3 / 31
死臭の睡魔/3
しおりを挟む
仕事帰りのサラリーマンやOLでいっぱいの店内。食器のぶつかる音が入り混じり、金曜日のにぎやかさが広がっていた。
フライドポテトにマヨネーズをつけながら、知礼が話を切り出した。
「どうしたんですか? 急に呼び出すなんて……」
さっきまでの元気は消え去って、颯茄は割り箸をテーブルへそっと置く。
「あぁ、ちょっと胸騒ぎがして……」
人がたくさんいるはずなのに、照明は十分なはずなのに。まわりの音がやけに遠くに聞こえ、薄暗く感じた。
十年近く、先輩後輩でやってきたふたり。暗号みたいな話が飛び交う。
「いつものあれですか?」
「そうだね、たぶんそう」
颯茄はおしぼりを落ち着きなく、何度かつまんだ。割り箸の紙袋を手に取って、適当に折り曲げる。
「今日ね、バイト先のお世話になってた先輩が仕事中に倒れたんだよね」
カシスソーダのグラスをつかもうとしていた小さな手を、知礼は不意に止めて、本当に心配そうな面持ちになった。
「それは大変です。何が原因なんでしょう?」
「それは、聞けなかったんだけど……」
ビールジョッキについた結露を、颯茄は指で拭う。言葉が出てこない先輩を、知礼はじっと見つめた。
「他に気になることがあるんですか?」
「先輩、その直前にすごく眠いって言ってたんだよね」
「寝不足とかじゃないんですね? 先輩がわざわざ話すってことは……」
「うん。本人が違うって言ってたから……。でもそれって、あまり考えたくないけど……」
この国の人間なら誰でも知っている症状。にぎやかな店内とは逆に、重苦しく、ふたりの声が重なった。
「――眠り病……」
トンと割り箸をそろえると、知礼は今度は唐揚げにマヨネーズをつけ出した。
「かもしれないですね」
「やっぱりそう思うか……」
すっかり泡の消えたビールが、颯茄の喉元に苦味ばかりを残していった。動かしていた手を止めた知礼の、黄色の瞳は深刻だった。
「現代の不治の病。ある日、睡魔に取り憑かれるように眠り続け、食事をすることもしなくなり、点滴で補給し続けても間に合わなくなり、やがて死ぬ……」
「原因も治療方法も開発が進んでない病気……」
颯茄があとを引き取った。かかったら最期。死する運命しかない。ネギを取り上げ、知礼は口の中に入れた。
「先輩の両親はそれで亡くなったんですよね?」
「十年前にね。最後は会うこともできなかったけど……」
十代半ばで、肉親を失う。悲しみの淵に立たされて、あのステンドグラスが美しい聖堂を訪れては、神の畏敬の中で心を鎮めて、前に進むを繰り返してきた日々。
記憶の端っこで、颯茄は引っかかった。今日見たものと同じものに、過去に出くわしたことを。
「そう言えば、あの時も……」
「何か思い出したんですか?」
音と光が正常に戻った気がした。颯茄は唐揚げに手を伸ばす。
「もしかしたら、原因が他にあるのかもしれない」
「思い当たることでもあるんですか?」
マヨネーズをこれでもかというほど塗りたくり、唐揚げを頬張り、颯茄はまろやかという幸せで思わず目を閉じた。すぐに瞳を開けて、表情を曇らせる。
「黒い霧を見たんだよね」
「あぁ、先輩のいつもの霊感ですか?」
「そう」
颯茄の日常は、スピリチュアル満載なのである。例えばこんな風に。
バイト先のオフィスがある、ひとつ前の交差点にいつも三十代の男が立っている。時間帯は関係ない。ずっとそこにいる。
他の通行人は気づかないどころか、すり抜けてゆく。それを見ても、彼女は気にすることなく、あれは地縛霊。と判別するくらいなのだった。
わさびをちょこんとマグロに乗せて、知礼は割り箸で挟む。
「幽霊じゃなくて、正体不明な方ですね?」
オフィスでいつも元気なあの女を、まるで飲み込んでしまうかのような黒の渦。
「うん。先輩、その霧で真っ黒だった」
「そうですか。何なんでしょうね? それは」
「ん~?」
聞かれても答えが出ない。人の姿をしていない。本当の霧で、形は自由自在に変わり、大きさもまちまち。おもむろに割り箸を握りしめて、颯茄は頬杖をつく。
ダボダボのニットの袖が食べ物につかないように気をつけながら、カシスソーダのストローを、知礼はつかんだ。
「先輩の近くにくると、消えるんでしたよね?」
不思議現象、怪奇現象が起きているが、いつものことだ。あごに割り箸の端を当てて、颯茄は舟を漕ぐように、体を前後させる。
「んー、それがね、最近ちょっと変わったんだよね」
「どう変わったんですか?」
さっきは違うが、時々こうなる。
「黒い霧が金の光に包まれるっていうか、打ち消されるっていうか……」
「金の光ですか?」
「そう。どうなってるのかな?」
幽霊を通り越して、魔法使いみたいな颯茄の話。知礼はつくねの串を指先でつまんだ。
「先輩、相変わらず日常がファンタジーですね」
「紛れもなく現実的ではないね。知礼と違って」
皮肉でも何でもなく、本当のことだ。颯茄も同じつくねを取り、串から引き抜こうとして、大声を上げ、
「あっ! 現実って言えば……」
フライドポテトにマヨネーズをつけながら、知礼が話を切り出した。
「どうしたんですか? 急に呼び出すなんて……」
さっきまでの元気は消え去って、颯茄は割り箸をテーブルへそっと置く。
「あぁ、ちょっと胸騒ぎがして……」
人がたくさんいるはずなのに、照明は十分なはずなのに。まわりの音がやけに遠くに聞こえ、薄暗く感じた。
十年近く、先輩後輩でやってきたふたり。暗号みたいな話が飛び交う。
「いつものあれですか?」
「そうだね、たぶんそう」
颯茄はおしぼりを落ち着きなく、何度かつまんだ。割り箸の紙袋を手に取って、適当に折り曲げる。
「今日ね、バイト先のお世話になってた先輩が仕事中に倒れたんだよね」
カシスソーダのグラスをつかもうとしていた小さな手を、知礼は不意に止めて、本当に心配そうな面持ちになった。
「それは大変です。何が原因なんでしょう?」
「それは、聞けなかったんだけど……」
ビールジョッキについた結露を、颯茄は指で拭う。言葉が出てこない先輩を、知礼はじっと見つめた。
「他に気になることがあるんですか?」
「先輩、その直前にすごく眠いって言ってたんだよね」
「寝不足とかじゃないんですね? 先輩がわざわざ話すってことは……」
「うん。本人が違うって言ってたから……。でもそれって、あまり考えたくないけど……」
この国の人間なら誰でも知っている症状。にぎやかな店内とは逆に、重苦しく、ふたりの声が重なった。
「――眠り病……」
トンと割り箸をそろえると、知礼は今度は唐揚げにマヨネーズをつけ出した。
「かもしれないですね」
「やっぱりそう思うか……」
すっかり泡の消えたビールが、颯茄の喉元に苦味ばかりを残していった。動かしていた手を止めた知礼の、黄色の瞳は深刻だった。
「現代の不治の病。ある日、睡魔に取り憑かれるように眠り続け、食事をすることもしなくなり、点滴で補給し続けても間に合わなくなり、やがて死ぬ……」
「原因も治療方法も開発が進んでない病気……」
颯茄があとを引き取った。かかったら最期。死する運命しかない。ネギを取り上げ、知礼は口の中に入れた。
「先輩の両親はそれで亡くなったんですよね?」
「十年前にね。最後は会うこともできなかったけど……」
十代半ばで、肉親を失う。悲しみの淵に立たされて、あのステンドグラスが美しい聖堂を訪れては、神の畏敬の中で心を鎮めて、前に進むを繰り返してきた日々。
記憶の端っこで、颯茄は引っかかった。今日見たものと同じものに、過去に出くわしたことを。
「そう言えば、あの時も……」
「何か思い出したんですか?」
音と光が正常に戻った気がした。颯茄は唐揚げに手を伸ばす。
「もしかしたら、原因が他にあるのかもしれない」
「思い当たることでもあるんですか?」
マヨネーズをこれでもかというほど塗りたくり、唐揚げを頬張り、颯茄はまろやかという幸せで思わず目を閉じた。すぐに瞳を開けて、表情を曇らせる。
「黒い霧を見たんだよね」
「あぁ、先輩のいつもの霊感ですか?」
「そう」
颯茄の日常は、スピリチュアル満載なのである。例えばこんな風に。
バイト先のオフィスがある、ひとつ前の交差点にいつも三十代の男が立っている。時間帯は関係ない。ずっとそこにいる。
他の通行人は気づかないどころか、すり抜けてゆく。それを見ても、彼女は気にすることなく、あれは地縛霊。と判別するくらいなのだった。
わさびをちょこんとマグロに乗せて、知礼は割り箸で挟む。
「幽霊じゃなくて、正体不明な方ですね?」
オフィスでいつも元気なあの女を、まるで飲み込んでしまうかのような黒の渦。
「うん。先輩、その霧で真っ黒だった」
「そうですか。何なんでしょうね? それは」
「ん~?」
聞かれても答えが出ない。人の姿をしていない。本当の霧で、形は自由自在に変わり、大きさもまちまち。おもむろに割り箸を握りしめて、颯茄は頬杖をつく。
ダボダボのニットの袖が食べ物につかないように気をつけながら、カシスソーダのストローを、知礼はつかんだ。
「先輩の近くにくると、消えるんでしたよね?」
不思議現象、怪奇現象が起きているが、いつものことだ。あごに割り箸の端を当てて、颯茄は舟を漕ぐように、体を前後させる。
「んー、それがね、最近ちょっと変わったんだよね」
「どう変わったんですか?」
さっきは違うが、時々こうなる。
「黒い霧が金の光に包まれるっていうか、打ち消されるっていうか……」
「金の光ですか?」
「そう。どうなってるのかな?」
幽霊を通り越して、魔法使いみたいな颯茄の話。知礼はつくねの串を指先でつまんだ。
「先輩、相変わらず日常がファンタジーですね」
「紛れもなく現実的ではないね。知礼と違って」
皮肉でも何でもなく、本当のことだ。颯茄も同じつくねを取り、串から引き抜こうとして、大声を上げ、
「あっ! 現実って言えば……」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
真実の愛は水晶の中に
立木
恋愛
学園の卒業を祝うパーティーの最中、レイシア・マレーニ侯爵令嬢は第三王子とピンク髪の女、その取り巻きたちによって断罪されようとしていた。
しかし断罪劇は思わぬ方向へ進んでいく。
※AIイラスト使用
※「なろう」にも重複投稿しています。
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる