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Spiritual liar/1

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 いつもの癖で、依頼主との約束の時刻よりも三十分早く、崇剛は診察室へ入っていた。
 綺麗に整理整頓された机の上で、一冊の本を開いている。全てを記憶してしまう頭脳の持ち主は、冷静な水色の瞳で文字をただ追ってゆく。

 世界のメシアの歴史――。
 風のメシア。
 二百三十七年前。
 六条 紗奈、気奏きそう師。
 気奏師とは、風のメシアを自由に操ることができる者を指す。

 春の色がついた風が窓から優しく入り込む。包帯の巻かれた神経質な手が、いつもならズボンのポケットに入れられるのだが、傷口が痛むため、崇剛は千里眼を使って、懐中時計の指している時を読む。

「十時四十三分十五秒。今いらっしゃるという可能性は56.43%――。従って、もう少し先まで読みましょうか」

 四月にしては気温が高く、瑠璃色の上着はハンガーで一休み。壁際で時折り入ってくる風に優雅に踊る。
 主人の腰元には今はうまく使うことのできない、聖なるダガーの柄が鋭いシルバー色を放っていた。
 座り心地のいい回転椅子にゆったりと身をまかせ、本の続きを読んでゆく――いや記録してゆく。

 火のメシア。
 トゥーラシア大陸の東に位置する、紅璃庵で代々伝わるメシアであり、他国で持った者はいない。

 変化へんげのメシア。
 二百五十二年前、花冠国。

 崇剛は本から視線をはずし、窓枠の木目や部屋の調度品を眺めた。
「ベルダージュ荘――こちらの屋敷を建てた人物でもある、天都あまつ レオンの妻が持っていたと言われるメシア」
 千里眼のメシアを持つ崇剛は、その当時どんな生活がここで送られ、診療所は何の部屋として使われていたのだろうと、想像する。
 いつ見ても変わらない壁の傷も、窓の小さな歪みも、いつ何が起きて、今の姿になっているのだろうかと、探偵のように推理してみるのだが、決定的な証拠は上がらないのだ。
 謎は謎のまま。迷宮という城へと続く階段は、透明な砂でできているようだった。
 後れ毛を耳にかけて、肘掛で頬杖をつく。
「その他には、水、月、魔導師……様々なものがあるみたいですが、空欄が多いです。従って、人に宿ったことのないメシアが多いみたいです」
 レースのカーテンの隙間から、アケビの丸いピンクの花を、崇剛は物憂げに眺める。
「人と違う能力を持つ――。そちらは、他人から忌み嫌われるものです。私も幼い頃は、瞬のように声に出し、霊とよく話をしたものです。ですが、まわりの人は気味悪がり、嘘つきと言われ、人が自然と離れていきました」
 忘れたいのに、何ひとつ忘れられないまま、鮮明に記憶されている精巧な頭脳。失敗する可能性ばかりが上がり続ける日々だったが、崇剛はかつての庭を三人で過ごしていた優しい時間を思い出した。
「しかしながら、私にはラハイアット夫妻の愛がありました。ですから、傷つくことはあっても救われてきました。同じ想いをされている方が今現在、どちらかにいらっしゃるのでしょうか? 同時期に別のメシアを持っている者が、ふたり以上存在するという可能性はゼロではあり――」
「おや~? 間に合ってしまいましたか~」
 凛とした澄んだ女性的なのに男の声が、不意におどけた感じで割って入ってきた。
「ラジュ天使、遅れるおつもりだったのですか?」
 崇剛の前にある机とその向こうにある窓の間に、物理的法則を無視して、金髪天使が立っていた。
 聖霊師が跪いて天を仰ぐように、天使を真正面から見つめるが、ラジュから返ってくる言葉が無慈悲極まりないものだった。
「えぇ、そのほうが、崇剛が困るかと思いましてね~?」
「悪に魂を売り飛ばされたのですか?」
 負けじと、神父もきつい言葉を送ったが、まったく堪えていない天使はにっこり微笑んだ。
「おや? 崇剛は冷たいですね~。話を終わりにしないと、先へ進みませんよ~?」
「仕方ありませんね」
 天使と神父のお遊びはここまでで、崇剛は姿勢を正して、聖なる存在に頭を下げた。
「ラジュ天使、降臨してくださって、ありがとうございます」
 昼夜逆転している聖女のピンチヒッターは、神父にこんな言葉をプレゼントした。

「今日は呪詛じゅそで、崇剛には天に召されていただこうと思いましてね?」

 旧聖堂で放置された日が脳裏に鮮やかに蘇ったが、崇剛は冷静な水色の瞳を鋭く光らせた。
「なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか?」
 どんな残虐な言葉でも、ニコニコと微笑みながら平然を言ってくる天使。いつも遊びなのか本気なのわかりづらいが、崇剛はラジュのデータを使ってたどり着いていた。

(今まで、そのようなことを、ラジュ天使はおっしゃらなかった。おかしい――)

 ふたりの居場所はいきなり神聖なる聖堂へと変わった――。
 ステンドグラスを背景にして、ラジュには後光が差していた。崇剛は床に両膝を落とし、祈るように見上げる。
 凛とした澄んだ女性的でありながら男性の声で、天使は珍しく真面目な顔で話し出した。

「聖なるダガーで己自身を傷つける……。メシア保有のあなたには、そちらのような行いは赦されません。大きな力を持つということは、多くの人を救える可能性があなたにはあります。怪我をしている間に、ダガーの使用が必要となった時、どのように対処するつもりだったのかは知りませんが、人並外れた冷静な頭脳を持つあなただからこそ、神はメシアをあなたに授けたのだと思いますよ」

 金色の光が妖精のように飛び回り、あちこちにリボンをかけてゆく。何もかもを浄化し、祝福するように。
「従って、冷静な判断を欠くような考え方は決して赦されません。ですが、これだけは伝えておきます。心で想うことは自由です。私があなたを敵から守ります。ですから、どなたかを想ってもよいのではありませんか?」

 神の御使いである天使に、神父は赦されて、診療室へと意識が戻ってきた――。机の上の羽ペンを指先で弄びながら、崇剛は戸惑い気味にうなずく。
「……そうかもしれませんね」
 悪霊に襲われた夜の出来事を、脳裏の浅い部分でなぞり始める。

 漆黒の長い髪を持つ少女。
 今目の前にいるラジュ天使。
 自身の首を切断した大鎌。
 死装束の女。
 そうして、赤い目をした男――

 崇剛は無意識のうちにあごに手を当てて、思考時のポーズを取った。

 おかしい――。
 事実がひとつ合わないみたいです。

 ラジュには、その心の声は丸聞こえだった。いくら負けたがりでも、人を導く天使である以上、答える必要のないものは言わないだろう。
 どんな情報収集の仕方を試しても、のらりくらりと交わされてしまう。今ある違和感について、崇剛はもう少し事実が出そろうまで待つことに決めた。

 霊界での会話がひと段落すると、窓の外から春風に乗って、中年男の声がやってきた。
「すみません! ここは、ラハイアット先生のお宅ですか?」
「はい?」
 涼介のはつらつとした響きが跳ねると、冷静な水色の瞳は外へ向けられた。家庭菜園の作業をやめて、ちょうど立ち上がった執事の大きな背中があった。
「おや? いらっしゃったみたいです」
 聖霊師は仕事前に、きちんとインデックスをつける。

 四月二十九日、金曜日。十時五十七分十一秒――。

 深く傷つけた手では取り出せない、ズボンのポケットから浮かび上がっている小さな丸いものから手を離した。
 ラジュは姿を一瞬消して、机の中に立っていた場所から他へ移った。
「私の意見が必要な時と崇剛が間違った時だけ指摘しますよ~」
「えぇ、お願いします」

 仕事開始――。崇剛は椅子を反転させ、これから開かれるであろうドアを正面に待ち構えた。
 優雅に足を組んで、紺の長い髪を後ろでエレガントに束ね、中性的な雰囲気の神経質な頬に、後れ毛が艶やかに揺れている崇剛。
 彼の左後ろに、金髪の腰までの髪で、にっこりと微笑んだ天使が聖なる光を放ちながら、机の端に腰でもたれかかっている。幻想的な風景が霊界では広がっていた。
 トントンとドアがノックされ、緊張感が軽く走ると、唯一現実の声を持っている優雅なそれが響き渡った。
「はい?」
 それに応えてドアが開き、ひまわり色の短髪と、汗を拭くためのタオルを首にかけた涼介が顔をのぞかせた。
「崇剛、みえたぞ」
「中へどうぞ」
 依頼人は体格のよい執事に隠れてしまって見えなかった。タンが少し絡まったような、おどおどした中年男の声だけが輪郭を描いた。
「す、すみません。失礼します」
 案内を終えた涼介がドアから離れると、白髪まじりの、人のよさそうな人物が姿を現した。猫背で腰が低そうな風貌だった。
 ヨレが少し目立つスーツを着ていて、ワイシャツは襟元を止めず、ネクタイはしていなかった。
 聖霊師は優雅に椅子から立ち上がり、右手を差し出そうとしたが、怪我をしていることを思い出し、
「崇剛 ラハイアットと申します」
 頭だけを丁寧に下げた。それにつられるように、小脇に抱えていたポーチーを前で持って、依頼主も同じようにした。
「お、恩田 元です」
 優雅に微笑みながらも、冷静な頭脳の中には、五感から次々とデータがデジタル化され、記録されていっていた。
 落ちてきてしまった、紺の髪を神経質な手で背中へと、崇剛は下ろしながら椅子に座り直した。
「そちらへおかけください」
「は、はい……失礼します」
 元は所在なさげに、背もたれのある椅子に座った。聖霊師の観察眼が相手の様子や服装を拾い上げてゆく。

 守護霊のような霊体がひとりついている。
 茶色のジャケット。
 シワがついている、水色のシャツ。
 紺のズボン。
 汚れがほんとどついていない、黒のビジネスシューズ。
 ブランド物の茶緑のポーチ。
 落ち着いていないように見える――

 窓の外から、ヒバリの鳴き声がほがらかに降り注ぐ春の日差しの中で、崇剛は過去の診察でかなり高い確率で起こることを危惧した。
(診療時に嘘をつかれる方がいらっしゃいます。そちらのままでは、正しい診察ができません。ですから、以下の質問を投げかけて、情報をいただきましょう)
 神経質な手を腰元で軽く組んで、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声で聞いた。
「こちらまでは何でいらっしゃったのですか?」
「えっ!?」
 元は持っていたポーチを思わず落としそうになり、慌てて両手でつかんだ。
「あ、あぁ……歩いてきました」
「そうですか。ご足労いただいて、誠にありがとうございます」
 相手をねぎらいながら、崇剛は心の中で瞳をついっと細めた。

 おかしい――
 
 白いブラウスの下で、銀のロザリオが真実の扉を開くすぐ近くで、ハンガーにかけられた瑠璃色の上着が春風にそっと揺れる。

 今日は四月にしては、気温が高い。
 椅子に座っている私でさえ、上着を着ていません。
 こちらの屋敷へは坂道を登らないと、来ることはできません。

 背後に広がる、中心街を一望できる景色を、崇剛は鮮明に脳裏に映し出しながら、依頼主の額をうかがい見た。

 ですが、恩田 元は上着を着ている。
 汗をかいているようには見えない。

 部屋へ入ってきた時の、元の歩幅の狭い歩き方が、崇剛の記憶の中で何度も再生される。

 靴は汚れていません。
 ですから、馬車と答える可能性が一番高かったのです。
 しかしながら、歩きと応えました。
 そうなると、こちらの可能性が98.97%で出てきます。

 別の方法を使って、こちらまで来た――。
 
 同時に、何か重要なことを隠している――という可能性も出てきます。

 以上の可能性は、以下のことからさらに上がります。
 なぜなら、もうひとつおかしいところがあるのです。
 恩田 元の住まいがあるところは、富裕層の居住区ではありません。
 どちらかというと、貧困層の居住地です。
 ですが、ブランド物のバッグを持っています。

 そうなると、こちらへ何で来たのかの可能性が、もうひとつ出てきます。
 自動車です――。
 こちらの可能性が76.28%――。

 従って、恩田 元は、何らかの理由で富裕層であるという可能性も出てきます。
 そちらを隠す理由があるのかもしれませんね。

 これらから判断して――、
 こちらの方には、嘘をつくという傾向がある。

 事実を聞き出すための時間が非常にかかり、非合理的です。
 従って、普段は使いませんが、千里眼を使って、心を読み取らせていただきます。

 ここまでの思考時間、約一秒――。メシアのチャンネルを開き、体の外側から聞こえてくる、風の音、鳥の鳴き声たちとは別次元で、脳裏に様々な音や場面が砂が落ちてゆくように、ザーッとなだれ込んできた。
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