one day only ~1日だけのカフェで

yolu

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 腕時計を見れば、まだ今日の日付だ。
 目的だった電車は、今から戻っても追いつけないのは間違いない。

「微妙に時間が巻き戻ってる……」

 私は、しわくちゃのジャケットの匂いを思いっきり吸いこんだ。
 ほおかに甘い香りがする。
 もう少し、深く吸い込んでみる。

「……ホットケーキだ……」

 間違いない。
 こんな匂い、会社と電車の往復でつくわけがない。
 たぶん。
 あれは夢じゃなかった……?

 ただ、夢じゃないと思い込める何かがあればいい。
 それだけで玄関を開ける勇気がわいてくる。

 私は音を立てないようにカバンから鍵を取り出すと、ゆっくり玄関の鍵を回していく。
 そっと開けた玄関は真っ暗だ。
 まだ日付が変わっていないが、母は寝ている可能性が高い。

 ぼんやりとリビングを繋ぐドアから光が漏れている。
 だがテレビの音も何もしない。ひんやりと静まり返った家は、私しかいない雰囲気がある。

「……ただいま」

 聞こえるか聞こえないかの声でリビングに入ったが、ダイニングテーブルでうつ伏せになって寝ている母がいた。
 それをみるだけで、どっと疲れが出てくる。
 めんどくさい。
 なんで専業主婦なのに、自己管理ができないんだろう。

「……お母さん、起きて。風邪ひくよ」
「……んー……」

 さも起こされて当然のように座ったまま背筋を伸ばし、大きなあくびを母は吐き出した。
 壁の時計を見て、がたりと立ち上がる。

「よかった~」

 いそいそと動き出した母は、きゅっと私を振り返る。

「まだ今日・・だよね?」
「そう、だけど」
「今日はね、待ってたの、由奈のこと」

 寝心地が悪かったのか、ぐるぐると肩や首をまわして冷蔵庫へ歩いていく母は、妙にテンションが高い。

「なに? 私、シャワーはいって、すぐ寝るよ?」
「少しだけ。少しだけ、付き合ってって」

 そういって出してきたのは、3つのケーキだ。
 それもあまり好きじゃないチーズケーキだった。

「今日はね、 寛也ひろやの30歳の誕生日よ? 今年はいっしょにお祝いできて嬉しいな、母さん」

 ダイニングテーブルに写真をおく。
 幼い少年が仏頂面で写っている。

 久しぶりに見た気がする。
 そうだ、私には兄がいたんだ。
 仏間も久しく行っていない。
 私は思わずその写真を手に取った。

「どうしたの、由奈?」

 口元のほくろ、少し垂れた目、癖のある黒髪のショートヘア……

「……お、お兄ちゃ……」

 あの『お兄さん』は、『お兄ちゃん』だったんだ──


 堰きを切ったように、どんどん思い出があふれてくる。
 なぜ、今まで忘れていたのだろう。

 いや、忘れる努力をしてきたんだ。

 寂しかったから。
 辛かったから。
 悲しかったから。
 苦しかったから。

 いまだに父は仕事に逃げたままだし、母は働くことをやめ、自宅にこもったままだ。

『ゆーちゃん、ちゃんとついてこなきゃだめだよ』

 兄の小さくも大きな手が私のてをひいていたのが目に浮かぶ。

 そうだ。
 昔は、共働きだった。
 だから、兄が私の面倒をよく見ていた。
 兄の友人たちといっしょに戦隊ごっこをしたこともある。

 そんな兄の得意なおやつは、

「……ホットケーキ」

 つぶやいた私に、母は笑う。

「そうだったねぇ。ホットプレートでホットケーキ焼いてたよね。使い倒してたねぇ、寛也は」

 兄は週に2回はホットプレートで作ってくれたと思う。
 火を使わない道具として、唯一許可が出ていた調理器具だったのもある。

『ゆーちゃん、今日はホットケーキだぞー』

 兄の声に、私はきゃっきゃっとジャンプし、手を叩く。
 兄のホットケーキが大好きだった。
 いつものホットケーキだけじゃなく、バナナを入れてくれたり、冷凍のブルーベリーを入れてくれたり、工夫が絶えなかったのもある。

『ゆーちゃん、また泣いたの? いたいの、いたいの、ふじさんにとんでけー!』

 泣き虫の私に、頭をぽんぽん叩きながら、おまじないをして、その度に電子レンジで甘い甘いココアを作ってくれたんだ。

「……お兄ちゃ……」

 言葉にならない。
 後悔と嬉しさがないまぜになって、涙しか出てこない。
 もう一度、お兄ちゃんと呼びたかった。
 呼びたかったのに、私は、思い出せなかった。
 喉の奥から思い出を吐き出せなかった。


 辛くて、必死に飲み込んで沈めた、キラキラした優しい思い出──


 いきなりわんわん泣き出した私を見て、母はおろおろとしていたけれど、すぐに電子レンジに牛乳を注いで、カップを入れる。

「……はい、由奈。これ飲んだら落ち着くよ?」

 ホットココアだ。
 香りをかぐだけで、まぶたの裏に浮かんでくる。

 クサ婆の「あまーい」という渋い顔と、ビスケットさんのまんざらでもない顔、そして、大人になった、いや、つま先をおじさんの域に浸したお兄ちゃんの笑顔が浮かんでくる。

 あの笑顔は本物で、あの味も本物だった。

 ココアを飲む私をじっと母は見ている。
 鼻をかみ、化粧も何もかも落ちた顔をテッシュで拭う。
 熱くもない湯気を吹いてから、私は母を見ずに話してみた。

「……今日ね、大人のお兄ちゃんに、会ったんだ」

 ぽつぽつと言葉にすると、母は驚きながらも、『それは夢だ』と否定しなかった。
 兄と同じ笑顔で顔をのぞきこんでくる。
 ️
「……どうだった? かっこよかった?」
「あんまり、子どものときと変わってなかったかな」
「それでそれで?」

 ぽつりぽつりと、嘘みたいな話を母も泣きながら聞いてくれた。

 だけど、母が最後に聞いてきた、

「母さんのこと、怒ったりしてなかった?」

 これは、兄に直接聞いてくれと、私は答えた。

 こういうところが母の嫌いなところだ。
 スッキリした気持ちに塵が積もる。
 いいことがあっても、嫌なことも、同時に起こるのが、人生だ。



 ケーキを写真の兄と囲んで食べてから、シャワーを上がり、部屋に戻った私を待っていたのはスマホだった。
 スマホと離れ離れでいたことを思い出し、画面を立ち上げる。
 すぐに目に入ったのは、未既読のメール、5件だ。


「……うわ」

 会社から2通は入っているハズだ。
 理由は2件仕事を終わらせてきたから。
 きっと数字の文字の大きさが書類と合わないとか、レイアウトを変えろとか、内容に全く関係ない仕事が書かれてるはずだ。

 最後まで特別な今日を無事に終われないのも私らしい。
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