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第二章:ふたりの記憶にある“ずれ”
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瑠衣との会話のあと、俺は自分の記憶に不安を覚えるようになった。
あの日、自分は本当に図書館の前にいたのか?
彼女を待っていたのか?それとも——“待っていたと思い込んでいる”だけなのか。
翌日、俺はもう一度、梨花書房を訪ねた。
だが、店に璃子の姿はなかった。
「篠原さんなら、今月から平日シフトに変わりましたよ」
スタッフが無邪気にそう言った。まるで、俺が来ることを避けたかのように。
ふと、カウンターの奥に目をやると、そこに見覚えのある文庫本があった。10年前、璃子がよく読んでいた作家のものだ。ページの端に、何か紙片が挟まっているのが見えた。
気になって、そっと引き抜く。
——それは、一通の封筒だった。
封筒の表には、ボールペンでこう書かれていた。
《成瀬 陽翔 へ》
胸が高鳴る。だが、手は震えていた。中には、折りたたまれた一枚の手紙。
陽翔くんへ
10年前のあの日、私はたしかにあなたに会いに行きました。
でも、あなたはそこにいなかった。
私は、待って、待って、それでも来ないあなたを見て——
「記憶なんて、嘘だ」と思いました。
それでも、どうしてもひとつだけ、知ってほしかった。
あの時、私が伝えたかった言葉は——
*
(手紙はそこで、途切れていた)
震える指で手紙を握りしめた。
なぜ、ここで途切れている?なぜ——彼女は、最後まで言葉を書けなかった?
その瞬間、背後から声がした。
「……それ、見つけちゃったんだね」
振り返ると、そこに璃子が立っていた。制服ではなく、私服姿で。
「……璃子」
彼女は静かに微笑んでいた。けれど、その瞳の奥には、明らかに動揺があった。
「ごめんね、それ、ずっと渡せなかったの。……怖かったんだと思う。陽翔くんの記憶が、本当じゃないって分かってしまうのが」
「……どういう意味?」
「私たちが共有してると思ってた記憶は、同じじゃなかった。
あの日——私が見た“現実”と、あなたが覚えてる“記憶”は、違うものだったの」
「俺は……ずっと信じてた。あの日、君が来なかったって」
「でも私は——ちゃんと、行った」
璃子の目が、まっすぐに俺を射抜いた。
「陽翔くん。
記憶ってね、簡単にすり替わるの。……とくに、傷ついた人間の記憶ほど」
俺の胸が冷たくなる。
「まさか……俺は……何かを、忘れてる?」
「ううん。違うの」
璃子は静かに首を振る。
「あなたは、“書き換えられた”のよ。ある出来事の直後に」
その言葉に、背筋がぞくりとした。
——記憶が、書き換えられた?
だとしたら、誰が。何のために——?
「書き換えられた……って、どういうこと?」
俺の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
璃子はカウンターの端にある椅子に腰かけて、静かに視線を落とした。
「高校三年の春。私が転校する直前、学校で“ある事件”が起きたの。……たぶん、覚えてないよね」
「事件?」
「図書館棟の裏で、生徒が階段から落ちて、大怪我をしたの」
……そんなこと、あったか?
いや、そんな記憶は——ない。俺の脳内には、その情報に関する“何もない空白”が広がっていた。
「でも、それと俺に何の関係が——」
「その生徒、陽翔くんだった」
一瞬、時間が止まった。
「……は?」
「その事件のあと、あなたは数日間、記憶が曖昧になってた。会話もできたけど、大事なことがぽっかり抜け落ちてるような状態で……」
「ちょっと待って、俺が? 落ちた……? そんな怪我してたら、絶対覚えてるはずだろ」
「覚えてないように、“されていた”のよ」
璃子の声は静かだった。でも、その言葉のひとつひとつが、俺の心の奥を揺さぶった。
「事故が起きた当日、あなたは私と約束してた。図書館の前で、最後に会うって。でもその約束の前に——何者かに突き飛ばされたの。背中を押されて、落ちたの」
「……何者かに、って……?」
璃子は唇をかすかに噛んで、視線を宙にさまよわせた。
「そのあと、あなたはしばらく学校を休んで。記憶が戻った頃には、私、もう転校してたでしょ」
俺は、言葉が出せなかった。
確かに、あの春——数日間だけ、断片的な記憶がぼやけていた感覚がある。理由もなく不安定で、寝ても覚めても靄がかかったような時期。
でもそれは、進路のストレスや、璃子の転校のせいだと思い込んでいた。
「その事故、本当に“事件”だったのか……?」
璃子は、カバンの中から一枚の写真を取り出した。
「これ、見て」
それは、新聞の切り抜きだった。日付はちょうど10年前の春。
『高校生、図書館棟裏で転落』という見出しとともに、モザイク処理された現場の写真。
記事にはこう書かれていた。
関係者によると、現場では争ったような形跡もあり、何者かに押された可能性も——
俺の指先が冷たくなった。
「……でも、なんで今まで黙ってたんだよ。なんでそのこと、誰にも——」
「伝えようとした。でも、誰も信じてくれなかった。
“記憶が曖昧な彼に、そんな話をして混乱させるな”って、大人たちに止められたの。
先生も、あなたの親も。……だから、私も黙るしかなかった」
俺の心に、ひびが入った。
誰かが、俺の記憶を守るふりをして、真実を隠した。
そして璃子は、それをたった一人で背負っていた。
「陽翔くん……本当は、もっと前に言うべきだった。でも怖かった。あなたが、“本当の自分”を受け止められないかもしれないって」
その言葉の奥に、10年間の重みが詰まっていた。
「……じゃあ、俺が思ってた“すれ違い”は、全部——」
「あなたのせいじゃないよ。
すれ違ってたのは、記憶の方。
あなたが悪いわけじゃない」
そう言って、璃子は俺の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
——その温度が、10年分の真実を溶かしていく気がした。
その夜、璃子から渡されたもう一枚のメモには、ある名前が書かれていた。
——藤崎 悠。
同級生だった。学年で目立つ存在ではなかったが、教師からの信頼は厚く、委員長タイプの“優等生”。
そしてもう一つ——
「あいつ、犯人って噂されてたのか……?」
俺の記憶の中で、藤崎悠は“図書館裏の事故”とは何の関係もない存在だった。
だが璃子の話によると、事故の直後、彼だけが「現場付近にいた」とされ、教師に何度も呼び出されていたらしい。けれど、証拠不十分で結局“何もなかったこと”にされたという。
俺はネットで藤崎の名前を検索し、連絡の取れそうなSNSアカウントを見つけた。
《久しぶり。成瀬陽翔。少し話がしたい》
数分後、既読がついた。
《話すことなんてないと思うけど。……でも、会ってくれるなら、今夜でもいいよ》
……早すぎる。まるで“待っていた”かのような反応だった。
*
午後9時、都内のバーで待ち合わせた。
先に来ていた藤崎は、10年前よりも痩せていて、少し人の目を避けるような仕草を見せていた。
「成瀬。……生きてたんだな」
「どういう意味だよ」
藤崎はグラスを傾け、苦笑した。
「……あの日、俺が何をしたかって?言いたいことは分かるよ」
「お前が俺を——突き落としたのか?」
しばらく沈黙が流れた。
藤崎は、やがて静かに口を開いた。
「……違う。俺は、お前を助けようとしたんだ」
「助けた?」
「そう。あの日、お前の背後に“もう一人”いた。誰かが確かに、お前の背中に手を伸ばしたんだよ。俺はそれに気づいて、お前を引っ張ろうとした。でも間に合わなかった」
心臓が、冷たくなる感覚。
「なら、なぜそれを、みんなに言わなかった?」
「言ったさ。でも、“証言だけ”じゃ意味がなかった。
むしろ俺が疑われた。あの日そこにいたのが俺だけだったから。
……それ以来だよ。“何も見ていない”って、言うようになったのは」
藤崎は自嘲気味に笑った。
「お前が病院に運ばれて、意識が戻ってきた頃、先生たちが俺に言ったんだ。“もうこの話はやめよう”って。“彼のためにも、忘れてあげてほしい”って」
「俺のために……?」
「違う。“誰か”のために、だよ」
その“誰か”が誰なのか、藤崎は口にしなかった。けれど、言葉の端にひっかかるような重みがあった。
「お前の記憶が戻ってないと知ったとき、俺は安堵した。……このまま、お前が“何も思い出さない”方が、きっと楽だと思ったから。でも……」
藤崎はそこで言葉を止め、目を細めた。
「……会ってしまったんだろ、篠原と」
「……ああ」
「なら、もう止められないな。
記憶ってのは、壊れてても、どこかで“真実”を求めて動き出す。……お前の中でも、そういう何かが、うずいてるはずだ」
藤崎はそう言って、グラスを飲み干した。
そして、帰り際にポケットから何かを差し出した。
「これ、渡しておく。事故の現場で拾った、お前のものだ。誰にも見せずにずっと持ってた」
俺の手に渡されたそれは、10年前の“破れたメモ帳の一枚”だった。
薄く滲んだ文字が、一行だけ残っていた。
“図書館の裏で、18時——真実を伝える”
俺の息が止まった。
その筆跡は——俺のものだった。
俺は、破れたメモを持ったまま、深夜の帰り道を歩いていた。
「図書館の裏で、18時——真実を伝える」
10年前、俺が璃子に言おうとしていたこと。
そして、その“場所”で俺は転落した。
つまり——その日、真実を知っていたのは俺だけだった。
あのメモが意味するのは、
俺自身が、すでに“何か”に気づいていたということ。
けれどその記憶だけが、今の俺には存在しない。
失われたピース。
なぜ俺は、“自分の記憶”を忘れたのか。
その答えに気づいたのは、次の日の朝だった。
璃子から、連絡があった。
《話したいことがある。今夜、図書館の裏で》
まるで、10年前の続きをやり直すかのような言葉だった。
*
日が暮れた頃、俺はひとりで学校の裏に立っていた。
すっかり改装されたその場所には、かつての階段はもうなかった。
けれど、そこに立つと不思議と——当時の風の音まで思い出せる気がした。
やがて、璃子が現れた。
「……来てくれて、ありがとう」
「10年前の続きを、しに来た」
璃子は、微笑むとポケットから一枚の紙を取り出した。
「これはね、10年前、私があなたに渡そうとしていた手紙。未完成のままだった。でも、もうちゃんと伝えたい」
そう言って、手紙を読み始めた。
陽翔くんへ
あの時、私は本当のことを言おうとしてた。
「事故じゃなかった」
「あなたを突き落とそうとしたのは、私の親だった」
……私が、あなたとの交際を望んでることが知られてしまって、
家が、進学先が、全部壊れるって思い込んだ父が、学校に来て——
彼があなたの背中に手を伸ばした瞬間を、私は見ていた。
でも、止められなかった。怖くて。
ごめんなさい。
私が黙っていたせいで、あなたは記憶を失って、全部……すれ違った。
風の音が、静かに二人の間を吹き抜けた。
璃子は手紙を胸に抱きながら、言った。
「……あの時、あなたの両親は、すぐに私の父に“示談”を持ちかけた。
『息子には何も言わないでほしい。記憶が戻らなければ、それでいい』って」
「……だから俺は、真実を知らされないまま、“事故”として処理された」
「あなたを守るって名目で、本当は、誰もあなたに真実を伝えようとしなかった。
私も……ずっとそれに加担してた」
璃子は涙をこらえるように、言葉を飲み込んだ。
「だから、会いに行けなかった。10年間、あなたの前に出られなかった。
“本当のこと”を言えば、あなたの世界がまた壊れる気がして——」
「でも、今は」
俺は言った。
「全部、知りたいと思った。あの時、本当はどうだったのか。俺が何を言いたかったのか。君が、何を抱えてたのか」
璃子は、ゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
その目に浮かんでいたのは、10年間こらえてきた感情——罪悪感、後悔、そして、愛情だった。
「……ありがとう、陽翔くん」
俺は、メモを握りしめていた手を緩めた。
この言葉が、ようやく言えた気がした。
「10年前——俺が伝えたかった言葉。たぶん、それは……“好きだ”ってことだったんだと思う」
璃子の頬を、一筋の涙が伝った。
「私も、ずっと好きだった」
——ようやく、ふたりの記憶が重なった。
すれ違った時間。書き換えられた記憶。
それらすべてが、いま静かに、癒されていくのがわかった。
あの日、自分は本当に図書館の前にいたのか?
彼女を待っていたのか?それとも——“待っていたと思い込んでいる”だけなのか。
翌日、俺はもう一度、梨花書房を訪ねた。
だが、店に璃子の姿はなかった。
「篠原さんなら、今月から平日シフトに変わりましたよ」
スタッフが無邪気にそう言った。まるで、俺が来ることを避けたかのように。
ふと、カウンターの奥に目をやると、そこに見覚えのある文庫本があった。10年前、璃子がよく読んでいた作家のものだ。ページの端に、何か紙片が挟まっているのが見えた。
気になって、そっと引き抜く。
——それは、一通の封筒だった。
封筒の表には、ボールペンでこう書かれていた。
《成瀬 陽翔 へ》
胸が高鳴る。だが、手は震えていた。中には、折りたたまれた一枚の手紙。
陽翔くんへ
10年前のあの日、私はたしかにあなたに会いに行きました。
でも、あなたはそこにいなかった。
私は、待って、待って、それでも来ないあなたを見て——
「記憶なんて、嘘だ」と思いました。
それでも、どうしてもひとつだけ、知ってほしかった。
あの時、私が伝えたかった言葉は——
*
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震える指で手紙を握りしめた。
なぜ、ここで途切れている?なぜ——彼女は、最後まで言葉を書けなかった?
その瞬間、背後から声がした。
「……それ、見つけちゃったんだね」
振り返ると、そこに璃子が立っていた。制服ではなく、私服姿で。
「……璃子」
彼女は静かに微笑んでいた。けれど、その瞳の奥には、明らかに動揺があった。
「ごめんね、それ、ずっと渡せなかったの。……怖かったんだと思う。陽翔くんの記憶が、本当じゃないって分かってしまうのが」
「……どういう意味?」
「私たちが共有してると思ってた記憶は、同じじゃなかった。
あの日——私が見た“現実”と、あなたが覚えてる“記憶”は、違うものだったの」
「俺は……ずっと信じてた。あの日、君が来なかったって」
「でも私は——ちゃんと、行った」
璃子の目が、まっすぐに俺を射抜いた。
「陽翔くん。
記憶ってね、簡単にすり替わるの。……とくに、傷ついた人間の記憶ほど」
俺の胸が冷たくなる。
「まさか……俺は……何かを、忘れてる?」
「ううん。違うの」
璃子は静かに首を振る。
「あなたは、“書き換えられた”のよ。ある出来事の直後に」
その言葉に、背筋がぞくりとした。
——記憶が、書き換えられた?
だとしたら、誰が。何のために——?
「書き換えられた……って、どういうこと?」
俺の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
璃子はカウンターの端にある椅子に腰かけて、静かに視線を落とした。
「高校三年の春。私が転校する直前、学校で“ある事件”が起きたの。……たぶん、覚えてないよね」
「事件?」
「図書館棟の裏で、生徒が階段から落ちて、大怪我をしたの」
……そんなこと、あったか?
いや、そんな記憶は——ない。俺の脳内には、その情報に関する“何もない空白”が広がっていた。
「でも、それと俺に何の関係が——」
「その生徒、陽翔くんだった」
一瞬、時間が止まった。
「……は?」
「その事件のあと、あなたは数日間、記憶が曖昧になってた。会話もできたけど、大事なことがぽっかり抜け落ちてるような状態で……」
「ちょっと待って、俺が? 落ちた……? そんな怪我してたら、絶対覚えてるはずだろ」
「覚えてないように、“されていた”のよ」
璃子の声は静かだった。でも、その言葉のひとつひとつが、俺の心の奥を揺さぶった。
「事故が起きた当日、あなたは私と約束してた。図書館の前で、最後に会うって。でもその約束の前に——何者かに突き飛ばされたの。背中を押されて、落ちたの」
「……何者かに、って……?」
璃子は唇をかすかに噛んで、視線を宙にさまよわせた。
「そのあと、あなたはしばらく学校を休んで。記憶が戻った頃には、私、もう転校してたでしょ」
俺は、言葉が出せなかった。
確かに、あの春——数日間だけ、断片的な記憶がぼやけていた感覚がある。理由もなく不安定で、寝ても覚めても靄がかかったような時期。
でもそれは、進路のストレスや、璃子の転校のせいだと思い込んでいた。
「その事故、本当に“事件”だったのか……?」
璃子は、カバンの中から一枚の写真を取り出した。
「これ、見て」
それは、新聞の切り抜きだった。日付はちょうど10年前の春。
『高校生、図書館棟裏で転落』という見出しとともに、モザイク処理された現場の写真。
記事にはこう書かれていた。
関係者によると、現場では争ったような形跡もあり、何者かに押された可能性も——
俺の指先が冷たくなった。
「……でも、なんで今まで黙ってたんだよ。なんでそのこと、誰にも——」
「伝えようとした。でも、誰も信じてくれなかった。
“記憶が曖昧な彼に、そんな話をして混乱させるな”って、大人たちに止められたの。
先生も、あなたの親も。……だから、私も黙るしかなかった」
俺の心に、ひびが入った。
誰かが、俺の記憶を守るふりをして、真実を隠した。
そして璃子は、それをたった一人で背負っていた。
「陽翔くん……本当は、もっと前に言うべきだった。でも怖かった。あなたが、“本当の自分”を受け止められないかもしれないって」
その言葉の奥に、10年間の重みが詰まっていた。
「……じゃあ、俺が思ってた“すれ違い”は、全部——」
「あなたのせいじゃないよ。
すれ違ってたのは、記憶の方。
あなたが悪いわけじゃない」
そう言って、璃子は俺の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
——その温度が、10年分の真実を溶かしていく気がした。
その夜、璃子から渡されたもう一枚のメモには、ある名前が書かれていた。
——藤崎 悠。
同級生だった。学年で目立つ存在ではなかったが、教師からの信頼は厚く、委員長タイプの“優等生”。
そしてもう一つ——
「あいつ、犯人って噂されてたのか……?」
俺の記憶の中で、藤崎悠は“図書館裏の事故”とは何の関係もない存在だった。
だが璃子の話によると、事故の直後、彼だけが「現場付近にいた」とされ、教師に何度も呼び出されていたらしい。けれど、証拠不十分で結局“何もなかったこと”にされたという。
俺はネットで藤崎の名前を検索し、連絡の取れそうなSNSアカウントを見つけた。
《久しぶり。成瀬陽翔。少し話がしたい》
数分後、既読がついた。
《話すことなんてないと思うけど。……でも、会ってくれるなら、今夜でもいいよ》
……早すぎる。まるで“待っていた”かのような反応だった。
*
午後9時、都内のバーで待ち合わせた。
先に来ていた藤崎は、10年前よりも痩せていて、少し人の目を避けるような仕草を見せていた。
「成瀬。……生きてたんだな」
「どういう意味だよ」
藤崎はグラスを傾け、苦笑した。
「……あの日、俺が何をしたかって?言いたいことは分かるよ」
「お前が俺を——突き落としたのか?」
しばらく沈黙が流れた。
藤崎は、やがて静かに口を開いた。
「……違う。俺は、お前を助けようとしたんだ」
「助けた?」
「そう。あの日、お前の背後に“もう一人”いた。誰かが確かに、お前の背中に手を伸ばしたんだよ。俺はそれに気づいて、お前を引っ張ろうとした。でも間に合わなかった」
心臓が、冷たくなる感覚。
「なら、なぜそれを、みんなに言わなかった?」
「言ったさ。でも、“証言だけ”じゃ意味がなかった。
むしろ俺が疑われた。あの日そこにいたのが俺だけだったから。
……それ以来だよ。“何も見ていない”って、言うようになったのは」
藤崎は自嘲気味に笑った。
「お前が病院に運ばれて、意識が戻ってきた頃、先生たちが俺に言ったんだ。“もうこの話はやめよう”って。“彼のためにも、忘れてあげてほしい”って」
「俺のために……?」
「違う。“誰か”のために、だよ」
その“誰か”が誰なのか、藤崎は口にしなかった。けれど、言葉の端にひっかかるような重みがあった。
「お前の記憶が戻ってないと知ったとき、俺は安堵した。……このまま、お前が“何も思い出さない”方が、きっと楽だと思ったから。でも……」
藤崎はそこで言葉を止め、目を細めた。
「……会ってしまったんだろ、篠原と」
「……ああ」
「なら、もう止められないな。
記憶ってのは、壊れてても、どこかで“真実”を求めて動き出す。……お前の中でも、そういう何かが、うずいてるはずだ」
藤崎はそう言って、グラスを飲み干した。
そして、帰り際にポケットから何かを差し出した。
「これ、渡しておく。事故の現場で拾った、お前のものだ。誰にも見せずにずっと持ってた」
俺の手に渡されたそれは、10年前の“破れたメモ帳の一枚”だった。
薄く滲んだ文字が、一行だけ残っていた。
“図書館の裏で、18時——真実を伝える”
俺の息が止まった。
その筆跡は——俺のものだった。
俺は、破れたメモを持ったまま、深夜の帰り道を歩いていた。
「図書館の裏で、18時——真実を伝える」
10年前、俺が璃子に言おうとしていたこと。
そして、その“場所”で俺は転落した。
つまり——その日、真実を知っていたのは俺だけだった。
あのメモが意味するのは、
俺自身が、すでに“何か”に気づいていたということ。
けれどその記憶だけが、今の俺には存在しない。
失われたピース。
なぜ俺は、“自分の記憶”を忘れたのか。
その答えに気づいたのは、次の日の朝だった。
璃子から、連絡があった。
《話したいことがある。今夜、図書館の裏で》
まるで、10年前の続きをやり直すかのような言葉だった。
*
日が暮れた頃、俺はひとりで学校の裏に立っていた。
すっかり改装されたその場所には、かつての階段はもうなかった。
けれど、そこに立つと不思議と——当時の風の音まで思い出せる気がした。
やがて、璃子が現れた。
「……来てくれて、ありがとう」
「10年前の続きを、しに来た」
璃子は、微笑むとポケットから一枚の紙を取り出した。
「これはね、10年前、私があなたに渡そうとしていた手紙。未完成のままだった。でも、もうちゃんと伝えたい」
そう言って、手紙を読み始めた。
陽翔くんへ
あの時、私は本当のことを言おうとしてた。
「事故じゃなかった」
「あなたを突き落とそうとしたのは、私の親だった」
……私が、あなたとの交際を望んでることが知られてしまって、
家が、進学先が、全部壊れるって思い込んだ父が、学校に来て——
彼があなたの背中に手を伸ばした瞬間を、私は見ていた。
でも、止められなかった。怖くて。
ごめんなさい。
私が黙っていたせいで、あなたは記憶を失って、全部……すれ違った。
風の音が、静かに二人の間を吹き抜けた。
璃子は手紙を胸に抱きながら、言った。
「……あの時、あなたの両親は、すぐに私の父に“示談”を持ちかけた。
『息子には何も言わないでほしい。記憶が戻らなければ、それでいい』って」
「……だから俺は、真実を知らされないまま、“事故”として処理された」
「あなたを守るって名目で、本当は、誰もあなたに真実を伝えようとしなかった。
私も……ずっとそれに加担してた」
璃子は涙をこらえるように、言葉を飲み込んだ。
「だから、会いに行けなかった。10年間、あなたの前に出られなかった。
“本当のこと”を言えば、あなたの世界がまた壊れる気がして——」
「でも、今は」
俺は言った。
「全部、知りたいと思った。あの時、本当はどうだったのか。俺が何を言いたかったのか。君が、何を抱えてたのか」
璃子は、ゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
その目に浮かんでいたのは、10年間こらえてきた感情——罪悪感、後悔、そして、愛情だった。
「……ありがとう、陽翔くん」
俺は、メモを握りしめていた手を緩めた。
この言葉が、ようやく言えた気がした。
「10年前——俺が伝えたかった言葉。たぶん、それは……“好きだ”ってことだったんだと思う」
璃子の頬を、一筋の涙が伝った。
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