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最後の恋は神さまとでした
神さまの実験終了/2
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――騒音はいつものこと。首都を環状する大通りに面したマンション。窓は二重になっているが、洗濯物を取り込む時には、いつもこのクラクションと走行音、そして近くを通る路面電車のガタゴトという雑音が体中を覆う。
女は洗濯バサミをつまんでは、挟まっていた洗濯物を部屋の床へ放り投げる。
「よく乾いた。八月だから、ちょっとゴワゴワしてる――」
その時だった。ひとりきりのベランダに、不浄を消し去るように、聖なる子供の声が響き渡ったのは。
「よう!」
コウがきたと思ったが、家事が優先の女は手を休めることなく、洗濯物を部屋の中へ入れてゆく。
「今日は昨日よりくるの早いね」
「朗報だ」
「どんないい話?」
「邪神界が滅びた――」
手に持っていた洗濯物を、女は思わず落とした。
「え……?」
森羅万象と言っても過言ではないほど、絶対の法則だった世界のことだ。それが滅びるなど、昨日の予言通り天変地異だ。いや空前絶後だ。
コウは宙に浮いたまま、二重窓を半円を描くようにすり抜け、再び外へ戻ってくる。
「あの人を傷つけて、蹴落として、まわりの人間に悪影響をたくさん及ぼしたやつが、地位も名誉も手に入れられる世界は滅んだってことだ」
「何度聞いても、嬉しくない世界だ……」
子供らしいくりっとした丸く大きい赤と青の瞳は、その形には似つかわしくなく、人間よりもはるかに長い年月を生きている威厳を持っていた。
「地獄って知ってるか?」
「うん。罪を犯したら、死んだあと行く場所だよね?」
「まあまあ、あってる。今までの地球の歴史は、戦争が多かっただろう?」
歴史の授業を思い出しながら、ベランダに落とした洗濯物を拾い上げ、女はため息をついた。
「そう……だね」
洗濯竿をすり抜け、ふわふわとコウは宙を飛ぶ。
「だから、ほとんどの人間が地獄行きなんだ。人間って辛いことから逃げるだろう?」
「そう?」
女は本当に不思議そうな顔で首を傾げた。コウは珍しく笑う。
「ふふっ。お前は違うのかもしれない。ほどんどの人間はそうで、地獄から逃げたいと思ってた。しかも、逃げられる方法がひとつだけあった」
「どうやって?」
自転車の油の切れたブレーキ音が、排気ガスだらけの空に嘶いた。
「邪神界へ行くこと――」
「えぇっ!? それって……」
女は再び洗濯物を床にパラパラと落として、あまりのことに言葉をなくした。コウの銀の髪が夕風に揺れる。
「お前が予測した通り、悪魔に魂を売り飛ばすってこと」
「それって本当にあった?」
本や映画の話ではなく、自分が生きている世界にあったとは驚きだった。まさしく、事実は小説よりも奇なりだ。
地獄で苦しんでいる人間のそばへ、神さまがやってきて、あなたがここにいる必要はないんだと、にこやかに話しかけるのだ。
すると、罪は償われたのだと何の疑いもせず思い、人間はそうやって、悪へと落ちてゆくのだ。神さまに化けた邪神界の人間についていってしまったとも気づかずに。
コウの赤と青の瞳はどこまでも冷ややかだった。
「で、邪神界へ行けば地獄へ入る時間はもっと長くなる。罪をさらに重ねるんだからな」
「そうだよね」
女は最後の洗濯物を手にしながら、世界は悪循環だと思った。
「だからさ、誰も戻ってこなくて、逆の世界の正神界の人間はもう一割もいなかったんだ」
どこかずれているクルミ色の瞳の奥で、真っ黒な雲が世界を覆うイメージが脳裏に浮かび上がる。
「それって、神さまの世界にも影響があったの?」
「そうだ。正神界の神さまは人間に手を貸しちゃいけないって決まりがあった」
「じゃあ、世の中の神さまの逸話はなかったの? お祈りって誰が聞いてたの?」
「だから、邪神界のやつらが全部やったんだ」
あまりにも衝撃的すぎて、女は重たい二重窓を閉める時、指を挟んだ。
「痛っ!」
手を振りながら、顔をしかめながら、床に落とした洗濯物を拾う。
「それって、正神界の人間の頼み事も聞いたの?」
コウは気にせず、電子ピアノの上に腰掛けた。
「聞くわけがないだろう。邪神界からすれば、敵なんだからな」
「じゃあ、世の中って悪が仕切ってた」
物悲しい話なのに、赤と青の瞳は揺るぎない強さを持っていた。
「そうだ。統治者は他の神さまよりも力が強いんだ。だから、誰にも倒せなかった。でもさ、邪神界を倒した神さまがいたんだよ」
「いつの話?」
女はクッションの上に腰掛け、洗濯物を畳み始める。
「ついさっきだ。だから、今伝えにきたんだろう?」
「はぁ?」
たった一人しかいない部屋に、彼女の声が思わずもれ出た。リアルタイムの話。あのいつまでも永遠の世界が、変化をもたらしたと言う、この子供じゃないと言い張る、大人かもしれない小さな神さまは。
「お前も鈍臭いな。神さまの世界っていうのは、人間の世界より最先端なんだぞ。だから、いつまでも古い式たりのままなわけないじゃないか」
いつの間にか止まっていた手を再び動かして、女は本棚に入っている専門書を眺めた。
「そう? 大自然の森の奥とかに住んでて、社に住んでて、日が登ったら起きて、日が沈んだら眠る――」
「それって、いつの時代の話だ?」
まさかさえぎられるとは女は思っていなくて、コウの銀の長い髪をじっと見つめた。
「え~っと、神話にはそう書いて……」
「神話は人が書いたもの。神さまが書いたものじゃないだろう。コンピュータって誰が人間に作らせたのか考えればわかるだろう?」
白山菊理姫。答えがすぐさま浮かび上がって、女は大声を上げた。
「あぁ! 言われてみればそうだ!」
「だから、神さまは空を飛ぶ乗り物が当たり前にある世界で生きてるんだ。神さまが地面をずっと歩いてたらおかしいだろう? 人のところにすうっと現れるから、威厳が増すんじゃないか!」
「確かにそうだね。長旅してきた神さまに会ったら、労いの言葉をかけちゃうね。どっちが立場が上なのかわからなくなるかも」
女は思った。死ぬことはないのだろうが、過労で目の前でパタンと倒れる神さま……。どうもイケていない。
女は洗濯バサミをつまんでは、挟まっていた洗濯物を部屋の床へ放り投げる。
「よく乾いた。八月だから、ちょっとゴワゴワしてる――」
その時だった。ひとりきりのベランダに、不浄を消し去るように、聖なる子供の声が響き渡ったのは。
「よう!」
コウがきたと思ったが、家事が優先の女は手を休めることなく、洗濯物を部屋の中へ入れてゆく。
「今日は昨日よりくるの早いね」
「朗報だ」
「どんないい話?」
「邪神界が滅びた――」
手に持っていた洗濯物を、女は思わず落とした。
「え……?」
森羅万象と言っても過言ではないほど、絶対の法則だった世界のことだ。それが滅びるなど、昨日の予言通り天変地異だ。いや空前絶後だ。
コウは宙に浮いたまま、二重窓を半円を描くようにすり抜け、再び外へ戻ってくる。
「あの人を傷つけて、蹴落として、まわりの人間に悪影響をたくさん及ぼしたやつが、地位も名誉も手に入れられる世界は滅んだってことだ」
「何度聞いても、嬉しくない世界だ……」
子供らしいくりっとした丸く大きい赤と青の瞳は、その形には似つかわしくなく、人間よりもはるかに長い年月を生きている威厳を持っていた。
「地獄って知ってるか?」
「うん。罪を犯したら、死んだあと行く場所だよね?」
「まあまあ、あってる。今までの地球の歴史は、戦争が多かっただろう?」
歴史の授業を思い出しながら、ベランダに落とした洗濯物を拾い上げ、女はため息をついた。
「そう……だね」
洗濯竿をすり抜け、ふわふわとコウは宙を飛ぶ。
「だから、ほとんどの人間が地獄行きなんだ。人間って辛いことから逃げるだろう?」
「そう?」
女は本当に不思議そうな顔で首を傾げた。コウは珍しく笑う。
「ふふっ。お前は違うのかもしれない。ほどんどの人間はそうで、地獄から逃げたいと思ってた。しかも、逃げられる方法がひとつだけあった」
「どうやって?」
自転車の油の切れたブレーキ音が、排気ガスだらけの空に嘶いた。
「邪神界へ行くこと――」
「えぇっ!? それって……」
女は再び洗濯物を床にパラパラと落として、あまりのことに言葉をなくした。コウの銀の髪が夕風に揺れる。
「お前が予測した通り、悪魔に魂を売り飛ばすってこと」
「それって本当にあった?」
本や映画の話ではなく、自分が生きている世界にあったとは驚きだった。まさしく、事実は小説よりも奇なりだ。
地獄で苦しんでいる人間のそばへ、神さまがやってきて、あなたがここにいる必要はないんだと、にこやかに話しかけるのだ。
すると、罪は償われたのだと何の疑いもせず思い、人間はそうやって、悪へと落ちてゆくのだ。神さまに化けた邪神界の人間についていってしまったとも気づかずに。
コウの赤と青の瞳はどこまでも冷ややかだった。
「で、邪神界へ行けば地獄へ入る時間はもっと長くなる。罪をさらに重ねるんだからな」
「そうだよね」
女は最後の洗濯物を手にしながら、世界は悪循環だと思った。
「だからさ、誰も戻ってこなくて、逆の世界の正神界の人間はもう一割もいなかったんだ」
どこかずれているクルミ色の瞳の奥で、真っ黒な雲が世界を覆うイメージが脳裏に浮かび上がる。
「それって、神さまの世界にも影響があったの?」
「そうだ。正神界の神さまは人間に手を貸しちゃいけないって決まりがあった」
「じゃあ、世の中の神さまの逸話はなかったの? お祈りって誰が聞いてたの?」
「だから、邪神界のやつらが全部やったんだ」
あまりにも衝撃的すぎて、女は重たい二重窓を閉める時、指を挟んだ。
「痛っ!」
手を振りながら、顔をしかめながら、床に落とした洗濯物を拾う。
「それって、正神界の人間の頼み事も聞いたの?」
コウは気にせず、電子ピアノの上に腰掛けた。
「聞くわけがないだろう。邪神界からすれば、敵なんだからな」
「じゃあ、世の中って悪が仕切ってた」
物悲しい話なのに、赤と青の瞳は揺るぎない強さを持っていた。
「そうだ。統治者は他の神さまよりも力が強いんだ。だから、誰にも倒せなかった。でもさ、邪神界を倒した神さまがいたんだよ」
「いつの話?」
女はクッションの上に腰掛け、洗濯物を畳み始める。
「ついさっきだ。だから、今伝えにきたんだろう?」
「はぁ?」
たった一人しかいない部屋に、彼女の声が思わずもれ出た。リアルタイムの話。あのいつまでも永遠の世界が、変化をもたらしたと言う、この子供じゃないと言い張る、大人かもしれない小さな神さまは。
「お前も鈍臭いな。神さまの世界っていうのは、人間の世界より最先端なんだぞ。だから、いつまでも古い式たりのままなわけないじゃないか」
いつの間にか止まっていた手を再び動かして、女は本棚に入っている専門書を眺めた。
「そう? 大自然の森の奥とかに住んでて、社に住んでて、日が登ったら起きて、日が沈んだら眠る――」
「それって、いつの時代の話だ?」
まさかさえぎられるとは女は思っていなくて、コウの銀の長い髪をじっと見つめた。
「え~っと、神話にはそう書いて……」
「神話は人が書いたもの。神さまが書いたものじゃないだろう。コンピュータって誰が人間に作らせたのか考えればわかるだろう?」
白山菊理姫。答えがすぐさま浮かび上がって、女は大声を上げた。
「あぁ! 言われてみればそうだ!」
「だから、神さまは空を飛ぶ乗り物が当たり前にある世界で生きてるんだ。神さまが地面をずっと歩いてたらおかしいだろう? 人のところにすうっと現れるから、威厳が増すんじゃないか!」
「確かにそうだね。長旅してきた神さまに会ったら、労いの言葉をかけちゃうね。どっちが立場が上なのかわからなくなるかも」
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