空を唄う少女

愁仁

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第一章

01.空を夢見る少年

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「ハァ、ハァ、ハァ、……空を飛べるっ!」

 少年は走っていた。寝癖でボサボサの髪や着ている白いシャツを風に靡かせ、ガヤガヤと騒がしい街の中を全力で駆け抜ける。 
「あらジムニー、そんな大慌てでどうしたんだい?」
 恰幅のいい顔馴染みの露天のおばさんに声を掛けられ「ちょっと先生のところまで!」と少し速度を下げて言葉を返すと、今度はその隣の露天の商人からも声を掛けられる。
「おお、ジムニーじゃないか。ロンベルク先生の所へ行くのか?」
 今度はその場で大きく足踏みをして返事をするとまた走り出す「気を付けてなー」と手を振る商人に「ありがとう!」と返事を返しまた全速力で駆け出す。

 商業都市アルミラ。ロスリア大陸の中央部に位置し、どの国家に属さない自由都市の一つである。
 ありとあらゆる物を商売とする者たちが集まり構成されたこの都市には様々な人種、様々な生業の人間が集まっている。

 通りはいつものように賑わっていた。石造りを基調とした大小様々な建造物、ツギハギじみた石畳で舗装された道。その道沿いには多種多様な露天商や店の呼び込み、宗教の勧誘、思想論者の演説などで賑わい、それを取り巻く人々の喧騒。そして蒸気機関で動く歯車やポンプの音。様々な音が街の明るさを彩る。

 ジムニーと呼ばれた少年は見慣れたその風景には目もくれずにひたすらと目的地へと走る。ハァ、ハァ、ハァと肩で息をし呼吸は絶え絶えになりながらも、その目は期待と喜びの色に満ち溢れていた。
「もう、完成した、のかな。ハァ、ハァ、くぅー!急がないと」
 期待に胸を大きく膨らませ、最後の力を振り絞って目的地へと駆ける。大通りから小道へと進路を変え、迷路の様に入り組む脇道をスイスイと抜ける。賑わう街の喧騒から逃げるように暫く進むと一枚の看板を目にする。

『ロンベルク工房』

 そう書かれた看板には細かい歯車をいくつも重ね合わせたような絵が描かれている。
 そして工房の扉の前でジムニー立ち止まった。

 スゥー……ハァー……スゥー……ハァー……。

 大きく深呼吸を二回。ジムニーには見慣れた扉であったが今日はいつもと心持ちが違った。
 呼吸を整え意を決して工房の扉を勢いよく開く。
「先生!!!」
 工房の中は物で溢れかえっていた。蒸気機関の模型や蒸気機関を利用したスチームギア、ガジェットと呼ばれる機械の類、机の上には設計図に山のように積まれた本。工房というよりは、最早物置と呼んでしまっても差し支えの無い工房内。
「……先生?」
 いつもなら扉を開けると本に埋もれた机の向こうで謎の設計図と睨めっこをしているはずの男の姿が見えない。
 工房の中からも特に返事はなく、歯車の回る音、蒸気を送り出すポンプの音、返ってくるのは聴き慣れた蒸気機関の音だけ。
「どこ行っちゃったんだろ?……寝室かな?」
 少し思案してから物置の様な工房の中へ足を踏み入れ、そのまま寝室へと向かう事にした。

 工房から奥に進むと、すぐに階段がありジムニーはスタスタと二階へ上がる。
 一階の工房とは打って変わり整理された……というよりも整理するほど物の置かれていない廊下をまるで自分の家の様にに進み、一番奥にある扉の前に立つと「せんせーっ!起きてますかー?」と大きな声で呼びかける……だが、返事が返ってくる様子はなかった。そのまま「開けますよー」と呼びかけ扉をゆっくりと開いた。

「……え?」

 ジムニーは自身の目を疑った。
 そこにはジムニーの想像する先生と呼ばれる者の姿はなかった。
「せん……せい?……どう……して?……え?……血?」
 そこにあったモノ。それはヨレヨレの白衣を真っ赤に染めて床に横たわる男の姿だった。


   *    *

 横たわる男は黒髪でとても端正な顔立ちをしていた。年の頃は30代後半といった所で長身で細身だが着衣越しからでも鍛えた体のラインが見て取れる。ただ寝ているだけならそんな事を思ったはずであったが、今は明らかに異質な状況であった。
見慣れたはずの男の顔を蒼白な表情で見つめる。咄嗟の事に動転してしまい頭の中も真っ白になってしまう。

「せ、先生!!どうしたんですか!?何があったんですか!」
 先生と呼ばれた男は微かに目を開けジムニーを見つめた。
「よかった!まだ息がある!お医者様を呼ばないと!」
 男は仰向けに倒れ腹部を押さえているようだった。ジムニーは工房にある電話で助けを呼ぶ為に急いで部屋を出ようとするが、横たわった男が微かな声を上げる。
 男は震える声で「大丈夫だ」と呟き、動転しているジムニーをその場に留めた。

「何が大丈夫なんですか!?血が!そのままじゃ本当に死んじゃいますよ!」
「ジムニーよ……こっちへ来てくれ……」
 男はジムニーにそう呟くとゆっくりと腕を動かし血まみれの白衣の中へと手を伸ばした。
 もうどうしていいのかも判らず、ジムニーは目に涙を浮かべながら男の傍らへと近づいた。
 男の血の量を見る限り、とても助かりそうにないとジムニーは感じていた。
「はい、僕はここにいます!…一体ここで何があったんですか?」
「……これを」
 男はジムニーの問いかけに答える代わりに白衣から小さな小瓶を取り出しそれを手渡した。
「……この小瓶は?…中に液体が入ってる」
 小瓶の中を覗くと真紅の液体が入っている。これがこの事態に何の関係があるのかジムニーは分からなかった。

 すると横たわっていた男は突然動き出した。

「……新作の血糊だ。かなり本物っぽいだろ?……さぁてと」

 男はケロッとした声で言い放つと何事もなかったかのようにその場に立ち上がった。
 事態を飲み込むことの出来ないジムニーはきょとんとした表情で男を見つめる。
「……え?あれ?……先……生?なんともないんですか?」
「このロンベルクがこんなあっさりと物語の冒頭で、ましてや自らの名を名乗ることもせずに死ぬと思うのかね君は」
 ロンベルクと名乗る男は血糊で固まった白衣を脱ぎ捨て、いまだ理解出来ず間の抜けた顔を見せる自分の教え子に呆れた表情を向けた。
「……先生!!どうして先生はそうやっていつも僕をからかうんですか!!!」
 なぜこんな馬鹿げた事を自分に仕掛けるのか、ジムニーは到底理解する事が出来なかった。
 そしてようやく自分が騙されたことに気付き、怒りの声を上げるとロンベルクはすかさず言葉を返す。

「面白いからに決まっているだろう」

 何を馬鹿な事をと言わんばかりの表情でロンベルクは言い放つとすぐさまに表情を変えた。

「いいか、世の中は喜劇だ。確かに世界には戦争、貧困による飢え、略奪、競争、人の死。それ自体は悲劇として受け取られるような出来事もある。だがそれらは喜劇を生むための通過点だ。悲しみがなければ喜びは生まれない。憎悪がなければ愛は与えられない。罪がなければ救済は施されない。死がなければ生は成り立たない。それはつまりどちらが欠けても存在することの出来ないものだ。世の中は喜劇だ……同時に悲劇でもある。ならば私の身の回りで起こる全ての出来事は悲劇であり喜劇だ」
「その話と僕をからかう事の関連性はどこにあるのでしょうか……」
 芝居がかった口調で自らの思想論を展開するロンベルク。先程までの悲痛な表情から打って変わって呆れ顔のジムニーが言葉を返すがロンベルクはそれを見越したように言葉を続ける。

 「君と歩む道のりだけでも喜劇でありたいと思ってるのだよ私は」

 ふふん、と鼻を鳴らし、明らかに満足気な表情を浮かべる。
「ハァ……。わかりました、わかりましたよ。先生はいつもそうやって話をはぐらかしますよね」
 近くの椅子に腰を掛けながら大きく嘆息をする。
「まあ、小芝居はこれくらいにして本題に入ろうではないか」
 ロンベルクの本題という言葉に「そうだった!」と、思い出したように声を上げ。今しがた腰をおろしたばかりの椅子を蹴り飛ばしロンベルクに詰め寄った。
「アレは?アレは完成したんですか!!!?」

「ぐぬ、近寄るな暑苦しい!!」
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