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11.寂しかったのは

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 煌と喧嘩してから約一ヶ月が経った。その間、優鶴は煌と口を利くこともなければ、顔を合わせることもなかった。風呂も食事も、優鶴が家にいない日中に済ませているらしく、冷蔵庫のものが少しずつ減っていることでしか煌の気配を感じることはできなかった。

 最初の一週間は、前回のように煌が何事もなかったかのように接してくれるのではという甘えが、優鶴の中にもあった。一応朝晩と煌の部屋の前で、「メシあるぞ」と声もかけた。だが、煌が出てくることはなかった。
 二週間も経った頃になると、優鶴は声をかけるのをやめた。無視され続けるのはしんどかったし、煌の気持ちを受け入れられないくせにしつこく構うのもどうかと思ったからだ。
 煌の存在を空気のように扱うのはさみしかった。一人で食事しながら、テーブルを挟んだ向かいの席に誰もいないことを認めるたび、食べ物の味がぼやけていった。一階の天井から降ってくる煌の足音を探しては気分が沈み、ため息がこぼれた。

 その日は朝から頭が痛かった。夏バテかなと気にせず仕事をしていたが、パソコン画面を見続けていると目が霞んできた。いつもよりオフィス内の冷房が効きすぎている気がして、「ちょっと寒くありませんか?」と隣のデスクに座る女性社員に訊いたが、「そうですか? 暑いくらいだと思いますけど」と返ってきた。
 そこでいよいよ自分の体調が悪いことを認め、優鶴は岸田に事情を説明して早めに帰らせてもらうことにした。
 いつもより早く帰宅した優鶴に、ちょうどリビングにいた煌はあからさまに嫌そうな顔をした。久しぶりに会えたら何か話したいと思っていた。だが久しぶりの対面に心を動かす元気もなく、洗面所に直行してうがい手洗いを済ませた。
 階段の手すりに手をかけたとき、煌が「あのさ」と約一ヶ月ぶりに声をかけてきた。

「俺、明日出かけるから」

 わざわざ報告してくるということは、一緒に出かける相手は白井だろうか。訊き返す体力も精神力も、今はなかった。「そうか」と生返事をすると、煌がいぶかしげに「体調悪いのか」と訊いてきた。
「……ちょっとだけな。でも、薬飲んだら治るよ。いろいろ買い込んできたから」
 階段の下に煌を残し、二階の寝室に向かう。自分の部屋もあるのだが、今は物置状態なので、生前両親が使っていた寝室で優鶴はいつも寝起きしている。

 シャツとスラックスという通勤スタイルのままベッドの上で熱を測ると、三十八度七分あった。スウェットに着替えてから、帰りにドラッグストアで買った風邪薬をペットボトルの水で流しこむ。
 思ったよりも体力を奪われていたようだ。改めて布団に入ると、すぐに眠気が襲ってきた。眠気の縁で寝室のドアが開くような音がしたけれど、夢かもしれなかった。



 激しい喉の渇きで、優鶴は目が覚めた。いくらか熱が引いたような気もするが、まだ倦怠感がある。今が何時なのか気になる。起き上がろうと布団の中で少し身体を動かしただけで、皮膚が擦れるように痛んだ。
 なんとか上半身を起こしたとき、寝室のドアがギイと開いた。入ってきたのは煌だった。
「起きたんだ」
 煌が「ん」とスポーツドリンクのラベルが巻きつけられたペットボトルを向けてくる。
「あ、ありがとう……」
 受け取ったペットボトルは冷たくて、手に乗せただけで気持ちいい。

 今は何時なのかと訊くと、煌は朝の十時だと答えた。こちらにスマホ画面を見せてくる。
「十二時間以上寝てたよ」
「まじか。そんなに……」
「うん。熱は?」
 煌の冷たい手が額に触れた。弱っているせいか、優鶴はその手をすんなりと受け入れる。

「まだ熱いな。なんか食いたいものとかある? 買ってくるけど」
 離れていく手を目で追いながら、優鶴はハッと思い出した。
「出かけるんじゃないのか。今日」
 昨夜、煌はそんなことを言っていた気がする。誰と、とは言っていなかったけれど。
「兄貴が行くなって言うんだったら、行かないけど」
 平然と言う煌にグッと押し黙り、優鶴は喉が渇いていたことを思い出した。ペットボトルの蓋を開けようとする。だが体力がなくなっているのか、手にうまく力が入らない。
 もたもたしているうちに、ペットボトルを煌にひょいと奪われた。開けてくれるのかと一瞬期待したが、煌はペットボトルを持ったまま優鶴に背を向けてベッドに腰かけた。
 射るような煌の目が上半身に刺さる。優鶴は布団の上に拳を置き、うつむいた。
「……行けよ」
「その感じだと、一緒に出かける相手が誰なのかわかってるみたいだな」
 答えずにいると、煌は太ももの上でペットボトルを強く握った。ベコッとプラスチックの潰れる音が響いた。
「じゃあ、これはやらない」
「え……?」
「俺がいなくても大丈夫なんだろ? だったら飲み物ぐらい、自分でなんとかしろよ」
 煌が立ち上がり、ベッドから離れていく。そのまま出て行くのかと思ったが、ドアノブに手をかけた煌は「なんとか言えよっ」とドアにぶつけるように吐いて叫んだ。

「喉が渇いたとか、蓋を開けてくれとか……それぐらい頼ってくれよ」

 ずっと大きいと思っていた煌の背中。それが今は小さく見えた。浅く息をしながら、優鶴は煌の背中を見つめる。煌がさみしいのは、今も昔も変わらないのだと気づく。自分が傍にいてもいなくても、煌は変わらない。だったら――

「おまえは家族をつくった方がいい」
「……なんの話だよ」
「父さん達がいなくなってからさ、俺はおまえがさみしそうに見えたんだよ。ずっとな」
 煌は顔を歪ませた。
「おまえが今でも亡くなったみんなのことを、ちゃんと家族だと思ってるのは知ってる。事故が起きたのは自分のせいだって、おまえが自分を責める気持ちもわかる」
「……」
「でもきっとそういうことじゃないんだよな。『さみしい』って感じる気持ちはさ。理由なんて考えただけ無駄なんだよ。煌の場合」

 一気に話したせいで、胸が少し苦しい。優鶴はひと息つき、

「いつか血の繋がった家族ができたら、おまえはさみしくなくなると思う。少なくても今よりは」

 優鶴は煌の背中に向かって言った。

 産めるものなら、本当は自分が産みたかった。だが、自分はオメガじゃない。子供は産んであげられない。煌に新しい家族をつくってあげることができない……。

 前に煌から『家族をあげたい』と言われた。ほぼ無理やり行為をされた翌日のことだ。そのときは複雑だったし、ついカッとなって引っ叩いてしまった。けれど、その想い自体に嫌悪を抱いたわけじゃなかった。むしろこっちだって煌に家族をつくってやりたいと、あとから思ったものだ。

「俺はさみしいなんて一言も言ってないし、新しい家族がほしいとも言ってないだろ!」
 煌の叫び声が頭に響く。
「なんで兄貴が俺の気持ちや未来を決めつけんだよっ。おかしいだろっ。俺はただ兄貴が好きだから傍にいたくて、でも我慢するのもつらくて……っ」
 うつむく優鶴に、煌は「クソッ」と苛立った声を吐く。

 煌の言う事はもっともだ。最善の道を選ばせてあげたいと思うのは、自分のエゴだ。煌が本当に嫌だと言うのなら、無理はさせない方がいいのだろう。でも今の自分に、煌の気持ちを受け止める自信がなかった。

 ぐるぐる考えているうちに、頭が熱くなってくる。喉も乾いてきた。あ、まずい。このままではまた倒れそうだ。やっぱり何か飲み物を飲みたい。変な意地を張っている場合じゃない。
 寝室から出て行こうとする男の背中に、優鶴は「な、なあ」と声をかけた。
「こんな話のあとにアレなんだけどさ。その、俺まじで喉が渇いてて……それ、飲ませてほしいんだけど」
 煌の手元にあるペットボトルに目をやる。煌が振り返ったので、
「できれば蓋も開けてくれるとうれしいかな、力が手に入らなくてさ」
 ときまり悪く頼んだ。煌が唇を噛む。優鶴との距離を一気に詰め、再びベッドにドスンと腰かけた。煌の大きな手が、ペットボトルの蓋を開ける。

「ありが――」

 礼を言おうとしたその瞬間、煌はペットボトルを自分に傾けて液体を口の中に含んだ。口内に含んだそれを飲みこもうともせず、優鶴の頬に手を添えてくる。

 身を引こうとしたときには、もう遅かった。耳を引っ張られ、優鶴の唇に柔らかいものが押し当てられた。唇の隙間から冷たい液体が侵入してくる。冷たさと甘さが心地よくて、思わず唇を開けて受け入れた。液体とともにぬるりとした煌の舌が滑りこんでくる。与えられた甘い水をゴクッと飲むと、渇いていた喉がせつなくなるぐらい満たされた。
 熱でのぼせた頭の片隅で理性をかき集め、優鶴は煌の胸を押して拒んだ。
「……飲ませてくれって、そういう意味じゃないんだけど」
 優鶴から離れると、煌はかすれた声で言う。
「最後くらい……都合よく受けとったっていいだろ」
 最後、という言葉に、ドキリとした。
「兄貴さ、なんで俺が今日、白井と会うことにしたと思う?」
「ぇ……?」
「あいつ、一昨日からヒートなんだ。俺に出会ってから、抑制剤も効かなくなってんだよ。俺さえよかったらすぐにでも番にしてほしいって、昨日、連絡がきた」

 煌と白井が『運命の番』だとしても、番になるのはもっと先のことだとどこかで思っていた。だが、番契約は法的なものではないのだ。本人たちが『今だ』と思ったタイミングで、結ぶことができる。
「きょ、今日……番になるつもりなのか?」
 恐る恐る訊くと、煌は言った。
「言っただろ。次に会ったらヤバいって。会うと決めた以上、兄貴の想像した通りだよ」
 白井と番になったら、煌にパートナーができるのだ。今の煌は白井に恋愛感情を抱いているわけではなさそうだが、番になれば情も沸くだろう。きっとさみしくなくなる――。

 煌の意思が固まったのなら、それを止める権利は自分にはない。番になるタイミングに、口を出す権利もない。煌はまだ学生だから、避妊だけはちゃんとしてもらうとして……。
 そこまで考えて、優鶴はズキッと胸が痛むのを感じた。番になるということは、煌と白井がセックスをするということなのだ。
 煌がベッドから立ち上がる。
「それじゃ俺、もう行くから」
 優鶴は「あ……」と離れていく煌の背中に手を伸ばした。だが、煌は優鶴がすがるような声を放ったことにも、手を伸ばしたことにも気がついていなかった。
 目の前で、ドアがガチャンと閉められる。

 一人きりになった部屋。ベッド横のサイドテーブルには、煌が口移しで飲ませてくれたペットボトルが立っていた。それに手を伸ばしてプラスチックの表面に触れると、コトンと倒れて蓋が床に転がり落ちた。蓋を失った口から、トクトクと半透明の液体があふれ滴る。液体が人差し指についたので、優鶴は乾いた唇を開けて指を舐めた。甘かった。甘くて甘くて……気づいたら泣いていた。

 どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。いざ『番になる』と言われると、引き止めたくなるのだろう。

 煌には幸せになってもらいたい。心から願っていることだ。でもこちらが頭で願う煌の幸せと、煌が心から欲している幸せがイコールじゃない。

 自分は? 自分は煌とどうなりたいんだろうか。
 
 本当をいうと、とっくに気づいていた。けれど気づかない振りをしていた。認めたら、今までの関係が壊れてしまうとわかっていたからだ。煌の最後の家族を――『兄』の存在を奪うことになってしまうからだ。
 突き放してよかったんだ。これでよかった。そう思いこもうとすればするほど、先ほどの甘い液体の奥にいた煌の息遣いや熱さを思い出してせつなくなる。もう二度と触れてもらえないと思うと、喉の奥が締めつけられるように痛い。

 胃の底からせりあがってくる焦りが、風船のようにゆっくりと肥大していく。目の奥をさらに刺激してくる。優鶴は布団に顔を伏せて、奥歯に力を入れて噛んだ。

 煌はどんなときに笑って、そして泣いていただろうか。本当は煌の言うようにさみしくなんてなかったのかもしれない。自分がいれば、それでいいと。

 頬を伝う涙を手の甲で拭い、優鶴は身体を横に向けてベッドから足を床に降ろした。ふらつく足どりで寝室から出る。外の明かりだけで浮かび上がった廊下は、とても静かだった。初めから自分だけがこの家に一人でいたような気分にさえなる。
 目をつむって耳を澄ませると、外から子どもの声が聞こえてくる。子どもの頃、家の前でよく妹の睦美と煌の三人で家の前で遊んだ。何をして遊んだのかまでは思い出せないが、沈みかけた夕陽を浴びた幼い妹と弟の上から見た顔だけは、鮮明に思い出せた。
 しばらくすると、後ろからいつも母の声がするのだ。

 ――みんな、ご飯できたよ。

 優鶴は目を開ける。家族の気配薄まった家の中、天井を見上げる。

 そうか。さみしかったのは自分……か。


 家族を失って。煌という『弟』の存在までも失うことになってしまうんじゃないかと。

 認めたとき、優鶴の目には別の涙が滲んだ。

 煌のことが好きだ。密かにずっと好きだった。長い間、ずっと兄弟として過ごしてきたのだ。そう簡単に『好きだ』なんて言えない。

 だが、すべてが愛おしいと思う気持ちは事実だ。皮肉っぽく笑った顔に、不意打ちに呼ばれて顔を上げたときに揺れる癖のある前髪、遠慮がちに伸びてくる大きな手に、自分を見つめるときに苦しそうだけど嬉しそうに揺れる目が。
 ずっと煌には幸せになってほしいと思っていた。家族が亡くなったことに責任を感じてほしくなかったし、さみしい思いもしてほしくなかった。
 煌への感情に、名前をつけていいのだろうか。なれ合いや家族愛の延長上にあるものかもしれないし、煌の強い想いに絆されているだけなのかもしれない。それでも、自分の中でちゃんと名前をつけて認めてもいいのだろうか。幸せになってほしいと思うその何倍も、煌のことを幸せにしてあげたい。その気持ちに……正直になってみてもいいのだろうか。 

 大きくなる願望に、足元が震えてくる。

 いいのだろうか。こんな自分で。煌と番になれない、家族をつくってあげることのできないベータの自分なんかで。

 だけど煌は言っていたじゃないか。自分の気持ちや未来を決めつけるなと。優鶴が好きだと。自分の傍にいたいだけなのだと。

 信じても――抗っても、いいのだろうか。

 運命に。

 優鶴は手すりを伝って一階に降りた。ふらつく足を、恐る恐る前に踏み出す。玄関ドアのドアノブに手をかけると、期待と不安が押し寄せてきて緊張した。だが、『ドアを開けない』という選択肢だけは、優鶴の中に微塵も生まれなかった。










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