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17歳の誕生日

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 ――――その日は、彼女の17歳の誕生日。7月7日、木曜日だった。

 闇と静寂の渦の中にいた。透明な膜で覆われたようなかすかな音が遠くで聞こえる。沈んでいた海の底から体が浮かび上がるように、意識がすうっと戻ってきた。

 ……ピピピッ!
 ピピピッ!
 ピピピ……。

 急かすような電子音。聞き慣れた響き。真っ暗な視界のまま輪郭を持ち始める、五感が。

(……んー?)

 瞳はまだまぶたの裏で、夏掛けの布団のサラサラという感触の波を、手で腕で感じながら、スーッという衣擦れの音をともなって伸ばしてゆくと、硬く四角いものに触れた。

 ピピピッ!
 ピピピッ!

 未だ鳴り続けているデジタル音を消し去る、パシンと叩くという動きを持って。突然、静かになった空間に、鳥のさえずりがおはようを言ってくる、窓の向こうから。

 閉めているカーテンの隙間から、7月の日差しがジリジリと漂い入り込んでくる。白い布団の上へしっかりとした線を描く、昼には灼熱に変わる太陽のコロナの落とし子は。それが不意にモソモソと動き、少し高めの少女の声が突っ張るような感じで響いた。

「んーーっ!」

 シーツと布団の間から、腕が2本勢いよく出てきた。まだ現れない頭。だが、枕の上には、化学の実験に失敗して、爆発したみたいな髪が乗っていた。その色は淡いチョコレートのようなブラウン。本来なら、肩までの長さで綺麗なストレートなのに、今はクシで逆さにすいたみたいにもつれほつれていた。

「んー……」

 なかなか睡魔から解放されない意識。そうこうしている内に、次の攻撃がやってくる、アラームという攻撃が。通常のテンポよりも早い、モーツァルト アイネ クライネ ナハトムジークが落ち着きなく今度は鳴り始める。

「ん……んー……」

 伸びていた左手が枕元に落ちて探し出す、音の出どころを。シーツの上を探るがそこには何もなく、白の海が広がるだけ。次は枕の下、ボサボサの髪の下に手を入れるが、感触はどこまでも真っ平ら。

(ん? ……ない。
 どこにいったのかな?)

 頭を出して探せばいいものの、両手で手信号するみたいに寝具の上を右往左往し始めた。

(おかしいね。
 いつも左側に……あ、そうか。
 動画見てたら手が疲れて、反対側にしたんだった)

 キュキュと落ち着きのないバイオリンの響きが、勉強机、壁にかけられた制服。スクールバッグに降り積もり続ける。止めるという動作、タッチをしていないがために。

 今度は右手が、さっきと同じように枕とシースの隙間に入り込み、薄い四角いものをつかむ。それが顔を出すと、モーツアルトの音量は一気に上がった。しかしまた、音が布団という防音材に消えて、くぐもったものになった。

 ピュッという瞬足で中に連れていかれたものを、瞳をまぶたからまだ解放していない彼女は、指先で四角いものをタッチするを繰り返しているが、ジャストヒットせず、どこまでも永遠にモーツアルトになりそうだったが、やっと止まった。

 鳥たちの可愛らしいさえずりに、間延びした高めの少女の声が挨拶するようにあくびする。

「ふわぁ~」

 目覚まし時計と手に今握っている携帯電話。睡眠から自分を呼び起こす、二重仕掛けのアイテム。それらを撃破した、いや無事、睡魔から救ってくれたナイトに囲まれたベッド。

 そこで、白雪姫が目を覚ますように、ときめきと夢、乙女の憧れの中でゆっくり掛け布団が避けられるかと思いきや、広い校庭をダッシュするような速さでバサッと上げられた。しかも、中にいた人の上半身も一緒に。

 髪はプールに浮いたみたいに、あちこちに相変わらず広がっていた。起きたばかり、寝ぼけまなこが姿を現すのではなく、くりっとした綺麗なレンズを持つ瞳の色は、柔らかい茶色、クルミ色。だが、どこかとぼけた感がある。しかし、それは目を覚ましたばかりとは、別のことが関係しているようだった。

 意識も視界も瞬時にクリア。起き上がったら即スイッチオン。そんな彼女の名は、神月かづき りょう。いつも元気いっぱいの、高校2年生の少女。今日も朝から、落ち着きという言葉などおのれの辞書にないと言わんばかりに活動するはずだった。本人もそのつもりだった。

 だが、さっき見た夢がそうさせなかった。声のトーンが少し低くなり、珍しく力なくつぶやく。膝にまだかかっている布団の上に、ジリジリという音が立てそうなくらい、焦がしそうにカーテンの隙間から差している夏の朝の陽射しを見つめて。

「また……」

 ひまわり色のパジャマの胸に手を寄せ、噛みしめるみたいに布地を握りしめ、シワを苦しそうに作る。

「あの夢を見たんだ……」

 地質学者で大学教授の父、医学博士の母。そして、姉の4人家族。平凡ではあるが、幸せな日々の中で時折、浮き彫りになる、不安と恐怖。そんな感情が真っ黒なペンキで塗りたくられたように重く心に体にのしかかる。夢のはずなのに、やけにリアルな感覚。

 手でボサボサの髪をなでつけるようにしながら、亮は両足をベッドの端から垂らした。床の冷たさが、足の平に広がる。それが消えてゆく温もりと重なって、あの夢の残像を色濃くする。

(本当に何なんだろう?)

 高校入学と同時に、両親は海外転勤。そのため、姉と2人暮らしの空白の多い家。生活音というものがほとんどしない空間。カーテンという厚手の膜に遮られた夏の帝王、太陽の光は、それでも160cmの亮の背丈を床にはかなげに描く。それをとぼけた瞳にぼんやりと映した。

(小さい頃から何度も見る夢……)

 立ち上がり、振り返る。もぬけの殻みたいなベッドの上に、陽射しという細い光がデコボコの線を引いているのを見下ろした。

(いつも胸が急に苦しくなって……)

 未だに握りしめているパジャマの胸のボタン。その無機質な感触が夢をフラッシュバックさせる。

(伝えたいことがあるのに、伝えられないまま……)

 おしゃべりする鳥たちの影が窓辺で楽しげに揺れる。それなのに、亮の口から出てきたのは、真逆であり、全てを終わらせる言葉だった。

「……死んでく」

 死した時のように力なく服をつかんでいた手を脇へ落とし、7月の日差しが待ち受ける窓へ近づいてゆく。

(だけど、今日のはいつもと違ってた……)

 くりっとしたクルミ色の瞳を勉強机の上へ落とす。そこには、昨晩用意した今日の学習道具が入ったスクールバックが、今は待ちの体制を取っている。

(声が聞こえてきた……)

 あの凛とした優しい声が脳裏によみがえるが、何かを暗示するように、途切れ途切れの言葉はそのままで、鮮明になることはなかった。

 不吉な夢。幼い頃から繰り返し見ている夢。それが今日だけ違う。しかも、死んでゆくもの。悲観的、後ろ向きに自然となるところだが、バカがつくほど超前向きな亮は違った。

 視界の端に卓上カレンダーが入り込むと同時に、突風を吹かせるがごとく、ピューッと近づいて、それを両手で持ち上げた。目をキラキラを輝かせる、さっきまでのダークモードはどこかへうっちゃって。

「今日は7月7日! 17歳の誕生日! 楽しみだなぁ~、ふふ~ん♪」

 さっき見た夢のことなどすっかり忘れ、能天気にはしゃぎ出した。小さな部屋なのに彼女の裸足は急いで走っていって、窓にかけられたカーテンをレースのものごと一気にガバッと開ける。

「うわっ! いい天気だ!」

 慣れた感じで鍵を外し、窓をガラガラと滑らせる。土埃のついたサッシなど気にせず、両ひじを乗せて、いくぶん色あせている、雲ひとつない青空を眺める。

 乱反射する陽光に照らし出された屋根たち。小さい頃とは景色が違っていて、1年とちょっと前から見えるようになったもの。

 姉妹での2人暮らし。両親の心配は当然そこにあり、従兄弟が住む、ここ、きらめき市に引っ越してきた。母の双子の妹がいる街へ。

 目覚ましの効果が無効になるくらい浮かれていたが、階下にいる姉がしっかりと
地に足をつけさせた。

「亮? もう起きないと遅刻するわよ?」

 衝撃的な場面に遭遇したように、髪をザバッと横へ揺らし、大きく後ろへ振り返る。オーバーリアクションが当たり前の妹。彼女はいつもの呼びかけに、いつも以上に、いや町中に響くほど大きく元気な声で返した。

「は~い!」

 ぴしゃんと窓を閉めて、カレンダーを適当に机の上に置いて、超ハッピーで着替え始める。

「ふふ~ん♪ ふふ~ん♪ ふふ~ん♪」

 チェック柄のミニスカート。白のワイシャツにスカートと同じ柄のリボンを首回りに巻きつけていたが、ふと手を止めて、もう一度ベッドへ振り返った。

「本当に何だったんだろう?」

 朝日に黒い霧がどこからかすうっと入り込む。それが渦を巻き、自分にまとわりついて、何もかもを闇に染めようとする。月明かりも星屑もない、自身の輪郭も見えない本当の闇。足元がアリ地獄のように崩れ去るみたいな不安定な気持ちで、亮は考え続けていた。

「…………?」

 しかし、彼女の能天気な頭脳では答えは出てこず、考えるよりも先に行動する、いわゆる先走りの亮の口癖が、自分を取り込みそうな闇を破った。

「わからないな。……まぁ、いいか!」

 机の上に置いてあったスクールバッグを振り回しそうな勢いで取り上げ、

「ごはん、ごはん~♪ お腹すいたぁ」

 落ち着きなさ全開でドアノブを回し、階下へバタバタと彼女の白の靴下は降りていった――――


 ――――手早く顔を洗い、ブラシで髪が痛もうが何だろうが、強引に先走りに整えたストレート髪は背中半分の長さで、リビングの前に立っていた。バケツから水を一気にまくみたいな勢いで、ドアをバッと押し開けると、景気が変わった。

 そこは、神月家のリビングダイニング。タッセルという抱擁をもれずに受けているカーテンたち。彼らの間では、レースのカーテンが寄せては返す白波のような線を描き、プライベートという目隠しをしていた。

 真正面奥ではテレビがニュースを伝えながら、登校の時刻を厳守するための役目も果たしている。その横では、レースのカーテン越しに入ってくる陽射しを浴びながら、今はバカンスを楽しむみたいに休んでいる黄緑色のソファーと薄茶のローテーブル。

 左手前のダイニングテーブルからは、香ばしいおいしい匂いが、亮の食欲を朝からスコールのように強く次々に刺激する。

「ん~っ!」

 人の3大欲求の1つ。食欲。先走り、オーバーリアクション。無駄な動きが多い亮。エネルギーもそれなりに使う。さっきから、グーグーと雷が雲をはうような音がおなかで鳴っている彼女。まるで気高いバラの芳醇な香りでも吸い込むように、大きく息を吸って、臭覚というつまみ食いをした。

 ダイニングテーブに近寄って、バッグを床に慣れた感じで置く。朝食という魅惑を前にして、くりっとした目をキラキラ輝かせながら、椅子を引いて、女子高生の制服はストンと座った。

「お姉ちゃん、おはよう」

 その向こうのキッチンのカウンターで、牛乳の紙パックが斜めに傾けられ、女性らしい曲線を持つピッチャーのクリアな色を、乳白色に染めてゆく。それに添えられた左手には銀のリングが約束という幸せ色で輝いていた。

「亮、おはようっ♪」

 妹に負けず劣らず、ハイテンション。いや、語尾に音符マークがつくほどの声。それはこうとしか言い表しようがない。キャピキャピ。そんな姉の名前は、愛理あいり。亮より4つ年上の大学3年生。

 ガラスのミルクポットを持って、テーブルに近づく愛理の髪は、妹と同じ色だがふんわり癖がある。それをふわふわと揺らしながら、椅子にささっと座った。

「お姉ちゃん、バターは?」

 まだいただきますもしていないのに、食べる気満々の亮。そんな先走りの妹に、しっかり者の姉は、陶器の入れ物にわざと移してあるそれを指差した。

「そこにあるわよ」
「あぁ、ありがとう」

 亮が言うと、今は両親が留守にしている代わりに、妹のことを何かと気にかけている愛理が、冷たいミルクをグラスにそれぞれ注いだ。姉妹2人分。食べる準備が整ったところで、姉がにっこり微笑む。

「さぁ、食べましょう!」
「いっただっきま~す!」

 制服の妹とエレガントな白のワンピースの姉とで朝食が始まった。カチャカチャと食器が鳴る音が、テレビから流れてくるニュースの声に混じり始める。

 亮は幸先よいスタートを切っていた。脇に置かれたバター皿から、これでもかと言うくらいクリーム色の塊を取り出して、温かいトーストの上に乗せる。熱であっという間に溶けてゆくバター。パンという黄金こがね色の生地に染み込む。それで十分である。

 だが、亮にはこれでは足らないのである。さらに、上乗せ上乗せの連続。パンではなく、これはバターといっても過言ではない有様だった。

 その向かい側の席では、ハチミツが波線を描いたパンが、愛理の口へ運ばれていくところだった。しかし、姉は今日が何の日かを思い出し、食べる手を止めた。

「あ、そうそう」

 夢中でバターを塗りたくっている銀のバタースプレッダーが、クリーム色の山を崩しては、パンに近づき落としをリピート中。

 だが、これはいつものことなので、姉は気にせず、今ここにいない他の人の話を始めた。

「今日、6時に正貴まさたかさん、来るって言ってたわよ」

 あまりにも喜ばしいことに、亮の手からスプレッダーは陶器の入れ物に投げ捨てられた。ガチャンという音の斜め上で、彼女の瞳に見る見る幸せが広がってゆく。

「えっ、本当!? 嬉しいなぁ」

 亮の制服の下で、白い靴下がパタパタと揺れ出した。おおよそ、高校2年生の言動ではなく、愛理は額に手を当て、頭痛いみたいな顔をする。

「あなた、だから、毎日、王子さま見逃しちゃうのよ~」

 だが、姉も負けては、というか、やはり姉妹。全然違うところに話を持っていった。王子さまがいるようだ、この近辺にはどうやら。これは期待が持てるところだ。

 しかし、妹の方がはるか上、いや、これは異次元だろう。こんな言葉が返ってきた。

「確かにその季節だね」

 意味不明である。どう考えても、王子さまと無関係。そんな言葉。魔法でも使ったように、王子さまの姿形は見事に消え去ったみたいである。

 というか、ここはきちんと説明しないといけない。亮はみんなにこう言われている。宇宙一の天然ボケと。会話は言葉のキャッチボール。相手がわかるように、きちんとボールを返さなくてはいけない。

 だがしかし、彼女は先走りな上に前向き。大きく振りかぶって、真後ろに豪速球を繰り出す。わざとやっているのではない。亮は一生懸命話しているのだ。ただ、感性がぶっ飛んでいるだけで、誰も話が取れないだけで。

 されども、17年間も一緒に生きてきた姉はきちんとわかっていた。妹がどこへボールを飛ばしたのかを。

「違うわよ~。あなた、王子さまの『さま』だけとって、『サマー』に変えちゃってるわよ」

 亮の思考回路は複雑……いや、怪奇もつけておいた方がいいだろう。キョトンとした顔をした妹。

「え……?」

 その目の前で、今度は姉が暴走し始める。両手を胸の前で、夢見がちに組んで、超ハイテンション、キャピキャピボイスが、テレビのニュースの音を上から水でもかけるようにかき消した。

「美少年、美青年のことよ~! いるでしょ? 亮のまわりにはいっぱい。今、私が高校生したかったわ」

 しっかり者の愛理だったが、イケメンにはめっぽう弱かった。彼女は別名こう呼ばれている。美少年・美青年ゲッター愛理。

「あぁ、そうなんだ。知らなかったなぁ」

 今度はきちんと話が通じていたが、亮は気のない返事をした。フォークとナイフを取り上げ、目玉焼きの黄色のダムを決壊させる。

 愛理はあきれたため息をついて、ミルクを一口飲んだ。両ひじをテーブルの上について、組んだ手の甲にあごを乗せる。

「どうして、あなた、恋愛関係の単語スルーして行っちゃうのかしら~?」

 そう、亮は恋愛鈍感なのだ。高校2年生の女子なのかと疑いたくなるほど、ひどい。彼女の中では恋愛というメルヘン世界は、ドミノ倒し並みに崩壊が続いているのである。いや、存在そのものがないのかもしれない。

 バターで通常の重みの倍には絶対なっているだろう、トーストをジューシーに食べた亮が、こんなことを口にした。

「でも、大丈夫かなぁ? 時間よく、忘れちゃうみたいだから」

 ボケているように思えるが、ここはさっきしていた、元の話になぜかいきなり戻したのである。器用に。姉が王子さまに飛びついて、脱線させる前の話題に。

 愛理はフォークでルッコラの緑をいじりながら、深いため息をついた。

「確かに、時間は忘れるわね」

 姉妹できっちり、元のトロッコに乗って、正貴の会話という線路を進んでゆく。

 ここも、何が起きたかわからないので、少々補足をしよう。亮はどうしようもないほどボケている。だが、神はいるのだ。そんな彼女のために、別の能力を授けてくれた。それは直感。

 ふと思い出したのだ、さっきの会話を。だから、今その話をしている。姉妹としてやってきた愛理にとってはそれが普通。そのため、こんな会話の流れになっている。

 愛理のベビードールピンクの口紅を塗った唇に、ルッコラが入り込み、独特の香りを放ちながら、シャクシャクという食感を与える。それが、幸せの階段を上るステップのように姉は感じて、妹の方に悪戯っぽく身を乗り出した。

「でも、そこがまたいいところなのよ!」

 時間を忘れるところが、いいところとは、これいかほどに。そこには、こんな甘々な理由があった。正貴は愛理のフィアンセなのだ。それに、きちんとした原因があって、彼は時間を忘れてしまうのだ。

 それを踏まえて、愛理は婚約している。たとえ、美少年・美青年ゲッターであろうと、彼女にとって、それは別腹と一緒なのである。

 愛理は少しふざけた感じで、声色を低くして、正貴の口ぶりを真似る。

「亮ちゃんのためなら、がんばって覚えておきますって、言ってたわよ~」

 魔法使いが呪文でも唱えるように、立てた人差し指を顔の横で、軽く前後に振った。制服の白いシャツの前で、バタートーストは立ち止まり、亮は口の端をナプキンで拭う。

「やっぱり優しいね、櫻井さくらいさんは」
「それは私の愛する人ですもの、当然よ~」

 惚気のろけまくり、自信たっぷりの愛理。亮はそんな姉を前にすると、幸せのおすそ分けをされたみたいに、嬉しくなるのだ。

「遅れないように帰ってくるね」

 妹は自分の恋愛感情などわからない。だが、誰かが誰かを愛しているのは、とても素晴らしいことだと、無頓着ながらもわかっていた。

(素敵だな。お姉ちゃんと櫻井さん)

 姉妹2人の神月家を切り盛りしている姉は、頼もしくガッツポーズを見せる。

「腕によりをかけて、料理しちゃうわよ!」
「うんっ、楽しみにしてる!」

 亮も負けないくらい元気にうなずいた。自分の誕生日。姉の婚約。王子さまもいるような高校生活。青春という本のいっ時しか味わえない幸せの中で生きている亮。彼女の制服の前で、ベーコンエッグがナイフとフォークで切り崩されてゆく。

 愛理はフォークを持とうとした手をふと止めた。

(そういえば……)

 姉は妹とは逆に、今の日常が色を失い、砂山が崩れ去るようになくなってしまうような予感を強く覚えた。ニュースを読むアナウンサーの声がまるで別世界のように遠く聞こえる。

(あれって、何だったのかしら?)

 夏の日差しがこぼれ落ちるレースのカーテン。クーラーの風でそよそよと揺れる。そんな輪郭が不安定なもの。無音のもの。それなのに、悲痛な叫び。身に覚えないこと。少しでも油断したら、ぐるぐるとそれらに引きづり込まれ、戻ってこれなくなるような焦燥感と恐怖心。

 いつも元気というか、キャピキャピ、ハイテンションな姉。滅多なことでは、悩むこともなく、持ち前の明るさで進んでゆくタイプ。

 いくら朝ごはんに目がない亮でも、さっきから全然食べていない愛理を心配した。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 だが、彼女の理由は単純明快だった。

(お腹空いてないのかな?)

 色気より、食い気。ビクッと一瞬して、愛理は亮に真正面を向けた。そうして、全然違う話を始める。妹を安心させるために。

「夏休み、どうしようかと思ってね」

 だがしかし、姉の心はやはり別のことにとらわれたままだった。

(思い過ごし……かもしれないわね……)

 亮は口をモゴモゴさせていたが、話すタイミングが遅くなるので、コップに入っていたミルクで無理やり押し流した。

「んぐっ! 櫻井さんと、どこか行くの? 泊まりで旅行とか?」
「そうね……」

 愛理はどこかぼんやりとうなずいて、ピアスの宝石に指先を引っ掛けた。会話は終了している。亮は特に気にした様子もなく、頬張られたバタートースト。そこで、姉のキャピキャピボイスが食卓に舞った。

「亮も一緒に行く?」
「え……?」

 妹はびっくりして、化石並みに固まった。婚約者のいる姉のお泊り旅行。そこに、高校生の妹が一緒に行く。絶対におかしい話。というか、お邪魔意外の何物でもない。

 姉は悪戯っぽく微笑んでいるようだったが、いつも仲良く一緒に過ごしてきた姉妹だ。ちょっとした異変などわかってしまう。亮は不思議そうに愛理を見つめた。

 姉の瞳の奥は、まるで妹が自分の知らないどこかへ行ってしまわないように、必死に引き止めているようだった。

 口火を切る。そんな言葉がある。まさしく今がそう。何かを言ってしまったら、暗い谷底へ真っ逆さまに落ちてゆくように、何かが始まってしまう気がする。だから、何も言いたくない。姉妹の間には、そんな沈黙が続いていた。

「…………」
「…………」

 しかし、妹と姉の心の内はこんな風にすれ違ってゆく。

(どうしたのかな? お姉ちゃん)
(こんなにまともに会話が続くなんて……)
(お腹いっぱいなのかな……?)
(いつも、おかしなこと返してくるのに……)
(美少年のことでも考えてるのかな?)
(今日のあなた、やっぱり変ね)

 どちらともなく、唇が動き出そうとすると、付けっ放しのテレビから、緊急ニュースが飛び込んできた。

「ガスタガ王国のレイト王子が、昨夜行方不明となり……」

 ずいぶんと興奮している様子のアナウンサーの声に引きつけられ、亮と愛理は一斉に顔をテレビへ向けた。

「え……?」

 ぽかんとした妹の前の席で、姉はがばっと立ち上がった。

「美青年が行方不明なんて、大事件よ!」

 写真が画面にパッと現れたが、その国の文化のようで、頭から布地がかけられていて、どれも顔がはっきりと見えるものはなかった。だがしかし、愛理の美青年センサーは精巧だった。隠れていようとも、わかるのである。相手がイケメンであるか、そうでないかが。

 愛理は朝ごはんもほったらかして、さっきのシリアスシーンも亡き者にして、テレビにささっと近づいてゆく。

「世界屈指の石油王国の王子さまが行方不明なんて……。イケメンファンとしては、放っておけないわよ!」

 熱く語っている姉のふわふわの髪の向こうを、亮は眺めながらミルクを飲んでいた。他国の王子さまの行方不明は確かにビックニュースだが、普通の高校生には直接関わる問題でもない。

 だが、亮の持っていたミルクのコップが急に離したことによって、コポッと音を立てた。何かが脳裏のどこか奥深いところで重なった。

「あれ……?」

 それきり、妹は動かなくなり、違和感。いや、虫の知らせのようなものを、神経を研ぎ澄まして、原因を探り続けた。

 緊急ニュースになるくらいの王子だ。どこかで見たのかもしれない。しかし、そういうのではなく、亮は別のところで、会ったことがある気がして仕方がなかった。

 ない頭をしぼって、記憶の引き出しをかたっぱしから開けてゆく。……ない。……ない。……ない。どこにもない――

 それでも探そうと、いや、先走ろうとすると、愛理のあっけらかんとした声が聞こえてきた。

「あら? もうこんな時間? 亮、考えるのもいいけど、時間忘れてるわよ。あなた、遅刻したら、いつも大変な目に遭うでしょう?」

 ただのあうではなく、遭う。そう、災難が待っているのだ。亮のクラスでは、遅刻をすると大変なことが起きるのである。

 ぽかんとした顔を、時計に向けると、クルミ色の瞳に、8時前を指している針が映った。ホームルーム開始時刻は、8時25分。神月家から、学校までは徒歩で10分。女子高生が出かけるには、ギリギリである。

 他のことなら、パッと脱兎だっとのごとく動ける亮。だが、ホームルームに、数学の授業に、出会うあるものが脳裏をチラチラと横切り始めた。すると、彼女の心臓は、カンカンカン! と警告する鐘を力一杯鳴らすようにバクバク言い出した。

「わわわわっ……!?!?」

 持っていたコップもガチャンと落とし、ミルクがテーブルの上に少しだけ飛び散った。そんなことにも気づかないほど、亮はパニックになっていた。

「た、大変だっっっ!?!?」

 もう、こうなったらおしまいなのである。彼女がいつもまともに見られないあの瞳の持ち主が、呪縛という魔法を解かない限り、頭の中は真っ白になり、壊れた機械みたいに右往左往するだけなのだ。

「ご、ごちそうさまっ!!」

 足元に置いたままのバックも忘れて、リビングのドアへ慌てて走り寄り、扉を開けようとするが、手が震えてしまってドアノブが回せない。

「い、急がないと、遅刻しちゃうよっっ!?!?」

 悲鳴、いやもはや、断末魔みたいな焦り声が、いつまで経っても開かないリビングのドアの前で響いた。

 だがしかし、しっかり者の姉がバックを持って、妹の背中から近づいてゆく。そうして、まるで強力な磁石のようにくっついていた、妹の左手をドアノブから引きはがした。

「あなた、逆に回してるのよ。こっちでしょ」

 愛理が回すと、不思議なことにするっとドアは開いた。妹の手にバックを握らせ、リビングから見送る。拘束の魔法から解き放たれた亮は、乱れた呼吸を整えながら、

「……あ、あぁ、ありがとうっ!」

 妹の白い靴下は洗面所へ、バタバタと走ってゆく。その音を聞きながら、愛理は後ろ手で扉を閉めて、テレビの方へ振り返った。

「亮って、別の意味で美青年に弱いわよね~」

 災いを起こす人は、どうやらイケメンのようだ。こうして、少しの不安や波乱を持ちながらも、亮の17歳の誕生日はスタートしたのである。
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