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長い気の迷い
⑥
しおりを挟む「寝ていないのはエアルの方だろ」
尖った声を浴びせられ、エアルは「え?」と手を止めた。顔を上げる。苦虫を嚙み潰したような表情のローシュと目が合う。
「それにその傷……父上の仕業か」
昨晩のうちに、執事のアンドレにはローシュとの先約があると伝えている。エアルが王に呼び出されたことを、昨日の夜のうちにアンドレから聞いているのかもしれない。
「お目汚し失礼しました。傷のせいで気分が乗らないようでしたら、私に回復魔法を掛けてはいただけないでしょうか」
「は?」ローシュの眉が怪訝そうに歪む。
「実は私の中の魔力が底をついてしまって……自分で自分の体を癒すこともままならないのです」
肉弾戦の方が得意なローシュだが、基礎的な回復魔法はできるはずだ。期待せずに頼んでみると、
「当たり前だ」
苛立ちを声に滲ませながら、ローシュが胸元で両手を組んだ。やはり傷だらけの体を抱く気にはなれないのだろう。呪文を唱え始めると、みるみるうちにエアルの全身に刻まれた傷が塞がり、痣が薄く消えていった。翼の根元の鈍痛や唇の裂痛も消え、体が軽くなっていく。
「ありがとうございます」
「礼なんて言わなくていい」
ローシュはそう言うと、「見せてみろ」とベッドの上に乗り、エアルの背後に回った。翼の状態を見ているのか、男の手が羽根を掻き分ける感触に胸の裏がざわざわする。
「回復魔法を掛けても羽根は戻らないのか。それにしても酷いな……まだ痛むか?」
「い、いえ」
なんだかくすぐったい。翼の羽根を引っ張られたり、無いものとして扱われたりすることはあっても、こんな風に触れられるのは初めてだった。まるで親猿が子猿の毛繕いをしているみたいだ。この齢になって、自分が子猿の気持ちを味わうことになるとは思わなかった。
「私のことはいいですから、夜伽の手ほどきをいたしましょう」
「は? そんな体で何言ってるんだ。エアルは寝ろ」
「はい? 寝る?」
エアルは相手が王子であることも忘れて、あんぐりと口を開けた。
「ローシュ様こそ何をおっしゃってるんですか。私があなたの寝室に参った理由をまさかお忘れになったんですか?」
振り返ると、ローシュは眉一つ動かさずに「忘れるわけがないだろ」と答えた。
「でしたらどうして……」
このままでは王子との約束を反故にした上に、傷を治させただけになってしまう。もしこのことが他の使用人たちにバレたら、ますます好奇の目で見られてしまう。それ以上に、自分が納得いかない。ローシュの期待を裏切った罪悪感を消化できない。
現にローシュの下半身は、エアルがちょっと触っただけなのに、まだ反応を示したままだ。
ローシュは正直な下半身を隠すように片膝を立て、前髪をクシャクシャと乱した。
「俺だって今すぐ抱きたいよ。でもできないだろ。そんな状態のエアルをさ」
男は大きく息を吐いた。
「王に抱かれた身のまま来たからですか? でしたら今すぐ湯殿で身を清めて参ります」
「そうじゃない」
立ち上がろうとするエアルの手をローシュが掴んだ。引き戻されたあとに寝かされた先にあったのは、ローシュの太ももだった。
こめかみから頬にかけて当たる筋肉の硬さと、反転した視界に戸惑う。
「な……っ!」
「暴れるな暴れるな」
ローシュはどうどうと口にしながら、エアルの頭を撫でた。
「私は馬ですか」
「馬より暴れ馬だな」
ローシュはエアルの長い銀髪を梳くように撫でながら笑った。
頭を誰かに撫でられるなんて、何百年ぶりだろう。もっと居心地の悪い感触を想像していたが、不思議なことに嫌な気持ちにはならなかった。
さすが馬を扱うのが得意なだけあって、ローシュの手に撫でられると心が穏やかになっていく。眠気を忘れていた瞼が、徐々に重たくなっていく。
気持ちいい。心地いい。まるで雲の上に横たわっているみたいだった。こんな感覚は久しぶりだ。
気付いたら男の膝上でうとうとしていた。瞼が重たい。こんなにも疲れていたことを、今になって知った。
その声が聞こえたのは、意識を手放す直前のことだった。
「……――いしてる」
薄れゆく意識の中で、最後に耳の奥に残ったのはローシュが何かを囁く声。はっきりとは聞こえなかったが、なんだか胸が温かくなったことだけは覚えているエアルだった。
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