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翡翠の姫
白の巫女/1
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ツーツーツー……。
かすかな音が耳をくすぐり、貴増参を短い静寂から解放した。
埃臭く本独特の湿った匂いは一瞬にして姿を消して、その代わりに、自分の全身を包み込むような、肌に重くまとわりつくようなジメジメした冷たい空気のベールがかけられた。
サワサワサワ……。
潮騒のように遠くから近づいてくる、何かがすれるように響くと、頬を風が通り過ぎていった。
教授室の窓は開いていないし、破壊されたドアからもこんな強い風が吹くことなど、夜中の二時過ぎでは不自然だった。
いつの間にか閉じていたまぶたをゆっくりと開ける。おそらく自分がいた場所ではないだろう。何がどうなっているかわからないが、別の空間にいるだろう可能性が大だ。
何が待ち受けているが予測がつかないまま、優しさの満ちあふれた茶色の瞳が姿を表すと、そのレンズに映ったのは薄闇だった。
あたりに何本も立っている縦の線は空高くへと伸びている。手の甲をなでる肌触りのよくないものを指先でつかむと、
「草……でしょうか?」
雫がいくぶんついていて、手のひらを滑り、地面へと落ちてゆく感触がする。顔を上げたが、生い茂る葉の群れで、星明かりも月も見えなかった。
ポツ、ポツ……。
降り始めの雨のように頬を叩いて、貴増参は手のひらを向け、空をうかがう。
「雨……?」
見えたとしても、小さな葉っぱが集まった傘の向こうには、雨雲が広がる不機嫌な夜空があるのかもしれなかった。
ツーツーツー……。
足元でさっきから聞こえる大合唱は、虫の音のようだ。
「森、もしくは林の中でしょうか?」
変事が起きているのは確かだった。だがしかし、そこにいつまでもこだわっているわけないはいかない。
起きてしまった原因を知りたいところではあるが、どこにいるかで自分の取る言動は大きく変わる。素早く正確に把握しなくては。
サワサワサワ……。
吹きぬける風に梢が揺れる。大学構内に林はある。だが、こんな深いものではなく、街灯のひとつぐらいはすぐそばにあるはずだ。それなのに、やっと慣れてきた目で見ても、濃い墨のような闇だった。
「どちらでしょう?」
落とした覚えもなかったが、不思議なことに、手に持っていた光る勾玉はどこにもなかった。
とにかく、この茂みから出なくては、状況を把握できるような場所へ行けない。
草についた露であちこち濡れているであろうチェック柄のズボンと茶色の革靴で歩き出すと、虫の音はピタリと息を潜め、風が木々を揺らす音だけになった。
湿ってはいるが静かで穏やかな夜で、地面から浮かび上がっている木の根元を慎重に避けながら、足を踏み込む。
落ちている枝葉を踏み鳴らしつつ、草が絡みついて足がもつれないよう、大きく上げてはそうっと前へ出す。平地が続くとは限らない。一歩先は崖かもしれない。
踏み外さないように慎重に進んでゆくと、突如少女の甲高い声が銃声のようにあたりに響き渡った。
「なぜじゃっ?!」
誰が聞いても、穏やかではなく憤慨していた。貴増参は左足を半歩前に出したまま歩みを止め、あたりをうかがう。
(人の声……?)
女子学生の声ということもあるが、時間帯と口調からすると違う可能性が高いだろう。今姿を表すのは得策ではない。
息をひそめたまま、あたりを見渡すと、左手の下の方から、焚火の残り火のようなオレンジの光がにじんでいるのを見つけた。
(何でしょう?)
さっきよりは少し明るくなったが、暗い茂み道。知らない場所。枝と湿った草を踏み分けながら、石橋を叩くように進んでゆく。
すると、大きく勢いのある炎が眼下に広がった。自分は崖の上に立っていて、数十メートル下に焚き火がある。
人体に有害なガスが出るという研究はもう何十年も前に発表されていて、今もその事実は覆されることはない。条例で禁止されており、火で物を燃やすことはできない。
自分がいつも生活している場所ではない。常識だと思っていることが、通用しない可能性が出てきた。警戒心はさっきよりも自然と高められる。
「なぜ、我が黒なのじゃ!」
また少女の声が響き渡った。
かすかな音が耳をくすぐり、貴増参を短い静寂から解放した。
埃臭く本独特の湿った匂いは一瞬にして姿を消して、その代わりに、自分の全身を包み込むような、肌に重くまとわりつくようなジメジメした冷たい空気のベールがかけられた。
サワサワサワ……。
潮騒のように遠くから近づいてくる、何かがすれるように響くと、頬を風が通り過ぎていった。
教授室の窓は開いていないし、破壊されたドアからもこんな強い風が吹くことなど、夜中の二時過ぎでは不自然だった。
いつの間にか閉じていたまぶたをゆっくりと開ける。おそらく自分がいた場所ではないだろう。何がどうなっているかわからないが、別の空間にいるだろう可能性が大だ。
何が待ち受けているが予測がつかないまま、優しさの満ちあふれた茶色の瞳が姿を表すと、そのレンズに映ったのは薄闇だった。
あたりに何本も立っている縦の線は空高くへと伸びている。手の甲をなでる肌触りのよくないものを指先でつかむと、
「草……でしょうか?」
雫がいくぶんついていて、手のひらを滑り、地面へと落ちてゆく感触がする。顔を上げたが、生い茂る葉の群れで、星明かりも月も見えなかった。
ポツ、ポツ……。
降り始めの雨のように頬を叩いて、貴増参は手のひらを向け、空をうかがう。
「雨……?」
見えたとしても、小さな葉っぱが集まった傘の向こうには、雨雲が広がる不機嫌な夜空があるのかもしれなかった。
ツーツーツー……。
足元でさっきから聞こえる大合唱は、虫の音のようだ。
「森、もしくは林の中でしょうか?」
変事が起きているのは確かだった。だがしかし、そこにいつまでもこだわっているわけないはいかない。
起きてしまった原因を知りたいところではあるが、どこにいるかで自分の取る言動は大きく変わる。素早く正確に把握しなくては。
サワサワサワ……。
吹きぬける風に梢が揺れる。大学構内に林はある。だが、こんな深いものではなく、街灯のひとつぐらいはすぐそばにあるはずだ。それなのに、やっと慣れてきた目で見ても、濃い墨のような闇だった。
「どちらでしょう?」
落とした覚えもなかったが、不思議なことに、手に持っていた光る勾玉はどこにもなかった。
とにかく、この茂みから出なくては、状況を把握できるような場所へ行けない。
草についた露であちこち濡れているであろうチェック柄のズボンと茶色の革靴で歩き出すと、虫の音はピタリと息を潜め、風が木々を揺らす音だけになった。
湿ってはいるが静かで穏やかな夜で、地面から浮かび上がっている木の根元を慎重に避けながら、足を踏み込む。
落ちている枝葉を踏み鳴らしつつ、草が絡みついて足がもつれないよう、大きく上げてはそうっと前へ出す。平地が続くとは限らない。一歩先は崖かもしれない。
踏み外さないように慎重に進んでゆくと、突如少女の甲高い声が銃声のようにあたりに響き渡った。
「なぜじゃっ?!」
誰が聞いても、穏やかではなく憤慨していた。貴増参は左足を半歩前に出したまま歩みを止め、あたりをうかがう。
(人の声……?)
女子学生の声ということもあるが、時間帯と口調からすると違う可能性が高いだろう。今姿を表すのは得策ではない。
息をひそめたまま、あたりを見渡すと、左手の下の方から、焚火の残り火のようなオレンジの光がにじんでいるのを見つけた。
(何でしょう?)
さっきよりは少し明るくなったが、暗い茂み道。知らない場所。枝と湿った草を踏み分けながら、石橋を叩くように進んでゆく。
すると、大きく勢いのある炎が眼下に広がった。自分は崖の上に立っていて、数十メートル下に焚き火がある。
人体に有害なガスが出るという研究はもう何十年も前に発表されていて、今もその事実は覆されることはない。条例で禁止されており、火で物を燃やすことはできない。
自分がいつも生活している場所ではない。常識だと思っていることが、通用しない可能性が出てきた。警戒心はさっきよりも自然と高められる。
「なぜ、我が黒なのじゃ!」
また少女の声が響き渡った。
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