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蛇
しおりを挟むーーなあレイ、いつまで俺から目を背けるんだ?
『お前が私の中から消えるまでだ。』
ーーつれないねぇ。でも、どうせ使うんだろう?
『適材適所だ。使える物は使うだけの主義だよ。』
ーーふふっ、それでも楽しみにしているぞ。
奴は相変わらず嫌らしい吐息を耳元に吹きかけると、ゆっくりと這いずって消えていった。
一度眼を閉じてから開くと、右手に幾つかの銅貨を持ったまま、茂みに置かれた木箱の前に立っていた。全く、通過中に干渉をしてくるとは大概困ったものだ。私の人生最大の腐れ縁だ。生まれた時から共にあり、どこに行くのかは誰にもわからない。
木箱に銅貨を放り込み、後ろからリナリアがちゃんと着いて来ているか確認する。相変わらず彼女は口数が少なく、黙って私に着いてくる様子は少々心配になる。
「薮を通り抜けるぞ。あまり離れるな。」
「わかったわ。」
短い会話を経て、私は枯れ草の薮をかき分けて入り込む。森の中の家と通ずる道で機能している物の一つだ。あまり多様すると出口で物珍しい目を向けられるから個人的にあまり好きではない。それに••••••
足元で水音が聞こえて、一歩踏み出すために持ち上げる足にぬちゃりとした不快感がある。全く、考えた側からもう泥濘に足を突っ込んだようだ。つまり出口が近いという事だが、いきなり靴が浸水するのは本当に勘弁してほしい。
背後でリナリアが小さく悲鳴を上げる。きっと彼女も泥濘に足を突っ込んだに違いない。
「この出口は残念なことに川の岸辺に出るからな。この泥濘ばかりはちょいと我慢してくれよ、お姫様。」
「それくらい構いません。民を救う第一歩を踏み出せるなら、靴が浸水するぐらいはどうということないです。」
「あっ、藪蛇。」
揶揄うつもりで嘘を言った瞬間、リナリアは慌てた様子で泥濘を構わず走って私の背中に跳びついた。蛇に怯える乙女の可愛らしい一面だが、私の背面は泥まみれの悲惨なことになっているに違いない。
「••••••嘘だよ。」
「う、嘘でもついていい嘘と悪い嘘があるでしょう!」
「悪かったよ。ほら、目的地のノーディンガムに着いたぞ。」
背丈よりも高い薮を掻き分けると、目の前に大きな石橋が現れた。私たちが出て来たのはちょうど石橋のアーチの真下辺りで、見上げる橋の上からは活気のある市民の声が聞こえる。
ホワイトランド北部、ノーディングランド王国の首都であるこの町は大河のジャブダル河の巨大な中洲の島に築かれている。この橋は街の中に造られた運河の橋だ。
「ところでリナリア、お前は蛇についてどんな印象を受ける?」
「え? へ、蛇ですか?」
「生き物の蛇、伝承の蛇、何でも良い。お前は蛇に対してどう思う?」
リナリアは困惑の表情を浮かべる。それはそうだ、突飛な質問を突然投げかけたのだからな。
ーーおいおい、随分と悪い質問をするじゃないか。いつからお前は俺の陰口を他人に言わせるようになったんだ?
『お前が久しく私に干渉して来たからだ。私の予想だとリナリアがお前の何かしらのお眼鏡に適ったように見えてな、寧ろお前の反応の方が聞きたかった。』
ずるりと巨体を引き摺って、羽毛の生えた蛇は私の正面に現れた。まるで部族の長のような威厳ある姿だ。明らかに蛇なのに、人と見間違えそうだ。
ーーちょうど思い出したから良いことを教えてやるよ、ここでリナリアを食えば、お前は女神フィニカスに勝利できるぞ。この小娘はフィニカスの差し金だ。神狩りのお前ならやるべき事はひとつのはずだよなぁ。
蛇は嫌らしい笑みを浮かべて、からからと妙な音を立てる。こいつは物心ついた時から私の中に潜む得体の知れない存在だ。
まだ私がテオゴニアにいた頃、こいつについて様々な文献を調べてみたが、まつわる具体的な話はまともに見つけられなかった。こいつの容姿の特徴を掠めるような蛇伝説は世界中にあるが、こいつと全く同じ姿の蛇伝承はひとつも無かった。この蛇は伝承の坩堝のような姿だが、どこにも当てはまらないのだ。
『随分と物騒なことを言うんだな。お前はリナリアが死んだ方が都合が良いのか?』
ーーそうかも知れない。だが俺は色々封印されているから、よくはわからない。まあ面白そうだからまだ殺すなよ。ああ、でもわかるぞ。お前にリナリアは絶対殺せない。それどころか命を賭けて守るよなあ。俺はお前でもあるから、お前次第ではそうしてしまうだろうなあ。怖い、許せない、二度と繰り返さない。そうだろう?
蛇は一転して愛おしそうに語り、愛おしそうに困惑したまま固まったリナリアに巻きついて彼女の頬を舐める。
『もう良いだろう。用事が山積みなんだ。お前は私の後ろでくつろぎながら眺めていろ。』
ーー今度はもっとちゃんと眼を見て話してくれよ。あとは酒場で串焼き鳥を注文しろよ。
蛇は卑しい笑みを浮かべると、私の背後に回り込んで消えた。それと同時に世界が動き出し、橋の上の活気の音と悩むリナリアの声が私の耳に流れ込んで来た。
「恐ろしくて、唆す存在で、古い神とも捉えられる存在でしょうか。聖母教会の教えでは唆す悪として教えられますね。」
蛇が消えると同時にリナリアは彼女の蛇に対する見解を述べた。間違っていない、蛇は往々にしてそういうものだ。卑怯者を蛇野郎なんて呼ぶ事だってある。
「そうか、すまんが意味がわからないと思うがお前の意見を貴重な参考にしておくよ。それと、もし外なる神などから交信があったら絶対に名前を与えるなよ。神の類は、名によって力を得るんだ。特に力を失った神は尚更だ。」
リナリアは非常に何か言いたげだったが、これ以上はあまり時間を無駄にしたくなかったため有無を言わせない態度で土手の上に通ずる階段を登る。水運による交易で非常に活気の良い市場が中央の大通りに広がっている。リナリアには逸れないように着いてくるよう伝え、人混みを掻き分けて目当ての酒場を目指す。
人混みの中でしばしば私の顔を見て気づく人間がおり、皆顔を青褪めさせてその場を離れて行く。中には衛兵に伝達する者もおり、鬱陶しいことに後をつけられる事になった。何かを吹っ掛けられなければ事なきで終わるのだから、無闇に仕事を増やさなくても良いのに。
そんなことを考えていると、大通りに面した酒場に到着した。席のほとんどは柵に囲われた敷地の屋外に置かれ、屋内の席は明らかに階級の違う人間が利用している。そしてその中であっさりとお目当ての人物がカウンター席に座っているのを見つけた。毛皮のマントが特徴的だ。
「レイ、ここが目的の場所なの?」
「ああ、ノーデン王へのコネクションを持つ人物が大体いつもここにいる。」
カウンターに座る男、ノーデン人らしく顔に刺青を入れており編み込んだ金髪が特徴的だ。瞳は吸い込まれるような青色だ。蜜酒を一杯煽るように飲むと、濡れた髭を拭った。
真っ直ぐ男の隣の席に座り、リナリアを私の隣に座らせる。
「マスター、彼にもう一杯蜜酒を。私には少なめで、そこのお嬢ちゃんには子供でも飲めるものを出してくれ。」
マスターは私の顔を見るなり苦い表情を浮かべるが、注文通りに品を出す。リナリアにはミルクが出された。私はマスターに適当な銀貨を支払い、マスターはそれを受け取ると極力私と距離を保つ。
新しい蜜酒を飲んだノーデン人の男は青い瞳で私に目を向ける。
「レイ・スカーレット。いかれた蛇女が数年越しに俺に何の用だ?」
男は相変わらずの独特なしゃがれた声で、久しい挨拶代わりの毒を吐きながらこちらを向く。
「ハーヴィ・ヤヴンハール、その様子だとまた鬼嫁に浮気を疑われて理不尽な目に遭わされたか?」
「ご明察だよ。数年前にお前と仕事をした後も酷い目に遭ったんだ。」
「お気の毒に、それで仕事の話なんだが。」
「ちょっと待て、鬼嫁対策で最近は契約書を持ち歩いているんだ。準備だけさせろ。」
ハーヴィは懐から丸めた紙を出し、それを広げた。簡単に契約書の内容に目を通してみたが、肉体関係をハーヴィと持たないこと、ハーヴィの妻からハーヴィを奪わないことなどが書かれており、あまりに滑稽で誰が作成したのかすぐに察せてしまい、右眉が思わず顰めた表情になってしまう。
「なるほどこんなに馬鹿馬鹿しい本題とは関係ない契約書は初めて見た。じゃあ、さっさとサインをしておこう。」
ハーヴィがらしくなく懐から取り出した羽根ペンを受け取り、契約書もとい誓約書に自身の名前を書く。ハーヴィは安心したように私が返すペンを受け取り、さらにもう一杯蜜酒を飲んだ。この程度では彼は酔わないから相変わらずの酒豪だ。
「それで、結社仲間に何の依頼だ?」
「まず前提条件だが、大陸の情勢はどのくらい把握している?」
ハーヴィはしばらく髭を撫でて難しい表情を浮かべる。
「いや、全くわからん。」
「そうか、じゃあまずは炎帝がクリフォート王国を滅ぼした。」
ハーヴィは偶然同時に口に含んだ蜜酒を吹き出した。
「そ、それは確かなのか?」
「ああ、それで私の連れてきたお嬢ちゃんはゴデッソンだ。」
ハーヴィは驚きのあまりリナリアを指差そうとしたが突然の情報量に戸惑い、右手の人差し指は狙いが定まらないまま彷徨っていた。
「おい、そいつはつまり、つい最近に白鯨海を渡って来たということだよな。今の時期だとその術は白鯨避けオイルのランタンしかないはずだ。」
「ああ、そうだ。だから結社が必要な案件なんだよ。お前にやってもらいたいのはノーデン王に依頼の文を送ることだ。リナリア姫はクリフォート王国で国民と共に避難をしていたがノーデン人の人攫いに襲われて、彼女だけが例の手段でホワイトランドに連れて来られた。この状況でもリナリア姫は自国民の救出を第一に考えている。ノーデン人の人攫いは追放されたノーデンの罪人といったところだろう。だから罪人の征伐とクリフォート王国民の解放をノーデン王に依頼してほしい。黄金神族絡みの件で至急と言えば、お前なら王を動かせるだろう?」
「・・・・・・その通りだな。気になる事が多すぎるが、人命を考えるならまずやるべき事はそれだな。」
ハーヴィがそうレイの依頼に合意を示した瞬間、火薬の破裂音と共にレイの頭と酒場の木造の壁がカウンターに飛び散った。一瞬の事で何が起きたのか全くわからなかったが、確かな事は隣に座ってハーヴィと話していた彼女の左眼の瞳から光が消え失せて、頭部の右半分が抉れて無くなっていた。
レイは力なく倒れ、彼女の頭から血が溢れてカウンターを赤く染めた。
ハーヴィは鋭い姿勢を背後へ向け、釣られて私も背後に目を向けると東方系の男二人が立っていて、そのうち一人が肩に鉄製の筒を担ぎ硝煙が立ち昇っていた。
「太陽の民か、白昼堂々と石火矢を担いで背後から撃って来るとは、相変わらず東の人間は常識がねえな。」
ハーヴィは腰の手斧を手に取って構える。
「ハーヴィ・ヤヴンハール、貴様がいるとは想定外だったが、その女は神狩りだ。生かしておく通りはないだろう。」
太陽の民の男は、どこか変な訛りのランド語で答える。彼らもまた神狩りに対する憎悪を持った民族なのだろう。この酒場に来るまで、レイは何度も良いものとは思われていない視線を向けられていた。少なくとも彼女はこの地で知られた神狩りなのだろう。
そして、彼らは私の希望であった彼女を容易く殺してみせた。私の希望は潰えて、ここからどこへ向かえば良いのか、完全な路頭に迷うことになった。
レイ、あまりにも謎の多い女性だったが、彼女はいったいどんな運命を背負っていたのだろう。彼女の目には時折、後悔と憎悪が宿っていた。彼女が何を成そうとしていたのか、今となってはもうわからなくなってしまった。
石火矢を持った男が次の礫を筒に装填し、構えようとした瞬間、ハーヴィは座った姿勢のまま手斧を石火矢目掛けて投げつけ、その機構を破壊した。
驚いた太陽の民の男は仰け反り、ハーヴィは悪戯に笑った。妙なことにレイが目の前で死んだのに、彼には全く慌てた様子がない。
「ハ、ハーヴィ殿! レ、レイが・・・・・・!?」
「ああ、あまり慌てるな。すぐ起きるが、下手に動くと噛みつかれるぞ。」
ハーヴィがそう言うとレイの頸が引き裂けて、中から大量の血と共に大蛇の頭が飛び出してレイの頭部を喰らった。
大蛇の身体には羽毛が、頭部には二本の角が生えている。身体をずるりと頸の裂け目から引き摺り出すと、大蛇はレイの身体を下顎からぶら下げたまま、その巨体を起こして太陽の民を睨みつける。
「何だ、今回はこんなゴミ屑にやられたのか。レイ、流石に衰えが過ぎるんじゃないか。まあ良いさ、俺も久々の食事ができるんだ。有難くいただこうじゃないか。」
大蛇はニタリと歪んだ笑みを浮かべて涎を垂らしながら太陽の民に迫る。既に辺りは騒然としていて、酒場の客は皆いなくなり、大通りから悲鳴が響き渡っていた。
後ろから肩を叩かれてカウンター側を振り向くと、酒場のマスター私に手を差し出していた。
「お嬢ちゃん、隠れな。あまり近くにいると酷い目に遭うぞ。」
ここは彼の言う通りだと思い、手を掴んで共にカウンター裏に隠れる。ハーヴィも私に続いてカウンター裏へ飛び込み、三人でそっとカウンターから頭を出して大蛇の様子を伺う。
大蛇は逃げようとする二人の男を回り込んで、その巨体で囲い大口でまず一人を丸呑みにした。男を丸呑みにした大蛇は至極愉悦の笑みを浮かべて、怯えて腰抜かしたもう一人を尾で脚を捉えて引き摺り回し、悪戯に繰り返し叩きつける。
「こうして柔らかくした方が非常に旨い。」
大蛇に何度も叩きつけられた男は、最早虫の息でもう助かる見込みが無さそうに見える。
大蛇は大口を開けて男を丸呑みにしようとするが、突然レイの身体の右腕の義手が大蛇の意思に反して下顎を殴りつけて、無理矢理口を閉じさせる。
そしてそのまま口を開けないように掴むと、大蛇の皮膚が燃え上がった。
「おいおい、相変わらず忌々しい右腕だな。お楽しみの時間もこれっぽっちしかくれないのか。」
大蛇は惜しそうに不満を漏らすが、レイの右腕は無理矢理に大蛇の頭を引っ張り、首が繋がった大蛇の頭を引きちぎった。
大蛇の下顎が裂けると、そこから元通りのレイの頭が少々湿った状態で現れた。
彼女は掴んだ大蛇の頭を地面に叩きつけると、罵倒雑言を叫びながらそれを踏みつけた。
何が何だか、どういう原理でそうなっているのか全く理解が追いつかないが、ひとまず彼女は人智を越えた何かのおかげで無事だったということだけがわかった。
そしてレイは動けなくなった、虫の息の太陽の民の男を見つけると、剣を抜いて彼の息の根を止めた。苦しむよりもずっと良いと、彼女なりの判断でそうしたのだろう。
「ハーヴィ、あいつは奥深くに引き摺り込んで寝かしつけたからもう大丈夫だ。また、街からの脱出の手引きをしてくれ。」
レイは湿った髪を掻き上げて、服の袖で顔を拭った。ハーヴィは溜め息を吐いてからカウンターを飛び越えて行く。私も何とか乗り越えて、彼に続いてレイの元へ行く。
レイは近づいた私が困惑に満ちた表情をしているのに気がつき、こちらに歯に噛んだ笑みを向けた。
「リナリア、いずれ詳しく話そうとは思っていたが想定外の段階飛ばしになってしまったな。まずはこの騒ぎで衛兵が押し寄せて来るから逃げるぞ。そのあとでしっかり説明する。」
「わかりました。必ず説明はお願いしますよ。」
レイは駆け足で酒場から大通りに飛び出し、私もそれに続く。後ろでハーヴィが酒場のマスターに弁償の件について何か話をしていたが、しょぼくれた表情で店の惨状を眺めているマスターが本当に気の毒だった。
レイは衛兵の追跡を撒くため、複雑な住宅街の道を曲がりくねりながら通り抜ける。時には家の中に入り、凄まじい切れ味を誇るルーンソードで壁を斬って道を作り、逆に壁を切って中に入ればそこは娼館で官能的な声と独特な香の匂いがして、眩みそうになった。通り抜ける最中に、レイは「お姫様には早すぎたか。」と焦ったように言葉を漏らしていた。
そして無茶苦茶な逃走の末にようやく街の出入り口、中洲のから川を超えて対岸に掛かる石橋の入り口付近に辿り着いた。
「よし、やっとここまで来れたな。あとはハーヴィ、いつも通り頼むぞ。」
「全く、お前と関わると碌なことにならないな。例の件については任せておけ、最優先でやっておく。だが、今回の騒ぎのせいで後始末が大変だから俺は当分この街から出れないことは留意してくれ。本当に毎回毎回、お前はホワイトランドの疫病神だな。」
「おい、今は眠っているからいいが蛇に聞かれたら、あいつは激怒するぞ。もう少し謹んで言葉を選べ。」
ハーヴィは露骨に嫌そうな顔を浮かべて右手の中指でレイの額を突いた。それから彼は門番に向かって先行する。
「よしリナリア、フードを被れ。私たちは何でもないかのように、さりげなく歩いて抜けるぞ。」
レイの合図で共にフードで頭を隠して通りに出る。もし捕まってしまうとどうなるのだろうか。逃げるからには決して穏やかではない結末が待ち受けているのだろう。
ハーヴィが門番の一人に声をかけると、門番は感激の声をあげて彼と握手をする。どうやらハーヴィはこの街で憧れられる存在のようだ。次第に他の兵士も集まり、彼と談笑を始める。
「リナリア、ちょうど良いから修道女たちの列に紛れるぞ。」
レイがそう小声で言うと、彼女はちょうど街から出ようとする五人ほどの修道女の列の後ろに違和感なく並んだ。私もそれに続いて、歩き方など見様見真似で後ろに着くが、門番に怪しまれないか不安に駆られて背中を伝う汗の感覚が人生で最も鮮明に感じられた。まだ、まだ終わらない。一歩踏み出すのに十秒近く時間がかかるようにさえ感じた。心の臓の音が徐々に大きくなり、それすら聞こえてしまうのではと不安になる。
「よし、行こう。」
レイはそう告げると早歩きで修道女たちを追い越し、私も慌てて後に続く。滑らかに人混みを避ける彼女を無我夢中で追いかけていると、足がいつの間にか土を踏んでいた。同時にレイはフードを降ろして安心した表情で振り返り、私もフードを降ろした。
「さてと、すまんな。不可抗力だったが、いきなりお姫様に迷惑をかけちまった。まあ、少し川辺を歩きながら話をしよう。何から聞きたい?」
そう言われても一から十まで全部聞かなければ気が済まない事態だが、まずは大蛇について彼女に問いただす。
大蛇、レイは蛇と簡単に呼んでいる。蛇はレイが物心付く前から存在している謎の存在なのだそうだ。それは記憶も力も殆ど失っているようで、今は世界をどうこう出来る力は持ち合わせていないそうだ。レイがかつて神狩りの本拠地、都市国家テオゴニアにいた頃に文献で調べたことがあるのだそうだが、この羽毛の生えた蛇が世界のどこかの神性であるようで、どこにも特徴が完全に一致しないのだそうだ。それでいて有名な神の名、例えば黄金神族の生みの親である全能の黄金の女神フィニカスのような存在は同じ特徴で知れ渡っているが、蛇に関しては世界中の地域でそれぞれ姿形、名称、信仰の形が異なるのだ。それに当てはまらなかったレイの蛇は奇怪で特異極まりない存在なのだそうだ。
一応はレイを孤児として引き取り、育てたテオゴニアの神狩りたちはこの事を知っていたようで、仮説としてレイの蛇を古き神ではないかと一応は定義したのだそうだ。名前も信仰も失われた古き蛇の神。
そしてエズメラルダ、ハーヴィと繰り返し話していた結社という組織だ。結社はレイ曰く、ホワイトランドにおける秩序維持のために表では対立している勢力同士から代表者を選抜し、外部からの侵略者や内部での大きな戦争の火種になる可能性のある暗躍の芽を事前に摘み取るなど、一概に定義できないが特殊な協力関係を築いているのだそうだ。例を挙げればエズメラルダはハイランディア王国の代表、ハーヴィはノーディングランド王国の代表、そしてエストランディア王国からは炎帝軍の重鎮フォボス将軍、他にも聖母教会からの代表者などもいるそうだが、レイは神狩りが滅んだ際にホワイトランドに斥候として活動していたようで、自らを売り込んで特別に一員となり立場を確立したのだそうだ。
神狩り、かつて英雄だった者たちは太古の叡智の遺物の過ぎた力から人々を守っていたが、たった一度のとある神狩りの過ちでとある国が滅んだことから、大陸中から憎悪を向けられて都市国家ごと滅ぼされた者たち。レイを見ていると一概に英雄とは言えない、危険性を抱えた者たちであったというのも納得だ。だが、太古の叡智の遺物についてこの世でも最も理解のあった者達を一時の感情で滅ぼしたのは本当に正しかったのか、そこに本当に正義はあったのか、疑問が尽きないけどこの遠く離れた黄金神族に支配されたホワイトランドで考えても、考えるだけ無駄なのだろう。
他にもレイに関して気になることは尽きないが、今問いただして漠然とした答えを得るよりも、この旅路で彼女について徐々に知っていく方が、私の理解力的にも無理はないだろう。
「そうだリナリア、ノーディンガムで私は頭を吹っ飛ばされて一度死んだよな?」
「え、ええ。なんで疑問形なの。」
「自分では死んだかどうか知覚し難いんだよ。結果を見てそう仮定するしかない。まあ本当に死んでたみたいだから説明するが、私の内なる蛇は力を十分に蓄えている間は一度だけ私を生き返らせることができる。というわけで、次にもし私が蛇が力を蓄えきる前に死んだら本当に死んでしまう。私も蛇も死にたくはない、だから本当にまずい時は異形になるかもしれない。それと、土壇場では絶対に無茶はするなよ。今日みたいなことはもう当分できないからな。」
レイは私に忠告した後、鱗を使うことに酷く抵抗感を感じていることを吐露していた。彼女は蛇の性格をよく知っているようだが、果たしてそんなことを言っても良いのだろうか。きっと古き神と呼ばれる存在と生まれた時から共に居る彼女にしかできなさそうな態度なのだろう。もちろん、彼女に死なれたら困るので、今日みたいな状況では私はレイの言うことを聞くべきなのだろうし、レイも嫌でも今後は鱗を使うべきなのだろう。
「もちろんですよ! 私はレイに死なれてしまったら困るんですから。今日だってあの時、絶望しかけていたんですからね!」
「すまん、すまん。今日のあれは半分事故だと思ってくれ。あいつら見慣れない兵器まで持ち出していたし。」
「••••••それで、今はどこへ向かっているんですか。国民の捜索依頼はハーヴィ殿にして現状は結果を待つだけですし、私を攫った黒幕についてはどのくらい心当たりがあるんですか?」
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