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8.運命の番

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 煌が大学に入学したとき、優鶴はカウンターのみの寿司屋でその門出を祝った。入学式当日の夜のことだ。握りをバクバク口の中に放りこむ弟の横顔を見ていると、たまにしか飲まない酒がつい進んでしまった。
 煌に支えられながら帰った夜道。千鳥足になっている優鶴に、煌は尋ねてきた。

「兄貴は俺にどんな人間になってほしい?」
 正確には覚えていないけれど、優鶴は「そういうことは人に聞くもんじゃない」的なことを答えたような気がする。どちらにせよ、寄りかかった煌の身体は、アルコールの巡った自分の身体より熱かった。

 ――教えろよ。俺、なんにでもなるから。

 あの声は夢だったのか、現実だったのか。今となっては聞くに聞けない。聞いたところで、どういう意味で言った発言だったのかを知るのはためらわれた。

 煌から逃げたのは、先週の金曜日のこと。

 ――足りないんだよ。それじゃもう。

 あの言葉に、煌の気持ちが痛いほど詰まっているのだと悟った。

 誤魔化したのは、受け止められる自信がなかったからだ。もしも最後まで聞いてしまったら、もう家族ではいられない。
 恋愛の『れ』の字も持ち出したくないほど長い時間、自分たちは兄弟だったのだ。それなのにどうしてこんな色くさいことで煌と揉めなくてはいけないのか。この一週間、思い出してはやり場のない苛立ちで、優鶴は何度も頭を掻きむしりたくなった。
 幸いにも、ちょうど一週間が経つ今日まで煌が先週のことを蒸し返してくることはなかった。いつまたその話題を振られるかと心配していたものの、煌はいつもと変わらなかった。毎日朝と夜はテレビを流しながら一緒にご飯を食べたし、優鶴が「今日スーパー寄るけどなんか買ってきてほしいものあるか?」と訊けば「カルピスバー」と返ってきた。
 仲直りの言葉がなくても、いつの間にか日常が戻り、たわいのない話をしているのが家族だと優鶴は思っている。
 そしてそれは、優鶴が最も望んでいる煌との関係性――家族の形だった。

 帰宅ラッシュにぶつかった帰りの電車は満員とはいえないものの、隣に立つ乗客と肩がぶつかるくらいに混んでいた。優鶴はドア脇に立ち、流れていく窓の外をぼんやりと眺めた。胸ポケットに入れていたスマホが鳴る。
 取り出して見ると、煌からだった。『今どこ?』というメッセージが、画面上に表示されている。次に停まる駅の名前を送ると、すぐに『コンビニ行くから帰りに駅で待ってる』と返事がきた。
 先に帰っていいと送りたかったけれど、変に意識していると思われても困るので『了解』とだけ返した。
 電車を降りて改札を抜けると、コンビニ袋を手に下げた煌がガードレールの前にいた。誰かと話しているようだ。近づくと、煌の尖った声が聞こえてくる。
「俺はあんたなんか知らねえっつってんだろ」
 喧嘩だろうか。近づくと、煌と言い争っていた相手には見覚えがあった。それは、ちょうど一週間前に煌が襲いかけたオメガの男だった。

 あの、と声をかけようとした瞬間、切羽詰まった男の声が煌に訴えかける。

「急に言われても困るかもしれません。でも、あなたは僕の『運命のつがい』なんです!」

 『運命の番』――その言葉が耳に入った瞬間、ドクンと心臓が嫌な音を立てた。ドッドッドッ――とペースが速くなっていく鼓動に焦る。優鶴は二人に声をかけるのも忘れて胸のあたりを手で押さえた。

 煌は不機嫌そうに「証拠もねえくせにふざけたことを言うな」と悪態づいている。だが、優鶴は煌の違和感にすぐさま気がついた。
 男が一歩一歩にじり寄るたび、煌は一歩ずつ後ろに下がっていたのだ。鼻の下に拳を当て、眉が苦しそうにうねっている。どこか顔も赤く上気していて、理性を保ちながら何かを必死で堪えているように見えた。
「心臓がありえないくらいドキドキいっていませんか? 脳から声がして、目の前にいるこの『僕』だって叫んでいるんじゃないですか? 僕の身体は先週からずっと叫んでるんです。『あなた』だって!」
「いっ……ってな――」
 こちらに気づいた煌が、ハッとした顔になる。オメガの男も優鶴に気づいたのか、煌と同様に赤らんだ頬や額から噴き出た汗を手で拭いながら、バツが悪そうにする。先週よりフェロモンは出ていないのだろう。近くを歩く通行人が反応を示さないのはもちろんのこと、優鶴にも何も感じられなかった。

 煌は「ち、ちが……っ」と言いながら、こちらに手を伸ばしてきた。一瞬その手を取ろうとしたけれど、つい今しがたオメガの男の口から出た『運命の番』という言葉が頭をよぎる。優鶴が思わず手を引っこめると、煌の手は掴むものを失い、空をさまよった。

 優鶴は嫌な音を立てる心臓の鼓動を悟られないよう、わざとらしく「はは」と笑ってオメガの男に向き合った。それでようやく、目の前の男が先週自分たちの間に入って行為をやめさせた人間であることを思い出したらしい。
「あ……せ、先週はすみませんでした」
 礼儀正しくペコリと頭を下げた。先週はよく見えなかったが、男は大きな目にサラサラの黒髪が中性的で、どこか怯えていることを隠しきれていないチワワみたいだった。

 優鶴の視線が、首元の黒い首輪で留まったことに気づいたようである。小柄な男は隠すように自身の首輪に触った。
 男は名前を白井夜琉しらいよるというらしく、現在フリーターとしてスーパーや居酒屋などのアルバイトを掛け持ちしていると言った。訊いてもいないのに白井が自分の情報を教えてきたのには、訳があったようだ。
「あ、あの……彼とはどういったご関係なんですか?」
 おずおずと白井が訊いてくる。
 優鶴が答える前に、煌が「あんたに関係あるかよ」と間に割って入ってきた。だが、白井の肩を押した際、煌は静電気に触れたかのように手を引っこめた。顔をしかめ、信じられないというように自分の両手に目を落とす。
「クソ……ッ」
 小さく言い、両手をギュッと握りしめた。
「俺はこいつの兄貴ですよ」
 優鶴が言うと、白井は「お兄さん……」と復唱した。安堵したような男の表情になぜかモヤッとした。優鶴はよそ行きの笑顔を浮かべながら「血は繋がってないんですけど」と言い訳がましく付け足す。
 煌に告白された夜の続きが始まってしまうんじゃないかと怖くなったからだ。だが、兄弟であることを強調したことに対して沸いたのは、黒いシミのような感情。後悔に似ているような気がして、優鶴は気持ちを頭の後ろに追いやろうとした。

 何とも思ってない振りをしなければ。動揺を煌にも白井にも気づかれたくなかった。優鶴は平静を装って笑顔を白井に向けた。
「俺はベータだからよくわからないんですけど……さっき言ってましたよね? あなたと弟が『運命の番』だって」
 白井はコクッとうなずいた。
「なんて言えばいいのかな。俺はそんな話は都市伝説みたいなものだとずっと思ってたし、全然ピンとこなくて……だいたい煌は――弟はオメガ性の人に出会うのもほぼ初めてでさ。そんな都合のいい話ってあるのかなって」
 優鶴の言葉に、白井は「僕もこんな風になるのは初めてで」と泣きそうな声で言った。
「僕はもともとフェロモンの量が少ないタイプなんです。だからピルでコントロールしていれば、ヒートのときにアルファが近くにいても問題はなくて……。この前あなたが打ってくれた緊急抑制剤だって、使ったこともなかった」
 でも、と涙を溜めた白井は目を押さえて、その場にうずくまった。
「先週、バイト帰りに弟さんと道ですれ違ったんです。そしたらもう、どうしようもなくなっちゃって……っ」
 白井がどれだけ煌というアルファに惹かれているのか、痛いほどに伝わってくる。煌の近くにいることで、今も体が火照っているらしかった。潤んだ瞳は欲情に揺れ、顔は頬を中心に真っ赤だ。
 優鶴は白井と同じ目線になり、男の薄い肩に手を乗せた。
 オメガは昔から『産むための性』と言われてきたそうだ。今ではそういった蔑称を口にする人々も減ってきたが、一緒くたにオメガといっても特に男性オメガへの偏見はまだまだ根深いとされている。

 だいぶ前にオメガへの差別が社会問題になり、オメガの人権を守るための法律が次々に制定されたものの、優鶴のまわりでもまだオメガを軽んじた言葉をたびたび聞く。優鶴自身、オメガを差別しているつもりはない。けれどオメガの人たちが何をされたり言われたりしたら傷つくのかを、完璧に理解しているわけじゃなかった。
 白井の細い首に巻かれたごつい首輪が痛々しかった。優鶴は「とりあえず立ってよ」と白井を立たせた。足どりのふらついた男を支えながらガードレールに座らせ、煌には少し離れたところで待つように言った。

 煌は呆然としていた。白井に触れられて反応してしまう自分の体が信じられないようだ。優鶴に言われるがまま離れ、改札口横にあるコンビニの前で自分の手を見つめていた。

 ふと昨年の夏のことを思い出す。それは墓参りの帰り、煌が大学に行く決意を優鶴に示してくれた電車の中でのことだった。
 大学に行く意思を見せたあと、煌は初めて事故のことを少しだけ話してくれた。
 優鶴の憶測通り、煌は父方の実家に向かう車内で姉の睦美と些細なことで口論になったそうだ。そのとき口を滑らせた睦美から自分の出自を聞いてしまったのだと、煌は言った。

 ――さすがに参った。ずっと俺だけ他人だったのかよって。カッとなってさ、『ここで降ろしてくれ』って俺、運転してる父さんの服を引っ張ったんだ。

 危険だと判断した父は、とりあえず高速道路の路肩に車を停車させたらしい。そして煌が車から飛び出した数秒後、事故は起こった。
 事故のことを話しながら、西日に照らされた煌は、流れる窓の外を眺めていた。さみしそうだった。そのとき、優鶴は思ったのだ。

 ――煌に本当の家族ができたらいいのに。

 血が繋がっていなくても、平沢家は煌にとって間違いなく家族だった。事故の原因がほんのわずか煌のせいだったとしても、煌を恨んだり責めたりする気持ちはない。優鶴にとっては生意気だけど可愛い弟で間違いなかった。
 だが、優鶴は西日の中で揺れる弟を見たとき、煌の孤独に触れたような気がした。だから思ったのだ。煌には血の繋がった新しい家族が必要なんじゃないか……と。
 優鶴は白井に向き合った。自分はまだ煌の告白にイエスもノーも返していない。家に着いたら、ちゃんと返さなくちゃいけない。自分の中にある揺らがない気持ちは、一つだけだから。

 煌に幸せになってほしい。

 優鶴はふうと呼吸を整えてから、白井に言葉を選んだ。
「いくら君が弟を『運命の番』だって言っても、俺は正直まだ信じられないかな。たしかに先週や今日のあいつを見ると、『もしかして』って思うよ。でも、それだけじゃ足りない」
 白井は短い沈黙のあとに「そうですよね」と申し訳なさそうに言った。
「ごめんな、信じてやれなくて。でも弟には幸せになってほしいと思ってるのは事実だよ」
 この気持ちは本当だ。煌は優鶴から奪ってばかりだと言ったが、自分は何かを奪われたと感じたことはない。だから理由なんてない。家族として、兄として、ただ幸せになってほしいのだ。
 優鶴はスマホを取り出した。
「ま、きっかけはなんであれ、とりあえず連絡先交換しておかないか?」
 こちらの提案に、白井は戸惑いの表情を見せた。
「ど、どうしてですか?」
「弟も今はあんなこと言ってるけど、もしかしたら気が変わるかもしれないだろ?」
「変わるかな……あんまり自信ないですけど」

 まあまあ、と優鶴は苦笑いする。

「でも白井君?も本気なら、タイミングは見なくちゃ。あいつの兄ちゃんとしては、そう簡単に弟を『ハイどうぞ』って差し出すわけにはいかないのもわかってほしい」
 年長としてそれらしいことを言う自分を、どこか他人事のように感じる。優鶴はそれでもそのスタンスを続けた。続けなくちゃいけないと思った。
「それは……はい。でも本能だからどうしようもなくて。お兄さんには……ベータの人にはわからないんですっ。この気持ちは」

「わからないよ。でも君とあいつが本当に『運命の番』なら、俺はただ邪魔してることになるんだよな」

 困った表情で見上げる男に、優鶴は言う。
「よくわかんないけど、『運命の番』ってめちゃくちゃ相性がいいってことなんだよな。しかも出会える確率はものすごく低い」
 白井はコクコクとうなずいた。
「もし俺がアルファかオメガだったら、そんな相手をみすみす逃してたまるかってきっと思うよ」

 二人の仲を認めるでも認めないでもない、どっちつかずのこちらの態度に、白井も段々と困惑気味になる。
「あ、あの。さっきから僕はどう返せば……」
「つまりあれだ。あいつのこと、アルファとかオメガとか関係なく普通に口説いてみたらどうよ」
 自分の口から出た言葉に、胸がチクッと痛む。傷ついた自分に思いのほか焦った。

 優鶴は誤魔化すようにニッと笑い、優鶴はスマホを出して「俺も説得してみるからさ」と白井に連絡先を促した。ふと見ると、少し離れたところから、コンビニの灯りに照らされた煌がこちらをじっと睨んでいた。







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