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24. 負けず嫌いな約束

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 エントランスの外は、怪我をした貴族や警備兵、こと切れた襲撃者や捕えられた襲撃者などがおり、騒然としていた。使用人たちも、あちらこちらに走り回り、とてもじゃないが今すぐ夜会を辞することが出来るような状況ではなくなっている。
 もちろん、ヴィスタやノエルも直ぐに馬車を出すことは困難であると考えられた。城から、そしてディレスタから護衛の兵を回すことになり、その者たちが到着するまではこの屋敷からは動けくなってしまったのだ。よって、フィリオ―ルはヴィスタとノエルが迎えの護衛が来るまで待機するための部屋を用意させたりと、ヨシュア達だけに手を掛けてはいられないようだった。それだけでなく、使用人と共に慌ただしく指示を出したり怪我人の運び込みを手伝ったりするために、ヨシュアとエリィを休憩室まで案内するとすぐに部屋を退出して行った。

「エリィ、下ろすよ?」

 ヨシュアが長椅子に近寄り身を屈めてエリィを下ろそうとするが、緊張しすぎて指が強張り、シャツを離すことが出来なかった。そして、相変わらずエリィは小さく震えたままである事に気付き、ヨシュアは小さくため息をついて、再びエリィを抱えなおした。そしてそのまま長椅子にどさりと座った。

「もう大丈夫だって」

 そう声を掛けて、自由になった右手でヨシュアはエリィの肩を優しく叩く。発作は既に収まってしまっているようで、エリィの青ざめた顔は薄っすらと血の気が戻り始めていた。それでも、しがみついたままのエリィを無理に引きはがそうとはしなかった。

「そんな怖かった?」
「こ、腰抜けた……」

 呆れた口調でヨシュアが問えば、エリィは情けない声でそうひと言返した。エリィの表情を伺い見れば、酷く情けない表情で、思いっきり下がった眉に、真一文字に引き結んだ口が妙にアンバランスで、ヨシュアは思わず吹き出す。

「おかしいと思ったよ。エリィの方から僕に抱きつくなんてさ。腰が抜けてるの、バレたくなかったんでしょ?」
「当たり前でしょ。こんなみっともない所、他人に見せられるわけが無いもの」
「その負けず嫌い、直した方が良いんじゃない?」
「何が悲しくて必要もないのに、生まれたての小鹿みたいな姿を晒さなきゃいけないのよ」
「生まれたての小鹿……?」
「まだ膝が笑ってるわ。腰は思いっきり引けてるし、膝はプルプルしてるし。笑いしか誘わないじゃないの」

 悲壮感たっぷりで言ったはずが、笑い出した空気の読めないヨシュアに、エリィは心外だと言った様子で眉をひそめる。エリィは背中に回した手をやっとの思いで離すと、硬直したような手のひらと指をこする様にしてマッサージを始めた。思い切りシャツを握りしめていたために、強張った指が上手く開けずにいるのだ。ヨシュアのシャツの背中部分はその弊害か、握られた部分に思いっきり皺がついている。

 普段学園と屋敷の往復程度しかしないので、今回の様な荒事はエリィにとっては初めての経験であった。人と人が戦う姿も、エリィの中でのイメージは幼い頃のあの塔での、ヴィスタとヨシュア、つまり勇者とお姫様のあの戦いぐらいだ。驚いて発作が起きるといけないからと、騎士であるセシルの模擬戦すら見たこともなかったエリィには、今回の件は腰を抜かすのに十分なほどの迫力があったのだ。

「よいしょっと……」

 調子を取り戻した体を何とか動かしてエリィはやっとの思いで、ヨシュアの膝からずり落ちるようにして長椅子の座面に移る。そしてそのままヨシュアの上着、フィリオ―ルの上着の2枚を脱いで背もたれに掛けると、少し体を外側に動かして、ヨシュアに背を向け、屈むようにして座面に両手をついた。

「ヨシュア、ちょっと腰トントンして」
「え?」
「なんか背中と腰が強張ってて痛いから、叩いてって言ってるの。優しく、ね?」

 可愛らしくエリィが言えば、思いっきり呆れた、ような視線、そして盛大な溜息が後頭部に降り注いだ。そして、軽く握られた拳が小気味よくリズムを刻んでエリィの背中から腰をトコトコ叩く。その気持ちよさに、エリィはやっと安心できた様にほぅっと息を吐いた。

「ふ~、気持ちいい~。あ、肩もお願いね?外寒いから凝っちゃったわ」
「……僕は何とも言い難い気分だよ。それこそ、何が悲しくてこんな羽目に」
「奉仕の喜びを知るといいわ。奉仕は尊い物よ?ノーブレスオブリージュってやつよ」
「それ全然違うだろ。これじゃ奉仕と言うか、おばあさんと孫の図だよ?わかってる?」

 おばあさんと揶揄されて、エリィがキッとした目で睨むが、ヨシュアは半眼のままチロリとエリィに視線を送ると再びため息を吐く。

「ほら、叩き辛いから前向いて」

 顎でしゃくる様にして、前を向くように促すと、再びヨシュアはエリィの背中をトントンと叩く。その表情は複雑そうではあったが、どこか楽しげな雰囲気も混じっている。

「普通さ」
「うん?」
「男女が夜会の休憩室ですることって、一つなんだけど」
「だから?」
「……叩くの、ここでいい?」
「ええっと、左手はもうちょっと右ね」

 ヨシュアの言わんとすることはもちろんエリィにもわかってはいたが、それがどうしたと言わんばかりに返せば、ヨシュアは諦めたように項垂れた。こういう場面で下手に照れたり、口ごもればヨシュアのペースに乗せられてしまうからだ。

「どっちにしても、この公爵家でそんなことしたら出禁になるわよ?気を付けてね」
「は?」
「フィリオ―ル様のお父様、堅物で有名じゃないの。他の家の夜会と同じ感覚で休憩室で火遊びした伯爵夫人と男爵様、出禁になったらしいわよ」
「何でそんな話にな……」
「それと、無闇やたらに手を出しちゃだめよ?既成事実こどもを作ってなし崩しに結婚しようと画策してる強かなご令嬢も何人かいるって聞いてるし」
「何の話をしてるんだよ」
「あら、肉食女子のターゲットにされてるって教えてあげてるだけよ?」

 しれっとエリィが言うと、イラッっとしたのか、ヨシュアの叩く力が少しだけ強くなる。その様子にエリィがクスクスと笑えば、ヨシュアはがっくりと肩を落とした。

「エリィはさ、殿下の事が好きなの?」
「好ましくはあるわね。叩き潰したい程度には」
「また何か怒らせたの?」
「そうね。許さない、絶対にだ。って程度には仕返しする予定ではあるわ」
「それってバルコニーに出てたことに関係ある?」
「あ、ヨシュアも見てたんだっけ。うん、関係あるよ」
「じゃあ、同意じゃなかったって事でいいんだよね?」
「え?」

 ヨシュアの質問の意図がとっさに思い浮かばずに、エリィは振り返って聞き返そうとした。だが、体が振り向く前に後ろから伸びてきたヨシュアの手が肩に回り、引き寄せられるようにして抱きしめられた。

「こうやって、ずっと殿下に抱かれてただろ」
「あれは、寒かったからよ?」
「気付いてた?フィリオ―ル様もノエル殿下も、あの時じっとエリィを見てたんだ」
「……別にやましいことはしていないつもり」
「それでも、端からはそうは見えなかった」
「殿下が自由なのは今に始まったことじゃないでしょう」
「違うよ。殿下じゃない」
「何が?」
「最近のエリィは殿下に凄く甘いよね」

 嫌に刺々しい口調に振り返ってヨシュアの表情を窺おうとしたが、思いの外拘束する力が強く、エリィは振り返ることも出来ずに首を傾げる。ヨシュアはそのままエリィの耳に顔を近づけると軽く噛みついた。

「った!何するのよ」
「好きになってしまった?」

 間髪入れず、囁くように耳元で言われた言葉に、ゾクリとして、エリィは慌てて右耳を押さえた。そしてエリィが抵抗するように身を捩れば、ヨシュアはあっさりと体を離す。顔を赤くして耳を押さえながら、振り返って睨めば、ヨシュアは艶を多分に含んだ顔でエリィに微笑み返す。

「べ、別に殿下に甘くしたつもりはないわ」
「そうかな。今日だってわざわざ殿下に会いに普段は来ない夜会に参加したと言うのに?」
「それは、用事があったからで……」
「話なら学園でも構わないだろ」
「……ヨシュア、もしかして機嫌が悪い?」
「当たり前だろ」

 エリィの言葉に、ヨシュアは突然不機嫌になった様に顔をしかめた。そのまま体を投げ出す様にドサッと背もたれに背を預け、足と腕を組む。そして不機嫌さを露わにしたイライラとした面持ちでエリィを睨んだ。

「殿下とベタベタしてると思ったら、トラブル起こすし。あの軟体動物女にまで好き勝手されて」
「軟体動物女?」
「ドリエン公爵のとこの感じ悪い女だよ。あれだけエリィの事馬鹿にしておきながら、その家族である僕にクネクネベタベタ。どさくさに紛れて首筋とか胸とか背中とか腰とか撫でられたんだぞ?気持ちが悪いったらない」

 吐き捨てるようにそう言うと、ヨシュアはしかめ面のまま二の腕を擦る。ヨシュアが女性への非難めいた発言をするのは初めての事で、エリィは驚いた様に目を丸くした。そして、アニ―ニャの面倒をヨシュアに押し付けてしまった事にエリィはとても申し訳ない気持ちになり、ヨシュアに向けて小さく手を合わせた。

「ごめんね、嫌な思いさせて」
「……別に、いいよ。ほら、向こう向いて」

 幾分拗ねたような口調で、ヨシュアはエリィの肩に手を置いて無理やり後ろを向かせる。そうして再びトントンとリズム良く背中を叩き始めた。その心地よさにエリィは猫のように目を細めた。

 そうやってしばらく沈黙したままヨシュアの肩たたきならぬ背中叩きを楽しんでいると、ボソリとヨシュアが再び口を開いた。

「なんかさ」
「ん?」
「最近僕おかしいんだよ。何だか色々。妙にイライラしたりさ、何も手につかなくて」
「……それ、この間のお祭りの続き?」
「はぁぁ……」

 ガックリしたように失望も露わな気の抜けた声で、ヨシュアはため息をついた。心なしかエリィの背中を叩く手もぞんざいになっている。

「真面目な話、なんだよ。エリィに言うのも変な話なんだけど」
「あー、うん。ごめん」
「感情がうまくコントロールできないって言うか。最近殿下とか見てても妙にイライラして」
「殿下に?私も常にイライラしてるわよ?」
「そう言うんじゃなくってさ……」

 また一つ大きなため息を吐くと、再びヨシュアは黙った。静かな部屋の中にトントンとエリィの背中を叩く音だけが響く。エリィは背中を叩かれながら何と言っていいかわからずに考え込む。ヨシュアの悩みを聞いてあげたい気も山々だが、藪蛇になるのは避けたい。自意識過剰と言われればそれまでだが、話の持っていき方次第では十分にその可能性があることは否定出来ないからだ。

「とにかくさ」
「……うん」
「しばらく僕の前で殿下の話題、避けてくれると嬉しい」
「あ、うん」

 エリィが一人でうんうんと悩んでいる間、ヨシュアはヨシュアで一人で考えて納得した様に結論を出していた。そして突き付けられたささやかなお願いにエリィは素直に頷いた。



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