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12. 違和感

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 その日は、外を見れば強い雨が窓を打ち付け、庭の植木が風にその身を大きく揺さぶられていた。空はまだ昼だと言うのに薄暗く、雲が厚い。時々聞こえてくるゴロゴロと言う音にエリィは小さく眉をひそめた。

「この時期の雷は珍しいですわね」

 窓から離れてフィリオ―ルの向かいのソファーに座りなおすとエリィは再び紅茶のカップを手に取った。
 天気の悪い日は基本エリィは欠席になる。雨や雪など体を冷やしやすい時はヨハンから出席の許可が下りない。大丈夫だと頑なに言い張って出席した日に限って発作を起こした上、何日も熱で寝込んでしまった事が度々あった為に、今では家族どころか使用人ですら天気の悪い日のエリィの外出を許さない体制になってしまった。だからこそ、本来今日は学園に行っている日であったのだが、欠席をしたためにフィリオ―ルが授業の写しを携えて訪ねて来たのだ。

「やはり、怖いかい?」
「ええ、少し。まだ遠いですけれど」

 心配そうに尋ねるフィリオ―ルに、エリィは眉をひそめたままカップを手に持ち、小さく頷く。
 エリィは雷が苦手だ。というより、体質上驚かせるものが大嫌いなのである。特に夏など、急激に天候が変わり、雷など鳴り始めたら最悪としか言いようがない。雷のせいで発作を起こしたことも、起こしかけたことも何度もあった。あの突然地面が震える様な大きな音がするだけで心臓が飛び上がるのだ。

「今週はずっと雨になるらしいね。王宮術士の発表だと雷も注意という事だけど」
「それでは今週は学園へ参れませんわ……退屈してしまいます」
「そうだね。僕がもう少し楽しい話を持ってこれればいいのだけれど」
「あら、フィリオ―ル様がいらしてくださってるから退屈がしのげているのですわ」
「ははは。それなら僕も嬉しいよ」

 そう言ってフィリオ―ルもカップに手を伸ばし、上品に一口飲んだ。その佇まいは流石、上流貴族と言った感じでそつがない。去年、令嬢間の”私の王子さまコンテスト”で堂々の1位を獲得したその容姿と所作、性格の素晴らしさは他の追随を許さない。2年前まではその座をセシルがついていたことを考えると少しだけ感慨深い。セシルはもう卒業してしまっていたけれど、2人がもし一緒の期間に在学していたらエリィも流石に投票先を悩んだかもしれないと思う。やはり身内なこともあってセシル優先にはなってしまうとは思うのだけれど。毎年4月に行われるから、あと2ヶ月といったところか。今年もフィリオ―ルが圧勝なのだろうとエリィは予想する。ヨシュアも不動の2位をキープしてはいるが、フィリオ―ルと比べるとやはり弱い。
 ちなみに本物の王子のヴィスタはランク外である。その事実を本人に知らせ無いように、名目上王子は殿堂入りという事にはなっているが、実際の所10位以内にも入っていないのは令嬢たちの間では暗黙の了解である。まぁ、あれだけ色々やらかしていれば仕方が無いだろうと、エリィはこっそり苦笑を漏らした。


「そういえば、ヴィスタ王子の事なんだが……」
「あ、はい!」

 丁度ヴィスタの事を考えていた時に不意に掛けられた声に、エリィはビクリとして思わず声が少し裏返る。しかしフィリオ―ルは特に気にした様子もなく、相変わらず穏やかな笑みをエリィに向けていた。

「どうしてもと言うので、一応伝言を預かってきたんだ。話してもいいかい?」
「はい。そう言えば最近中々タイミングが合わなくてお会いしてなかったですわね」
「その様でね。婚約解消をなさって以来、王子も思う所がおありのようで」
「ふふふ。こればかりは仕方がございませんわ」

 そう言ってエリィが小さく笑うと、フィリオ―ルは少し苦笑をしたようだった。
 婚約解消をして以来、エリィの元には見合いの申し込みが増えた。たいして何も取り柄が無い上に病持ちのエリィの元へ見合いの話を持ち込むなど、よほどディレスタ侯爵家との縁を欲しがる人は多いらしい。今のところエリィは興味が無いというか、死ぬことがわかっているのでヨハンが持ってくる候補者のリストすら目を通してもいない。だから未だにヴィスタ王子の元婚約者というレッテルのままだ。話がいくつも舞い込んでいると言うのに婚約を決めないのは、エリィがヴィスタに未練があると言う根も葉もない噂が密かに立っているのもエリィは知っていた。今はその噂のままでもエリィにとっては痛くもかゆくもないので放置しておくことにしたのだ。

「伝言の件だけども、王子がエイリーズ嬢にお会いしたいと言うだけなんだ」
「あら……」
「訪問の許可を欲しいと言っていてね」
「お父様は恐らく許してくださらないと思いますわ」
「当然だろうね。……それでなのだが、来週我が家で夜会があるんだ。訪問がダメならば、王子はそこで話の席を設けてほしいと」
「体調の事もありますし、確実なお約束はできませんが……特別にお話と言うわけで無くて広間の隅で、ぐらいでしたら」

 エリィがそう言えば、フィリオ―スはホッとしたように息を吐いた。フィリオ―ルはこの国で一番由緒正しい公爵家の嫡男だ。おまけにヴィスタと同い年な為、フィリオ―ルは学友として選ばれている。裏を返せば、学園内でのヴィスタのフォローやお目付け役、そして相談役に選ばれているのだ。だからこそヴィスタがフィリオ―ルにねじ込めば、フィリオ―ルは出来るだけその意に沿ってあげることが求められるのだ。それでも、フィリオ―ルはヴィスタのお目付け役として色々と事前に阻止していたことは多い。エリィに対する無理難題も、エリィの元へ来る前に揉み消してくれたり、阻止してくれたりと、正に配慮の達人である。
 そんな彼がエリィに話の場をと交渉してくると言う事は、よほどヴィスタがフィリオ―ルに無理を言っているのだという事がわかった。だからこそフィリオ―ルの頼みはなるべく聞きたいとエリィは思っている。それ以外でも、エリィ自身がフィリオ―ルに世話になっているのは間違いがないという事もあるからだ。

「ありがとう、助かるよ」
「いいえ。いつもお世話になっておりますもの」
「それでは来週の夜、迎えに来るよ。僕がエスコートしよう」
「はい。よろしくお願いしますわ」

 そう言ってフィリオ―ルは自分の荷物の中から白い封筒を取り出してエリィに手渡した。これが招待状ですといって渡されたその封筒を手に取れば、ふんわりと優しい花の香りがした。招待状一つにとっても香水をほんの少し付けるなどの細かい手間を掛けるところは流石公爵家と言ったとこだろう。

「それじゃあ、今日はこの辺で失礼させてもらうよ。長居してしまって申し訳ない」
「お気になさらないでください。逆に楽しませていただいてますもの」
「何時も嬉しい事を言ってくれるね、ありがとう。……そうだ、エイリーズ嬢」
「はい?」
「ドレスを贈らせてもらっていいかな?」
「えっ」
「お詫びに、ね。気に入らなかったら捨ててしまってくれていい。後日届けさせるよ」

 フィリオ―ルはエリィの返事を待たずに立ち上がり、続いて立ち上がろうとするエリィを制して綺麗に片目を瞑ってウィンクする。普段はしないような仕草に思わずエリィはドキリとして、顔が赤くなるのを感じた。

「疲れたろう?僕は勝手に帰らせて貰うから大丈夫。ゆっくりしていてくれ」
「でも……」
「それで倒れられて、僕まで出禁になったら困るからね」
「ふふふ。そんなことありえませんわ。それじゃ、お言葉に甘えさせていただきますわね。……シャロム、フィリオ―ル様をお送りして?」

 部屋の隅に控えていたシャロムに声を掛けると、シャロムは黙ったまま一礼をして部屋のドアを開けた。そして、それに促されるようにフィリオ―ルは部屋を後にした。






「来週、夜会に参加するんだって?」

 寝台の横の椅子に腰を掛けながら、セシルはエリィに問いかけた。エリィは少しだけ体をセシルの方に向けると頷く。
 あの日以来、寝るときは誰かについていてもらう事になった。あまり迷惑をかけすぎてもいけないと、ヨシュアについていてもらった翌日に一人で眠るのを試した。しかし、不安に駆られて結局一睡もできずに、翌朝倒れてしまったのだ。それ以来、必ず朝まで誰かしらついているようになった。基本はケイトやアンなどのメイドが朝まで側についていてくれることになったが、日によってはヨシュアやセシルがついていてくれることもある。今日はのセシルが側にエリィについて居る事になった様だった。

「ええ。フィリオ―ル様にお誘い頂いたの」
「大丈夫なのかい?」

 体調を崩しやすく、夜会のように気を使う場所に滅多に参加しないエリィが参加することにセシルは難色を示しているようだった。今まで参加した夜会では、体調を崩さなかったことの方が少ないのだから、セシルの心配は当然と言えば当然だった。

「ええ。たまには良いかと思ったの」
「どうしてもと言うのなら、私も行こう」

 肘掛けに置いた手に顎を乗せて、セシルは珍しく気難しそうな表情を見せた。エリィが横になったまま、肘掛けにあったセシルの腕に手を伸ばすと、セシルは少し表情を緩めた。

「今年に入ってから臥せっている回数が増えただろう?余り無理はしないで欲しい」
「ほんの少しだけ顔を出すだけですわ。フィリオ―ル様にも気を使って頂いていて、当日はフィリオ―ル様がエスコートしてくださるって」
「フィリオ―ル様か。まぁ、彼がエスコートなら無理はさせないだろうが……。殿下も参加されるらしいからね。何があるかわからない」
「ふふふ。お兄様ったら、殿下に失礼よ?」
「負の方向で今まで実績を積み上げて頂いているからね。心配にもなるさ」

 セシルの腕に添わせたエリィの手を反対の手であやす様にポンポンと叩いて、セシルは苦笑した。そうしてエリィの手を優しく離し、寝るように促す。エリィは手を毛布の中に戻すと、少しだけ体勢を変えてセシルの顔を見上げた。

「それにしても……そうか、フィリオ―ル様か。いいのかい?」
「フィリオ―ル様がどうかしたの?」
「彼はエリィの婚約者候補筆頭だよ」

 考え込むように言ったセシルの言葉を聞いて、エリィは目を丸くした。フィリオ―ル自身からもそんな話は聞いたことが無かったからだ。身分からいえば確かにつり合いは取れなくもないが、流石に由緒正しき公爵家嫡男の花嫁が、いつ死ぬかもわからない病持ち等論外である筈だ。

「冗談ですわよね?」
「本当だよ。王子との婚約解消派で父上と迎合して尽力したのも公爵様らしいからね」
「私はいつ死ぬかもわからない病持ちです。いくらお父様がお気に入りでも、私が相手ではフィリオ―ル様が可哀想ですわ」

 エリィが唇を尖らし気味に意見すると、セシルは困ったように眉尻を下げて笑った。そして、エリィを宥めるように、エリィの頭を撫でる。

「フィリオ―ル様の方が乗り気だと聞いているよ。彼からそう言う話は出なかったかい?」
「いいえ?フィリオ―ル様はいつも紳士然とされていますわ」
「そうか。彼は礼儀にこだわるからね。婚約するまではあくまで友人として接するつもりなのかもしれないね」
「その状況でフィリオ―ル様と夜会に参加するのはマズイかしら?」
「そうだね……。いや、噂を消すのには丁度いいかもしれないね。彼もそれを狙っているのかもしれない」

 その噂とは言わずもがな、エリィがヴィスタに未練を残していると言う物なのだろう。ヴィスタが参加する夜会にフィリオ―ルにエスコートされてエリィが現れれば、多少フィリオ―ルとの噂は立つかもしれないが、ヴィスタとの噂はかなり下火になるはずだ。改めてエリィはフィリオ―ルのさり気ない優しさに気付いて頭が下がる思いだった。

「フィリオ―ル様が柄にもなく、エスコートを一方的にかってでたのはそんな理由がおありでしたのね」
「考えてみれば、私やヨシュアと供だって行けば、殿下に会いに来たのだと逆に噂が過熱してしまうかもしれないな」
「そうですわね……ただの兄妹にしか見えないもの」
「そうだね」

 少しだけ悲しそうな顔をしてセシルは頷いた。だが、それも一瞬の事で柔らかく微笑むと再びエリィの頭を撫でた。

「とにかく、もうお休み。夜会の事はフィリオ―ル様に任せよう。ただ、気が変わったらいつでも私に言いなさい。私はいつでもエリィに付きあうよ」
「はい。兄さま、おやすみなさい」
「お休み、エリィ」

 促されるままエリィは目を閉じた。窓の外からは未だ強い雨風の音が聞こえている。だがセシルが側に居ると思えば少しも不安にならなかった。そうして、エリィはすぐに眠りに落ちたのだった。









 小鳥のさえずりに揺さぶられるようにして薄く目を開ければ、室内は眩しい朝日が差し込んでいた。くらりと眩暈が少しだけ襲い、倦怠感が酷い。左手に違和感を感じてあげてみれば、エリィの手をしっかりと握る長い指が見えた。

「エリィ、起きたんだ?」

 その声の主の方に顔を向ければ、そこには少しだけやつれたようなヨシュアの顔があった。昨夜は確かにセシルが居たはずなのに、いつの間にヨシュアに変わったのだろうかとエリィは不思議に思いながらも、ゆっくりと体を起こした。それでも再びグラグラと地面が揺れるような眩暈を感じて、エリィは右手を額に当てる。

「体調はどう?」
「……眩暈が酷いわ。体も何だかだるくて、最悪」

 エリィが額を抑えたままうつむき加減にそう言うと、ヨシュアは寝台のエリィのすぐ横に座りなおし、労わる様にエリィの背を擦った。

「ゆっくり休んでって言いたい所だけど、午後には王宮に行かなくちゃ。無理をさせてしまうけど」
「なにかあったの?」

 酷く沈んだ様子のヨシュアに、エリィは戸惑いがちに尋ねる。するとヨシュアは少し驚いた様に目を見開き、そしてすぐにバツが悪そうに視線を外した。

「覚えてない?」
「……なんのこと?」
「そうか」

 ヨシュアは唇を引き結んで少しだけ黙ると、小さく頭を振り、再びエリィの顔を覗き込む様にして視線を合わせた。

「国葬前にエリィにお別れをしてやって欲しいと王妃様に言われているんだ」
「国葬?誰の?」
「ヴィスタ殿下のだよ」

 ヨシュアが告げる言葉の意味がわからず、エリィは呆然としてヨシュアを見返した。冗談を言っているのだろうかと、その顔を窺い見るも、そんな雰囲気はどこにも見当たらない。ただ、エリィの体はそんな思考とは別物のように、小刻みに震えている。

「殿下が、亡くなったの……?」
「思い出さなくてもいいよ。エリィにはとてもショックだったろうから。ただ、お別れだけはしてあげてほしい。僕も殿下の学友としてお願いするよ」

 ヨシュアは震えるエリィを宥めようとそっと背中を擦る。それでもエリィは震えが止まらず、自分自身で己の両腕をきつく抱きしめた。
 
――殿下が亡くなった

 ヨシュアから告げられた言葉が頭の中を駆け巡る。今初めてその話を聞いた筈なのに、何故か妙に納得している部分があり、エリィは混乱した様に頭を軽く振った。

「軽い食事をケイトに用意させるよ。落ち着いたら喪服に着替えて?一緒に王宮に行こう」

 そう言うと、ヨシュアはエリィに上着を掛けて立ち上がった。ヨシュア自身も少しふらついた足取りで部屋を出ていくのをエリィは呆然と見送る。ふと、サイドボードを見れば、あの日ヴィスタが見舞いに持ってきたキャンディの包みがそのまま置いてあった。混乱した思考を置き去りにするように、涙が溢れる。エリィは両手で顔を覆うと頭を強く振る。訳が分からないままなのに、体は震え、涙が溢れる事に理解が追い付かなかった。

「混乱してるの?」

 ふと耳元で聞こえた可愛らしい声にエリィは恐る恐る顔を上げる。するとエリィのすぐ近くにはティティーがふよふよと浮かんでいて、心配げにエリィを覗き込んでいた。

「混乱、しているみたい」
「そうか。エリィ聞きたいことがあるんだ」

 ティティーの真剣な表情にエリィは混乱したまま頷く。何故、ティティーがここに居るのか。ティティーが居るのにノエルが居ないのは何故なのか。疑問が沢山湧いてくる。だが余りにも混乱しすぎていて、エリィはただ頷くことしかできなかったのだ。エリィのその返事を聞くと、ティティーは腕を器用に組み、大きく頷いて口を開いた。


「エリィ、今日の君はどこから来たんだい?」





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