最後の恋は神様とでした

明智 颯茄

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王子の思考回路が好きで

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 床暖房だけで暖かい部屋で、奇跡来きるくは膝に毛布をかけたまま、現実をシャットダウンしていた。開けっぱなしの扉の向こう側で、他の人が作業をしていてもまったく聞こえない自宅。

 ゲーム画面が薄暗くなり、下に落ちてしまったみたいな音が、ヘッドフォンから不意に聞こえた。

「あれ? 光命ひかりのみことさんのキャラ、また好感度アップしなかった」

 コントローラーが残念そうに、ため息まじりに膝の上に落とされる。

「わからないから、とうとう攻略本買っちゃったよ」

 付箋もしおりもしていないページをパラパラとめくって、要領のなさ全開で、今進めている場面を探し出し、

「何何? ここは……三じゃなくて、一か。よし、次に進もう」

 簡易ロードですぐさま、選択肢を選ぶ前へゲームを巻き戻し、今度はキラキラとピンク色の輝きが画面いっぱいに広がって、キャラクターが優雅に微笑み、次のセリフが順調に進み出した。

 背後からどこかニヤニヤしているような声がかかる。

「おう! 案の定、悪戦苦闘してるな」
「あぁ、コウ。どうして、光命さんのキャラは急に態度変えてくるのかな?」

 奇跡来は思う。気のないそぶりだったのに、何ひとつ恋愛モードではなかったのに、スマートに主人公の心の隙間に入り込んでくる、そんなキャラクター、いや男、いや神様だと。

 コウは思う。光命は急には動いていないと。きちんと積み上げてきているのだ。 

「お前も見る目がないな」
「え……?」

 またしおりも何もせずにパタンと閉じてしまった攻略本を見下ろしながら、コウは小さな神として人間を導く。

「お前はどういう時に、態度を変えるんだ?」

 紺の長い髪を持ち、冷静なカーキ色の瞳で画面の中からこっちを見つめている、キャラクターのモデルになった神様に神経を傾けながら、奇跡来は曖昧なことを言う。

「ん~? 好きって言われたからとか?」
「あとは?」
「意見が合った時とか?」
「それから?」
「何となく?」

 最後の回答は極めつけだった。光命に実際に会ったことのあるコウは、ゲームのキャラと本物の違いを見極めながら、

「光命が態度を変える時は、最初の二つは要因にはなるが、直接の理由にはならない。最後は問題外だ!」

 小さな手は奇跡来の頭をぴしゃんと叩いたが、そのまま素通りした。それが起爆剤となることもなく、彼女は呑気に考え続ける。

「他に何かあったっけ?」
「時間の無駄だから、はっきり言ってやる。お前のその考え方とは、まったく違う。だから、お前が今どんなに、ない頭を悩ませても答えにはたどり着けない。光命とお前は、水と油みたいなもんだ」

 最後通告みたいなものを受けたが、奇跡来は表情をぱっと明るくさせた。

「天と地ほどの差がある、のほうがしっくりくるね。神様と人間だからね」

 どこまでも前向きに進む人間の女を前にして、コウは偉そうにふんぞり返った。

「教えてやってもいいぞ。光命の考え方を」
「お願いします! コウ先生」
「よし、よく聞け」

 コントローラーは床にひとまず置かれ、子供のように見える、大人の神から伝授され始めた。

    *

 人間界のような極寒がない、神様の世界にある首都。毎日のように、謁見の間では人々が挨拶に訪れている。広大な敷地のすぐ隣にある、女王陛下の姉妹たちが暮らす大きな屋敷が、様々な木々や花々を従えて佇んでいた。

 レースのカーテン越しに暖かな日差しが、白と黒の市松模様を作るゲームの盤上で柔らかなダンスを踊っている。

 キングやクイーン、ルークなどがチェスというルールの中で、あちこちに散らばっていた。

 そこへ注ぎ込まれる視線はふたつ。冷静な水色と無感情、無動のはしばみ色。ローテーブルのサイドに置かれたふたつのカップからは、紅茶の気品高い香りが立ち上っている。

 光命は細い足を組んだまま前かがみになって、駒を今進ませたばかりだった。どこかの城かと勘違いするような豪華な部屋。

 暖炉からまきのはぜる音が心地よく響き、シャンデリアに日差しが乱反射している。テーブルを挟んだ向こうで、足をきちんとそろえて座っている夕霧命ゆうぎりのみことを、光命の冷静な水色の瞳は優雅な笑みをたたえたまま、隙なくうかがっていた。

 彼の紺色をした髪の奥にある頭脳にはこんなことが浮かぶ。

(夕霧がキャスリングを使ってくる可能性は98.97%)

 チェスの駒の動かし方のひとつとパーセンテージ。軽く曲げた人差し指は、光命の細いあごに当てられ、思考のポーズを取る。

(ですから、私の勝ちであるという可能性が99.99%)

 生まれてすぐに十八歳になった二人は今日で、生きた時間はやっと二ヶ月を迎えた。光命とは対照的に、節々のはっきりした手で、夕霧命のコマが予想した通りに動かされた。冷静な水色の瞳は脇に開いたまま置いてあった、懐中時計の数字盤を見る。

 十五時二十五分十九秒――

 あごに当てられていた手は勝利を祝うように、さっとスマートに解かれて、神経質な指先はルークを動かし、遊線が螺旋を描く芯のある声が、何十畳もある男二人きりの部屋に響いた。

「――チェックメイトです」
「また負けた。一度も勝てない」

 夕霧命は両手で深緑の短髪をかき上げた。誕生日が三日しか変わらない従兄弟同士。お互いの家は城のすぐ隣だが、陛下の家でさえも地球五個分広さ。彼らの家も相当大きい。そういうわけで、瞬間移動でお互いの家をよく訪ねている。

 同じ世代の人間はあまりいない。だからこそ、一緒に過ごす時間が多い、光命と夕霧命は。

 光命の中性的な唇にティーカップがつけられると、紅茶の琥珀色が傾いた。綺麗に並べられてゆく駒を眺めながら、彼はこんなことを言う。

「あなたがキャスリングを使うのは、今ので七十七回目ですからね」
「書くのも大変だ」

 夕霧命のはしばみ色をした瞳の前で、駒が整列させられてゆく。当然の言葉だったが、光命にはおかしな話だった。

「なぜ、書くのですか?」
「どういう意味だ?」

 節々のはっきりした手は駒を並べるのをやめて、無感情、無動のはしばみ色の瞳は従兄弟の顔をじっと見つめた。しかし、氷河期のようなクールさで、光命は言い直してくる。

「質問しているのは私です――」

 聞かれたのに、聞き返してしまったと気づいて、夕霧命は一言「すまない」と謝り、光命の身の内で何が起きているかに、確信が持てないながらも口にした。

「覚えている?」
「えぇ、当然です。平均を出す計算は全てのデータを足し算して、回数で割ると父から教わりましたからね」

 まだ若く、従兄弟同士という間柄。他の誰かに言うことはないが、夕霧命ならば、光命は伝えてもいいと思っていた。

 あっという間に成長してしまった二人に物事を教えてくれるのは、学校ではなく基本的に両親。それは夕霧命も同じで、それを順序立ててゆくと、この質問になった。

「一回目はいつだ?」

 すると、光命の優雅な声で、こんな細かい話が出てくるのだ。

「先月、十一月十六日日曜日、十六時十七分十四秒です」
「二回目は?」
「同日の、十六時二十一分五十九秒です」

 光命のすぐ近くに置いてある懐中時計。いつも持っていたのは気に入っていたからではなく、このためだったのだと今初めて理解した。

「三回目――」

 夕霧命が最後まで言うよりも早く、光命は両膝に頬杖をつき、七十七回分のデータを流暢に話し出した。

「七日後の、十一月二十三日日曜日、十五時四十三分二十五秒。四回目は、同日の……」
「…………」

 聞かされている夕霧命は終始無言で、彼なりの記憶力でたどるが、確かにその日のその時間帯ぐらいに、この部屋でチェスをしていたと、思い出させられるが続いた。

 そうして、二人で過去のゲームを追いかけると言う時間は終わり、今へ戻ってきた。光命は犯人当てでもするように、夕霧命の瞳をじっと見つめたまま、結論を告げた。

「先ほどのゲームで七十八回目で、そのうち六十八回、あなたはキャスリングを使った。ですから、可能性の数値はその他のことを含めて、98.97%となります」

 その他のこと――キャスリングを予測できても、自身の手の内を考えなければ、勝利はやってこない。そうすると、ゲームの全てを覚えている。一手目はどっちがどう打って、それに対してどっちがどう打ったか。ゲームが始まって終わるまで、事細かに覚えている。

 落ち着き――物事を見極める力のある夕霧命は理論的に考えてそこへたどり着き、尋常ではない従兄弟の記憶力に、不思議そうな顔をした。

「お前の頭はどうなっている?」
「どのような意味ですか?」

 光命としては思ってもみなかったことを聞かれて、思わず聞き返した。さっき、夕霧命がしたことを、繰り返してきたのかと思ったが、どうも違うようだった。

 目の前にいる従兄弟の個性を前にして、夕霧命は珍しく彼なりの笑みを浮かべた――目を少しだけ細めた。

「……そうか。お前は他の人間と違って頭がかなりいい」
「普通ではありませんか?」

 光命は知らないのだ。本人は生まれてから覚えているのが当たり前だから。他の人には忘れるという現象が起きると。

 夕霧命はゆっくりと首を横に振るが、表情は微笑みだった。

「いいや、他のやつはそんなふうに全てを覚えていない」

 しかし、冷静な水色の瞳は陰りを見せて、レースのカーテンから降り注ぐ陽光を仰ぎ、落胆したようにうなずいた。

「そうですか。そちらの理由で、私が話すと、父と母は戸惑っていたのかもしれない……」

 忘れたくても忘れられない。過去を振り返る傾向の高い光命。彼とは違って、従兄弟の夕霧命は今は今と割り切って進める性格。だからこそ、森羅万象しんらばんしょうみたいな光命に彼なりのエールを送った。

「それはお前の個性だ。だから、気にすることはない」
「気遣ってくださって、感謝します」

 人生という荒波をまだ知らない光命は、夕霧命へ顔を戻して優雅に微笑んだ。

    *

 その頃、地上のマンションの一室では、奇跡来が真面目な顔をして、コウの講義を聞いていた。空中を小さな足が歩くたび、ぴょんぴょんとコミカルな音がする。

「よし、よく聞け。光命は全ての物事を記憶してる」
「なるほどね」

 今目の前にある物の名前を覚えているとか、ゲームのストーリーを何となく覚えているとか、その程度だと認識している奇跡来に、コウが核心へと迫る。

「お前、よくわかってないな? お前が思っているような覚え方じゃないぞ」
「どういうこと?」

 赤と青のくりっとした瞳は幼いのに、大人の難しい考え方を答えてくる。

「いつどこで誰が何を言って、またはどうしたか、それに対して自分が何と言って答えたか、会話の全てを一字一句、生まれて記憶が定着してから全て記憶してる。読んだ本はページ数、行数、内容まで全部だ」

 細かすぎた。まるでパソコンのメモリである。奇跡来は素っ頓狂な驚き声を上げ、魂だけがぴょんと飛び上がった。

「えぇっ!?!? じゃあ、辞書丸覚えってこと?」
「そんなの当たり前だ!」

 コウは小さな人差し指を勢いよく、とぼけた顔をしている女に突きつけた。

 辞書を読書して、その後はページを開かないなど。空前絶後の出来事で、奇跡来の魂だけはぴょんと一メートルほどまた飛び上がった。

「えぇっ!?!?」

 単純明快な人間の女を前にして、コウはダメ出しをする。

「だから、お前には完全に再現することは無理だ。あれは、ノーベル賞を取る学者よりも上の頭脳だ」
「さすが神様だ~! いや、素晴らしい人――じゃなくて、神様だ」

 ゲームのパッケージを見つめる。知的なイメージを作り出すメガネの向こうに潜む、カーキ色の冷静な瞳。紺の長い髪が中性的な雰囲気を醸し出す、青の王子という名がふさわしい男性神。

 彼への尊敬は、奇跡来の中で大きく急成長した。目をキラキラ輝かせている近くで、コウは的確な指導をする。

「とりあえずできるだけ、覚えておくことだな。いつ誰と何を話して、自分がそれに何て答えたかぐらいはな。それが一歩近づく方法だ」
「よし、まずはそこからチャレンジだ!」

 必要以上のやる気を出して、奇跡来は両腕を力強くかかげた。

    *

 今まで適当に聞き流してきた物事を、以前よりは集中して挑むようになった、奇跡来はほんの少しだけ覚えていることが多くなった。

 それでも、彼女の三十年間使い続けた思考回路、いわば習慣はそうそう治るものでもなかったが、あきらめることなく――いやバカみたいなやる気で、衝突猛進の如く進んでいた。

 しかし、光命のキャラクターを完全攻略とまでいかない奇跡来と、ゲーム画面の間に突如コウが湧いて出た。

「うんうん、はかどってるみたいじゃないか」
「少しはできるようになったよ」

 宝物でももらったようにとびきりの笑顔を見せた先走り女に、コウは言葉をかける。

「よし、次は事実と可能性の話だ」
「え? 何それ?」

 ゲーム世界という非現実に浸り切っていた奇跡来が、提示された言葉の意味を理解できないまま、スパルタ式に話は進んでゆく。

「何って、光命の考え方を学びたいんだろう?」
「そうだけど……」

 水と油。天と地ほどの差。それはたったひとつのことをクリアしただけでは、交わることも届くこともできないと、奇跡来はわかっていなかった。

 コウはいきなり瞬間移動で書斎机の上に立ち、四角い画面をパンパンと叩いた。

「ただ覚えてるだけじゃ、パソコンと一緒だ。人としての面白みがまったくないだろう?」

 ぐるぐると霧が渦を巻くような頭で、奇跡来はとりあえずうなずいた。

「あぁ、そうだね。確かにそうだ」
「覚えてる出来事から、可能性を導き出すんだ」
「可能性?」

 何となく――という感覚で生きてきてしまった彼女の中には、まったくなかった単語で、そのまま繰り返した。

「そうだ。問題をひとつ出してやる」

 コウがそう言うと、鬼気迫るようなジャジャン! というクイズ番組で出題される時のようなBGMが不思議なことに鳴った。

「お願いします」
「覚えるを忘れるなよ。朝の天気予報の話だ」
「オッケー!」

 ノリノリで答えた奇跡来に、コウは一番簡単な例題を出した。

「朝の天気予報で、雨の降水確率がゼロパーセント。夕方まで出かける用事がある。傘を持っていくか? 説明して答えろ」
「ん~? ゼロじゃ降らないから、持っていかない」

 覚えろと言われたのに、習慣という思考回路で、奇跡来は問題の本来の意味をもう忘れてしまっていた。

「それは可能性じゃない! ただの決めつけだ」

 コウがぴしゃんと頭を叩くが、相変わらず次元の違う彼女には痛みも衝撃もない。

「え……? どういうこと?」

 今のままでは、光命が見えるようになったとしても、会話さえ成立しないだろうと、コウは思い、神様として厳しい優しさを示した。

「お前、国語の勉強をし直せ。読解力がまるでない。こんな簡単な言葉を聞き返してくるのが何よりの証拠だ」
「わかった――」

 素直にうなずいたつもりの奇跡来に、コウの容赦ない指導の鞭が放たれた。

「その言葉は可能性なのか?」
「え……?」

 間の抜けた顔をして、奇跡来はまぶたを激しくパチパチ瞬かせた。未来が見えない人間のはずなのに。

    *

 黒塗りのリムジンは大きな門を抜け、陛下がいらっしゃる城の前の大通りを、滑るように走り抜けてゆく。

 ここ神界では重力はもうすでに克服されていて、浮いたまま移動する車中に、光命の姿があった。

 クリーム色のリアシートに身を沈め、細い足を優雅に組み、窓から通り過ぎてゆく景色を眺める。その瞳は冷静な水色。

 紺の長い髪を細い指先で、耳にかけながら、彼の頭脳は活動し続けている。

 ――朝の天気予報では、雨の降水確率はゼロパーセントでした。私は傘を持って行きます。
 なぜ、こちらの選択にしたかの明確な理由が必要です。そちらが、理論で物事を考えることになります。
 雨に濡れたくないのであれば、そちらを避ける方法を探さなくてはいけません。
 朝の天気予報から読み取れる事実は以下の通りです。
 天気予報ははずれる可能性がある。
 雨の降水確率がゼロパーセントは、事実ではない。あくまでも、予測です。
 従って、雨が降る可能性はゼロパーセントではありません。
 予報がはずれ、雨が降ってきてからでは対応が間に合わないかもしれません。傘を買うという選択肢が出てきますが、売り切れという可能性も同時に出てきます。
 ですから、自宅を出る時に傘は持ってゆくのです。
 こちらは雨に濡れる話ですが、現実ではどのようなことでも、大きな物事につながっていないとは言い切れません。ですから、細心の注意を払うべきです。
 つまり、成功する可能性が高いものを選び続けなければいけません――

 重力が十五分の一では、ブレーキをかけた衝撃をほとんど体に感じることはなかったが、運転手の声がふとかけられた。

「――ぼっちゃま、デーパートへ到着いたしました」
「ありがとうございます」

 光命が優雅に言うと、運転手は急いで車から降りてドアを開け、中心街の歩道に黒い細身のロングブーツが下された。

 すると、あたりを歩いていた人々が老若男女関係なく、紺の長い髪を揺らす、中性的な男に一斉に視線を集中させた。

 光命にしてみれば、生まれた時から、こんなことが当たり前に起きていて、彼はそれよりも空が気になり仰ぎ見た。

 銀色の線を引きながら、青い空を飛行船に似た乗り物が通り過ぎてゆく。それに照らし合わせるように、鈴色の懐中時計が並べられる。

(B宇宙へ行く宇宙船がこちらを通るのは、十五時八分十二秒。いつも通り)

 風に吹かれる紺の髪を、神経質な手で抑えながら、冷静な水色の瞳は反対――小さな従兄弟たちが通う小学校がある方向を見つめた。

(こちらは時刻通りとは限りません。可能性は89.27%。姫ノかんから陛下の屋敷へ、皇子おうじと姫たちを送る龍が飛んでくるまで、あと三、二、一……来ました)

 秒針が三の数字を過ぎると、金色に光る大きな龍が小さな影を大勢乗せて、城へと向かってゆく。

(平均の時刻――十五時八分十五秒であるという可能性は89.27%から上がり、91.77%)

 まるで芸術のような時刻の一致。光命は懐中時計のふたを閉じて、ポケットに忍ばせた。

(事実から導き出す可能性。私は成功する可能性が82.00%を越した時に、言動を起こします)

 彼をモデルにした、恋愛シミュレーションのキャラクターは、相手を好きになったほうがいいという可能性が八十二パーセントまでに上がらないと、他の人がわかるように動かないだけで、光命の中では最初からデジタルに記録されているのだった。

 デーパートの大きなガラス扉へ向かって、カツカツとエレガントにブーツのかかとを鳴らしてゆく。

「いらっしゃいませ」

 ドアマンが丁寧に頭を下げる、それさえも、光命にとってはいつものことで、彼は優雅に微笑み、中へと入っていった。

    *

 今日もコウから問題を出題されては、可能性で測れない奇跡来は、珍しく難しい顔をして、眉間にシワを寄せていた。

「いいか? だから、何か言われて、『わかった』と答えたら、まだ起きてない未来の出来事――未確定なのに確定してしまうってことだ。叶えられなかった時、お前は人に嘘をついたことになる。大したことがないと思ってても、相手はそうは思ってないこともある。そうなると、お前は嘘をつく人間だと思われて、知らず知らずのうちに人は離れてゆくぞ」
「直さないとだね」

 三十年間の人生を振り返って、立ち去っていった人々の中にいたのではないかと思うと、奇跡来は深いため息がもれてしまうのだった。

 神世のようにうまくいかない現実。コウは真剣な眼差しを、人間の女に送る。

「そうだ。お前のためにも理論は大切だ。決めつけるんじゃなくて、可能性を持ち続けるだ」
「よし、やってみよう!」

 七転び八起き。超前向き女は両手でガッツポーズを取った。しかし、コウからピシャリと有無を言わせないように、

「まだ話は終わってない! 先走り!」
「おっとっと!」

 慌てて両腕を下へ落とすが、奇跡来の腰は浮き足立ったままだった。そうして、光命と彼女が水と油とたとえられた、最大の理由が掲示される。

「感情を交えないで物事を判断するから、光命が気まぐれ・・・・とか、勘だ・・とか言ってきた時は、それは何かの罠だぞ。気をつけろ」

 彼は神であって、肉体の欲望にさらされた人間ではない。だからこそ、平然と感情をデジタルに切り捨てられる強さがあるのだった。

「うん、わかった――」

 いつもの癖で言ってしまった。何度言っても、屈託のない笑みで間違ってくる奇跡来の頭を、コウはぴしゃんと殴った。

「だから!」

 ハッとして、彼女は覚えたての理論をひとつ、ゆっくりとやってみた。

「あ、あぁ! 言い直しで、ここは相づちだけだから、『そうか』」
「よし!」

 コウはしっかりとうなずいて、クルクルっと竜巻を起こすように回転した。

    *
 
 奇跡来は外出するたび、知らないうちに月日が過ぎていることに驚くが、すぐに頭の中で、青の王子がしているであろう理論武装を追いかけるを繰り返していた。

「面白いなぁ~。この考え方。コウに教えてもらってよかった。もっとできるようになりたい!」

 冬は夏へと変わり、床暖房はエアコンの冷たい風へと移ろった。奇跡来はゲーム画面の中に映る、紺の長い髪とカーキ色の冷静な瞳を持つ、恋のお相手を見つめる。

「ん~、これの可能性とあれの可能性があるから……そっちもあるなぁ~。ん~? ということは、この可能性が一番高いのかな? すると、光命のモデルのキャラは、三番を選ぶ!」

 コントローラーをいつも通り、力一杯押し込むと、ピンクのハートが画面いっぱいに広がり、キャラクターが優雅に微笑んだ。奇跡来は思わず立ち上がって、ジャンプし始めた。

「よっしゃ! やった~! 当たるようになってきた! いいぞいいぞ! さらに、次だ……」

 ストンと床へ座ると、ミニスカートがふわっと風圧で持ち上がった。それが何かの境界線を壊したかのように、彼女の頬に触れた風が脳裏で革命を起こす。

 124、758……。

「な、何? これ。風が吹いただけで、頭の中に数字が流れてく」

 数学や家計簿でもつけているのなら別の話だが、感覚が数字に変換されてゆく。ゲームを一時停止してパソコンを開き、音楽再生メディアを再生すると、奇跡来は思わず大声を上げた。

「うわっ! 神威かむいの効いた曲を聞いたら、頭の中に数字が氾濫してる!」

 18093827265489181084726128470987667……。

 右から、

 85746725163901837746351619497586720……。

 左から、

 84978367155644100987652413098775868……。

 縦方向へ、脳の中が全て数字で管理され始めた。文字がどこにもない。感覚がどこにもない。経験したことがなくて、奇跡来は音楽も一時停止にした。

「ど、どうなって?」

 頭の中の数字嵐はとりあえず止まったが、飲みかけのカップへ手を伸ばそうとして、手を止めた。

「っ! カップと自分の距離が数字で、霊視できるようになってる!」
「――お前に質問だ。どこか変わったところはないか?」

 コウの声が聞こえてきた。今まさに起こっていると思って、奇跡来は片手をパッと素早く上げた。

「あるある!」

 取り乱している人間の女とは対照的に、コウは落ち着き払っている。

「どうなった?」
「全てが数字になった。昨日まで感覚だったのに……」

 困惑している彼女の前で、コウは両腕を組んで、ふんぞり返りながら、右へ左へ行ったりきたりする。

「そうだろう、そうだろう。光命とは少し違うが、数字に強い魂を入れたからな。今日からお前の名前は、澄藍すらんだ」

 二度目の魂変更――

 初めてならば驚くに値するが、理論の第一条件を覚えた、奇跡来はうんうんと何度もうなずく。

「澄藍さん。自分にさん・・はおかしいか。魂が入れ替わると、こんなに違うんだ」

 彼女は目をキラキラ輝かせながら、まわりにあるものを見回す。鉛筆たての距離が独自の数字で計算される。静止しているゲーム画面の色がそれぞれの数字で表される。

 コウの前で、横顔を見せている澄藍に、一言忠告が入った。

「今回は肉体のお前に合ってないやつを入れたからな。違いがよくわかるんだろう。理論を学ぶためにしてやったことだぞ」
「あぁ、ありがとう」
「光命と基本的に同じだ。感情は抜きにして、事実から可能性を導き出して、言動を起こす」
「そうか」

 さっきまであんなにバタバタと動き回っていたのに、静かに椅子に座って、リアクションもほとんどない澄藍。

「もう違ってる。今日までのお前は、やる気という何の理論もない感情で突っ走っていたのに、お礼だけ言うようになった。事実を事実としてただ捉えてる証拠だ」
「そんなところまで、影響が出てた?」
「今までの好きな食べ物は何だった?」
「フライドポテト、ステーキ、フライドチキン」

 ジャンクフードのオンパレード。

「だろう? これからは和食になるぞ」
「そう」

 澄藍の返事は合理主義者らしく、とても短いものへと変わっていた。

「じゃあ、よろしくやれよ」

 コウは霧のように消え去っていこうとする。澄藍は彼女にしては珍しく声を大きくして、

「待って! 前に話してたよね? 奇跡来さんって、あの世で結婚してる人がいるって。澄藍もいるの?」
「いるぞ」
「そう」

 澄藍はふと振り返った。開けっぱなしにしている扉の向こうで、パソコンをいじっている人の気配を感じながら、

「じゃあ、いつか大人の神様が見えるようになったら、その旦那さんに会わせてもらおう」

 この女は頭がいいと、コウは思って珍しく微笑んだ。

「お前は嘘をつくのが上手だな」
「そうかもね」

 コウが立っている方向とは反対――物質界での配偶者がいるほうを向いたまま、澄藍は不確定の返事を声に出した。

    *

 寝ても起きても、澄藍は青の王子のことばかり。

(光命の世界はとても綺麗だ。数字で全て成り立ってて、曖昧なもの不透明なものがなくて美しい)

 絵ではなくて、実写化したら、この王子はどんな血色で、どんな肌の質感で、どんな声色で、話しかけてくるのかを、澄藍は想像する。

(実際はどんな人なんだろう? 貴族的な雰囲気で、優雅な王子様みたいだ、キャラクターのイラストは。こう、一緒に舞踏会でダンスを踊って、いつまでも微笑んでいて……。白馬に乗った王子様……)

 乗馬というハイソな趣味を持ち合わせている神が、デパートへ行くために使っている乗り物は、黒塗りのリムジン。

 そんな神世をのぞくことはできないが、澄藍は背後にいる気配を感じる。フリーターから一気に会社役員へと職を変えた配偶者。子供のいない自分たちでは余るほどの収入を得るようになった。

 それでも、幸せと言えるかどうかは疑問だったが、彼女はどこまでも誠実でいようと思っていた。

(光命はただの憧れだね。芸能人を好きでいるみたいな感覚。でも、思考回路が美しいのは真実だ)

 配偶者が眠りについたのを、寝室のドアがパタンとしまったことで確認して、澄藍は誰にも、神にさえも聞こえないようにつぶやく。

「だって……。恋愛対象にしてはいけない存在だから。神様とか人間とかそういうことじゃなくて……」

 日付が変わっても、青の王子と過ごす時間は終わらず、舞踏会でダンスを踊るような気分で、ふわりふわりと毎日が過ぎてゆく。

    *

 数日後。冷蔵庫を開けたまま、澄藍は首を傾げた。

「本当だ。油物を見るだけで気持ち悪い。あんなに好きだったのに、こんなに変わるんだ。焼き魚とか和菓子じゃないと食べられないや……」

 着替えようとすると、コウがカウンターキッチンにふと現れた。

「どうだ?」
「座ってるだけで、頭がクラクラするんだよね。どうしたのかな?」

 船に乗っているみたいになって、日常生活がまともに送れないくらいになっていた。コウは理由をもう一度説明する。

「それは、肉体と魂が合ってないからだ。どんな感じだ?」
「自分の内側から、二つの声が聞こえてくる」
「何て言ってる?」
「出ていきたい、と、出ていけ」
「完全に、魂と肉体がお互いを主張し合ってるな」
「でも、しょうがないね」

 聞き分けのいい澄藍はクローゼットを開けて、外出着に着替え始める。コウは薄暗い部屋の中で、神々しい光を発していた。

「そうだ。肉体を入れ替えるのは、神様がしてることだからな。人間のお前に選択権はないぞ」
「そうだね。よし、これはこれで事実。起きてしまったことは変わらないから、受け止めるだけ。とにかく、好きな食べ物を買ってこよう」

 澄藍は着替えを終えてバッグを肩からかけ、玄関へ向かってゆく。見事なまでに感情を抜きにして、理論的に生き出した。
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