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第二章

2. 大浴場で(1) ※

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「すまない……こんなことになってしまって……」
「い、いえ、その、こちらこそ……」

 夕食後、しばし時間をおいてアニエスは、ダリオが早々に準備してくれたという大浴場へ向かった。
 もちろん脱衣所の前まではリビアが付き添ったものの、その先はアニエス一人だ。
 アニエスの邸にある風呂場は、脱衣所も含めてひとつの部屋になっていた。
 だが、ここは大浴場だからだろうか、脱衣所との間には仕切りがあった。
 その脱衣所で服を脱ぎ、仕切りの先へと向かえば、確かに大浴場というにふさわしい大きな湯船があった。
 床を掘る形で作られた湯船のこちら側は、平らに加工された石で囲われ、人が五人以上は並んで立つことができるほど奥行きがある。
 その広さに感嘆しながら、アニエスは軽くかけ湯をすると湯船に浸かったが――

「っ?! あ……」

 一人だという思い込みか、あるいは立ち上がる湯煙のせいか、アニエスは先客が居ることに気づくのが遅れる。
 湯船の奥、壁際に近い位置に人の姿があった。
 一方で先客の方も、思ってもみない状況に固まってしまっていたようだ。
 アニエスがようやく先客に気づき、目が合い、顔を真っ赤にしたことで、相手もようやく事態を飲み込めたようだった。
 そして冒頭にもどる。

「ダリオめ……」

 謝罪をしたあと先客――ルカーは、片手で目を覆い怨嗟の声を漏らした。
 アニエスも羞恥を覚え、顎まで湯船に浸かって体を隠したが、今更かも知れない。
 だが、ずっとこうもしていられない。
 後から入ってきたのは自分だからと、アニエスは「私、出ますね」と湯船から上がろうと体の向きを変える。
 察してルカーが目を隠すか逸らしてくれたら、その間に浴場を出ようと思った。
 ところが、「いや、が」とルカーが言ったかと思うと、湯船の中で手首に何かが巻き付くのを感じた。

「きゃっ!?」

 とっさに短く悲鳴を上げたアニエスだったが、巻き付いたものが何か気づき慌てて口を手で覆う。間違いなくそれはルカーから生えた触手だったからだ。
 アニエスを引き留めようと、無意識に伸ばしてしまったのだろうことは、悲鳴を聞いてすぐに離れていったことからも分かる。
 悲鳴を上げてしまったことを申し訳なく思うアニエスだったが、ルカーの沈んだ表情を見てさらに後悔した。

「すまない、私が出て行くので、きみはゆっくりするといい」

 同じように沈んだ声でルカーがそう言うとすぐさま立ち上がったので、アニエスは焦ってしまった。
 以前のように、またすぐに居なくなってしまっては困ると、通り過ぎようとする彼に思わず手を伸ばして掴もうとした。
 ところが、アニエスも立ち上がろうと湯船の縁に手を置いたつもりが、そこにはルカーの体を支えるためか伸びた触手が這っていた。
 触手はやはり滑りを帯びていて、アニエスの手はすべり上半身を支えられず転んでしまった。
 湯船の上に水音を立てて倒れこむアニエス。そのアニエスの体を逞しい腕がすぐさま引き上げてくれる。
 ルカーはアニエスを支えるため湯船に戻り、アニエスは湯船の中に座って呼吸を落ち着かせた。

「大丈夫か?」
「は、はい――大丈夫、です。あの、いま少しお時間をいただけませんか」
「――無理はするな」
「いいえ、無理はしていません。話がしたいんです」

 アニエスは顔に張り付いた髪をのけると、間近にあるルカーの顔を見上げた。
 彼の顔色は分からなかったが、戸惑っていることは伝わってきた。
 困らせてしまっているのなら、ここは一旦引くべきかとアニエスは迷ったが――

「この状況でか? きみの身が危険だ」

 そう言われたことでルカーの周囲に、いくつもの触手がうごめいていることに気づく。

「もしかして、増えているのですか?」
「そうだ。またバケモノになろうとしている。あの時のように――」

 このままだと、またアニエスを襲ってしまうかも知れないとルカーは言いたいらしい。
 この時ルカーがとても悲痛な表情をしていたので、それを見たアニエスは唐突に理解した。

(きっと呪いを受けたルカー様の本能が、弱いとはいえ私の聖なる力を欲しているのね。それがなぜ、あの行為になるのかは分からないけど……きっとそれがルカー様には苦痛なのだわ)

 そう思うとアニエスはとても申し訳なくなった。
 祈りひとつで解呪するほど自分に力があれば良かったのに、と。

「申し訳ありません、ルカー様。私がお力になれればいいのですが……。ルカー様の傍にいるのが私のような不出来な聖女で心苦しく思います」
「アニエス嬢、きみは――」

 思わず俯くように頭を下げるアニエスの頭上で、ルカーが唸るような声を漏らした。
 もしかしたら、辛辣な言葉をかけられるかと覚悟していたアニエスだったが、伸びてきた触手に頬を撫でられて驚く。
 触手がアニエスの顎を持ち上げるので、逆らわずに顔を上げれば、思いのほか間近にルカーの顔があり胸が高鳴る。

「……怖くはないか?」

 そう、真剣な表情と声音で尋ねられ、アニエスは小さく首を振った。

「いいえ」
「……気持ち悪くはないか?」
「いいえ」

 初めて会ったときは確かに恐怖で気絶した。
 だが、気絶から回復したあと、触手の塊は“生き物”なのだと思うと、恐怖も気持ち悪さも感じなかった。
 それに今は、触手がルカーの一部であると知っている。
 ルカーは自分を助け、それどころか衣食住まで与えてくれた恩人だ。
 呪いとはいえ恩人であるルカーの一部となっている触手を見て、怖いとか気持ち悪いといった感情を持つことなどアニエスにはない。
 ただ、なぜ今そんなことを聞かれるのかと、ほんの少し疑問には思ったが――

「アニエス嬢、すまない」

 脈絡もなくルカーが謝罪を口にする。
 何に対する謝罪かと考える間もなく、ルカーの手がアニエスの頬に触れた。
 湯に浸かり上気したアニエスの頬を、大きくてゴツゴツしたルカーの手が優しく撫でる。
 怖気の類ではないゾクリとしたものが、ルカーが触れた頬からじわりと広がるのをアニエスは感じた。
 思わず目を閉じれば、もう一方の頬も手で覆われ、ルカーの息遣いが間近に聞こえたかと思うと、唇に唇が重ねられる感触がした。

「んっ――」

 驚いたアニエスの体がビクリと震えるが、まるで逃がすまいとルカーの一方の腕が背中に回され、抱き寄せられる。
 決して荒々しくはないが、有無を言わせぬ力強さがあった。

(……これって口づけ――柔らかい……)

 やや強引に抱き寄せられたアニエスだが、気になるのは唇の感触だった。
 今まで婚約者とはエスコートのときに手が触れるくらいで、結婚も拒まれていたため口づけもしたことはなかった。
 当然、初めてとなる唇の感触にアニエスは意識を奪われてしまう。

(ちがう……初めてじゃ、ない――)

 唐突にアニエスは思い出す。
 森で触手の塊となっていたルカーに抱かれていたとき、確か口づけをしていた。
 与えられる初めての快楽に意識が奪われ、今でもやや記憶が曖昧ではあるが、確かあの時もアニエスはルカーに口づけされた。
 あの時はもっと大胆だったと思い出しながら、されるがままに唇の感触に夢中になっていると、アニエスの唇に別の何かが触れる。
 生温かく湿ったそれを、初めは触手のようだとアニエスは思った。
 だがもちろんそれはルカーの舌だと、唇を割って侵入したそれに舌が絡めとられるのを感じると同時に理解する。

「ぁ――んっ――はぁ……」

 濃厚な口づけにアニエスは無意識に声を漏らし、ルカーの逞しい腕にしがみついていた。
 一糸まとわぬ互いの肌がより密着して、アニエスも知らぬ間にそれが互いの興奮を高めていく。
 腕に爪を立てて身を強張らせるアニエスを、まるで宥めるようにルカーの手が背中を撫でて行ったとき――

「ん、ぁっ――」

 先ほどよりも強くゾクリとしたものが体を駆け巡った。
 腰が砕けたように力が抜けてしまったアニエスは、体を支えられずその場に腰を落としかけた。
 だが、それを体中に巻き付いた触手が支える。

「あっ! ルカー様……」

 滑った触手が体のあちこちに触れ、撫でていき、くすぐったさと、それとは別の感覚をおぼえ、アニエスは思わず声を漏らし頬を染めた。
 今更ながらに羞恥を覚えたアニエスは、ついルカーから体を離そうと身を捩ったが、力強く腰を抱き寄せる腕がそれを阻んだ。
 それどころか、巻き付く触手がなおルカーへとアニエスの体を引き寄せる。
 触手によって再び肌が密着するほど抱き寄せられると、またも唇が奪われる。
 今度は初めから深く重ねられ、水音を立ててルカーの舌がアニエスの舌を絡めとり吸い付いてきた。
 濃厚な口づけにまた夢中になりつつも、アニエスは先ほどの謝罪の意味が分かった気がした。

(きっとこれも呪いが原因なのね……。ルカー様もお辛いに違いないのに謝ってくださるなんて――)

 ルカーの誠実さに胸を打たれつつ、せめて抵抗はするまいとアニエスは身を任せるのだった。
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