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母の残像
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『玉座の檻』では逆賊アミーユは単なる捨て子として描かれており、本当の母親は描かれてはいない。
そもそも逆賊アミーユは、母親を探すような人物ではない。玉座を奪うことに心とらわれた悪党だ。
物語にも3妃は登場する。3妃とも逆賊アミーユに害される。
豚妃は殺され、泥妃は追放され、幸妃は幽閉される。
つまり、俺が、パメラ妃を殺し、アデレート宰相を追放し、悲劇の妃を幽閉するのか……?
アミーユは自分がそんなことをしでかすとはつゆとも思えなかった。
♰♰♰
アミーユの夜会に出るのをやめる、との決意は、やすやすとひるがえった。一少佐としては会うのも叶わない雲の上の人が、伯爵としてならば会える。それが社交界の良いところだ。
アデレート宰相閣下が俺の母親などと、夢みたいなことを思うな。そう考えるもアミーユはほのかな期待を抱いたままでいる。
アミーユが夜会に出れば、アデレート宰相は親しげな言葉をかけ、ダンスに誘ってくる。しかし、そこまでだった。
それもそうだ。宰相という地位に上り詰めることができたのも、それだけ守りが固いせいだ。俺は訳ありの子。今更スキャンダルを掘り起こすような真似をするはずがない。
それならば、いっそ邪険にしてくれればいいものを。
今やアミーユはアデレート宰相のお気に入りと認識され、令嬢令息のみならず、紳士に貴婦人からもちやほやされるようになっていた。
常に人垣ができるようになった。その人垣が途切れたタイミングで声がかかった。
「よ、少佐」
見れば、子爵家の三男坊、レオナルドだ。
船で大儲けして、三人目の妻もめとったが、茶目茶髪の童顔はこころなしかやつれている。話に聞けば、三人目の妻は浮気性で苦労が絶えないらしい。
「お前なあ、宰相閣下だけはやめとけ」
レオナルドが呆れ顔で言ってくる。
「どういう意味だ」
「惚れてんだろう? 目つきでわかる。だがお前に手に負える女ではないぞ」
母親かとほのかに慕うアデレート宰相を、そういう対象にされてアミーユは不快になった。
「閣下を、けがさないでくれないか」
「け、けけ、けが、けがす? ………ふう、こいつは重症だな」
呆れ果てるレオナルドに、今度はアミーユが尋ねる。
「閣下のあの黒髪、染めてるとしたらどう思う?」
「それこそ、どういう意味だ」
「地毛は何色だと思う?」
「そろそろ白髪でしょ」
「ちゃんと答えろよ」
「そりゃまあ、あの目の青さからすれば金髪の可能性が高いよな」
金髪碧眼。
アミーユは満足な答えを引き出して、大きくうなづいた。
「なあ、俺と閣下は似てると思わないか」
レオナルドはポカンと口を開けた。
「え? いやあ、ないない」
「似てるところがあると思わないか」
アミーユの真剣な顔にレオナルドはハッと息を呑む。アミーユは憧れを含む目でアデレートを追っている。その目には純粋な憧れしか浮かんでいない。母親に抱く慕情を浮かべているように見える。
何を考えているんだ、アミーユ。
そういえば、こいつは幼年学校のときもほとんど帰省したことがなかった。こいつの口からは親の話を聞いたこともない。それに夫妻もまたゲイルが死ねば、さっさと領地に引き下がってしまった。
いろいろな事情をつなぎ合わせて、レオナルドにはアミーユの心うちが何となくわかった。
レオナルドはいつになく神妙な顔をした。
「お前が何を考えてるのかはわからんが、あの宰相には亡夫との間に子どもが二人いるんだ。下のは確か俺らと同い年だ」
アミーユは目を見開き、しばらく黙り込んでいた。傷ついた顔を素早く隠しこんで、つぶやくのが聞こえた。
「……そうだったのか」
「ああ、そうだ。だから、変なことを考えるのは」
「いや、もういい。もういいんだ」
アデレート宰相がアミーユの母親である線は完全に消えた。一年に二度出産する可能性も、双子である可能性もなくはないが、それならば、アミーユだけを捨てる理由もない。
母上ではない、母上ではなかった。
またもやアミーユは母親に捨てられる。いもしない母親に捨てられる。こうやって求める限り、捨てられ続ける。
「アミーユ、大丈夫か」
苦悩を浮かべたアミーユをレオナルドは気遣う。
「今のは忘れてくれ」
出口に向かうアミーユは、取り囲んでくる人を避けるように身をかわして、足を速めた。
俺はどんな目つきでアデレート宰相を眺めていたのだろう。もの欲しそうな顔で見つめていたのだろうか。
レオナルドの耳に妙な噂として届く程度には、粘り気のある目つきで見つめていたのだろう。
なんて滑稽な。
バカな夢を見たせいだ。
少し優しくされただけで母親だと思うなんて。
母上、どうして俺を捨てた。どうして伯爵家に捨てた。愛情の痕跡など一滴も残さずに捨ててくれたらよかったのに。その一滴のために俺はこんなに翻弄されてしまう……。
前方にアミーユの姿を見て、叫び出した女がいた。黄色いドレスの女。
「あああ、わたしのかわいいこ」
幸妃は、弾けたバネのような勢いでアミーユに突進してくる。
なんなんだ、こんなときに。
アミーユは幸妃を物悲しく眺める。幸妃の姿に、アミーユは苛まれる。
頭がおかしくなるほどに我が子を思う母親もいるというのに。
アミーユは、自分に抱きつこうとしてきた幸妃を思わず手で押し返していた。
目の前で、幸妃はペタンと尻もちをついた。キョトンとしている。
周囲が静まり返る。
アミーユは我に返った。
ああ、やってしまった。
幸妃の手にした袋の口が開いて、床にクッキーがばらばらと零れ落ちるのが見えた。
この人は、いつもクッキーを持ち歩いているのか。
今度こそ、アミーユは失態を免れない。自分よりも力の弱い相手を、乱暴に押し返したのだ。
それに、相手は王族だ。処分を受けるかもしれなかった。
アミーユは幸妃を助け起こした。
立ち上がった幸妃はしばらくぼんやりしていたが、やがて、わっと両手で顔を覆って泣き始めた。その泣き声がアミーユをますます悪者にする。
アミーユは床を這ってクッキーを拾い始めた。またもや遠巻きに眺められているが、今回はまなざしが冷たい。泣きたいのはアミーユのほうだった。
アミーユは拾い上げたクッキーを幸妃の前に掲げてみせた。
クッキーを食べてみせれば気が済むだろうか。
「これを、私がいただいてもいいのでしょうか?」
何とか宥めようとするアミーユの声に、幸妃の泣き声がピタッと止まった。
「おいしそうだ。いただきます!」
泣いていた目を途端に輝かせる幸妃。年かさの女なのに、その顔つきはあどけない。
クッキーをほおばろうとしたそのとき、背中で叫び声が上がった。
「ならぬぞっ」
アミーユは手を止めた。
声に振り向けば真っ赤なドレスが目に入ってきた。ふくよかな体を揺らして近づいてくるのは、豚妃、こと、パメラ王太子妃。
肉感のある胸を揺らして、アミーユに告げる。
「レルシュ伯、食べてはならぬ」
アミーユは、次のパメラ妃の言葉に唖然とする。
「それは毒入りじゃ」
その言葉は周囲をも凍えさせた。
幸妃に視線が集まった。
毒入り?
幸妃は期待に満ちたまなざしでアミーユを眺めている。
どうぞお食べ、とばかりに、顔をほころばせている。
これに毒が?
幸妃は無邪気な顔でアミーユを見つめている。
「何ですって?」
非難の声をあげたのは、幸妃に追いついた侍女だった。前髪が不格好に重い。
「パメラさま、どうして、そんなことをおっしゃるのですか?」
侍女はパメラに訴えた。パメラの貫禄に、怯みそうになるのを必死に踏ん張っている。
「そのクッキーをジョージが、今朝、食べたのだ。そうしたら、お腹を壊した」
「どうしてこのクッキーのせいだと?」
「簡単なこと。今朝からクッキーしか食べていなかったからだ。マリアどのは、ジョージに危害を加えようとしたのだ。ジョージはこの国の王子ぞ!」
静まり返っていた周囲は次第にざわつき始めた。
「毒だって?」
「いや、まさか」
「俺も食ったけど何ともなかったぞ」
「しかし、ジョージ王子に何かあったのなら由々しき問題」
「ジョージ殿下は実質的には、唯一の継承権者」
アミーユはクッキーを拾い集めた袋を急いで上着の内ポケットに入れた。
このまま騒ぎが大きくなるのはまずい。引き下がってもらわなければならないのは、当然、幸妃マリアだ。
アミーユは侍女に告げる。
「私はレルシュ少佐です。このクッキーは私が預かります。今は、お引き下がりください。ことがこじれて困るのはマリア妃殿下です」
侍女はさすがに、自分がとんでもない相手に食って掛かったことに気が付いたようだった。パメラの足元にすがりついて詫びる。
「パメラさま、お許しください。ジョージさまの一刻も早い回復を祈っております」
「ええい、やめい」
パメラは侍女を蹴飛ばして、背を向ける。足蹴にされた侍女は床にうずくまっていたが、起き上がると、幸妃を宥めてどうにか出口へと連れ出していった。
アミーユはパメラを追いかけた。後ろから問いかける。
「パメラ妃殿下、ジョージ殿下の様子はどうなのです?」
「とっくに回復しておる」
「パメラ妃殿下、……殿下は私を助けてくれたのですか」
パメラは立ち止った。
「そうか。そう見えたか」
扇子の隙間から覗く口元がうっすらと笑んでいた。
♰♰♰
その夜、兵舎に戻ったアミーユは、袋の中のクッキーを皿に広げた。つまんで食べてみる。やはり素朴なバターの香りがする。
兵士らのいる談話室にクッキーの皿を置いておけば、たちまち皿は空になった。
その翌朝、腹を下した兵士は一人もいなかった。
クッキーは毒入りどころか傷んでもなかった。
パメラ妃は嘘をついたのだ。
何故か。
幸妃を貶めるためか、いやそうではない。幸妃をもう貶める必要などないはずだ。パメラ王太子妃には敵にもならない相手だ。兄弟王子の妻同士だが、二人の境遇には雲泥の差がある。
パメラの嘘で得をしたのは、ほかならぬアミーユだ。アミーユの幸妃への無礼はうやむやになった。
パメラ妃は俺を助けたのだ。アミーユにはそうとしか思えなかった。
パメラ妃は決して冷たい人ではない。侍女を蹴ったのも、むしろパメラ妃の温情だ。あれで侍女のパメラ妃への無礼が手打ちになった。
パメラ妃があのタイミングで現れたということは、俺をずっと見守っていたのではないか。
しかし、アミーユはその先の想像を膨らませなかった。ただ、自分を見守ってくれる人がいる、それで十分ではないか。
アミーユの母親への想いはパメラ妃によって昇華されていた。
以後、アミーユは夜会に出るのをばったりとやめた。
そもそも逆賊アミーユは、母親を探すような人物ではない。玉座を奪うことに心とらわれた悪党だ。
物語にも3妃は登場する。3妃とも逆賊アミーユに害される。
豚妃は殺され、泥妃は追放され、幸妃は幽閉される。
つまり、俺が、パメラ妃を殺し、アデレート宰相を追放し、悲劇の妃を幽閉するのか……?
アミーユは自分がそんなことをしでかすとはつゆとも思えなかった。
♰♰♰
アミーユの夜会に出るのをやめる、との決意は、やすやすとひるがえった。一少佐としては会うのも叶わない雲の上の人が、伯爵としてならば会える。それが社交界の良いところだ。
アデレート宰相閣下が俺の母親などと、夢みたいなことを思うな。そう考えるもアミーユはほのかな期待を抱いたままでいる。
アミーユが夜会に出れば、アデレート宰相は親しげな言葉をかけ、ダンスに誘ってくる。しかし、そこまでだった。
それもそうだ。宰相という地位に上り詰めることができたのも、それだけ守りが固いせいだ。俺は訳ありの子。今更スキャンダルを掘り起こすような真似をするはずがない。
それならば、いっそ邪険にしてくれればいいものを。
今やアミーユはアデレート宰相のお気に入りと認識され、令嬢令息のみならず、紳士に貴婦人からもちやほやされるようになっていた。
常に人垣ができるようになった。その人垣が途切れたタイミングで声がかかった。
「よ、少佐」
見れば、子爵家の三男坊、レオナルドだ。
船で大儲けして、三人目の妻もめとったが、茶目茶髪の童顔はこころなしかやつれている。話に聞けば、三人目の妻は浮気性で苦労が絶えないらしい。
「お前なあ、宰相閣下だけはやめとけ」
レオナルドが呆れ顔で言ってくる。
「どういう意味だ」
「惚れてんだろう? 目つきでわかる。だがお前に手に負える女ではないぞ」
母親かとほのかに慕うアデレート宰相を、そういう対象にされてアミーユは不快になった。
「閣下を、けがさないでくれないか」
「け、けけ、けが、けがす? ………ふう、こいつは重症だな」
呆れ果てるレオナルドに、今度はアミーユが尋ねる。
「閣下のあの黒髪、染めてるとしたらどう思う?」
「それこそ、どういう意味だ」
「地毛は何色だと思う?」
「そろそろ白髪でしょ」
「ちゃんと答えろよ」
「そりゃまあ、あの目の青さからすれば金髪の可能性が高いよな」
金髪碧眼。
アミーユは満足な答えを引き出して、大きくうなづいた。
「なあ、俺と閣下は似てると思わないか」
レオナルドはポカンと口を開けた。
「え? いやあ、ないない」
「似てるところがあると思わないか」
アミーユの真剣な顔にレオナルドはハッと息を呑む。アミーユは憧れを含む目でアデレートを追っている。その目には純粋な憧れしか浮かんでいない。母親に抱く慕情を浮かべているように見える。
何を考えているんだ、アミーユ。
そういえば、こいつは幼年学校のときもほとんど帰省したことがなかった。こいつの口からは親の話を聞いたこともない。それに夫妻もまたゲイルが死ねば、さっさと領地に引き下がってしまった。
いろいろな事情をつなぎ合わせて、レオナルドにはアミーユの心うちが何となくわかった。
レオナルドはいつになく神妙な顔をした。
「お前が何を考えてるのかはわからんが、あの宰相には亡夫との間に子どもが二人いるんだ。下のは確か俺らと同い年だ」
アミーユは目を見開き、しばらく黙り込んでいた。傷ついた顔を素早く隠しこんで、つぶやくのが聞こえた。
「……そうだったのか」
「ああ、そうだ。だから、変なことを考えるのは」
「いや、もういい。もういいんだ」
アデレート宰相がアミーユの母親である線は完全に消えた。一年に二度出産する可能性も、双子である可能性もなくはないが、それならば、アミーユだけを捨てる理由もない。
母上ではない、母上ではなかった。
またもやアミーユは母親に捨てられる。いもしない母親に捨てられる。こうやって求める限り、捨てられ続ける。
「アミーユ、大丈夫か」
苦悩を浮かべたアミーユをレオナルドは気遣う。
「今のは忘れてくれ」
出口に向かうアミーユは、取り囲んでくる人を避けるように身をかわして、足を速めた。
俺はどんな目つきでアデレート宰相を眺めていたのだろう。もの欲しそうな顔で見つめていたのだろうか。
レオナルドの耳に妙な噂として届く程度には、粘り気のある目つきで見つめていたのだろう。
なんて滑稽な。
バカな夢を見たせいだ。
少し優しくされただけで母親だと思うなんて。
母上、どうして俺を捨てた。どうして伯爵家に捨てた。愛情の痕跡など一滴も残さずに捨ててくれたらよかったのに。その一滴のために俺はこんなに翻弄されてしまう……。
前方にアミーユの姿を見て、叫び出した女がいた。黄色いドレスの女。
「あああ、わたしのかわいいこ」
幸妃は、弾けたバネのような勢いでアミーユに突進してくる。
なんなんだ、こんなときに。
アミーユは幸妃を物悲しく眺める。幸妃の姿に、アミーユは苛まれる。
頭がおかしくなるほどに我が子を思う母親もいるというのに。
アミーユは、自分に抱きつこうとしてきた幸妃を思わず手で押し返していた。
目の前で、幸妃はペタンと尻もちをついた。キョトンとしている。
周囲が静まり返る。
アミーユは我に返った。
ああ、やってしまった。
幸妃の手にした袋の口が開いて、床にクッキーがばらばらと零れ落ちるのが見えた。
この人は、いつもクッキーを持ち歩いているのか。
今度こそ、アミーユは失態を免れない。自分よりも力の弱い相手を、乱暴に押し返したのだ。
それに、相手は王族だ。処分を受けるかもしれなかった。
アミーユは幸妃を助け起こした。
立ち上がった幸妃はしばらくぼんやりしていたが、やがて、わっと両手で顔を覆って泣き始めた。その泣き声がアミーユをますます悪者にする。
アミーユは床を這ってクッキーを拾い始めた。またもや遠巻きに眺められているが、今回はまなざしが冷たい。泣きたいのはアミーユのほうだった。
アミーユは拾い上げたクッキーを幸妃の前に掲げてみせた。
クッキーを食べてみせれば気が済むだろうか。
「これを、私がいただいてもいいのでしょうか?」
何とか宥めようとするアミーユの声に、幸妃の泣き声がピタッと止まった。
「おいしそうだ。いただきます!」
泣いていた目を途端に輝かせる幸妃。年かさの女なのに、その顔つきはあどけない。
クッキーをほおばろうとしたそのとき、背中で叫び声が上がった。
「ならぬぞっ」
アミーユは手を止めた。
声に振り向けば真っ赤なドレスが目に入ってきた。ふくよかな体を揺らして近づいてくるのは、豚妃、こと、パメラ王太子妃。
肉感のある胸を揺らして、アミーユに告げる。
「レルシュ伯、食べてはならぬ」
アミーユは、次のパメラ妃の言葉に唖然とする。
「それは毒入りじゃ」
その言葉は周囲をも凍えさせた。
幸妃に視線が集まった。
毒入り?
幸妃は期待に満ちたまなざしでアミーユを眺めている。
どうぞお食べ、とばかりに、顔をほころばせている。
これに毒が?
幸妃は無邪気な顔でアミーユを見つめている。
「何ですって?」
非難の声をあげたのは、幸妃に追いついた侍女だった。前髪が不格好に重い。
「パメラさま、どうして、そんなことをおっしゃるのですか?」
侍女はパメラに訴えた。パメラの貫禄に、怯みそうになるのを必死に踏ん張っている。
「そのクッキーをジョージが、今朝、食べたのだ。そうしたら、お腹を壊した」
「どうしてこのクッキーのせいだと?」
「簡単なこと。今朝からクッキーしか食べていなかったからだ。マリアどのは、ジョージに危害を加えようとしたのだ。ジョージはこの国の王子ぞ!」
静まり返っていた周囲は次第にざわつき始めた。
「毒だって?」
「いや、まさか」
「俺も食ったけど何ともなかったぞ」
「しかし、ジョージ王子に何かあったのなら由々しき問題」
「ジョージ殿下は実質的には、唯一の継承権者」
アミーユはクッキーを拾い集めた袋を急いで上着の内ポケットに入れた。
このまま騒ぎが大きくなるのはまずい。引き下がってもらわなければならないのは、当然、幸妃マリアだ。
アミーユは侍女に告げる。
「私はレルシュ少佐です。このクッキーは私が預かります。今は、お引き下がりください。ことがこじれて困るのはマリア妃殿下です」
侍女はさすがに、自分がとんでもない相手に食って掛かったことに気が付いたようだった。パメラの足元にすがりついて詫びる。
「パメラさま、お許しください。ジョージさまの一刻も早い回復を祈っております」
「ええい、やめい」
パメラは侍女を蹴飛ばして、背を向ける。足蹴にされた侍女は床にうずくまっていたが、起き上がると、幸妃を宥めてどうにか出口へと連れ出していった。
アミーユはパメラを追いかけた。後ろから問いかける。
「パメラ妃殿下、ジョージ殿下の様子はどうなのです?」
「とっくに回復しておる」
「パメラ妃殿下、……殿下は私を助けてくれたのですか」
パメラは立ち止った。
「そうか。そう見えたか」
扇子の隙間から覗く口元がうっすらと笑んでいた。
♰♰♰
その夜、兵舎に戻ったアミーユは、袋の中のクッキーを皿に広げた。つまんで食べてみる。やはり素朴なバターの香りがする。
兵士らのいる談話室にクッキーの皿を置いておけば、たちまち皿は空になった。
その翌朝、腹を下した兵士は一人もいなかった。
クッキーは毒入りどころか傷んでもなかった。
パメラ妃は嘘をついたのだ。
何故か。
幸妃を貶めるためか、いやそうではない。幸妃をもう貶める必要などないはずだ。パメラ王太子妃には敵にもならない相手だ。兄弟王子の妻同士だが、二人の境遇には雲泥の差がある。
パメラの嘘で得をしたのは、ほかならぬアミーユだ。アミーユの幸妃への無礼はうやむやになった。
パメラ妃は俺を助けたのだ。アミーユにはそうとしか思えなかった。
パメラ妃は決して冷たい人ではない。侍女を蹴ったのも、むしろパメラ妃の温情だ。あれで侍女のパメラ妃への無礼が手打ちになった。
パメラ妃があのタイミングで現れたということは、俺をずっと見守っていたのではないか。
しかし、アミーユはその先の想像を膨らませなかった。ただ、自分を見守ってくれる人がいる、それで十分ではないか。
アミーユの母親への想いはパメラ妃によって昇華されていた。
以後、アミーユは夜会に出るのをばったりとやめた。
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