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主人は執事をアグレッシブに叱りたい/4

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 デジタル過ぎる主人とは対照的に、起きている物事を順番に記憶していない執事は、こんな見当違いな質問をした。
「メモはテーブルの上だろう? 俺の横に、お前の顔がある……。だから見えないだろう。今、千里眼を使ったとか?」
「いいえ、ただの勘ですよ」
 耳元でくすくす笑われた涼介は、盛大なため息をついた。
「お前また嘘ついて……。お前に勘はないだろう。どうやって知った?」
 涼介のひまわり色の短髪の上に、崇剛の紺色の髪が侵食するように次々と落ちてゆく。
「涼介がメモをテーブルへ置いた時に見ましたよ。依頼主のお名前は、恩田 元。ご住所は、庭崎市神座五丁目四十三番地五号――」
 
 崇剛はいつの間にか、ひなびた細い路地を茶色のロングブーツで歩いていた――。
 
 中心街の中央通りから東へ行った、二つ目の大通り。
 北から三番目の細い横道です。

 不意に吹いてきた強風に目を伏せ、ダンブルウィードが砂埃とともに横へ転がってゆく――。

 そちらは行き止まりの道で、修繕されていない古い建物が立ち並ぶ通り。
 五号は奥から三番目の建物です。

 国立が立った骨董屋の店先で、崇剛は足をふと止め、あごに手をやると、再び涼介を押し倒したままの自室へ意識は戻ってきた――。

 そちらから屋敷への所要時間は、約十五分。
 ですが、こちらは自動車・・・を使っての話です。
 花冠国では富裕層でないと、そちらは所有していません。
 従って、恩田 元は、馬車を使ってくるという可能性が92.34%――
 そうなると、所要時間は変わり、約三十五分――

 同性を体に乗せたままの涼介は、落ち迫る主人の長い髪を顔にまともに喰らいながら、あきれたため息をついた。
「はぁ……知ってるのに、何でこんなことをしてるんだ? 普通に聞いてくればいいだろう?」
「なぜ、私にすぐ伝えなかったのですか?」
 猛吹雪を感じさせるほど、崇剛の声は冷たかった。アグレッシブに懺悔をさせたがるが、今回は次元がいつもと違うのだ。
「昨日の二十時十四分十八秒から、今朝の八時四十五分二十四秒にかけて、合計八回も連絡が来ています。頻度が多すぎます。従って、そちらは、かなり切羽が詰まっているという可能性が98.45%です。今は、九時十二分三十五秒過ぎです。間に合わないという可能性が78.45%です」
 いつもの主人らしくなく、パーセンテージまで口にしてきて、曖昧という名の感覚で生きてきた執事は、ことがどれだけ重大かをはっきりと突きつけられた。
 涼介は真剣なベビーブルーの瞳で、崇剛をまっすぐ見つめて、
「お前が気を失ってたからだ。今回は、一週間以上も目を覚まさなかった。だから、起こしたらいけないと思って――」
 慈愛が過ぎる主人は一瞬にして世界を凍結させるような、非常に冷たい声でさえぎった。
「あなたがこちらの屋敷に来た、二日目に話しましたよ。私がどのような状況であろうとも、依頼は教えてくださいと。今回、気を失ったのは、私の判断ミスです。ですが、過ぎてしまったことを、いつまでも考えていても仕方がありません。できるだけ早く情報を収集し、態勢を立て直す必要があります」
 主人はいつだって、感情的ではなく冷静で、神父であるがゆえに謙虚で、それなのにエレガントに論破してくるのだった。涼介の表情は曇った。
「あぁ……すまなかった。その約束は覚えてる。人の命がかかってるんだよな、お前の仕事って……」
 アグレッシブな――執事を困らせながらの懺悔は、体が重なり合ったまま、まだまだ続いてゆく。
「他に何かありましたか?」
「あと、それから……。メモには書いてなかったことがある」
「えぇ」
 人を酔わせ、惑わせるような崇剛の優雅な声が、涼介の耳元で短く、何度も舞い始める。

 三.涼介から情報を入手する――
 相づちを打つと相手は、情報提供をしてくるという傾向が非常に高くなる。

 主人の吐息が耳にかかって、執事は背筋に悪寒を走らせながら、答えることとなった。
「きょ、今日の十七時までに、何とかして欲しいって言ってた」
「えぇ」
 左膝を絨毯の上に跪くように立てたまま、崇剛は優雅な声を涼介の耳元で乱れ飛ばした。

 馬車の所要時間は、約三十五分。
 自宅へ戻るとは限りません。
 ですが、こちらだけはわかります。
 こちらの屋敷がある丘を降りるには、最低でも十分かかります。
 従って、十七時十分以降に、恩田さんには予定があるみたいです。

 自分の胸に、崇剛の声の振動は伝わってくるわで、思わず体がびくびく反応して、涼介は言葉に突っかかりまくりだった。
「り、理由は何度聞いても、お、お前にしか言いたくないの一点張りで、き、聞いてない」
「そうですか」
 主人は素知らぬふりで、どうとでも取れる相づちを打ち、冷静な頭脳で素早くまとめる。

 心霊的理由であるという可能性が63.52%――
 従って、人の死が関係しているという可能性が87.69%――
 すぐに対処しないといけない。
 そろそろ会話を終了しましょう。

 左足が絨毯についているだけでは、ソファーにうつ伏せで倒れている上半身を起こすには力が足りない。
 涼介の右肘の内側に引っかかるようになっている左腕を、崇剛は気にかけながら、天文学的数字の膨大な今までのデータを、冷静な頭脳に川のように流し、必要なものを取り上げる。

 今の状態から抜け出す準備をしましょうか。
 隣国、紅璃庵。
 そちらの国の古武術――合気。
 テコの原理と心理的駆け引き。
 私は涼介に、左腕を押さえつけられています。
 従って、一旦自分へ腕を引き寄せ、涼介の力が抜けたところで、ねじります。

 崇剛は涼介に抱き寄せられたままの左腕を、自分の体へ素早く引きつけながら、
「そちらのメモに書いてある、『今日の十八時~、つ』は何ですか?」
 執事の気をそらしつつ、主人は脱出を試みる。

 そちらが、恩田さんの予定と関係しているという可能性が89.78%――
 十八時、頭文字の『つ』……先程までの情報と可能性。
 以下の可能性が36.78%で出てくる。
 今日の十八時から、どなたかの通夜がある――

 涼介の腕で押さえつけられていた崇剛の左腕は、執事が力を働かせている方向と同じ方向――計算外の動きをされて、正直な涼介の腕の力はふわっと抜け、
「俺、そんなこと書いたか? どれのことだ? 見ないとわからない」
 置いてあるだけになった執事の腕から抜けるために、主人は左後ろへ自分の腕を一旦ねじり抜いて、
「そうですか」
 自由になった腕をソファーから下ろし、手のひらで絨毯に触れた。
(こちらで、涼介の懺悔は終了です。あとは、依頼主本人からで聞き出します)
 ソファーの下についたままの膝とふたつを軸にして、涼介の上から簡単に起き上がった。
 涼しい顔をして、崇剛は元の位置へ優雅に座り直した。急に体が軽くなって――史上初の密着型BL罠から解放された涼介は、素早く起き上がって、神経質な横顔をにらんだ。
「お前また嘘ついて! 最初から自分で起き上がれただろう」
 散らばった新聞紙は水浸し。ティーカップはかろうじて、テーブルの端で横倒し。無残な巻き込み事件を受けた物たちを、崇剛は元へ戻し始めた。
「嘘ではありませんよ――。今から、私の三十四個前の言葉で、『私は右手を怪我していますし、左腕はあなたに抱き寄せられていて、動かせないのです』と言いました。こちらは事実です」
 新聞紙はシミを内側にして軽く折り畳み、ティーカップはソーサーに乗せた。
「次は『ですから、自分の体を自身で起こせないみたい・・・です』と言いましたからね。従って、嘘はついていません――」
 そう言い張る主人の心の内は、罠を仕掛けた時から、勝つ可能性を密かに上げていたのだった。

 こちらに関しては、これ以上追求できないという可能性が97.65%――

 涼介は悔しそうにひまわり色の短髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。
「お前また、理論武装してきて……。どうして押し倒したんだ?」
 今度は逃してなるのものかと思った。論破できないだろうと、涼介は踏んでいた。
 しかし、崇剛の袖口でロイヤルブルーサファイアのカフスボタンは、春の日差しに優美な煌めきを揺らめかせる。
「押し倒してなどいませんよ。押し倒すというのは、自身の力を使って人や物を押し、倒すことを言います。涼介が倒れるまで、私はあなたに指一本も触れていません。あなたがソファーに倒れたのは、私が体のバランスを崩す前です」
 執事は巻かれそうになって、悪戯が過ぎる主人の横で、まだ落ちている新聞紙を乱暴につかんだ。
「いや、した! そっちから近づいて来て、俺が倒れるようにしただろう。それも押し倒したに入るだろう」
 崇剛は片付けるのをやめ、ソファーの背後にある窓へ神経質な顔をやった。風にあおられて、背もたれにかかっていたカーテンを、怪我をしている右手で後ろへ払いのけた。
「誤解ですよ。私はカーテンがソファーの背もたれへかかったので、そちらを取り除こうとして、あなたへ近づいただけです。涼介の背中で引っ張られてしまうと、レールごと私たちの上へ落ちてくるという可能性がありましたからね」
 主人は嘘は言っていなかったが、誘発という罠が密かに張られていたのだった。
 しかし、感覚的な執事はそのままスルーしようとしたが、
「そうか、ありがとうな」
 主人の正確さは神業のように素晴らしく、涼介は強い違和感を覚えた。
「俺を守るために、ソファーに横向きに倒させた……ん?」
 今日はどんな言葉が執事の口から出てくるのかと期待をしながら、ポーカフェースで優雅に微笑み、崇剛は涼介へ命令を下した。
「それでは、十一時に来ていただけるよう、急いで連絡してください」

 十三.涼介が私に暴言を吐いてくる――
 こちらの可能性が、最初の32.11%から上がり、99.99%――

「カーテンのことは俺に直接言えば済むことだろう! 俺のどこを触った?! この、セクハラ神父――!」
 屋敷中に響くような、執事の少し鼻にかかる声が炸裂すると、崇剛は手の甲を唇に当てて、くすくす笑い出した。
(やはり、そちらの言葉を言ってきましたね。十分楽しませていただきましたから、こうしましょうか)
 舞踏会でダンスが終わったあとに、お姫様の前で跪くように、優雅に微笑んでいつもの言葉を、主人も返した。
「ありがとうございます」
「だから、褒めてない!」
 涼介はソファーから勢いよく立ち上がって、うなるように吐き捨てた。
 絨毯には紅茶のシミ。読みかけの新聞は広げられるものではない。崇剛は惨事をさけるようにすうっと優雅に立ち上がり、書斎机へと歩いてゆく。
「こちらを片付けるように伝えてください」
「わかった。これは、俺がこぼしたんだからな」
 涼介は主人とは離れて、ドアへ向かって手を伸ばした。策略的な主人によってかけられた鍵をはずし、部屋を出て行こうとする。

 その時だった――
 金色の一筋の光が、崇剛の頭上を追い越すように外から飛び込んできて、ひまわり色の髪にすうっと入り込んだ。
 冷静な水色の瞳はついっと細められる。
(直感、天啓……)
 千里眼も霊感も持っていない涼介は、ドアを押そうとしていた手をふと止めた。線の細い主人へ振り返って、純粋なベビーブルーの瞳で冷静な水色のそれを見つめ返した。
「そういえば、呪縛霊の他に、いくつか種類があったよな? お化けって」
 崇剛は優雅に微笑みながら、精巧な頭脳の中でデジタルに変化をもたらした。
(そちらの話が何かと関係するという可能性が出てきた――)
 主人の異変に気づかず、涼介は話を続けている。
「ふ……何だったか?」
「浮遊霊ですか?」
「その違いって、何だ?」
 瑠璃色の貴族服は書斎机に腰で寄り掛かった。
「呪縛霊は、未練や怨念を死後も持ち、ある場所から動けなくなった霊を指します。すなわち、そちらの場所に、縛られているというわけです」
「浮遊霊は?」
 部屋の主人の背後で、春風に揺られた羽ペンが風見鶏のようにくるくると角度を変えた。
「そちらは、成仏する機会を何らかの理由で逃し、地上に浮遊している霊です。従って、どちらへも行き来は自由です」
「そうか。あとは、じば……?」
 次々質問してくるのはいいが、涼介の記憶力はザルに近かった。崇剛は包帯を巻いている手をあごに当てる。
「地縛霊ですか?」
「それだ」
 涼介は人差し指を崇剛に向けた。聖霊師は書斎机の木の滑らかさを、神経質な指先で堪能する。
「地縛霊は、自身が死んだことを受け入れられなかったり、自分自身が死んだことを理解できなかったりして、死亡した時にいた土地や建物などから離れられずに、縛られている霊を指します」
「なるほどな。あともうひとつあったよな?」
 穏やかな春の日差しのもと、恐ろしい単語が次々と部屋の中で舞い上がる。
怨霊おんりょうですか?」
「そうだ」
「怨霊とは自身が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことを指し、こちらは自由に動くことができます」
 罠を成功させるためにわざと下ろしてしまった、紺の髪が風にサラサラと踊った。知らない単語が出てきて、涼介は眉間にシワを寄せる。
「死霊?」
「えぇ」
 崇剛が優雅にうなずくと、鮮やかな黄色の花を咲かせる、カロライナジャスミンの甘い香りが漂ってきた。
 霊界を連想させると、崇剛は思う。いい香りと引き換えに花には毒があり時には人を死へと導くのだから。
「肉体を持っておらず、この世にとどまり、天へ帰らない魂、全てを指します」
「色々種類があるんだな」
 涼介はうんうんと笑顔でうなずいて、部屋から出て行こうとする。理論武装の主人にしてみれば、何の脈略もなく、意味もない会話だった。
 主人ならばまずしないことをしてくる執事。崇剛は理由を知りたがった。
「なぜ、そちらの話を私に、今聞こうと思ったのですか?」
(どのようにして、直感――天啓を受けるのですか?)
 素直な執事は首を傾げながら天井を見ていたが、やがてさわやかに微笑んだ。
「んー、急にそんな気がしたからだ」
「そうですか」
 どうとでもとれる主人の相づちを最後に、執事は部屋から出ていった。パタリと閉まったドアを見つめ、崇剛は髪をゆい直す。
「私には直感――天啓というものはありません。ですから、どのようなものかはきちんと理解できませんが……。涼介が今言った言葉のような感覚なのかもしれませんね」

    *

 ――主人のドアを背にして、歩き出そうとしていた執事はふと足を止め、一人きりの廊下でボソボソとつぶやく。
「崇剛と瑠璃様……。物質界と霊界をつなぐダガーで手を切った……。それって、瑠璃様には他に好きな人がいるってことだろう? 誰だ? 瑠璃様の知ってる相手……」
 涼介は執事である以上、崇剛の行動範囲はよく把握している。守護霊の瑠璃はついてゆくのだから、自ずと範囲は絞られてくるというものだ。
「ラジュ天使……国立……。あとは……俺?」
 疑問という吐息が思わずもれ出た。首を傾げる。
「それは変だ。見えないし、話したこともない。あと、誰かいたか?」
 しばらく、涼介はそこに佇んでいたが、答えにたどり着けなかった。

    *

 ――こぼしてしまったベルガモットの香りが広がる部屋では、崇剛がレースのカーテンを開け、綺麗な青空を仰ぎ見た。
「私は感覚で物事を捉えません。先程の涼介の言葉は、私の考え方に置き換えると、『気になることがあった、気がしたことがあった』です。花冠語としては、少々重複してしまっておかしくなっていますが、事実として感情を交えずに捉えると、こちらのような言い方になってしまいます」
 血のにじむ包帯を水色の瞳に映して思い返す。瑠璃との会話、ダガーの刃を握った時の痛みを。
「直感――天啓がない分、人並みはずれた記憶力と千里眼を、神が私へ与えてくださったのかもしれません」
 魂が切断され、消滅の運命をたどりそうだったのが、今こうして、無事に朝を迎えられ、紅茶をたしなみながら新聞を読める。神父には奇跡としか思えなかった。
「神からのギフト――贈り物です。従って、どのような状況になろうとも、感謝しなければいけません」
 ブラウスの下に隠してあるロザリオを握りしめ、そっと目を閉じた。
 不意に強く吹いてきた風で、
 立ち止まるな、まだ生きている――。
 神にそう言われた気がして、崇剛はまぶたを開けた。やりそびれていた、窓からの光をさえぎるようになってしまった、カーテンを縄状のタッセルでまとめようと、ソファーまで歩き出した。
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