた、ひんやりとした雅紀の指。
多分、俺は、どうかしていた。
誘ってきたのは、雅紀のほうからだったと思う。俺たちは、契約を交わした。
そう。それは、契約だった。
俺は、雅紀を自由にしていい。だが、その代価として、俺の力の及ぶ範囲で、あいつを護る。
そして、もう一つ。
その二つ目の要求は、ひどく奇妙に聞こえた。だが、俺はその理由を尋ねることはせず、黙って受け入れることにした。
二つ目の代価。それは、雅紀の玩具になるような小動物を差し出すこと。
インコに二十日鼠、仔猫、ウサギ。何でも良かった。そんな小動物を手に入れるのは、驚くほど簡単だった。
生まれてしまった仔猫の貰い手に困っている奴、流行に乗って飼い始めたフェレットやハムスターに飽きて、処分したがっている奴。ちょっと周りを見渡すだけでそんなのはゴロゴロしていた。
俺は親切めいた言葉を口にして、そいつらから必要なくなったペットを引き取り、雅紀の部屋へ運ぶ。そして、ほんの数時間、欲望を開放させるのだ。
何故、雅紀がそんな動物たちを欲しがるのかその理由を知ったのは、あいつの部屋に出入りするようになって、しばらくたってからのことだ。だが、俺は気にしなかった。そんなの、俺にとってはどうでもいいことだったからだ。
俺にとって必要だったのは、欲望の捌け口としての、雅紀の体だけだったから。
俺にあったもの。受験勉強。守らなければならない席次。優等生という、学校や親に対する表の顔。溜まりに溜まったストレスと、若い、健康な欲望。それら全てを俺は、不健康な関係のなかに吐き出し、翌日からまた普段通りの優等生の仮面を被る。
雅紀との間に、感情が入り込む余地はなかった。俺はあいつの体を利用し、あいつは俺の立場や人脈を利用している。ギブアンドテイクなのだ。
それなのに、俺は、最近、また妙に苛つき始めている。
原因不明の熱に浮かされたように、いつも、俺は、雅紀の体を手荒に扱い、情け容赦なく責めた。そして、そんな自分に嫌気がさして、また胸の奥にどんよりと溜まったものの始末に戸惑う。
多分、その理由を俺は知っている。少なくとも、俺の心のなかの一部は。しかし、それを認めまいとしているのだ。
当たり前だ、そんなものを認めるくらいなら、この歪んだ関係を終わらせた方がマシだった。
寝不足の目を擦りながら教室に入った俺を早速出迎えたのは、葉山だった。
茶色に染めた髪の下に隠した耳たぶに、複数のピアス、軽薄な態度。
良家の子息揃いの進学校が聞いて呆れる、現実はこんなのが混ざりこんでいるのだから。
馴れ馴れしい態度で肩に回してくる腕を振り払いたくなるのを堪える。こいつの目的は俺の鞄のなかのレポートだ。それさえ渡せば、目障りでない処に消えてくれるだろう。
「おう、サンキュー!これで今学期の物理Aは確定だぜ」
単純に喜んでいる葉山の耳に、俺は叫んでやりたくなった。おまえ程度の頭で絶対に書けるはずがないと物理の教師がちゃんと疑ってかかるように、これ以上ないっていうくらい立派な体裁で仕上げてやったからな、と。
だが、こんな箸にも棒にもかからないやつに態々、忠告することもない。
俺が欠伸をかみ殺すのを見て、葉山は早速、軽口を叩き始めた。
「なんだ、我が校始まって以来の秀才が、たかがレポートで徹夜ってか?」
葉山は、俺が雅紀にくれてやったウサギのもとの持ち主だ。妹だか姉貴だかが縁日で買って来たウサギがでかくなりすぎたと言って、引き取り手を捜していたのだ。
その葉山の唇の端に、ふと、好色そうな笑みが浮かぶ。
「寝不足じゃなくて、ホントはやりすぎ、の間違いじゃないの?上杉チャン」
こいつは、いきなり何を言い出すのだろう。下世話な冗談か、或いはカマをかけたつもりなのか。
だが、内心の驚きを態度にも表情にも出さないことにかけては、俺のほうが数倍上だった。俺が黙って頷くと、葉山はあからさまにうろたえ始めたのだから。
「嘘。ジョークのつもりだったのに。じゃあ、おまえ、あの一年とデキてるって噂、マジだったのかよ」
噂か。そんな噂が流れていることなど知らなかったが、大方、俺が停学にしてやった、最近、学内で姿を見せない、例の二人組のやっかみだろう。
俺の頭の中に突然、ある考えが浮かんだのは、このときだった。
「抱かせてやろうか」
え、と一瞬、葉山の背中に緊張が走るのが分かる。
俺は、葉山の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。
「立原雅紀。やりたいんだったら、お前にも、あいつを抱かせてやるよ」
葉山は、ぽかんと口を開けたアホみたいな表情で、俺を見つめた。だが、ノーとは言わなかった。
俺は、葉山を伴って、雅紀の家に向かっていた。葉山は、紐で繋いだ一匹の黒い中型犬を連れている。
「その犬は?まさか、どっかから盗んできたんじゃないだろうな」
葉山は、歯切れの悪い口調で否定した。
「いや。近所をウロついてた野良だから」
この期に及んで、こいつはまだ気持ちが決まらないらしい。まあ、それも無理は無い。学校を出る前、俺は葉山に、全てを話していたのだから。
「先に言っとくけどな、立原雅紀はイカれてるぜ」
俺はそう前置きし、話し始めた。雅紀と俺の関係の始まり、そして、運んでやった動物たちを雅紀がどうしているのかも。
「おまえから譲ってもらったあのウサ公、今頃どうなってると思う?」
「どう、って?」
俺は教えてやった。いつもアホみたいに平和な顔をしている葉山には想像も出来ないだろう、雅紀の背景にある吐き気を催すような暗黒を。
雅紀は、手に入れた小動物の首を切り落とし、内臓を取り出し、その血を全身になすりつけるのだ。あいつはそれを、サバトの生け贄だと、魔王を呼び出す儀式だと言っていた。
普通に学校に通い、在り来たりな高校生を演じている雅紀は、実はカンペキなキ印だ。現実と、そうでないものの区別がつかなくなっているのだ。あいつから感じる影や闇は、そんなあいつ自身の歪んだ精神の深淵から出ているのだということを。
「それでも、お前は」
葉山が息を飲む。
「ああ。それでも俺は、あいつとの関係を続けてたよ。別に、雅紀がどんなサイコ野郎でも、俺としてはどうでもいいことだからな」
それを知ったのは、雅紀の腰の辺りの小さな刺青に気づいてからだった。
変形させた六角星形の中央に、花びらのようなマーク。別に、今どきタトゥーを入れている学生など珍しくもないが、雅紀にはどうもひどくそぐわない気がして、俺はその理由を尋ねたのだ。
もつれ合い、倒れこんだベッド、俺の体の下で喘ぎながら、雅紀は答えた。
これは、ビースト・オブ・ヘキサグラム(六芒星の獣)。アレイスター・クロウリーの使っていた反キリストの紋章。何だよ、そのクロウリーって。二十世紀最大の魔術師。かれの遺した「法の書」を僕は解読した。
俺も、雅紀も、それきりそのことは話題にしなかった。
何故、葉山などに、殊更、雅紀の異常な癖を強調して話して聞かせたのか、分からない。だが、俺は、自分の目の前で、誰かに滅茶苦茶にされる雅紀を見たかった。そうすれば、何か胸の奥のもやもやとしたものが吹っ切れそうな気がしたのだ。
普段は、雅紀の方から俺に連絡を入れてきた。自分の方から雅紀をおとなうのはこれが初めてだったから、俺は葉山を促して、家の裏手に回ることにした。まだ会ったことはないが、雅紀の家族の誰かと鉢合わせするような危険は犯したくない。
葉山は、しばらく、じっと何かを考えているようだった。普段とは違う、深刻そうな表情で俺を見た。
「でも上杉。おまえ、本当にいいのか?」
こいつは、何を言いたいのだ。
「俺が、立原をヤッちまっても、おまえは何とも思わないのか?」
そのとき、俺はどんな表情で葉山の前に立っていたのだろう。
下らない。余りにも、下らない考えだと思った。一体、どこからそんな思い付きに及んだのだろう。俺はそういう生温い関係を雅紀との間に築いた覚えはない。
俺は答えなかった。葉山も、それきり口を噤んだ。
突然、葉山が引き綱をひいている人懐こい野良犬が、妙に脅えだした。尻尾を後ろ足の間に挟み、ぶるぶる震えながら、四肢を踏ん張って、一歩も進むまいとする。
「あれ、なんだよ。こら、ワン公。いきなりエンコするなって」
葉山が犬をなだめている間に、俺は一人で先に立って、小さなバルコニーの手摺りを乗り越えた。
半ばカーテンが引かれていたが、なかの様子を覗いて見るには問題はなく、逆に自分の体は隠せるので好都合だった。留守なのかと思ったが、雅紀は部屋のなかで眠っていた。
そう、眠っていた。
だが。
俺は何を目にしているのか。
俺が訪ねていくときは、いつも、殺風景な程に片付けられた何も無い部屋。だが、今は、部屋の中央に、見たことも無い文字で埋め尽くされた円陣が描かれている。その周りに、規則正しい間隔を置いて並べられた小動物たちのミイラ化した生首。
ベッドがあった筈の場所には祭壇のようなものが設えられ、人間の手首を模した蝋燭立てが置かれている。
揺らめく炎をうけて不気味な陰影を浮かび上がらせているのは、まさか本物ではあるまいが、壁に飾られた、二本の角を生やした黒い山羊の頭だった。
その山羊の額の中央に、あの六角星形の印。雅紀が反キリストの証と言っていたのと同じものだ。
まるで、オカルト映画のセットを見ているようだった。だが、映画のセットだとしたら、何故ここまでする必要がある?祭壇の真下、火を灯した二本の蝋燭の間で横たわって眠っている雅紀の体は、あろうことか、何も無い空間に、そう、宙に浮いていたのだ。
閉じられていた雅紀の目が、突然に開いた。
宙を泳いだ視線が、コンパスを使ったような放物線を描き、ゆっくりと俺のほうに向けられる。ガラス越しに俺を捉えた雅紀の瞳は、磨き上げられた輝石のように光彩が無い。
雅紀は起き上がると、近づいてきた。
足がよろけた。そのまま数歩、後退さった。馬鹿な。あんなもの、子供騙しの作り物だ。まやかしだ。必死で、そう自分に言い聞かせる。
だが、一体何なのだ。この、首の後ろの毛がビリビリと逆立つような、圧倒的な恐怖は。心臓が、異常な速さで脈打ち、眩暈がした。
何だというのだ、まるで、一歩足を踏み出した先に巨大な暗闇が口を開いて待ち受けている、さながら悪夢の世界に入り込んでしまったような酩酊感は。
馬鹿な。俺は信じない。こんなもの、現実の筈がない。
「上杉さん。自分から来てくれるなんて初めてだね。でも、待ってたよ」
雅紀。微笑んだ表情の裏に、邪悪な影が見え隠れする。手にしている灯りは、あの気味の悪い、人間の手首から先の形をした蝋燭立てだった。
俺の凝視に気づいたのだろう、雅紀はそれを俺の目の前にかざすと、暗く笑いかけ、こう言った。
「これ?本物だよ。本物の人間の手。ほら、上杉さんもよく知っている、あのバスケのときの先輩。栄光の手と言ってね、罪人の手首を生きたまま切り落とし、塩漬けにして創るんだ。あの人たちは罪人というよりは小悪党って感じだったけど、あんまり注文もつけられないからね」
それは直感だった。とても信じられないけれど、こいつは本当のことを言っている
「雅紀。お前は、一体?」
俺は無意識のうちに、子供のように首を横に振っていた。
この場からいなくなりたかった。雅紀の前から。何が作り物で何が嘘でも、そんなことはどうでもいい、ただ本物なのは、俺の心を塗り潰そうとする、かつて経験したことが無いほどの純粋で原始的な恐怖、それだけだった。
「畜生、上杉。犬が逃げた」
後ろで、葉山が喚いている。その声で、一瞬、金縛りが解けた。俺は振り返ると、葉山に向かって叫んだ。
「犬のことなんかどうでもいい。俺たちも逃げるぞ、葉山」
無我夢中でバルコニーから飛び降り、走り出そうとした俺を、突然、後ろから誰かの腕が止め、強い力で引き戻した。驚いて振り返ると、それは葉山だった。
「葉山?一体、何の真似だ」
無言のまま、葉山は俺を羽交い絞めにして、さらに体を押さえ込んだ。
雅紀が、滑るように、低い階段を降りてくる。「栄光の手」を掲げて。
叫ぼうとしたが、出来なかった。葉山が、何かの液体に浸した布で、俺の鼻と口を塞いだのだ。
「葉山、てめえ」
呻き声をあげた俺の顔を覗き込み、葉山はニヤリと笑った。
「なあ、上杉、頭のいいお前が、どうして気づかなかったんだ?邪教の使徒には、取り巻きがつきものだってことに」
吸い込んでしまった薬のせいだろうか、脳が圧迫され、目茶目茶に揺さぶられているような気分だった。酷い眩暈がして、足に力が入らない。視界が狭まり、目の前が暗く翳り始めた。
雅紀は俺の目の前で足を止めた。
目を伏せたその顔は、何故かとても清らかに見えて、そして、悲しそうだった。全てが、セピア色のフィルターを通して見ているように、霞んでいた。
「好きだったよ。上杉さんのこと」
突然の、告白。これ程までに痛ましく、そして感動的な台詞がほかにあるだろうか?もし、普通の状態だったら、俺は吹き出していたかも知れない。
雅紀は独り言のように、淡々と続けた。
「僕は上杉さんが好きだった。僕のことも好きになって欲しいと思った。でも、駄目だったね。今日、やっとそれが分かった。だから、もう、やめた」
どういうことなんだ。俺は嵌められたのか?雅紀と葉山に?
酷く気分が悪かった。全身の感覚が麻痺していた。葉山が後ろから俺の体を捕まえていなければ、俺は多分、その場に崩れ落ちていただろう。
目の前にいるのに、遥か遠くから聞こえてくるような、雅紀の声。
「丁度良かったよ。ウサギや仔猫じゃなく、今度は人間が必要だったんだ。でも、誰でもいいってわけじゃなかった。だから、安心して。上杉さんの命も体も、無駄にはしないから。もっとも名誉な役を与えてあげる。闇の支配者、偉大なる獣の王を呼び出すための生け贄として」
声は聞こえるが、雅紀の言っている言葉がよく理解出来ない。
俺を見据える雅紀の瞳には、いまや、嘲笑うような冷たい火が燃えていた。
初めて見る悪意に満ちた表情、それは、雅紀が吐き出す俺への憎しみだった。
お前は俺を憎んでいるのか。
これが、見てはいけないものを見てしまった俺、そして、本当は真っ直ぐに見据えなけばならなかったものから目を背け続けた俺へ、お前が与える、罰なのか。
俺が見据えなければならなかったもの。
それは、心のどこかでは気がついていながら認めまいとしていた、お前への気持ち。お前の、追い詰められ、深淵を覗き込む獣のような淡い光を宿す瞳に、いつしか惹かれ始めていた、俺自身の本当の想い。
何か、喋りたいと思った。命乞いではない。雅紀に何か言ってやりたかったが、舌は動かず、声も出せなかった。
葉山が、全く力の入らない俺の体を引きずり、どこかへ運ぼうとしている。これから起こるだろうことへの恐怖心は、既に無かった。思考も、神経も、遥か遠い何処かに置き去りにされていた。
俺もだよ、雅紀。
俺もおまえを愛していた。多分、初めて出会ったときからずっと。
それまで自分が存在していた筈の場所が空白に変わる最後の瞬間、俺は、心のなかでそう叫んだ。
もはや誰にも聞こえない言葉を。
《Fin》
「すごいや。上杉さんが捕まえたの?」
薄茶色のウサギを抱き上げて頬擦りしながら、嬉しそうに雅紀が言う。
馬鹿なやつだ。
今のご時世、この都会のどこをどう探せば、野生のウサギが捕まえられると思うのだろう。
「まさか」
あからさまな軽蔑が表情にも態度にも出ないように苦心しながら、俺は笑った。
「クラスの奴に譲ってもらったんだよ。お陰で物理のレポート、そいつの分までやらなきゃならない羽目になったけどな」
さり気なく後ろから近づくと、俺は雅紀の体を両腕で抱きすくめた。
「もう、いいだろう」
表情こそ見えないが、雅紀が息を呑む気配。雅紀の腕から逃れて床に飛び降りたウサギが、俺たちの足元でひくひくと鼻を動かしている。
俺はお前の欲しいものを持ってきてやった。だから、今度はお前が俺の欲しいものをよこす番だ。
身を固くする雅紀を、ゆっくりとベッドに押し倒す。
これが初めてでもないくせに、俺がシャツのボタンに手をかけるとき、雅紀はいつも、一瞬、怯えた目で俺を見つめる。そう、まるで、追い詰められ傷ついたウサギのように。
雅紀を抱くのは久しぶりだった。三週間、いや、もっとかも知れない。
俺は雅紀を手荒に扱い、あいつは、瞼をきつく綴じたまま、悲鳴をこらえるように枕のカバーをずっと噛んでいた。
コトが終わり、俺が服を着た後も、雅紀は放心したように横たわったままだった。
「おまえが悪いんだぜ。しばらく連絡をしないから」
俺の言葉に、雅紀は物憂げに半身を起こした。俯くと、目元を縁取る睫の長さが目立つ。
「次回は、俺をあんまり待たせないようにするんだな」
じゃないと、こんなもんじゃすまなくなるぜ。
雅紀は唇を軽く噛み、哀願するように俺の顔を見上げ、小さく頷いた。
その姿を見て、俺は、またも気持ちが昂ぶるのを覚えた。でも、今日はもう時間が無い。塾があるし、それに、家に帰ったら二人分のレポートもやらなければならない。
「うん。必ず、連絡するよ」
呟くように、雅紀が言う。
「でも、今度は、仔猫やウサギじゃ駄目なんだ。出来たら、もっと大きな動物がいい。もっと、べつの」
分かったよ。俺は手で合図すると、部屋を出た。
ドアを閉めるとき、振り返った俺の目に、裸の胸にウサギを抱き上げた雅紀が俺を見つめているのが映った。その顔が何故か寂しそうに見えたのは、多分、気のせいに違いなかった。
俺と雅紀の関係が始まったのは、三ヶ月と少し前くらいからだ。
雅紀は、俺が生徒会長を務めて二期目になる、進学校としては都内では割りと名の知れた私立男子校の一学年下の後輩で、確か編入生だったと思う。
夏休み前の我が校の恒例行事となっている一、二年合同の球技大会のチーム分けで偶然同じチームになったことが、俺と雅紀の出会いだった。
雅紀は、これと言って特徴があるというわけでもないのに、何となく人目を引く生徒だった。
同年代の少年にしては、細身で華奢な体つき、ちょっと気弱そうな、はにかんだような笑い方。
俺は、雅紀に全く注目などしていなかったし、興味もなかった。
事情が変わったのは、球技大会の強化練習に入る少し前、更衣室で下らない話に興じていた、やはりバスケで同じチームとなった隣のクラスの同級生二人の会話を、そのつもりもなく耳に挟んでしまってからだ。
俺がロッカーの反対側で着替えていることには気づかなかったのだろう、自分たちしかいないという気安さからか、奴らは普段なら決して口にしないような、かなり際どい猥談を始めた。友人の誰それの初体験、どこの女子高のナントカ言う名前の女と誰が寝たとか。
そんな下らない幼稚な話に、俺は興味も関心も無かった。
とっとと着替えを終えてその場を去ろうとしたとき、不意に耳に飛び込んできた名前があった。
一年の立原雅紀。あいつ、結構いいよな。良いって、何だよ。俺、モーホーは勘弁だ。いいじゃん、ああいうタイプだったら、一回くらい、ケツ借りても良いって気になるって。
その連中は、引退した十代のアイドルのスキャンダルに話題を移し、馬鹿みたいに下卑た笑い声を上げながら、更衣室を出て行った。一人残された俺は、たいして深い考えもなく、そいつらの台詞を反芻し始めた。
ああいうタイプ。その言葉には、何となく頷けるものがあると思った。
小柄で、少々、線は細いものの、その外見から別に女を感じさせるわけでもない、いつも清潔な感じの、一見どこにでもいそうな普通の高校生。
だが。
あいつには、何かがあった。
見る者が見れば、敏感にそれを感じ取るに違いない。時折見せる、ふとした仕種のなかに。一瞬の表情のなかに。
あいつを玩具(おもちゃ)にし、蹂躙し、悲鳴をあげさせたくなるようなもの。何か、こちらの、酷く嗜虐的な欲望を刺激する、底暗い影のようなものを。
だからと言って、翌日から俺が雅紀を意識し始めたわけではない。雅紀を意識し始めたのは、更衣室で雅紀のことを猥談のネタにしていたあの二人組だった。
多分、自分たちの心の奥にあった欲望を言葉に出したことで、何らかの常識的な枷が外されてしまったのだろう、露骨に雅紀にちょっかいをかけるようになったのだ。
練習中、わざとボールを死角から叩き込んだりするのはまだましな方で、紅白戦のときに、奴らのうちの一人が、ブロックに失敗した振りをして、雅紀の鳩尾に肘を食い込ませるのも見た。
体育館で、更衣室で、校舎の影で。奴らは、常に雅紀を視界のなかに入れていた。獲物の隙を狙う肉食獣のように。
初めは見て見ぬふりをしていた。煩わしい面倒事は御免だった。雅紀が殴られようと、何をされようと、俺の知ったことではない。だが、エスカレートしていくそいつらの行動が段々、俺を苛立たせるようになり、俺はその二人を停学処分にした。
無論、生徒会長とは言え、一生徒にそんな権限があるわけではない。そんな無理が通るのも、この俺だからだ。
表向きはお上品なお坊ちゃん学校ということになっている進学校、そのなかでも、入学以来、常にトップの成績を守り続けている俺は、教師どもの期待の星なのだそうだ。煙草を吸っていた、恐喝の現場を目撃した、どんな下らないデッチ上げだって教師は俺の言葉を信用する。
別に、雅紀を助けたつもりはないし、俺は正義感が強いわけでもなんでもない、生徒会長だって、ただ内申書のためにやっているだけのことだ。薄汚い二人を一時、学校から遠ざけたのは自分自身の精神衛生上のためにしたことだが、雅紀は、どこでそれを知ったのか、俺に礼を言いに来た。
ある日の練習終了後、二人きりで取り残された体育館。真夏の夕暮れ、穏やかな静けさを壊し、鼓膜を引き裂く、暴力的なまでの蝉の鳴き声。じっとしていても汗が目の中に流れ落ちてくる程の蒸し暑さ。火照った肌に触れてきた、ひんやりとした雅紀の指。
多分、俺は、どうかしていた。
誘ってきたのは、雅紀のほうからだったと思う。俺たちは、契約を交わした。
そう。それは、契約だった。
俺は、雅紀を自由にしていい。だが、その代価として、俺の力の及ぶ範囲で、あいつを護る。
そして、もう一つ。
その二つ目の要求は、ひどく奇妙に聞こえた。だが、俺はその理由を尋ねることはせず、黙って受け入れることにした。
二つ目の代価。それは、雅紀の玩具になるような小動物を差し出すこと。
インコに二十日鼠、仔猫、ウサギ。何でも良かった。そんな小動物を手に入れるのは、驚くほど簡単だった。
生まれてしまった仔猫の貰い手に困っている奴、流行に乗って飼い始めたフェレットやハムスターに飽きて、処分したがっている奴。ちょっと周りを見渡すだけでそんなのはゴロゴロしていた。
俺は親切めいた言葉を口にして、そいつらから必要なくなったペットを引き取り、雅紀の部屋へ運ぶ。そして、ほんの数時間、欲望を開放させるのだ。
何故、雅紀がそんな動物たちを欲しがるのかその理由を知ったのは、あいつの部屋に出入りするようになって、しばらくたってからのことだ。だが、俺は気にしなかった。そんなの、俺にとってはどうでもいいことだったからだ。
俺にとって必要だったのは、欲望の捌け口としての、雅紀の体だけだったから。
俺にあったもの。受験勉強。守らなければならない席次。優等生という、学校や親に対する表の顔。溜まりに溜まったストレスと、若い、健康な欲望。それら全てを俺は、不健康な関係のなかに吐き出し、翌日からまた普段通りの優等生の仮面を被る。
雅紀との間に、感情が入り込む余地はなかった。俺はあいつの体を利用し、あいつは俺の立場や人脈を利用している。ギブアンドテイクなのだ。
それなのに、俺は、最近、また妙に苛つき始めている。
原因不明の熱に浮かされたように、いつも、俺は、雅紀の体を手荒に扱い、情け容赦なく責めた。そして、そんな自分に嫌気がさして、また胸の奥にどんよりと溜まったものの始末に戸惑う。
多分、その理由を俺は知っている。少なくとも、俺の心のなかの一部は。しかし、それを認めまいとしているのだ。
当たり前だ、そんなものを認めるくらいなら、この歪んだ関係を終わらせた方がマシだった。
寝不足の目を擦りながら教室に入った俺を早速出迎えたのは、葉山だった。
茶色に染めた髪の下に隠した耳たぶに、複数のピアス、軽薄な態度。
良家の子息揃いの進学校が聞いて呆れる、現実はこんなのが混ざりこんでいるのだから。
馴れ馴れしい態度で肩に回してくる腕を振り払いたくなるのを堪える。こいつの目的は俺の鞄のなかのレポートだ。それさえ渡せば、目障りでない処に消えてくれるだろう。
「おう、サンキュー!これで今学期の物理Aは確定だぜ」
単純に喜んでいる葉山の耳に、俺は叫んでやりたくなった。おまえ程度の頭で絶対に書けるはずがないと物理の教師がちゃんと疑ってかかるように、これ以上ないっていうくらい立派な体裁で仕上げてやったからな、と。
だが、こんな箸にも棒にもかからないやつに態々、忠告することもない。
俺が欠伸をかみ殺すのを見て、葉山は早速、軽口を叩き始めた。
「なんだ、我が校始まって以来の秀才が、たかがレポートで徹夜ってか?」
葉山は、俺が雅紀にくれてやったウサギのもとの持ち主だ。妹だか姉貴だかが縁日で買って来たウサギがでかくなりすぎたと言って、引き取り手を捜していたのだ。
その葉山の唇の端に、ふと、好色そうな笑みが浮かぶ。
「寝不足じゃなくて、ホントはやりすぎ、の間違いじゃないの?上杉チャン」
こいつは、いきなり何を言い出すのだろう。下世話な冗談か、或いはカマをかけたつもりなのか。
だが、内心の驚きを態度にも表情にも出さないことにかけては、俺のほうが数倍上だった。俺が黙って頷くと、葉山はあからさまにうろたえ始めたのだから。
「嘘。ジョークのつもりだったのに。じゃあ、おまえ、あの一年とデキてるって噂、マジだったのかよ」
噂か。そんな噂が流れていることなど知らなかったが、大方、俺が停学にしてやった、最近、学内で姿を見せない、例の二人組のやっかみだろう。
俺の頭の中に突然、ある考えが浮かんだのは、このときだった。
「抱かせてやろうか」
え、と一瞬、葉山の背中に緊張が走るのが分かる。
俺は、葉山の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。
「立原雅紀。やりたいんだったら、お前にも、あいつを抱かせてやるよ」
葉山は、ぽかんと口を開けたアホみたいな表情で、俺を見つめた。だが、ノーとは言わなかった。
俺は、葉山を伴って、雅紀の家に向かっていた。葉山は、紐で繋いだ一匹の黒い中型犬を連れている。
「その犬は?まさか、どっかから盗んできたんじゃないだろうな」
葉山は、歯切れの悪い口調で否定した。
「いや。近所をウロついてた野良だから」
この期に及んで、こいつはまだ気持ちが決まらないらしい。まあ、それも無理は無い。学校を出る前、俺は葉山に、全てを話していたのだから。
「先に言っとくけどな、立原雅紀はイカれてるぜ」
俺はそう前置きし、話し始めた。雅紀と俺の関係の始まり、そして、運んでやった動物たちを雅紀がどうしているのかも。
「おまえから譲ってもらったあのウサ公、今頃どうなってると思う?」
「どう、って?」
俺は教えてやった。いつもアホみたいに平和な顔をしている葉山には想像も出来ないだろう、雅紀の背景にある吐き気を催すような暗黒を。
雅紀は、手に入れた小動物の首を切り落とし、内臓を取り出し、その血を全身になすりつけるのだ。あいつはそれを、サバトの生け贄だと、魔王を呼び出す儀式だと言っていた。
普通に学校に通い、在り来たりな高校生を演じている雅紀は、実はカンペキなキ印だ。現実と、そうでないものの区別がつかなくなっているのだ。あいつから感じる影や闇は、そんなあいつ自身の歪んだ精神の深淵から出ているのだということを。
「それでも、お前は」
葉山が息を飲む。
「ああ。それでも俺は、あいつとの関係を続けてたよ。別に、雅紀がどんなサイコ野郎でも、俺としてはどうでもいいことだからな」
それを知ったのは、雅紀の腰の辺りの小さな刺青に気づいてからだった。
変形させた六角星形の中央に、花びらのようなマーク。別に、今どきタトゥーを入れている学生など珍しくもないが、雅紀にはどうもひどくそぐわない気がして、俺はその理由を尋ねたのだ。
もつれ合い、倒れこんだベッド、俺の体の下で喘ぎながら、雅紀は答えた。
これは、ビースト・オブ・ヘキサグラム(六芒星の獣)。アレイスター・クロウリーの使っていた反キリストの紋章。何だよ、そのクロウリーって。二十世紀最大の魔術師。かれの遺した「法の書」を僕は解読した。
俺も、雅紀も、それきりそのことは話題にしなかった。
何故、葉山などに、殊更、雅紀の異常な癖を強調して話して聞かせたのか、分からない。だが、俺は、自分の目の前で、誰かに滅茶苦茶にされる雅紀を見たかった。そうすれば、何か胸の奥のもやもやとしたものが吹っ切れそうな気がしたのだ。
普段は、雅紀の方から俺に連絡を入れてきた。自分の方から雅紀をおとなうのはこれが初めてだったから、俺は葉山を促して、家の裏手に回ることにした。まだ会ったことはないが、雅紀の家族の誰かと鉢合わせするような危険は犯したくない。
葉山は、しばらく、じっと何かを考えているようだった。普段とは違う、深刻そうな表情で俺を見た。
「でも上杉。おまえ、本当にいいのか?」
こいつは、何を言いたいのだ。
「俺が、立原をヤッちまっても、おまえは何とも思わないのか?」
そのとき、俺はどんな表情で葉山の前に立っていたのだろう。
下らない。余りにも、下らない考えだと思った。一体、どこからそんな思い付きに及んだのだろう。俺はそういう生温い関係を雅紀との間に築いた覚えはない。
俺は答えなかった。葉山も、それきり口を噤んだ。
突然、葉山が引き綱をひいている人懐こい野良犬が、妙に脅えだした。尻尾を後ろ足の間に挟み、ぶるぶる震えながら、四肢を踏ん張って、一歩も進むまいとする。
「あれ、なんだよ。こら、ワン公。いきなりエンコするなって」
葉山が犬をなだめている間に、俺は一人で先に立って、小さなバルコニーの手摺りを乗り越えた。
半ばカーテンが引かれていたが、なかの様子を覗いて見るには問題はなく、逆に自分の体は隠せるので好都合だった。留守なのかと思ったが、雅紀は部屋のなかで眠っていた。
そう、眠っていた。
だが。
俺は何を目にしているのか。
俺が訪ねていくときは、いつも、殺風景な程に片付けられた何も無い部屋。だが、今は、部屋の中央に、見たことも無い文字で埋め尽くされた円陣が描かれている。その周りに、規則正しい間隔を置いて並べられた小動物たちのミイラ化した生首。
ベッドがあった筈の場所には祭壇のようなものが設えられ、人間の手首を模した蝋燭立てが置かれている。
揺らめく炎をうけて不気味な陰影を浮かび上がらせているのは、まさか本物ではあるまいが、壁に飾られた、二本の角を生やした黒い山羊の頭だった。
その山羊の額の中央に、あの六角星形の印。雅紀が反キリストの証と言っていたのと同じものだ。
まるで、オカルト映画のセットを見ているようだった。だが、映画のセットだとしたら、何故ここまでする必要がある?祭壇の真下、火を灯した二本の蝋燭の間で横たわって眠っている雅紀の体は、あろうことか、何も無い空間に、そう、宙に浮いていたのだ。
閉じられていた雅紀の目が、突然に開いた。
宙を泳いだ視線が、コンパスを使ったような放物線を描き、ゆっくりと俺のほうに向けられる。ガラス越しに俺を捉えた雅紀の瞳は、磨き上げられた輝石のように光彩が無い。
雅紀は起き上がると、近づいてきた。
足がよろけた。そのまま数歩、後退さった。馬鹿な。あんなもの、子供騙しの作り物だ。まやかしだ。必死で、そう自分に言い聞かせる。
だが、一体何なのだ。この、首の後ろの毛がビリビリと逆立つような、圧倒的な恐怖は。心臓が、異常な速さで脈打ち、眩暈がした。
何だというのだ、まるで、一歩足を踏み出した先に巨大な暗闇が口を開いて待ち受けている、さながら悪夢の世界に入り込んでしまったような酩酊感は。
馬鹿な。俺は信じない。こんなもの、現実の筈がない。
「上杉さん。自分から来てくれるなんて初めてだね。でも、待ってたよ」
雅紀。微笑んだ表情の裏に、邪悪な影が見え隠れする。手にしている灯りは、あの気味の悪い、人間の手首から先の形をした蝋燭立てだった。
俺の凝視に気づいたのだろう、雅紀はそれを俺の目の前にかざすと、暗く笑いかけ、こう言った。
「これ?本物だよ。本物の人間の手。ほら、上杉さんもよく知っている、あのバスケのときの先輩。栄光の手と言ってね、罪人の手首を生きたまま切り落とし、塩漬けにして創るんだ。あの人たちは罪人というよりは小悪党って感じだったけど、あんまり注文もつけられないからね」
それは直感だった。とても信じられないけれど、こいつは本当のことを言っている
「雅紀。お前は、一体?」
俺は無意識のうちに、子供のように首を横に振っていた。
この場からいなくなりたかった。雅紀の前から。何が作り物で何が嘘でも、そんなことはどうでもいい、ただ本物なのは、俺の心を塗り潰そうとする、かつて経験したことが無いほどの純粋で原始的な恐怖、それだけだった。
「畜生、上杉。犬が逃げた」
後ろで、葉山が喚いている。その声で、一瞬、金縛りが解けた。俺は振り返ると、葉山に向かって叫んだ。
「犬のことなんかどうでもいい。俺たちも逃げるぞ、葉山」
無我夢中でバルコニーから飛び降り、走り出そうとした俺を、突然、後ろから誰かの腕が止め、強い力で引き戻した。驚いて振り返ると、それは葉山だった。
「葉山?一体、何の真似だ」
無言のまま、葉山は俺を羽交い絞めにして、さらに体を押さえ込んだ。
雅紀が、滑るように、低い階段を降りてくる。「栄光の手」を掲げて。
叫ぼうとしたが、出来なかった。葉山が、何かの液体に浸した布で、俺の鼻と口を塞いだのだ。
「葉山、てめえ」
呻き声をあげた俺の顔を覗き込み、葉山はニヤリと笑った。
「なあ、上杉、頭のいいお前が、どうして気づかなかったんだ?邪教の使徒には、取り巻きがつきものだってことに」
吸い込んでしまった薬のせいだろうか、脳が圧迫され、目茶目茶に揺さぶられているような気分だった。酷い眩暈がして、足に力が入らない。視界が狭まり、目の前が暗く翳り始めた。
雅紀は俺の目の前で足を止めた。
目を伏せたその顔は、何故かとても清らかに見えて、そして、悲しそうだった。全てが、セピア色のフィルターを通して見ているように、霞んでいた。
「好きだったよ。上杉さんのこと」
突然の、告白。これ程までに痛ましく、そして感動的な台詞がほかにあるだろうか?もし、普通の状態だったら、俺は吹き出していたかも知れない。
雅紀は独り言のように、淡々と続けた。
「僕は上杉さんが好きだった。僕のことも好きになって欲しいと思った。でも、駄目だったね。今日、やっとそれが分かった。だから、もう、やめた」
どういうことなんだ。俺は嵌められたのか?雅紀と葉山に?
酷く気分が悪かった。全身の感覚が麻痺していた。葉山が後ろから俺の体を捕まえていなければ、俺は多分、その場に崩れ落ちていただろう。
目の前にいるのに、遥か遠くから聞こえてくるような、雅紀の声。
「丁度良かったよ。ウサギや仔猫じゃなく、今度は人間が必要だったんだ。でも、誰でもいいってわけじゃなかった。だから、安心して。上杉さんの命も体も、無駄にはしないから。もっとも名誉な役を与えてあげる。闇の支配者、偉大なる獣の王を呼び出すための生け贄として」
声は聞こえるが、雅紀の言っている言葉がよく理解出来ない。
俺を見据える雅紀の瞳には、いまや、嘲笑うような冷たい火が燃えていた。
初めて見る悪意に満ちた表情、それは、雅紀が吐き出す俺への憎しみだった。
お前は俺を憎んでいるのか。
これが、見てはいけないものを見てしまった俺、そして、本当は真っ直ぐに見据えなけばならなかったものから目を背け続けた俺へ、お前が与える、罰なのか。
俺が見据えなければならなかったもの。
それは、心のどこかでは気がついていながら認めまいとしていた、お前への気持ち。お前の、追い詰められ、深淵を覗き込む獣のような淡い光を宿す瞳に、いつしか惹かれ始めていた、俺自身の本当の想い。
何か、喋りたいと思った。命乞いではない。雅紀に何か言ってやりたかったが、舌は動かず、声も出せなかった。
葉山が、全く力の入らない俺の体を引きずり、どこかへ運ぼうとしている。これから起こるだろうことへの恐怖心は、既に無かった。思考も、神経も、遥か遠い何処かに置き去りにされていた。
俺もだよ、雅紀。
俺もおまえを愛していた。多分、初めて出会ったときからずっと。
それまで自分が存在していた筈の場所が空白に変わる最後の瞬間、俺は、心のなかでそう叫んだ。
もはや誰にも聞こえない言葉を。
《Fin》
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