オメガ社長は秘書に抱かれたい

須宮りんこ

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惹かれる理由

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 高校一年生の春、健康診断で受けたバース性検査の結果を見た時、奏は目を疑った。家族はみなアルファで、自分もそんな家系に生まれたのだ。自分に限って、まさかオメガという診断だけは下されないだろうと高を括っていた。
 だが、一人一人に渡された封筒から抜いた種類に書かれていた診断結果は『オメガ』。自分から最もかけ離れていると信じて疑わなかった記号が、そこには記されていた。
 愕然とした。何かの間違いじゃないだろうかと、何度も自分の名前と記号を確認した。
 周りにいる同級生たちの声が遠のき、目の前が真っ暗になった。診断結果の載った紙をくしゃりと握りつぶすと、手の中で『オメガ』の記号が歪んだ。
 終礼のホームルームが終わったあとも、大きすぎるショックでしばらく席から立てなかった。奏の家系を知っている同級生たちから「芦原はどうせアルファだろ」と肩を叩かれるたび、うまく笑えなくて頬が引き攣った。
 嘘だ嘘だ嘘だ。怖い。両親に言いたくない。診断結果を持って家に帰りたくない。
 何かの間違いじゃないかと、本気で専門機関に電話しようとした。けれど、自分の望む回答が返ってこなかったらと考えると、それも怖くてできない。
 何も考えられなかった。とにかく一人になりたい。奏は検査結果を鞄の奥にしまい込み、放課後の喧騒で賑わう教室を一人出た。
 高辻と出会ったのは、その帰りのことだ。一人になれる場所を探してたどり着いた場所に、高辻はいた。
 そこは校舎の屋上へと続く、階段の上だった。物置のような場所になっていて、文化祭や体育祭で使われるパネルや横断幕が、四畳ほどのスペースを雑然と奪いあっていた。
 埃臭く、屋上の出入口である扉の窓から射し込む西日が強いせいで、滅多に人が来ない。一人になれる絶好の穴場だった。
 先客がいるとも知らず階段を上りきると、そこには腕を組み、胡坐を掻いている上級生らしき男子生徒が壁に寄りかかっていた。
 閉じた瞼の先に生えたまつ毛は長く、ドキッとするほど整った顔をしている。二年生、いや三年生だろうか。綺麗な容姿に似合わず、履き潰された上履きの底は抜け、黒ずんだ靴下が顔を覗かせている。
 無意識に観察していたらしい。相手の「おい」という声に呼び戻される。ハッとなって目線を上げると、男子生徒は敵意のある目をこちらに向けていた。
「ジロジロ見るな。気が散る」
 尖った声に、奏は萎縮した。咄嗟に「す、すみません」と謝る。
 だが、男子生徒は口調のわりに怒っているわけではないようだ。けだるそうに膝に手をついて立ち上がった。奏の横を通り過ぎ、上履きを鳴らして階段を下りていく。
 譲ってくれるつもりなのだろうか。後から来た手前、さすがに申し訳ないと思った。
「だ、大丈夫です。僕が別のところに行くんで……」
 奏はスクール鞄の肩紐をギュッと握り、脇を締めながら足早に階段を降りる。「じゃあさ」と背中に声をかけられたのは、男子生徒を抜いた時だった。
 条件反射のように階段の途中で足を止め、奏は思わず振り返った。西日の逆光で、男子生徒の顔は見えづらい。
「一緒に使えばいいよ。俺、バイトの時間まで寝たいだけだから」
 もともと一人になりたくて、人気のない場所まで来たのだ。それでは意味がないじゃないか。そう思いつつ、頭を巡らせて断り文句を考える。だが断り文句も、他に一人で落ち着ける場所も、瞬時には思いつかなかった。
 そうこうしているうちに、階段を上りきった男子生徒は、再び元の位置に腰を下ろした。胡坐を搔き、目を閉じて腕を組んだその姿からは、『話しかけるなオーラ』が存分にあふれ出ているように見えた。
 なんとなく、その威圧感が悪くなかった。この男の傍にいれば、余計なことを考えなくていいような、不思議な安心感。堂々とした男子生徒の佇まいが眩しかった。
 気づけば足を動かしていた。吸い寄せられるように階段を上り、少し間をとってから男子生徒の隣に座る。体育座りになって膝に顔をうずめる。
 そこで奏は、自分が一人になりたいわけじゃなかったことに気がついた。
「オメガだったんです」
 ポロリと弱音がこぼれる。口にした直後に、名前も知らない初対面の人に自分は何を言ってるんだと後悔する。
 だが、奏が誤魔化す間もなく、男子生徒は「ふうん」と相槌を打った。
 バース性検査の結果を親よりも先に教えてしまうなんて自分でも驚いた。自分は誰かに聞いてほしかったのだろうか。どちらにせよ、こんな話を急にされては相手も困るだろう。
「すみません……知らない後輩にいきなり言われても、だからなんだよって感じですよね」
 腰を下ろしたばかりだったが、奏は慌てて立ち上がった。羞恥心で、あんなに帰りたくないと思っていた家に今すぐ帰りたくなる。
「後輩? 俺、一年だけど」
 男子生徒の返しに、奏は「えっ」と失礼な声が出てしまう。その威圧感と堂々とした立ち居振る舞いから、とてもじゃないが先月まで中学生だったとは思えなかった。
「え、だって……」
 奏の言わんとしていることを汲み取ろうとしてか、男子生徒は「俺の家は貧乏だからな」と平然と答えた。
 どうして先輩に見えたことから、家が貧乏であるという話に繋がるんだろう。疑問に感じるさなか、男子生徒は続けた。
「俺、ひどい恰好してるだろ。こいつのせいで、よく先輩に見られるんだよ。ほら、この学ランも親戚のお下がり」
 言いながら、男子生徒は擦れて光沢の出た学ランの裾を奏に見せるように手で伸ばした。
「この上履きなんて中一の時から使ってるからな。小さいし底もボロボロだ」
 淡々と説明する男子生徒に、奏は「はあ」と頷く。男子生徒はひとしきり説明すると、「あ、俺D組の高辻」と思い出したかのように付け足した。
「えっと、僕は芦原……A組の芦原奏です」
 すると高辻は「知ってる」と言った。
「廊下に貼りだされた中間の順位表に載ってたからな。顔までは認識してなかったけど、名前は知ってる」
「そ、そうだったんだ」
 名前を知られていたことが、なんだかむずがゆかった。成績を褒められたわけでもないのに、どうして胸がざわつくのか分からない。
 奏は子どもの頃から勉強ができた。いや、できたというより、おそらく同年代の子どもの中では、机に向かう時間が長かったのだと思う。やればやるほど伸びる点数を見るのが、純粋に好きだったから。
 奏の成績を見た中学の同級生たちは、こぞって「芦原は絶対にアルファだよな」と言った。本人たちは褒めているつもりだったのだろうし、奏自身も褒め言葉だと思って聞いていた。
 それが今はこんなにも重たい言葉になるなんて。この日のために、自分で自分の首を絞めてきたのだと思うと辛かった。
「高辻君を先輩だと思ったのは、服装に年季が入ってるからじゃないよ」
「年季って。『ボロい』って言えばいいのに」
 高辻はふっと笑う。
 歪んだ口がどこか自虐的に見える。自分のことじゃないのに、悔しい思いがこみ上げる。膝を抱える手に力を入れ、奏は「そんなこと言わないで」と強めに言った。
「きっと周りには、高辻君が大人に見えるんだよ。堂々としているし、なんかこう……高辻君にはブレない芯みたいなものが、あるような気がする」
「綺麗ごとだな」高辻が一蹴する。
「芦原だって俺の上履き見てただろ。自覚ないみたいだけど、おまえはこの上履きで俺が先輩だって判断したんだよ」
 意地悪なことを言う高辻にむっとする。反論できない自分には、もっと腹が立った。
「本当のことを知って……どうするんだよ」
 絞りだした声は、震えていた。
「知らなきゃ平和でいられたのに、どうして……っ」
 泣き出す奏の事情を、高辻も思い出したようだった。アルファだと信じて疑わなかった人生を否定され、今日からオメガとして生きることになった奏の背景を。だが言い争いに勃発しかけた空気を柔和にさせたのは、高辻だった。
「知っといた方が、平和なこともあるだろ」
 諦めたような高辻の声が降ってくる。
 そうか。自分は誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。悟った直後に、高辻の手が髪に触れた。いい子いい子するような手の動きに慰められる。泣いていいよ、と言ってくれているみたいだった。
 この日を境に、奏は高辻と過ごすことが一気に増えた。クラスは違ったが、いつの間にか下の名前で呼び合うようになっていた。昼休みは常に階段上で二人で過ごしたし、登下校もほぼ毎日一緒に歩いた。
 奏の部屋で勉強をしたこともあれば、休みの日には話題の映画を観に行った。興奮が冷めやまず、いつまでも公園で映画の感想を言い合ったものだ。当時は二人で過ごす時間が、とにかく楽しくてしょうがなかった。
 廊下の先に高辻を見つけただけで、その日は一日機嫌よくいられた。体育の授業で校庭にいる高辻に手を振って応えてもらった時は、叫びだしたいくらい嬉しかった。
 傍にいられるだけで楽しかった。顔を見ただけでドキドキする。
 だが、同時にさすがにこんな気持ちを友達に抱くのはおかしいんじゃないかと思う自分もどこかにいた。奏がそう思い始めたある日の昼休み。
 購買でレジに並んでいると、後ろで同級生の女子たちが『運命の番』という関係について話しているのが聞こえてきた。
 ――運命の番って、アルファとオメガにしかない関係なんだって。
 ――それ知ってる。でもどうせベータの私たちには関係なくない?
 ――そうだけどさ、なんか一目見ただけでお互いに『この人だ!』ってわかるらしいよ。
 ――どうやってわかるの?
 ――さあ? 匂いとかじゃない?
 盗み聞きだったが、ドキリとした。
 仲良くなって知ったことだが、高辻はアルファだった。しかも家族も親戚もみなオメガらしく、高辻一人だけがアルファだというのだ。
 高辻からその話を聞かされた時、奏は運命を感じた。高辻の境遇は、自分とまったく同じじゃないか。アルファ家系に生まれたオメガの自分と、ベータとオメガの家系に生まれたアルファの高辻。状況は真逆だが、似た環境に身を置く者として、改めて高辻という男の存在を特別に思った。
 アルファとオメガにしか存在しない『運命の番』という特殊な関係性――。もしもそれが、高辻と自分のあいだに結ばれるものだったとしたら? こんなにも惹かれてしまう理由が、見つかったと思った。
 そう考えた瞬間、奏はぶわっと顔が熱くなった。頭から火が噴きそうだ。嬉しいのに、なんだかモヤモヤとしたような、切ない感情がマグマのように次から次へと沸いてくる。
 それは傍にいられるだけで十分だと思っていた気持ちが、欲を孕んだ瞬間だった。何かが急激に枯渇していくのが自分でも分かった。満潮の海が砂漠に変わり、干からびていく。喉が渇きだす――。
 その夜、奏は自分の部屋で初めてのヒートを迎えた。慣れない指で必死に自分の後ろを弄り、はち切れんばかりにそそり立った前を手で慰めた。果てる瞬間に頭に浮かんだのは、高辻の笑った顔だった。
 翌日、奏は出会った場所である屋上手前の階段上に、高辻を呼び出して告白した。運命の番かもしれないと思ったら、いてもたってもいられなくなったのだ。
 だが、後先考えずに出た行動は、そう簡単に受け入れてはもらえなかった。射し込んだ西日で影の落ちた高辻の表情を見た時、奏は失敗したことを悟った。
 ――急に言われても……。
 高辻はそう口ごもった挙句、返事をしなかった。ただただ困惑した表情をうつむかせ、奏との間に沈黙を育てたのだった。
 それから高辻は、一週間もしないうちに学校を辞め、奏の目の前から姿を消した。周囲には家庭の事情と伝えていたらしいが、奏は何も聞かされていなかった。
 恋愛対象はおろか、友達としても高辻にとって自分はその程度の存在だったのだ。『運命の番』だと勘違いし、一人で盛り上がった自分が馬鹿みたいだった。
 その現実に直面した時、奏の中に強い怒りが芽生えた。誰の目にも触れさせたくなくて、押し入れの奥に厳重に隠していた大事なものを引きずり出されて壊されたような、そんな気持ちに襲われた。
 高辻がいなくなったあと、高辻がよく座っていた壁際の隣に座り、奏は激しい怒りを奥歯で噛みしめた。
 高辻の不機嫌そうな声が、昼休みを終えるチャイムの音にかき消される。急に消えた男が恋しくて恋しくて、涙が止まらなかった。


 高辻と再会したのは、父が亡くなり、二代目社長として就任してから一年目のことだ。
 その日は、雨が降っていた。社外での打ち合わせの帰り。奏は自身で手配したハイヤーに乗って、自宅マンションを目指している途中だった。
 信号待ちをしていると、激しく降る雨に霞んだ窓の外に、ふと目がいった。目線の先には悪天候にもかかわらず、傘も差していない男がゴミ置き場に座り込んでいるのが見えた。
 初めは見過ごすつもりだった。だが男のシルエットが、どこか高校時代に好きだった相手と重なった。そう思うと、なんとなく放っておく気になれなかった。せめて傘だけでも渡そうと車を路肩に停めてもらい、奏は車に積んであったビニール傘を片手に、自身の傘を広げて男に駆け寄った。
 男は複数あるゴミ袋に埋もれるようにして、ボロボロの状態で雨に打たれていた。髪はボサボサで、頬には殴られた痕があり口の端には血が滲んでいる。
 奏の気配に気づいた男が顔を上げた瞬間、奏はすぐにその男に高辻の面影を見つけた。「理仁……?」
恐る恐る尋ねると、相手は奏をじっと見返してきた。しばしの時間を空けたあと、
「……奏か」
 久しぶりに自分の名前を呼ぶ声に、たまらず耳が熱くなる。
 突然の別れから、約七年ぶりのことだった。奏はすぐに高辻を自宅に連れて帰り、風呂と部屋着を貸した。初めの方こそ「放っておけばいいのに」と所在なさげにしていた高辻だが、怪我の手当を済ませたあとになって、ようやくポツポツとだが事情を説明してくれた。
 当時高辻はパチンコ店の従業員として働いていたらしいが、柄の悪い客と揉め、喧嘩沙汰になったのだという。そのせいで店をクビになり、財布や携帯もどこかで落としたあとだった。これからどうしようかとゴミ置き場に身を置いていたところを、奏が見つけたのだと説明した。
「そうか……大変だったんだな」
 労いの言葉をかけると、高辻は「奏は出世したな」と奏がずっと好きだった顔で笑い、広い室内を見渡した。
 高校生の頃と変わらない笑顔に、胸がチクリと痛んだ。告白を断られた思い出は奏の心に棘を刺したままだったようだ。また会えなくなる日々を想像すると、あの頃と変わらない気持ちが焦りとなって芽生えた。
 傍にいてほしい。受け入れてもらえなくていいから、近くにいてくれるだけでいい。友達として――いや友達じゃなくてもいい。
 また自分の前から姿を消してしまうかもしれないと考えると怖かった。また同じことが繰り返されたら、耐えられる気がしない。
 手放したくなかった。少しでもいいから、自分の傍にいる高辻の時間がほしかった。
 気づいた時には、
「僕の秘書になってくれないか?」
 奏は高辻を誘っていた。
 雇用主と労働者という、決して対等ではない関係。同級生のオメガ相手に、高辻が受け入れてくれるかどうかは分からない。
 だが、断られた後のことなんて考えられないほど、この時の奏は焦っていた。
「会社の規模が大きくなって、書類整理やスケジュール管理が一人でやるには厳しくなってきたんだ。理仁がいてくれたら、助かるよ」
 奏は震えそうになる声に気づかれないよう、早口でまくし立てた。嘘は言っていないはずなのに、噓をつく時みたいな罪悪感に胸をつままれたようだった。
 高辻の表情は、告白した時に見せたそれと似ていた。ああ、また失敗したかもしれない。また……断られるかもしれない。死にたくなるほどの強い不安で、胸に濃い陰りが差す。
 高辻は考えこむように目線を下に落とした。そしてしばらく経ったのち、「わかった」と奏の提案を受け入れたのだった。
 高辻からいい返事をもらった時は、どうしようかと思うほど嬉しかった。これで毎日のようにずっと一緒にいられる。そう考えると、ほどける頬に力を入れるのが大変だった。
 それだけに……こんなにも不毛な毎日が訪れるとは、思ってもみなかった。仕事として線を引いているのだろう。奏に対する高辻の態度や口調は、堅苦しいものへと一変した。
 最初に高辻の前でヒートを起こしたのは、高辻が奏の秘書になってから半年目のことだ。現場は社長室だった。
 本能に抗えず、奏は近くにいた高辻に「抱いてくれ」と縋った。だが、高辻はいつかこうなることを予期していたのか、すでに抗フェロモン剤を飲んでいたようだ。アルファとして奏のフェロモンに反応することなく、「できません」と頑なに奏の体を拒んだ。
 苦しむ自分を置き去りにし、社長室から出て行った高辻の後ろ姿を、奏は今でも覚えている。最初に断られた時の、頭をガツンと殴られたような感覚を忘れることはないだろう。
 ヒートになっても、高辻に抱いてもらえないのか。そんな自分の体が憎かった。目の前の現実に、絶望した。
 ヒートが訪れるたびに高辻に縋るようになったのは、それからだ。土下座するまで「抱いてくれ」と頼むたびに、高辻の心が自分から離れていくのが分かった。
 けれど高辻との距離を感じれば感じるほど、「抱いてほしい」と願わずにはいられなかった。「好きだ」と言わずにはいられなかった。 
 そんな奏に、高辻は「自棄になっているだけです」と言い放ち、見向きもしなかった。
 だが、床に額をこすりつける時だけは、いつかこの男が自分を抱いてくれる日がくるんじゃないかと、砂粒ほどの希望が、目の前でわずかに光るような気がするのだ。
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