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第一章

4. 初対面

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 ゆっくりと意識が浮上したことで、アニエスは自分が眠っていたことに気づく。
 なぜだか頭が少々混乱しているらしく、自分が今どういう状況なのか理解できない。
 そのため、アニエスは直近の記憶をなんとか引っ張り出そうとした。
 国王に国外追放を言い渡されたあと、一旦王城の牢に収監され、そこで父親に罵倒される。
 ドレスから囚人服に着替えさせられ、屋根のない荷馬車に乗せられると、王都に住む人々に罵声を浴びせられながら国境へ連れて行かれ――

(国境間近の森の中で兵士に襲われたんだったわ……)

 もう聖女としての力も必要ないだろうからと、『俺たちが気持ちいいことを教えてやるよ』そう言って突き飛ばされて、アニエスはしばし走って逃げたが結局は追い付かれてしまった。
 だが、実際に襲われたのは男たちにではない。

(そうだわ、あの触手の生き物に私は――)

 胸中で言葉にした途端、その時の記憶が一気に甦る。
 触手に口腔内を蹂躙され、全身を愛撫され、敏感な部分を、秘所の奥を――最終的には人間の男が持つような、熱くて硬いもので貫かれたのだった。
 それを思い出しただけでアニエスは頬が火照るのが分かった。
 それが男たちであったなら、アニエスは嫌悪どころか絶望しただろうが、人の姿をしていなかったためか不思議と嫌悪感はない。
 ただ、あられもない姿で快楽に夢中になってしまった羞恥と、その初めての相手が未知の生き物なのにも関わらず、嫌悪を覚えなかった自分が不思議だというだけだ。
 湧きあがる羞恥を誤魔化すように、アニエスは寝返りを打ち――目を開けた。
 寝返りを打ったことで自分が寝具に包まれていることに、ようやく気付いたのだ。
 慌てて頭を起こし周囲を見回す。
 簡素な印象があるが、高級感のある家具が配置された広めの寝室のように見えた。
 平民なら富裕層の邸宅か、貴族なら領地に構えた別宅だろう。
 もちろん、自分の部屋ではない。憐れに思った家族が連れ戻してくれたのでは、当然ない。
 では誰かが、森で倒れているアニエスを助けてくれたということになる。とはいえ、このような広い寝室をあてがわれるということは、助けてくれた人物はアニエスの素性を知っているのだろうか。
 気を失ったときは全裸のはずで、そうでなくても囚人服だったから、素性を知らなければアニエスが元貴族であったなどと分かるはずがない。

(私が裁判にかけられたことを知らないのかしら)

 辺境の地であれば、まだアニエス・モアヅィという元聖女が、異世界から召喚された聖女を害そうとしたという話は伝わってきていないのかも知れない。
 だとしたらアニエスは、助けてくれた誰かにきちんと顛末を話さなければならない。気は重いが、黙っていることは誠実ではないとアニエスは思う。

(天国じゃない、のよね……)

 そうであれば気が軽くなるのにと思いつつ半身を起こせば、体のあちこちに鈍い痛みがあり、疲労が溜まったときのように少し重たい気がした。
 ここが天国であればきっと、体の不調など感じないに違いない。
 半身を起こしたアニエスは何気なく自分の体を見下ろす。
 貴族が着るような、上品な白の寝衣を着せられていた。
 一見してシンプルに見えるが、ギャザーのよった丸い襟元や、フレア状に広がった袖のデザインが、アニエスには何となく洗練されたデザインに見えた。
 そう思ってもう一度周囲を観察すれば、豪奢なカーテンも鏡台も照明も、アニエスの家では見ることのない意匠のものだと気づく。
 寝衣と同じように、一見して豪華で華美な模様がなく簡素に見えるのに、カーテンの縁に施された白と金糸のレースや刺繍の細やかさとか。
 アニエスの実家では硬い印象のある四角い鏡か、あるいは鏡の周囲を派手に装飾した鏡台しか見たことがなかったが、この部屋にある鏡台の鏡は、柔らかな曲線を描いて優美な形をしている。
 その鏡の縁は大人しめの装飾が施されているが、所々にある金の飾りに見る高級感とか。
 見れば見るほどアニエスは、逆に自分の家で見た家具や衣服が、まるで前時代的なもののように古く感じてしまった。

(そんなこと、思ったこともなかったのに)

 誰かにそれを指摘されたことはなかったが、もしかしたら陰ではそう言われていたのかも知れない。
 モアヅィ家は歴史の長いことが父親にとって誇らしいことだった。だから、歴史あるもの、伝統的なものを彼は大事にし、家族にも押し付けていた。
 そんなことをアニエスは今になって気づいてしまう。

(気づいたところで今さらよね。――それより、ここはどなたのお邸なのかしら)

 窓の外を見ようと、アニエスはベッドの端に移動し床に足を付けた。途端、身を起こしたときよりも体の重たさを感じる。

(“聖なる力”が使えれば……)

 弱い力しかないアニエスでも、症状を軽くする程度のことはできるだろう。
 だが、処女でなくなったアニエスには使えるはずがない。それがサンユエリでの教えだった。
 ところが、胸中で“聖なる力”と呟いた瞬間、体がほんのりと温かくなったかと思うと、体の重たさが嘘のように無くなってしまった。

「えっ、今のは――?」

 つい驚きの声をあげると、その声が聞こえたのか寝室のドアが開き女性が現れた。
 明るい青のメイド服を着た、アニエスより少し年上に見えるその女性は、穏やかな微笑を浮かべて頭を下げた。
 女性の中では中背で、ブルネットの髪を後ろで丸く結い上げ、鳶色の目が落ち着いた印象を感じさせる女性だった。
 もちろんアニエスは、その女性に見覚えはない。

「おはようございます、“聖女様”。ご気分はいかがでしょうか」
「ええ、気分は――えっ?! なぜ私が聖女だと……」

 やはりアニエスをここに連れて来た者は、アニエスのことを知っている貴族だったのだろうか。
 未だアニエスを聖女と言うなら、やはり王都での裁判のことをその人物は知らないのだ。
 だが、彼女は笑んだまま「それは後程、この邸の主がお話いたします」と言って答えてはくれなかった。

「私はリビアと申します。この邸で聖女様のお世話を言いつかっております。どうぞなんなりとご用命くださいませ」

 結局、アニエスも彼女――リビアに何かを尋ねられることもなく、きびきびと身の回りの世話をされる。
 初めは自分に興味がないのか、あるいは歓迎されていないのかと思ったが、それにしては甲斐甲斐しく世話をされるので困惑するアニエスだった。
 着替えの服を選ぶに至っては、幾つかの服を持って来てどれが似合うかと、彼女自身が真剣に悩む始末だった。

「素敵な御髪に白銀の瞳――華奢なお姿なので色味が強くなく暖かい印象のある、こちらがよろしいかと」

 そう言って、アニエスを聖女だと知っている彼女が選んだのは、白地に薄っすらとピンクの花の模様が浮き出た、落ち着いたデザインのワンピースドレスだった。
 罪人として裁かれたアニエスは、落ち着いたデザインとはいえドレスなど着れないと固辞しようとしたが、彼女の方もまた頑として聞き入れてくれなかった。
 リビアの頑なさにアニエスの方が折れ、白のワンピースドレスに袖を通すと、寝室の隣の部屋で言われるままに朝食をとる。
 その間、他にもメイドが何人か世話をしてくれたが、皆一様にアニエスを好意的に迎えてくれているようで、逆にアニエスは不安を覚えてしまうのだった。

(みんな私のことを聖女だと知っているみたいだけど、不出来な聖女だと知ったらどう思うかしら。罪人だと知ったらガッカリするどころではないわね)

 それどころか、期待させたぶん恨まれたりするかも知れない。
 アニエスは今のうちに自分の身の上を伝えようと、何度か試みたがその度に彼女たちは「そういったお話はどうぞご主人様に」と言って聞いてくれなかった。
 彼女たちは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるが、それはこの邸の主に頼まれてしていることなのだ。
 それならやはり自分が不出来な聖女であるという説明は、彼女たちの言うとおり邸の主にしなければならないのだろう。
 リビアによればこの後、主と対面することができるとのことだったので、それまでは心苦しいが大人しくしていよう。
 顔も知らない邸の主に、激怒されて「出て行け!」と言われる場面を想像しながら、アニエスはその時を待つのだった。
 朝食も終わり、食後のお茶を進められるまま嗜むが、そのお茶が無くなるころになっても、なかなか主は姿を現さなかった。
 本当に主は自分と会ってくれるのかと不安になるアニエスだったが、それはもしかしたら部屋の隅で待機しているメイドたちも同様かも知れない。
 どことなく室内に落ち着きのない雰囲気がし始めたころ、ようやく先触れが現れた。
 もうすぐ主がこの部屋を訪問するというので、アニエスは立ち上がるとその人物が現れるのを待った。
 部屋のドアがノックされ、メイドが静々とそのドアを開ける。
 開いたドアの向こうから二人の男性が現れたが、最初に入って来た男性が恐らくこの邸の主なのだろう。
 長身の偉丈夫を見て、アニエスは内心で首を傾げた。

(……会ったことのない方だわ)

 アニエスを聖女と知っているのなら、その人物と会ったことがあるのではと思っていたが、アニエスには見覚えのない男性だった。
 さらに言えばなぜか彼はローブを着て、見たことのない赤黒い肌色をしていて、見たことのない容貌をしていた。
 いや、容貌に限ってはその一部を、アニエスはつい最近目にしたことがある。
 彼はぎこちない動作でアニエスの前まで来ると、普通ではない色味をしたその唇を開いた。

「私の名前はルカー・スザロッツィ。このリヒゾーナで近衛騎士をしている。昨日は、その……無体なことをしてしまい申し訳なく思っている。すまなかった」

 彼――ルカー・スザロッツィと名乗った男性は、そう言うと深々と頭を下げた。
 同時にローブの裾から覗く細長い“それ”がゾワリと蠢く。
 何かの生き物のようにうねる赤黒い色をしたそれを、アニエスは昨日“触手”と呼んだことをよく覚えている。
 さらに、意識が混濁してから気を失うまでの、アニエスの記憶には残っていないと思われた光景が、唐突に脳裏に蘇った。
 自分に覆いかぶさる触手の塊から、次第にその触手の数が減っていき、人間の形が現れてきたのだ。
 その人間は背が高く、筋骨たくましい偉丈夫で、力強い腕に抱きかかえられながらアニエスは何度も腰を打ち付けられ――
 そこまで思い出してアニエスの精神に限界がきた。湯気が出るのではと思うほど顔を真っ赤にし小さく震える。

「では、あなたが――」

 辛うじて口に出来たのはそれだけだ。そう言ったっきりアニエスは言葉を失って、のぼせた時のように眩暈に襲われたのだった。
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