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閉鎖病棟の怪
死臭の睡魔/2
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ワンフロアの大きなオフィス。
規則正しく並ぶデスクの上にはPCの画面が開かれ、人々の視線はそこに真剣身を持って向けられている。
時折、打ち合わせのために人の話し声は聞こえてくるが、全体的に静かなフロア。
壁際の列で、どこかずれているクルミ色の瞳を持つ女が、大量のファイルを見つめて、リターンキーに手を乗せた。バンジージャンプをする人のように、大きく息を吸って覚悟を決める。
(バッチを作ったから……あとは回すだけ)
これを実行すれば、大量のデータが処理できるというプログラム。手に力を入れて、上から押せば――
「月雪さん?」
背後から女の声がかけられ、出鼻をくじかれた颯茄の手はPCからはずれて、机の上にころっと転がった。
振り返るとそこには、ストライプのシャツを着た女が立っていた。
「あぁ、先輩、お疲れ様です」
「お疲れ様……」
ため息をつきながら、他の人の視線から逃れるように女はしゃがみ込んだ。それはオフィス内ではよく見かける行動。だが、この先輩がするのは、珍しいことだった。
「どうかしたんですか?」
「今日の飲みの約束なんだけど、またでいいかしら?」
「いいですよ」
基本的に土日が休みのIT関係。今日は金曜日。会社帰りに、居酒屋に行く。ごくごく普通のことだった。女は額に手を当てて、
「なんかねー、今日、ひどく眠くてね」
「夜更かしでもしたんですか?」
颯茄はロングブーツのチャックを指先でいじった。
「そんなことないんだけど……。規則正しい生活してたんだけど、疲れてるのかもしれないわね」
しっかりした先輩だというのに、そんなこともあるのかと思って、断りにきた気持ちも汲んで、颯茄はできるだけ明るく言った。
「今日は早く帰って寝てくださいよー」
「うん。そういうことだから、また別の日にね」
ゆっくり立ち上がった女に力なく手を振られて、颯茄は素直にうなずき、
「はい」
再びリターンキーに指先を乗せて、ゴーをかけると、斜め横でドサっと大きな物が落ちたような音がした。チームリーダーの男の声が響き、
「大丈夫かっ⁉︎」
「どうしたの?」
「どうした?」
机の山の前方でガヤガヤ言い出した。バッチが無事に回ったPCの画面は、どこかずれているクルミ色の瞳から消え去り、床に落とされると、さっき話していた女がまるで命を吸い取られたかのように倒れていた。
「え……? 先輩?」
ぼうぜんとする颯茄の前で、物事が勝手に動いてゆく。
「誰か、救急車呼べ!」
ただ事ではない空気で、オフィスフロアは一瞬にして騒然となった。
だが、颯茄は別のことにもっと驚いて、机の上から両手を震わせながら落とし、白のモヘアのワンピースのスカートを、寒気がしてぎゅっと握りしめた。
「黒い霧? 先輩のまわりだけ……。どうしてだろう?」
それは、どこかずれているクルミ色の瞳というレンズにも、窓にも映らないものだった。それでも、颯茄の心の中では、はっきりと見えていた。
*
黄色の液体で満たされたグラスが、中央に掲げられた。
「カンパーイ!」
カツンと心地よい音が響き、それぞれの元へビールジョッキが引き寄せられた奥で、
「はいよ」
刺身の盛り合わせが、オープンキッチンから、粋のいい男の声とともに出された。着物を着た女の従業員によって運ばれてゆく。カウンターの端に座っていた女二人に近づいて、
「お待たせしました」
どこかずれているクルミ色の瞳と、とぼけている黄色の瞳が同時に向けられた。
「刺身の三点盛りでございます」
「ありがとうございます」
颯茄が割り箸を指に挟んだまま受け取ると、店員は離れていった。醤油を隣にいる赤茶の髪の女に渡す。すると、
「先輩、先にどうぞ」
「じゃあ、お先」
刺身皿を茶色に染め、ワサビをたっぷりと取り、颯茄はドロドロになるまで混ぜた。そうして、満面の笑みで、今きた魚を見据える。
「サーモンとハマチ、ゲット!」
電光石火のごとく、ふた切れを同時につかみ、ジャボっと醤油に浸し、すぐにすくい上げ、パクッと口に入れると、
「んん~~! く~っ!」
ドラック的な辛味に頭を痺れさせている隣で、取り皿にネギまという規律が乱されてゆく。ビーズの指輪をした手で、箸を縦滑りさせる。
「……鶏肉、ネギ、鶏肉、ネギ、鶏肉終了です」
高級和食みたいな、串からはずされた焼き鳥を見つめて、颯茄は妙に感心する。
「知礼、上品に食べるよね?」
聞かれた山吹 知礼、二十四歳のグラデーションニットの前で、カシスソーダの氷がカランと鳴った。
「そうかはわかりませんが、先輩はそのままですよね?」
焼き鳥の盛り合わせから、もも塩をガバッと取り上げ、颯茄は挑戦的な顔をする。
「ガシッと口で挟んで抜き取った後に、ビールで流し込む。これが一番おいしい。私はね」
その通り、肉を串から引き抜いて、ビールジョッキをグビっとあおった。
規則正しく並ぶデスクの上にはPCの画面が開かれ、人々の視線はそこに真剣身を持って向けられている。
時折、打ち合わせのために人の話し声は聞こえてくるが、全体的に静かなフロア。
壁際の列で、どこかずれているクルミ色の瞳を持つ女が、大量のファイルを見つめて、リターンキーに手を乗せた。バンジージャンプをする人のように、大きく息を吸って覚悟を決める。
(バッチを作ったから……あとは回すだけ)
これを実行すれば、大量のデータが処理できるというプログラム。手に力を入れて、上から押せば――
「月雪さん?」
背後から女の声がかけられ、出鼻をくじかれた颯茄の手はPCからはずれて、机の上にころっと転がった。
振り返るとそこには、ストライプのシャツを着た女が立っていた。
「あぁ、先輩、お疲れ様です」
「お疲れ様……」
ため息をつきながら、他の人の視線から逃れるように女はしゃがみ込んだ。それはオフィス内ではよく見かける行動。だが、この先輩がするのは、珍しいことだった。
「どうかしたんですか?」
「今日の飲みの約束なんだけど、またでいいかしら?」
「いいですよ」
基本的に土日が休みのIT関係。今日は金曜日。会社帰りに、居酒屋に行く。ごくごく普通のことだった。女は額に手を当てて、
「なんかねー、今日、ひどく眠くてね」
「夜更かしでもしたんですか?」
颯茄はロングブーツのチャックを指先でいじった。
「そんなことないんだけど……。規則正しい生活してたんだけど、疲れてるのかもしれないわね」
しっかりした先輩だというのに、そんなこともあるのかと思って、断りにきた気持ちも汲んで、颯茄はできるだけ明るく言った。
「今日は早く帰って寝てくださいよー」
「うん。そういうことだから、また別の日にね」
ゆっくり立ち上がった女に力なく手を振られて、颯茄は素直にうなずき、
「はい」
再びリターンキーに指先を乗せて、ゴーをかけると、斜め横でドサっと大きな物が落ちたような音がした。チームリーダーの男の声が響き、
「大丈夫かっ⁉︎」
「どうしたの?」
「どうした?」
机の山の前方でガヤガヤ言い出した。バッチが無事に回ったPCの画面は、どこかずれているクルミ色の瞳から消え去り、床に落とされると、さっき話していた女がまるで命を吸い取られたかのように倒れていた。
「え……? 先輩?」
ぼうぜんとする颯茄の前で、物事が勝手に動いてゆく。
「誰か、救急車呼べ!」
ただ事ではない空気で、オフィスフロアは一瞬にして騒然となった。
だが、颯茄は別のことにもっと驚いて、机の上から両手を震わせながら落とし、白のモヘアのワンピースのスカートを、寒気がしてぎゅっと握りしめた。
「黒い霧? 先輩のまわりだけ……。どうしてだろう?」
それは、どこかずれているクルミ色の瞳というレンズにも、窓にも映らないものだった。それでも、颯茄の心の中では、はっきりと見えていた。
*
黄色の液体で満たされたグラスが、中央に掲げられた。
「カンパーイ!」
カツンと心地よい音が響き、それぞれの元へビールジョッキが引き寄せられた奥で、
「はいよ」
刺身の盛り合わせが、オープンキッチンから、粋のいい男の声とともに出された。着物を着た女の従業員によって運ばれてゆく。カウンターの端に座っていた女二人に近づいて、
「お待たせしました」
どこかずれているクルミ色の瞳と、とぼけている黄色の瞳が同時に向けられた。
「刺身の三点盛りでございます」
「ありがとうございます」
颯茄が割り箸を指に挟んだまま受け取ると、店員は離れていった。醤油を隣にいる赤茶の髪の女に渡す。すると、
「先輩、先にどうぞ」
「じゃあ、お先」
刺身皿を茶色に染め、ワサビをたっぷりと取り、颯茄はドロドロになるまで混ぜた。そうして、満面の笑みで、今きた魚を見据える。
「サーモンとハマチ、ゲット!」
電光石火のごとく、ふた切れを同時につかみ、ジャボっと醤油に浸し、すぐにすくい上げ、パクッと口に入れると、
「んん~~! く~っ!」
ドラック的な辛味に頭を痺れさせている隣で、取り皿にネギまという規律が乱されてゆく。ビーズの指輪をした手で、箸を縦滑りさせる。
「……鶏肉、ネギ、鶏肉、ネギ、鶏肉終了です」
高級和食みたいな、串からはずされた焼き鳥を見つめて、颯茄は妙に感心する。
「知礼、上品に食べるよね?」
聞かれた山吹 知礼、二十四歳のグラデーションニットの前で、カシスソーダの氷がカランと鳴った。
「そうかはわかりませんが、先輩はそのままですよね?」
焼き鳥の盛り合わせから、もも塩をガバッと取り上げ、颯茄は挑戦的な顔をする。
「ガシッと口で挟んで抜き取った後に、ビールで流し込む。これが一番おいしい。私はね」
その通り、肉を串から引き抜いて、ビールジョッキをグビっとあおった。
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