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58. 知識と記憶

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 歩く人の気配がして、ゆっくりと瞼を開ければ意外な人物がそこに居てエリィは思わず目を見張った。

「起きたか」
「……おはようございます。えっと」
「ケイトなら先程休ませた」
「まだ何も言っておりませんが……」
「娘を見舞うのに理由が必要か?」
「だから、まだ何も言っておりませんわ」 

 エリィが重ねてそう言えば、ヨハンはさも可笑しそうに肩を揺らしてくつくつと笑う。そんなヨハンにエリィは困った様に口を尖らせて見せた。さっと視線を室内に這わせてみれば昨夜思わずヨシュアの寝室から持ってきてしまったあの本がテーブルに置かれたままになっていた。それを見れば今日は3月2日であると自ずと結論が出る。

「体調は悪くは無いようだな」
「はい。ご心配をおかけしました」

 エリィが体を起こしながら返事をすれば、ヨハンは満足そうに頷いて椅子に静かに腰を掛けた。昨日の朝はすこぶる体調が悪く、倒れまでしたと言うのに、その後の慌ただしさで逆に体調の悪さが吹っ飛んでしまったような、そんな気分だ。

「今日の茶会だが」
「ええ、流石に欠席させて頂こうかと……」
「いや、出席しなさい」

 あんなトラブルのあった後、おいそれと茶会なんか出席している場合ではないとエリィは判断したが、ヨハンの考えは違っているらしく至極真面目にそう言った。その真意を尋ねるように首を傾げて見せると、ヨハンはあの口角だけを上げた胡散臭い笑みでエリィを見返す。

「何のためにリアンナ嬢を呼んだと思っている。お前が心置きなく茶会に参加出来るようにする為ではないか」
「でも……」
「セシルもシャロムも心配する必要はない」
「まだお医者様とブラスの行方も分かっておりませんし」
「彼らならもう見つけたよ。きちんと家族の元に送り届けた」

 彼らの容体について一切触れることも無く、見つけた、送り届けた、と端的にヨハンは告げた。その言葉の表している意味を思い、エリィは胸の前でギュッと両手を握った。彼らは十中八九巻き込まれただけだ。無関係であったにもかかわらず、馬車に同乗していただけで命を落とした。そう思えば、何ともやるせない気持ちにさせられる。

「こんなことは早く終わらせる」

 まるでエリィの気持ちを代弁するかのようにヨハンが呟く。

「茶会で危険な目に合うかもしれない。しかし、出席すべきだ」
「……この件、お義父様はどうお考えですか」

 エリィが意見を求めると、ヨハンは軽く腕組をして顎を撫でつけるように右手を当てた。

「わからんな」

 らしくなく素直なその意見に驚いてエリィは目を瞬かせた。そんなエリィの表情を見てヨハンはニヤリと笑って見せた。

「まず考えられるのは繋がっている事象として、狙われたのがヴィスタ殿下とセシルだと考えれば、王子廃嫡・女王擁立派の王配を狙う者だと考えることが最も簡単だ。だが、余りにも計画が杜撰過ぎるし、気になる点がある。そもそも私ならもっと確実な方法で殺すな。塔から落ちるかもしれない。馬車が崖下へ落ちるかもしれない。そんな消極的な殺し方はしない」
「こ、殺し方に消極的も何も……」
「実際にそうだろう。セシルは死ななかった」
「それはシャロムがお兄様を守ったからではないですか」
「だが死ななかった」
「結果論ですわ」
「そう結果論だ。結果的に馬車の車軸は予想通り崖上で壊れた。だが、その崖を通り過ぎた後や前でも壊れる可能性は十分にあった」
「それは……」
「それに、だ。当初のお前の先見のように、殿下が亡くなってディレスタにその責が問われ、となるのであれば話はまだ分かるが、先にセシルを殺す理由が薄すぎる」
「殺す理由が薄い?」
「王女の婚約者として邪魔と考えるのならば、殿下より先に殺してはその意図を推察・警戒され、大本命の殿下を狙うのが難しくなる。それよりも殿下を先に殺してその責を負わせる方が簡単に王女の婚約者と言う立場を廃し、ディレスタを壊せる。でなくとも、殿下が亡くなった場合、セシルが王女の婚約者でいられる確率は恐ろしく低い。仮に王女の強い希望があっても、だ」

 ヨハンの言葉に、城でのヴィスタの言葉を思い出し、エリィは考え込む様に顎に手を添えた。ヨハンも同じ考えだという事は、あの時のヴィスタの言葉は嘘でも冗談でもないと言う事だ。だからと言って、もちろんエリィにはヴィスタを見殺しにするような気持ちは毛頭も無い。むしろ、あの時あった筈の王女とセシルの姿を見た時に心の痛みが、今は全く沸かない事に気付いて戸惑いすら感じていた。
 そんなエリィの様子に気付くことも無くヨハンも何かを考え込む様に、相変わらず顎を撫でつけるように手を動かしながら視線を庭になげている。

「……にも関わらずセシルに手を出したという事は、王女の婚約者であると言う事には関係はなく、どうしてもセシルに死んでほしかった。そう言う結論になるな」
「どうしてもお兄様に死んでほしかった?」
「そう。今回の件は、な。ただ、セシルに死んでほしい。そう言う結論だ。だが殺したいと思っているわけではないから確実に殺す方法に躊躇する。死んでほしいとは思っているが、殺したい訳ではない。そんな人間に心当たりがあるかないかと言われれば、全くないと言う答えになる。だから、わからんとしか答えようがない」

 もっともなヨハンの意見にエリィは押し黙る様に唇を引き結んで小さく頷いた。確かにヨハンの言う通り、そう考えてみれば犯人の取った方法は至極消極的だし、理由も不明と言わざるを得ない。死んでほしいのに、殺したくない。そんな不可解さに眉をひそめる。
 そうやってて考えを巡らせながらふと、エリィはもう一つ、不可解な事に気が付いた。そもそも、セシルとシャロムが事故に合い、怪我を負うなんて未来があったのだろうか。
 エリィが既に過ごしたあの日、明日である3月3日。確かに、ヨシュアはこう言っていたはずだ。

――兄さんと父上は殿下が亡くなった2日前からたまたま城に詰めてて、そのまま色々な処理に当たってる

 あの言葉の通りであれば、セシルは事故に合ってはおらず、ヨハンもこうやって屋敷に居てエリィを見舞うなんてことは無い筈だ。

「……お義父様?」
「ん?なにかね」
「お父様は一昨日より城に詰めておいでだったと思うのですが、お仕事の方は大丈夫なんでしょうか?」
「ああ。……まぁ、大丈夫じゃないだろうな」

 そんなヨハンの言葉に驚いた様にエリィが目を丸くすると、珍しくヨハンは声を上げて笑った。

「気にしないでいい。文官共が何とかするだろうよ。娘が倒れたのに帰宅を邪魔されて、挙句の果てに様子を見に行かせた息子が事故に合った。それでも帰宅の邪魔しようとするのでな。休憩がてら、少し文官相手に投げナイフの真似事をしてたら何故か快く送り出してくれたよ」

 ニコニコと笑いながら言うヨハンとは逆に、エリィは苦笑いを浮かべる。

「お兄さまも城に詰めてらしたのですよね?」
「ああ、王女殿下が風邪を召されたようでね。城に留まって元気のない王女殿下をお慰めするように、と。まぁいつもの王女殿下の可愛らしい我が儘なのだろうね」
「そうでしたのね。確かに城でお会いしたミレル先生からお風邪を召されたと言う話はお聞きしておりました」

 他愛のない雑談のようにヨハンに確認すれば、やはりヨハンもセシルも本来なら城に詰めていたようだった。エリィが発作を起こしたため、本来なら屋敷に戻ってくる予定の無かったセシルが屋敷へと戻り、そして事故に合った。シャロムをも巻き込んで。

――まるで疫病神のよう。

 そんな言葉が頭に浮かぶ。ヴィスタが落ちて死んでしまったあの塔でのお茶会も、きっとあの場所を選んだのは、エリィのお気に入りの場所だから。エリィのお気に入りの場所が庭園だとか、テラスであればヴィスタが死んでしまうことも無かったかもしれなかった。そう思うと何ともやりきれない気持ちになった。

「そのまま王女殿下のお傍に居てくだされば、事故に合いませんでしたのに」

 少しだけ恨みがましい口調で拗ねた様にエリィが言えば、ヨハンはわざとらしい程盛大にため息を吐いて、組んだ膝の上に膝を置き、頬杖をついた。

「お前は本当に面倒くさい娘だな」
「どういう意味ですか、お義父様?」

 余りの物言いにムッとしてヨハンを軽く睨めば、ヨハンは全く悪びれずに逆に呆れたような目でエリィを見返した。

「たら、れば、など繰り返すだけ無意味だと言っているのだ」
「でも」
「ではお前は、ウォルターにも”あの時少し停留しただけの馬車を微に入り細に入り点検すべきだった”と言わせるつもりか。あれはウォルターの責任だったと」
「そんなつもりは……」
「お前の様子をセシルに見に行かせた私にも責があるという事になるな」
「違います。そもそも私が倒れなければ」
「ならそれはお前を産んだディアナの責という事か」
「なぜそうなるのですか」
「事の責任を追及するなら、なぜお前の所で止める?追及するならとことんすればいい。そして最後には全てを生みだした神を呪えばいい」
「極端すぎます」
「いいや、そうは思わんね。全ての事象、全ての災禍の根源は神にある」

 自信満々にヨハンはそう言い放った。だが、その理論で言えば地球が丸いのもポストが赤いのも全て神様の責任になる。だからと言って、それを違うと言い切るだけの材料はエリィには無かった。
 そもそも大地を創造したのは神である。エリィはそう思うのだ。無であった場所にある日突然何かを創造すると言う事象は、たとえ科学的に生まれる経緯が証明が付いたとしたって、生まれたと言う奇跡である事には変わりがない。それと同じで、ポストを赤くしようとしたのは人間で、実行したのももちろん人間だ。だが、その発想はどこから来たのだろうか。赤色が目立つ色だから?じゃあ、何故目立つのか。それは風景に対する比較にしかならない。その風景の色彩はどこからやってくるのか。やはりそれは神が作りたもうた自然の風景からではないのだろうか。仮に太古の昔より石や樹木の色が青や赤だった場合。それらを切り出し、材料とした家屋が立ち並ぶ中で赤色のポストがあったとして。それは本当に目立つ色と言えるのか?そもそも、神に作られた人間と言う存在が作リ出した物、どこからやってくるのかわからない発想というもの。それがどこから来るのか。その発想が何故生まれたのか。
 結局の所突き詰めていけば、暴論すぎると思いながらもヨハンの言い分はあながち間違いでもないかも?なんて思ってしまった自分がちょっと可笑しくて。エリィは微妙な表情でため息を一つ漏らした。

「流石に罰当たりすぎます。それでは神様が可哀想ですわ」
「何を言ってるんだ。災禍の存在を知っていながら、それを放置していると言うのは責められて当然の事だろう?」
「それはそうですけど……お義父様がそう言うと、本当にそうなんだと思い込みそうになってしまいます」
「事実そうなのだよ。万物を作りだしたのが神と言うのなら、その子である全ての者らが作り出した災禍と言う物に親として責任を持つべきではないのかね?恨み言ぐらい甘んじて受けるべきだ」

 そう言ってヨハンはエリィの頭に手を置くと慈しむ様に撫で、穏やかに笑った。

「だが、忘れてはいけない事もある」

 そう短く言葉を切ると、ヨハンは少しだけ祈るように、もう片方の手を己の胸にそっと添えて軽く目を閉じた。

「全ての幸福の根源もまた、神あるのだ。それ故に私たちは神を呪い、神に感謝しながら。自分にできる精一杯の事をしていく。それしかないんだ。それが、子である私達の責務でもある」

 優しく頭に置かれた手の重みを感じながら小さく頷くと、ヨハンは満足した様にその手を離した。そしてまた椅子に深く腰を掛けて自分の顎を撫でつけながら、不意にエリィの手元を見ながら眉間に皺を寄せるように怪訝な顔を浮かべた。

「それはそうと、エイリーズ」
「はい?」
「そのブレスレットは……魔道具、ではないのか?」

 問われるままエリィはブレスレットとブレスレットの効能、どうやって使うつもりかを話せば、ヨハンは話が進むごとに苦虫をかみつぶしたような渋面になった。

「で、そのブレスレットを使って寝台を浮かせて落ちた殿下を受け止める、と?」
「はい。そんな状況にならないように気を付けますが、万が一にと思って」
「寝台はどこに置いておくつもりだ」
「お茶会の前に塔の下に用意しておこうかと」

 そう言えば、ヨハンは顎を撫でていた指を眉間へと持って行き、何やら難しい顔で揉みほぐす。そんな態度のおかしいヨハンにエリィは訳も分からず首を傾げた。

「その話はヴィスタ殿下には?」
「しておりません。使う状況にならないのが一番ですもの。万が一のお守り替わりです」
「……そのまま使わずにお守りにしておきなさい」
「え?」

 そしてヨハンは先程とは違った深く長いため息を一つ零した。

「殿下が仮に塔から落ちるような事態になったとしても、私に任せて大人しくしていなさい」
「ですが……」
「それはディアナに似たのか?」
「はい?」
「考えなしと言うか、浅慮と言うか、ちょっと足りないと言うか。いや、そこが美徳とも言えないでもないが……」

 余りな物言いに面食らってエリィが反論できずにいると、ヨハンは再び深くため息を吐くとチロリとエリィへと視線を向けてまた、ため息を吐いた。

「言っておくが、寝台では十中八九、殿下を受け止められないぞ?」

 そんなヨハンの言葉にエリィは訳も分からず首を傾げる。

「アレクには大人の男性が一人飛ばせる様にとお願いしましたわ」
「アレクが言うのならば確かに人一人飛ばせることが可能であるのだろうよ」
「でしたら、何故」
「支えきれないだろうが」
「確かに5秒から10秒程度と短時間ではありますが、それだけあれば下まで降ろすことは十分に可能だと思いますわ」

 若干詰め寄り気味にそう言えば、呆れた様にヨハンはエリィを見やった。そして些か乱暴に頭を掻いて髪を乱れさせた。

「エイリーズ、知識は学ぶだけでは駄目なのだよ。活用させなければ、それは知識ではなくただの記憶と他ならない。いいかい?」

 そう言ってヨハンは言葉を一旦区切る。

「確かにそれで殿下を飛ばすことは可能だろう。だが、受け止めることは無理だ。落ちる物にはそれだけの力がかかる。受け止める重さは本来の人の重さより遥かに重い」

 そこまで言われてやっとエリィは重力の存在に思い当たった。ヨハンの言う事はもっともで、下から人を乗せて浮かせるのと、落ちてきた人を受け止めるのでは全く勝手が違う。それをエリィは知識として知っていたはずだ。落下する人間の衝撃、重さは高さによっては数百kg~1tをも超えると。
 その知識を持っていたはずなのに、エリィはうっかりと失念していた。これではヨハンに呆れられても仕方が無い。

「……そうでしたわね。お義父様の仰るとおりにこれは使わないでおきます。余計な怪我をさせてしまうかもしれませんもの」

 少しだけ項垂れてエリィが言えばヨハンは慰めでもするかのように肩を一つ、軽く叩いた。

「念のため、リアンナ嬢を茶会に同行できるようにヴィスタ殿下にもガラント伯にもお願いしておいた。アイリス嬢の妹として2人で参加することになるだろう」

 ヨハンのその言葉にエリィは渋々と言った様子で頷く。今日は、ある意味特別なお茶会なのだ。何が起こるかわからない。命を落とすかもしれないし、大怪我をするかもしれない。そんな席に、医師であるリアンナを茶会にそれとなく同席させる。それはとても理に適っている事なのに、何故かそれをエリィは苦々しい思いで聞いていた。

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